2009年10月27日 (火)

「介護か福祉」って?

薬物関連で起訴された元タレントの裁判に関する報道に接していて気になったこと。

事件の全容も、公判の詳細もきちんと読み込んでいないし、ましてや被告となった元タレントの人柄やバックグラウンドをほとんど知らない、という前提でのぼやきだけど。

介護や福祉の仕事は尊い仕事だが、浮世稼業を捨て、俗世間から離れ、出直しするための受け皿ではない、と私は思う。

たとえば、看護師や医師、臨床心理士や言語療法士、保育士などといった高度対人専門職のひとつであると思っているし、それらに比べて資格取得など就業のための垣根が低いし、また、厳しい就労環境・条件のために定着率が低く、慢性的に人員不足であるがために、「結果として」他に選択の余地がなくて仕事に選ぶ人は多いかもしれない。それは、現実としてそうかもしれない。

でも、誰にでもできる仕事ではないし、誰にでも適している仕事ではない。また、そうした仕事を得たからといって、必ずしも適しているわけでもない(どんな仕事でもそうだろうけれど)。

なのに、「でもしか」な理由で就業しようとする人がなぜか私の見聞きするなかでは多い。

もちろん、動機や前職がどうであれ、ひとつこととして突き詰めていけばプロフェッショナルとして成熟することは十分に考えられるし、「やってみなければわかならい」ことも多いとは思う。間口を狭めて、なり手が極端に制限されることで、適性をもった潜在層を削ってしまうよりはよほど良いとは思う。

だけど、そのことが「結果として」、高度専門職として、その必要度や意義の高さとは別に、「~でもやるか」「~しかないし」的な消極的選択の受け皿として機能させてしまったりしないのか。

あるいは逆に、いたずらに「聖職」「清職」として捉えることで、さっき書いたように浮世離れした、言ってみればある種の「出家」先のようなことにならないのか。

件の元タレントの「介護か福祉」という選択が安易であると断定する材料も、権利も私にはないけれど、それでも安易に贖罪の証だてとして「介護か福祉」というモチーフを選んでいるように感じてならなかった。

もしかしたらこういう発想自体が、私自身おなじような考え方に汚染されている現われなのかもしれないが。でも、そもそも介護や福祉って、ひとくくりにするには広すぎる分野だ。どういう選択基準なんだろうか。免罪符的に使われているのではないことを願うばかりだ。

あまりいい気持ちはしなかった。それが、正直なところの、私の気持ちだったのは確か。

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2009年9月29日 (火)

ちょうど1年前

リフォームを終えたばかりのぴかぴかのワークスペースに座り、自席の眼前の窓から外を眺めながら、電話口の父に食ってかかったきたことを思い出した。

仕事は順調、会社も上向き、ひと夏を費やした念願のリフォームが終わって、秋風も感じられるようになって、こどもたちの学校行事も目白押しのシーズンを控えて、なんだか爽やかで、どこか小躍りしたくなるような浮かれた気分だったころだからか。

「よーし!働くぞー、稼ぐぞー」というような、意味もなくポジティブな気分だったころだ。

母の感情的な言動や、記憶に混乱が見られること、苛立ちを直接ぶつけられることに耐えかねて悲痛な愚痴をこぼす父からの電話は、あの頃の私にとって、平和な日常生活を脅かす「侵入者」だった。

携帯電話の発信元が表示されるたびに、(他の人からは昼日中にはめったにかかってこないはずの)自宅の固定電話が鳴るたびに、全身の毛穴が縮こまり、肩に力が入るような気がしたものだ。

警戒と、緊張と。

だから、私の態度は、「何?」という第一声からしてすでに拒絶の匂いがしたことだろう。

「ああ、ごめんよ、仕事中に。いま大丈夫かい?」という父の、形式的な断り文句に、

「(だめっていったらどうするの?有無を言わさないくせに、と内心では毒づきながら)少しなら」と、事務的に返事をする私の真意は伝わっていなかっただろう。だって私だったら、第一声の声色を気にするくらいなら、最初から結論の見える愚痴電話などかけないだろうから。

的を射ない話のなかで、母の「奇行」を言い連ねる父に我慢ができるのは、最初の10分にも満たなかった。今日こそは黙って話を聞こう、と思いながらも堪忍袋の緒が切れて。それぞれのエピソードにもっともらしい解釈をつけて説き伏せたり、父の見解に意見したりものの見方を批判したり。

大好きな母の異変を認めたくはなかったし、父が母の「奇行」を言い咎めるのが聞くに堪えなかったこともあるし、何より、自分自身が事実を事実として受け止める勇気や許容量がなかったので、「気のせい」「気の持ちよう」「見解の相違」「お母さんがかわいそう」といった否認によってしか、話を聞くことができなかったのだった。

で、それから数日後。忘れもしない2008年10月1日。母が夜に室内を徘徊し、トイレではない場所で小用を足し、その後始末を適切にできなかった、という電話を父から受けたのだった。それが、(私が現実を認めざるを得なくなった)すべてのはじまりだった。

10月はそのまま母の認知症検査に話が進み、「検査入院」という名の隔離入院が始まって。もう、それまでなんとか持ちこたえてきたかに見えるすべての軋轢や葛藤や、苦しさやかなしさが後から後から、怒涛のように押し寄せてきたのだった。

たった1年の間のできごとなのに、同じ季節に、同じ場所に座って、同じ景色を眺めている自分は、まったく別人のような心もちでいる。

いろんなことがありすぎて、季節も時間も一巡したが、同じ地点にはもう戻らなかった。

ただ、昔を懐かしんだり、昔に戻りたい、という感情は不思議と持っていない。

いろんなことが変わってしまって、失われた人や時間に対する心残りがないと言えばウソになる。

それでも、家族や仕事や友人や、いろんなものに対して(態度は穏やかでも)どこかで責めたり、攻撃的な認識をしてきた自分の醜いエゴいっぱいの過去になど、絶対に戻りたくはない。失ってしまったものは大きすぎるけれど、去年までの自分には戻りたくない。

去年の今日は、まだ残暑きびしく、真夏日のような天気だったように思う。

今年の夏は予報に反して、涼しい夏だった。

去年の秋冬とは違って、今年の秋冬は穏やかで静かな季節になるだろう。

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2009年2月 4日 (水)

ヘビーではあるが不幸せではない。

母は、ちびたちと話す(言語的会話はできないので、手を握ったり、ちょっかい出されたり)ときは、とても表情がいい。いつもうつむいて、黙っていることの多い母だけれど、孫に会うと表情が晴れる。

かといって、もともと淡白というか、淡々とした性格なので、「孫溺愛」系のじじばばと違い、割と遠目から「最近どう?元気?そう、よかったわね」というくらいに眺めている感じ。もしかしてあまり興味がないのかな?と思ったこともあるほど、あっさりとしたものだ。

病気や障害のせいで、孫を預かったり、面倒をみたりすることができなかった身だけれど、もしも元気でなんの差し障りがない身であっても、孫や娘(私)に寄り添って過ごす、などということはきっとなかっただろうな、と思う。やはり変わらずに「最近はどう?元気?そう、よかった」くらいのトーンなのだろうと思う。

でも、最近は表情が明るくなるのをみて、「おかあさんにとって、孫ってどんな存在?孫ができてうれしかった?」と聞いてみた。

母は「そうねー。やっぱりかわいいわね。いつも手元において置きたい、いつも濃密に関わっていたいとは思わないけれど、子供ってやっぱり特別ね。小さい手を握ったり、くすぐられたり、抱きつかれたりすると元気がでる気がするし、どんなに気持ちが沈んでいても笑ってしまうからすごいと思うわ。」

「よーく考えてみたんだけど…。血がつながっているからかわいい、という感じでもないのよね。小さいこどもはみんな未来があって、自由で、いいのよね。血を分けた、とか、おなかを痛めた子、という言い方があるけれど、私はあんまりそういうの好きじゃないの。そりゃ、十月十日、大きくなるおなかで一緒に過ごすことは大事なことかもしれないけど、本当に大事なのは生まれた後に、人間として育っていく過程を一緒に過ごすことだからね。おなかのなかにいるときは”自分のもの”かもしれないけど、生まれたら別人だから。それは生んでも生んでなくても同じだと思うわよ」

「あなたたちを育てているときは、私は20代で、仕事もしていて、必死だったから、今になって“もっと~しておけばよかったな”って思うことはある。いまもう一度小さな子供と接したら、きっともっと面白いだろうな、楽しいだろうな、って思うこともあるわ。やっぱり自分の子供には責任というものがあるから、必死だけど、いまは少し引いて眺めていられるから。無責任でいられるのがいいのでしょうね。だから、何を見ても聞いてもほほえましい」

というようなことを、楽しげに話していた。見ている私もうれしくなる。いま、そういう話が母とできて、よかったなーと私も思う。母の私たちに対するかつての子育て経験をきいて、必死に働き、育て、生きていたことを(私たちは憶えていないから)聞いて、いままさに必死な自分を思う。いままさに、「責任」感いっぱいで子供たちに向き合おうとする自分を思う。

そして、「いやいや、そこまでむきにならなくていいな」「もっとのんびりしてもいいな」「お母さんも、もっとのんきに育てたかったんだろうな」と思ったりして、いつも一緒にはいられないけれど、私の、子供を見る視線は、いつのまにか「今のおかあさんだったらどうするかな」という視点からのものになっていることを感じる。

「子育てと介護を一緒にやって大変ね。」と、最近よく言われるようになったが、昨日の母との会話を経て、私は、今の時期にこういう経験ができていてよかったと思うようになっている。母にそそぐ自分の視線に、(自分でいうのはほんとに変なんだけど)思いもよらないような愛情というか、優しさというか、いつくしみを感じて照れることがあって。「あれ、私って、こんなに待てる人だっけ?見守れる人だったっけ?」と驚くことがあり。

これまで自分のこどもには、そうしたくてもできなかったように、「待ってみる」「見守ってみる」という、最も自分の苦手とする感じなのにもかかわらず。昨日今日あたり、そういう自分のまなざしが、ちびどもにもだんだん向けられているようにも感じる。

私は、母の変化を見守ることを通して、知らないうちに、子供を見守ることを学んでいるのだと思う。もし大人の生活(リズム)や視点(価値観)にしか触れていない生活をしながら、介護または育児だけに没頭しなければならなかったなら、もっと本当に苦しかっただろうと思う。人生は自分で管理(マネジメント)できるという信条に沿って生きていたなら、きっと神経が持たなかっただろう。

親の老い(衰え)と、子の成長(育ち)を一人の人間として同時期に体験できるのは得難い経験だ。いまは心からそう思える。よかった、なんていわないけれど、でも得難い経験だ。

親に流れる時間を待ち、子に流れる時間を待つ。親の泣き笑いに寄り添い、子の泣き笑いに寄り添う。すると、自分が疑いもせずに捉えてきたスコープが、がらりと変わる。不確定要素ばかりの、思いのままにならない、しんどい人生に見えたものは、自分一人では気づくことのなかった眺めに変わる気がしてくる。切なさ悲しさはなくならないかもしれないけれど、切ない感情を抱くことのできる機微こそが、私の人生なんだと思えてくる。

この人生こそ私のもの。少なくとも私は不幸せではない。ヘビーではあるが不幸せではない。フランクル先生が言うように「私が人生に何を求めるか、ではなく、人生が私に何を求めるか」なんだと今こそ思う。

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2009年2月 3日 (火)

お母さん子。

先週は、子供不孝親不孝の1週間だったので、土曜日はこどもたちと、日曜日は母を家に連れてきて過ごした。四方八方、不義理続きのツケ払いみたいな、ね。(夫にはもう返済のしようがないくらい、雪だるまのように「借金」人生ですよ)

子どもたちはチビなので、ちょっと真剣に向き合って、抱っこしたり、叱ったり、添い寝したり手をつないだり、本を読んでやるだけで、割とさらりとチャラにしてくれる。

ところが母は、1週間の間にへこんで、ダメージを受けていた。

火曜日、ホームに行った妹から電話があり「お母さん、顔が硬縮してくちゃおじさんみたいなの!」と。右側だけが攣っているらしい。片側だけなんて、しかも右だけなんて、いやな予感。母は左の視力を失い、右目も視野のほとんどを欠いている。放射線障害のため、右耳の耳骨もむき出しになってしまっていて、内耳の炎症に悩まされている。それでも「右」は、母にわずかに残された知覚機能が集約されている側なのだ。

脳腫瘍の手術から25年間、てんかん止めのデパケンを常用してきたが「ついにてんかんか?!」と考える。そして、右目が完全に失明するという恐怖が頭をよぎる。でも、なんだか、ようすを見ていると心因性のようにも思える。

「そろそろ帰るね」「明日は●●が来るから」「もうすぐ夕食だから食堂に行きましょう」などと、私たちとの別れを予期させるような話に及ぶと、いきない痙攣が始まる。難解な質問や筆談にこたえようとすると、痙攣する。なんらかの心理的負荷がかかると興るように思えてならない。

一方で、いろんな悪い可能性が頭をかけめぐるのを、もう一人の自分が冷静に観察しているのを感じる。酷薄だけど、もう何が起きてもおかしくないし、今となっては「いかに本人が苦しまないタイミングと順序で、それらが一つずつ到来するのか」が気になる。

やがて、目も見えなくなり、自力で姿勢制御をしていられなくなり、食事や排せつも自力でできなくなるだろう。あるいはそれより先に、かろうじて成立している唯一のコミュニケーション手段である筆談が、母の識字能力の低下、認知機能の低下によって、不可能になるかもしれない。何が、どの順番で来てもおかしくないけれど、できることなら「わからなくなっちゃってほしい」と思う。完全な痴呆といえばいいのか。

この世の苦しみも、悩みも、恐れも、不安も、自分が誰か、私が誰かも、全部わからなくなってしまうほうがいい。家族にしてみれば「あなただれ?」と言われるのは悲しくて悲しくてどうしようもないけれど、それでも、無間地獄の恐怖に打ちのめされながら「正気」で過ごさなくてはならない母のことを思えば、何ほどか。

いやいや、心配しても仕方のないことは、考えない。今日を生きる。

でも、いい気になると衝撃はすぐにやってくる。

日曜日、40年来の友人が偶然、我が家に来ている母を訪ねてきてくれ、泣き笑いしながら筆談をしていた母だったが、途中から挙動がおかしくなってきた。不規則発言や、問いかけと無関係の返答、筆談内容が読み取れないことが、私にだけはわかる。

いいや、たぶん母自身もわかっている。だから、混乱して、不安になって。いてもたってもいられなくなっているのだ。勝手に会話内容を先読みしたり解釈しながら、さも話に乗っているように答える。目が悪いから、ほかの人なら「読みにくいかな」程度にしか思わないだろうが、私にはわかる。「お母さん、読めてない。判読できていない」ということがわかる。

その直後に、母はどんどん混乱が進んだ。筆談用のマグネットボード自体が見えていないことは、そのすぐあとにわかった。「見えてもいないんだ」と、愕然とした。見えていないことを、母も感じているけれど、なぜかパニックになっている様子はない。

「見えていないこと自体が、わからないのか?」と、またもや慄然とする。手を大きく振って視界を遮っても、母の視線は宙を見たまま。何かを考えながら?虚空を見つめたまま。母も茫然としているのか。オットを読んで、一緒に確かめてもらう。オットも「見えてないね」と 言う。ああ、どうしようか、おかあさん。

そう思っていると、母がやおら「なんか、疲れちゃったから今日はもう帰るわ」と立ち上がろうとする。ホームに帰ろうとするなんて、おかしい。でも、ホームの門限(なんてないけど)をやたらと気にする。オットと相談して、本当はオットがホームまで送ってくれるはずだったんだけど、急遽予定を変更し、私が送っていくことにした。

道中、車を運転しながら、助手席で相変わらず虚空を見つめる無表情の母の横顔を気にしつつ、左手で母の手を握る。いつもなら握り返して返事をするのに、母は何も言わず、手も握り返さない。「お母さん、このままあっちの世界に行っちゃうのかしら。もう、私のことも、誰のこともわからなくなったままなのかしら」という不安が押し寄せる。

ホームに着くと、施設長がいつもの笑顔で出迎えてくれる。状況をつぶさに話しながら、見えていないことを示すと、施設長も「見えていないですね」という。母はもう、私のいつもの「じゃあ、帰るね」という挨拶の握手にも無反応。見知らぬはずのケアスタッフの手を握って離さない。私と他人の区別がついていないのね、と思ったが、よくよく申し送りをして翌朝の様子を伝えてもらうよう頼み、ホームを後にした。

家に戻り、妹に状況を報告。そして、先に書いたように「いっそのことこのままわからなくなったほうが、お母さんは幸せかも」と言うと、電話口で妹は泣き崩れた。オイオイ泣いて、クールな妹じゃないみたいだった。「それはそうだけど、私のこともわからなくなっちゃうのは、辛い」と泣き続ける。私は、それをなだめるようにして、持論を続ける。「お姉ちゃん、冷静だね」と、妹に言われて苦笑してしまった。

クールな立ち居振る舞いと毒舌で、誤解されやすい妹。いきり立ち罵声に近い口調で接しながらも、母の介護をやめなかった妹。「私このままじゃ、お母さんのこと虐待するような人間になりそう」と悲痛な愚痴をこぼしていた妹。入居前にお母さんにしがみついて号泣していた妹。

私は、いつもどこかで状況を俯瞰しながら、実務的に動いて対処してきた。本来の性格と対照的。私は、やっぱり酷薄なのかも。

そうか。妹は小さい頃から、私よりずーっと、ほんとうはお母さん子だったのだった。引っ込み思案で内弁慶で、「父の娘」だった私とは違い、母の後ろから世をうかがっているような子だったのだった。本当は、私よりはるかに、母への思慕と後悔で押しつぶされそうだったのだと思った。

そういえばついでに、妹が17歳の時、学校で脳動静脈瘤破裂で生死の境をさまよい、1か月も意識が戻らなかったとき、ただうなされて口にし続けたのは「おかあさん」という言葉だった。言語障害に苦しんでいたときも、最初に口にできたことばは「おかあさん」という言葉だった。それを見て父は「父親なんて、つまらないもんだなぁ」とつぶやいていたっけか。

うちのチビどもも、どんなにお父さんがそばにいて、大好きでも、やはり弱ったとき、困ったとき、ふあんなときはお母さんじゃなければだめだものな。うちなんて、絶対にオットのほうが私よりやさしいのに、それでもやっぱり「おかあさん」じゃなきゃだめだものな。

そうか。こどもはみんな(健在か否かは別として)お母さん子なのか。

今朝、ホームに電話をしてみると、母はいつもどおり筆談ができているという。「きっと、心身が疲れていたんでしょうね」と、スタッフは気遣ってくれた。そうかもしれない。でも、私は楽観しない。

これからは、そういうことが増えていくんだろう。あれは、単なる疲れじゃないと感じる。きっと間違ってないと思う。そうやって、頻度が上がり、程度が上がり、だんだん「お母さん」と「そうじゃないとき」との比率が変わっていくんだろう。そんなことをまた冷静に考える自分がいる。

でも、こんどは妹にはそんなことは言わないでおこうと思った。たとえ私の想定が事実だとしても、妹だってそんなことはきっとわかっていると思うし。何でも言い合える姉妹であったとしても、わざわざ念押しする必要はない。

なんだか、今日はまったくまとまらないワ。冷静だ冷静だといいながら、結局私も激しく動揺している。自分の母親の苦しむ姿を冷静に見られるほど、私もひどくないということか。私もお母さん子ということか。

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2009年1月26日 (月)

誕生日、65歳、介護認定。

24日は母の65回目の誕生日だった。

介護認定の資格を取得できる65歳の誕生日は、去年の秋からの大きなメルクマールだった。

10月からの3ヶ月をどうしのぐか。長いようで短く、濃密で、文字通り人生(観)のターニングポイントとなった3ヶ月。

正式に入居契約を交わし、母は「ホームの人」となった。

24日はホームに集ってささやかな誕生会をし、スタッフのみなさんにも祝っていただいた。

父と妹と私たち家族に囲まれて、母は、うれしいような、気まずいような、複雑な面持ちだった。

父は体調不良を押してホームに赴き、母に手紙を渡していた。

よい誕生祝いだったと思う。デリバリーのピザ(ホームではなかなか食べられないので母は喜んでいた)とケーキ、お茶でのささやかな。

やっと落ち着いてホームを訪れるゆとりが出てきた父も、若干穏やかな顔をして母を見守っていた。前日私は、ちょっときびしめの進言を電話でしてしまって心配していたのだけれど、それはよい方に転んだようだ。

「これからは週1回は母のもとにくることを生活の柱にしてがんばる」とみんなの前で明言していた父。多少無理してはいるだろうが、そうした見栄や意地も、生きていくうえでは大事だと思う。

翌日、正式契約を交わした場で、ホームの方に「夫婦でも入れるんですか?」と、ボソッと聞いていた父の言葉を、私は聞き逃さなかった(が、聞こえないふりをした)。

どうしようもなくさびしいのだと思った。きれいに整頓され、母の持ち物を見えないところに隠してしまった父の行動や人格を疑ったけれど、2週間ぶりに実家を訪れてみれば、あれほどこだわった炊事の形跡もなく、かといってやけに整然としている。ほんとうに廃人のように暮らしていたのだと思って悲しくなった。

でも、そのぶん、いなくなった母のことを強く強く思うようになったのだと感じる。

母も、父からの手紙のおかげで「たまには家に戻ってお父さんのそばにいてあげたい」と言うようになった。人のことを思いやったり、自分から動こうというゆとりや意欲が出てきたのだと思う。

週1回は、父がホームを訪れ、月に1~2回は母が家に帰り、月に1~2回は私のうちで食事を楽しむ。それだけでもかなりリズムができてくるだろう。

ホームのかたがたの献身的な介助に支えられて、私たちも少しずつ新しい生活と気持ちの建て直しをしつつある。

契約締結後、「みなさんが慣れてくる頃には暖かい春ですよ」と、ホームの方がかけてくれた言葉をきいて、父はちょっぴり泣いていた。

涙もろく、体よりも心が弱ってしまった父をみて、私も、自分のなかの「かつての父親像」に完全にさよならをした気がした。そうか。親の人生も見守る(背負うという意味ではなく)時機にきたのだな。40歳って、そういうお年頃なんだな。と自然に受け入れられた瞬間。

子供を育てあげ、父母を支えきり、オットとの暮らしを大切にしよう。

そういう風に、自然と腹が決まった週末でありました。

あ、いかん。オットの両親もいた。まあ、あちらは、必要が生じたらそのときに考えるということで。いまは検討要件から除外。スイマセン。

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2009年1月11日 (日)

「満月の夜、母を施設において」

9日、母は有料老人ホームに入所した。

もはや限界を超えた父の救済策として、予定より早い7日に母を我が家に引き取り、2日2晩、妹と交代で介護をし、9日の入所を迎えた。

なるべく明るく、心配をかけずに、ふれあいを多く過ごそうと思っていた。実家から身辺家財道具一切を運び出し、母の身柄を我が家に移したときには、特別な感傷はなかった。実家への執着はあまりないし、永の別れでもあるまいし。

もちろん、二度と実家に戻って暮らすことはない。そう思えば、40年近い実家での家族の暮らしは、その日が最後ではある。でも、私達が育った頃の家庭の面影はもうないし、実家を出て20年近く経っているから、言ってみれば「ひとさまの家」という感覚しかない。

我が家では、実家では決して食べなかったであろうパスタなどを用意し、ワインなどもたしなみながら、趣向を凝らして食卓を囲んだ。母も、にぎやかな気配を楽しんでいた。何より、10年前にずいぶんかわいがった我が家の老犬とのスキンシップを楽しみ、犬も母に身を預けながら、ニンゲンの言語コミュニケーションから外れた、老いたヒトとイヌは、じーっと寄り添っていた。それを見て、イヌってすごいなーと思った。

それでも、入居の前夜、子供たちを寝かしつけ、ダイニングで母と向き合って筆談しようと、母の手を握ったとき、抑えていた気持ちが堰を切ってあふれてしまった。言葉にならなかったのに、ただひたすら手を握って謝った。

「お母さん、ごめん」「引き取ってあげられなくて、ごめん」「みんなの都合を押し付けて、ごめん」「さびしい思いをさせて、ごめん」「お父さんの代わりにならなくて、ごめん」ごめん、ごめん、ごめん…。

しゃくりあげるしかない私に、母は何度も「そんなことを言っては絶対だめ」「あなたの(妹の)せいじゃない」「誰のせいでもない」と泣きながら繰り返した。そういわれるほど、辛かった。母の掌は、昔とまったく変わらず、ふにゃふにゃとやわらかく、大きく、あたたかく、頼りなかった。小学校時代を最後に手をつないだ記憶がなかったけれど、子供時代がフラッシュバックして、泣けた。肩にしがみついて、(聞こえないのに)ごめん、と繰り返して誤り続ける私を、耳の聞こえない母は、大きな声で「大丈夫、大丈夫」となぐさめた。

母を預かっている間、妹が母を介助してくれたが、そのもの言いのきつさは、ほぼ罵声に近いといっていいほど耐え難く、思わず耳をふさぎたくなるものだった。なんどか、笑いに交えてたしなめようとしたけれど、母に言葉を浴びせる妹の顔を見て、言葉を呑んだ。

妹は明らかに傷ついていた。自分の吐いた言葉に、自分自身で傷ついている。大好きだった母(妹は私より母っ子だったから)に、苛立ち、否定するような言葉を吐いてしまうせつなさ。言っても仕方ない、母のせいではないとわかっているのに、やりきれない言葉をぶつけてしまう自己嫌悪。それでも、忙しかった私のぶんまで、献身的に母を見てきてくれたのは妹だ。愛しているのに、傷つけてしまう。そのことで、自分も傷つく。それは父も同じだった。

父の身勝手な翻意の連続にうんざりしかけていた私は、父から離れることが母の幸せでもあると思ったけれど、入居を迎えた日、抱き合って号泣する父母を見て、「父母にとって最善策と思ってホーム入居の話を進めたけれど、結局、父母を引き剥がす結果にしかならなかったんじゃないか」という思いに、猛烈にさいなまれた。

入居2日目の昨日は、母はしっかりと、毅然と、ホームの生活になじもうと努力していた。弱音もはかなかった。以外にスムーズな滑り出しだとほっとした。

ところが、今朝ホームを訪れると、母は私の顔を見るなり、親を待ちわびる子供のように涙をぽろぽろ流し、嗚咽しながら「自分ひとりだけおいていかれるようで、怖い。辛い。しっかりしなきゃ、と思っているのに、子供みたいで馬鹿みたいなんだけど」「お父さんが恋しい」と弱音を吐く。

私も、わかっていたのに、母に泣かれて、泣いてしまう。

結局、私も妹も、母の魂まで救済はできない。母は、父と一緒に生きることしか望んでいない。それなのに父はそれに応えられない(という)。

なだめ、体をさすり、手を握り、抱きしめて、施設を後にする。別れ際、手をぎゅーっと握るのが「さよなら、また来るよ」の合図なのだけれど、手を握った瞬間、母の顔は曇り、不安におびえ、目に涙が浮かぶ。それを見ながらも、スタッフの方には丁重に挨拶をし、施設を後にする。

今日は満月らしくて。

車を出して帰路に着くと、大きな満月が目の前に。家にある詩集のタイトルのように、大きな満月を見ながら、ハンドルを握る。涙でぼやけて、運転が危うい。でも、ちびとオットが待っているから、私は帰らなきゃ。「満月の夜、母を施設において」。

入居してからのほうが、本人も家族も大変だ。入居は、長い在宅介護生活のピリオドではあるが、本人と家族との本当の絆が試される。

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2008年12月27日 (土)

「私は母を金で捨てた。」

のっけから強烈なフレーズだけれど、佐野洋子の言葉を借りれば、今の自分の心境はこれに尽きる。(「シズコさん」より)

年末ぎりぎりまで、コンペが重なってひいひい言いながら今日を迎えた。仕事納めが例年にくらべて数日早いから、その分追い込みも厳しく感じる。景況に予断を許さないいま、来年のスタートを少しでも気安く切りたい、という思いから、少し無理をしてコンペ仕事を引き受けた。

時間を十分刻みでやりくりしながら、数本走らせる切羽詰った状況のなか、実家の父からはSOSのメールや電話が相次ぐようになった。

入居を間近に控えた母の心身のコンディションがかなり悪化しているという。「早く入所したい」と泣いてみたり、数十分するとケロリと忘れたり。かと思えば「あなたは厄介払いするのね」と父を1時間にわたって詰問するらしい。夜の粗相や見当職障害もひどくなっているらしい。「俺のほうがおかしくなりそうだ」という悲鳴にも似た訴え。

状況を察して、施設担当者には無理を言い、年末の忙しい時期にアセスメントをしてもらい、すぐにでも入居に入れるように算段したのだけれど、それも待てないほど切迫しているようだ。本当は、私が駆けつけて母とゆっくり話をするか、引き取って、家で不安を和らげてあげるのが一番いいことはよーくわかっている。

それなのに、今自分が置かれている状況と、母の状態を考えると、それはほとんど不可能だ。コンペをあきらめ、来年のことはいったん置いておくなら話は別。子育てに介護が加わったことで、いったん引き受けた仕事を断るという選択をすることの代償は小さくない。ましてやこのご時世。「できることはやっておく」という姿勢を崩す勇気がない。仕事のよしあしではなく、所詮、自分も自転車家業の事業主でしかないのだから。

でも。

心臓病に苦しみながら、認知症の母を介護する父の苦しみも、母の不安を緩和してやることよりも、自分たちの日銭を稼ぐことに腐心する自分の姿を客観的に思うと、「なにやってんだ」と思う。

自宅で仕事に追われている時なら、いったん仕事の手をとめて、PCのキーボードを叩いて、母をなだめる手紙を特大のフォントサイズで出力し、実家にFAXを送る。これでも多少は気持ちを切り替える効果はあるらしいから。気休めだとしても、何もしないよりはまし。

ところは今週は、プロポーザルを徹夜で仕上げて朦朧としている朝方や、プレゼンに向かう電車のなかでも、時と場所にかかわらずメールや電話が来る。父ももう疲労困憊なのか、かなり混乱している。「おまえたちに迷惑をかけたくない」とは言うけれど、行動は裏腹だ。当たり前だけど。

かと思えば、クリスマスの夜は、母とひさしぶりに語らったもようを伝えたくて、電話してきた。以下、抄録。

父「クリスマス、おめでとう」

母「おめでとう」

父「今年ももうすぐ終わりだね。年があけたら入所するけど、申し訳ない。俺も長くないから、先に逝ったらあなたを迎えに来るから寂しくないからね」

母「迎えにって、どこに迎えにくるの?」

父「(苦笑)まあ、いいや。じゃあ、もし次に生まれ変わっても俺と結婚したいと思うかい?」

母「(にやりと笑って)しょうがないわよねぇ。ほかに一緒になれる人いないじゃない」

みたいなことだったそうだ。父は話しながら笑いながら泣き、私も黙って聞きながら笑い、泣く。少し前までは、こんな話を父から聞くのは我慢ならなかったのに。

今は、少しずついろいろ忘れ、モザイクのような時間と記憶のなかで不安におびえ、時々ほほえましいほど可愛くなる母を見つめながら、体と心の葛藤に苦しむ父の苦しみをも思い、一緒に泣くしかないんだということを身をもって知った。その思いを、こんどは妹に話す。妹もやはり、同じところで笑い、泣く。一緒に泣くしかできない、暖かい痛み。それは明らかに苦しみではあるのだけれど、話の最後は「こういう家族でなかったら、耐え難く、乗り越えられない悲しみだけれど、少なくともこの家族でよかった」という思いで満たされる種類の、奇妙な悲しさだ。

心が千々に乱れる日々。それらをなんとか取りまとめて、「自分の生活」を守る推進力に変えようとする試み。40歳を目前にした中年の私には、やってできない課題ではないけれど、それでも、ときどき、たまらなくなるのだ。たまらなくて、夜中、布団のなかでだけ泣く。涙は感情の排泄なのか、泣くと少しだけ、気持ちが落ち着いて、あとは眠れる。

普通の生活を崩さずにいようとする自分が。自分の暮らしかただけは守ろうとする自分が。平気な顔で仕事相手と談笑し、明日の飯の種を獲得するために、苦しむ親のケアを後回しにする自分。わが子のクリスマスを祝うために、実家に緊急ヘルパーを送り込む算段をする自分が。偽善的で、酷薄な自分の本性がどこまでも追いかけてくる。

夫や妹、夫の母や親しい友人はみな、誰もが「施設に入れることを後ろめたく思う必要はない」と言ってくれる。「仕方がないんだ」とも。実際問題、私が母をひきとって、在宅介護をしながら働いていくことはきわめて難しい。あれこれもっともらしい理由をつけなくても、無理は無理だ。

だけど、それが何だというのか。私は金輪際、誰に責められることがなくても、自分の心を知っている。私は母を引き取って看取るつもりがない人間だってことを。「こどもにだけは迷惑をかけたくない」という親の意思に乗じて、わが子のためには仕事も暮らしも変えることができるのに、自分の親のためにはする気がないってことを。

あんなにも大好きな親だったのに。あんなにも愛しんでもらったのに。

「私は親を金で捨てた」という、佐野洋子の言葉が胸に刺さる。自虐的な意味ではなく、親を人の手にゆだねざるを得なかった経験のある人、親の介護に直面することができなかった人は、大なり小なり、胸に抱えて生きている思いだろうと思う。どんなに奇麗事を言っても、本質は変わらない。真実はひとつだから。その痛みを抱えて生きていかねば。母一人だけが、周囲の都合に押しやられて生きていくなんて変だもの。

クリスマスプレゼントに、母に「ちいさなあなたへ」という絵本を贈った。

文章の少ない、翻訳ものの絵本。偶然、町の本屋で立ち読みして、不覚にもボロ泣きしてしまった本。いま、私が、母に届けたい思いがすべてがつまっている本。目も耳もだめになり、言語コミュニケーションの力が極端に低下している母だけれど、だめな娘の私が、精一杯の思いで言いたいこと、「お母さんの子供でよかった」「この家族に生まれ育ってよかった」という思いだけは伝わって、と祈りながら。

もうすぐ、父のことも、妹のことも、私のことも、わからなくなる日が来るだろう。その日が来る前に、間に合うならば、許されるならば、「非道い娘だけれど、それでもお母さんを心から愛しています」と言ってもよいだろうか。こんな私が、許される日が来るんだろうか。

そんなことを思いながら私は毎日、飯の種を手に入れるために、携帯に送られてくるメールに目を通し、携帯を閉じて家を出、移動中に電話尾かけ、くたびれ果てて帰宅し、子供に夕食を食べさせ、夜半まで仕事をし、泥のように眠り、朝の戦争に臨む。助けを待ちわびる父母の長い1日と、私の短い短い1日はこうして軋みながら過ぎていく。

後ろめたい気持ちに蓋をして、今年1年の仕事が終わった。

1月3日、母は施設に入る。

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2008年12月15日 (月)

2008年冬。これでいいのだ。

母は、独りでホームに入居することになりそうだ。

認知症状が発現した10月。

入院し、現実を受け入れざるを得なかった10、11月。

「母と添い遂げる」という父の決断に従い、覚悟をもって退院し、ふたたび自宅での夫婦2人の生活に戻った12月。

3週間たった今、父の心身の負荷は限界に達している。

そして日々刻々衰退していく自分のADLと、父に負荷をかけている現時を認識している母の悲しみも限界だ。

12月上旬にうちで預かった2日間。不覚ながら私もギブアップした。

トイレに立つ度に、仕事を中断してトイレに誘導する。何かを思い立って立ち上がる母の姿に驚いて飛んで来、「何をしたいか?」を聞き出して(たいていは特に意味のない行動=見当職)なだめ、座らせる。

夜は20分に1回トイレに起きる母を、トイレへ誘導・介助する。普段はポータブルで自立排泄できる母も、さすがに私のところでは緊張するのか、トイレに気をとられてろくすっぽ睡眠がとれないようで、お互いに疲弊。

聴覚・視覚・平衡感覚が×であるがゆえに、徘徊できないけれど見当職で立ち上がり、転倒するかもしれない不安にさいなまれる。2日ともたなかった。

思った以上にひどく、思ったよりも早く、認知症は進行している。

これまで結局、私は、この痛み重みを実感することなく、ひたすら父の責任と愛情不足を責め続けてきたけれど、大馬鹿者だった。父は、心臓に爆弾を抱えながら、限界を超えて、できるかぎり尽くしてきたと思う。それでもあふれて余りあるやりきれなさを私に「ただ聞いてほしくて」持ち込んだだけだったのに、私は突っぱねてきた。よくやっていたのだと思う。自分の無理解と、親への甘えを恥じる。

母を実家に送って行った日。母は、玄関をくぐると同時に性格を豹変させた。元気で、明るく、自尊心に満ちて、私たちを気遣う母は鳴りを潜め、陰鬱で、父に感情のはけ口を求める、理不尽な母になっていた。

びっくりする私に父は「いつもこんな感じだよ?」と怪訝そうな顔。私は、現実のなにほどを見てきたのか、と思った瞬間だった。

理性が飛んで小さな駄々っ子のように理不尽な要求や主張を通す母。それを黙って聞く父。黙っていることをまた責める母。納得するまで対応しようとする父。そのうち被害妄想的な発現が増えて逆切れに近くなる母。最期は、ひとしきり泣いて、泣き終わると何事もなかったかのようにケロリとして機嫌がよくなる。

母が父を求め、夫婦で添い遂げたいと思ってきたことにウソはないだろうが、夫婦で甘えや素が顔を出す(よくいえば気の置けない)関係だからこそ、のエピソードだとは思う。それでも、実家に戻った瞬間に表情がうつろになり、悲しいことだけを考え、口にし、同じ話のループにはまる母を見ていると、「夫婦ふたりで添い遂げる」ことを優先したことに疑問を感じるようになる。

「添い遂げる」というのは、素敵なことばだ。それでも、私たちが母と父のそういう決意を尊重したのは、私が勝手に作り上げたファンタジーだったのだと思った。

父の心身の負荷を取り除かねば。母の心の苦しみを軽減させることと背反すると思っていたけれど、それはちがった。父を楽にしてやることが、母を楽にしてやることにもなる。独りでホームの個室で長い時間をすごすことになったとしても。

いまの父と母の2人の生活は、「寄り添い、添い遂げ、自力で生きていこうとする夫婦の尊厳を守る」風でいながら、醒めて見てみれば、ひとつの狂気であった。どうにもしようのない、苦しみ悲しみに、涙を流しながら、食卓に座ったまま一日が過ぎていく、ゆったりとした悲しい狂気。

もう、十分がんばった。できることは十分やった。そのように、父に言ってあげなければ、と思った。

どうしても自宅を離れたくない父が、母の生活介助をだれかに預けられて、かつ毎日気兼ねなく会いに行ってあげられるホームを。

そして、その必要性を、いまのうちに母に打診しなければ。

12月はこの不況で仕事もかなりシビアな状況になってきているけれど、仕事の合間を縫ってホームの見学に奔走した。

今日、大手教育産業の新設ホームの入居説明会に行き、決心した。その帰りに実家によって、父に報告をし、「実家のそばで、母だけ入居、手厚く、ケアにも事業基盤にも信頼がおけ、他拠点展開でグループ内移動も可能」なところだ。

母は「私もホームに独りで入ろうと思っていた」と言って泣き、自分の心身の限界と、母にそれを言わせたことの情けなさを思って、父も泣いた。夫婦として、同士としてすごしてきた自分たちを思ったのだろう。自分の思うが侭に生き、母をその選択につき合わせてきた父からすれば、最後まで妻の面倒を自力で見られないという自分への無力感はいかばかりか。夫婦の来し方を思って、万感胸に迫るものがあったのだろうと思う。

それで十分じゃないか。と私は思う。

憎しみあって別れる夫婦もいれば、別れないけれど、相手を罵り、侮って生きていく夫婦もいる。父母は、心ならずも夫婦だけで自立して人生を全うすることができなかったけれど、それは形式だけのこと。

面倒を見てやれなくて申し訳ない、情けない。

相手の負担になって申し訳ない、情けない。

こどもたちに負担をかけて申し訳ない、情けない。

そうやって相手のために涙を流せる夫婦で、子供のために泣ける親でよかったじゃないか。と私は思う。

できないことより、できることを。という思いは今も変わらない。

こんなはずではなかった、と思うよりも、まだ恵まれている、と思って生きて生きたい。得がたく尊い親の姿を、10年以上遠回りしたけれども、知ることができたのだし。

激しい慟哭のなかに、人生の美しさを感じられるか。ということかな。

ひどく遠回りで非効率な道のりを経て、涙を流しながらも「ギブアップ」という結果にいたったのは、必要なプロセスだったのだ。と心から思う。

これでいいのだ。これ「が」いいのだ、とはいえないが、これ「で」いい。

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2008年12月 3日 (水)

できないことより、できることを。

今日から2日間、母を預かることにした。退院して初めて。実に2ヶ月ぶりの来宅になる。ちょうど2ヶ月前の今日、認知症の症状が著しくなった母の入院検査を控えて、我が家で家族会議をしたのだった。

2ヶ月の入院生活は、下肢の機能をかなり弱めてしまったみたいだ。

病室では、車椅子を使うように指示された。平衡感覚と視覚に障害があるので、転倒や事故を予防するためなのだけれど、そのせいで足腰の筋肉が相当に落ちて、つかまり歩きもおぼつかなくなっている。

病院は、介護施設ではないので、入院中の間接事故は絶対避けたいわけだから、仕方がないのだけれど、2ヶ月は長すぎた。人間のからだって、使わないと覿面に駄目になっていくものなんだな。

実家での在宅介護生活はちょうど1週間。予測されたことだけれど、父には身体的な、母には心理的な負荷がかかっているようだ。いつまでこの暮らしが維持できるのか、時間の問題だとは思う。

父の健康状態がもつか。母の認知能力が失われるか。

「最悪のこと」を考えて、心と体勢の準備をしておく必要があるのだけれど、正直、「二人で在宅で」という選択を受け入れた時点で、「最悪のこと」の想定は予想以上に広がってしまった。

夜間、母の見当職がひどくなり、そのケアで疲労困憊した父が、心筋梗塞や脳梗塞で倒れる。救急の通報をすることができない。母は、父がどうなっているのかが見えず、聞こえず、当然のことながら通報もできない。

運良く、父自身が救急車か私たち姉妹を呼べたとして、昏睡状態や重度の後遺症が残るかもしれない。

いまは父が母の面倒を見ていけることを前提に選んだ生活だ。

だけど、まっとうな感覚の持ち主ならば、生活負荷をかけてはいけない重病の心疾患患者である父が、重度の身体障害と、認知症をもっている母の面倒をみていくなんて、ありえない話だ。

紆余曲折経て、父の翻意を改めるよう説得することを断念した私たちだけれど、こんな超リスキーな状態を受け入れるなんて、正気の沙汰じゃないと、いまでも思っている。「これでいいのか?後悔しないか?」と、自問自答している。答えを出すことは私自身には許されていないけど。

ますますできないことが増えている母を預かると、わかってはいても、心の中で暗い思いが頭をもたげる。

母自身も、日によってコンディションに波があることを自覚していて、ここ数日は視覚認知能力がかなり落ちていることを気にしている。本人は「見えにくい」というのだけれど、筆談ができることを考えると、視力が落ちているのではなく、「見たものを認知する力」が衰えているようだ。要は、「見えるけど、なんだかわかんない」状態ってこと。

そのことも含め、生活自立ができなくなっていることの情けなさ、父に負荷がかかっていることへの申し訳なさで、今日はかなり凹んでいた。珍しく泣きが入っている。状況を考えれば、泣かないほうが不思議。

家に預かってからは、妹も含めてゆっくり話す時間があったのと、心理的にも安心したのだろうが、いつものお母さんに戻っていた。やっぱり、不安とストレスが、コンディションに色濃く影響してしまうのだな。

今朝は、「ババに来てほしくない」「お顔が変だから」と、来宅に抵抗したムスコだったが、保育園から帰ってきて、母に挨拶させると、「やっぱりババ泊まっていいよ」とご機嫌が直った。

4歳のこどもにしてみれば、からだも言語も不自由な母は、奇怪な存在に映るのかもしれない。こどもは正直だし、ある意味残酷だから。「そんなこと言うもんじゃありません」とは言いにくいものだ。言論統制には何の意味もない。感じることは仕方ないんだから。

6歳のムスメは、倫理的に「そんなことは言ってはいけない」ということはわかっているから、お姉さんらしくムスコを諭し、たしなめる。そのようすに、頼もしさを感じる半面、「そんなに無理しなくてもいいよ」と、内心思う。「言ってもいい」とは言えないものの、まだ理解できなくて当然。

そいでも、会えば、多少ヘンな行動はあったとしても、いつものババとして受け入れられるのだから、子供にヘンな小理屈は不要なのだ。異質なものでも、慣れれば受け入れることができる。

それから、もうひとつの発見。

大人は「できないこと」「できなくなってしまったこと」に眼と気持ちを奪われるが、こどもは「できること」にしか興味がないということ。チビたちは、最初から多くを期待しないから、ろくに文字が読めないと思っていた母と筆談ができることを素直に喜び、「なんだ、ババ、ちゃんと字読めるじゃん」と褒める。

食事の作法が乱れることを恥じる母に、(聞こえないことは忘れているが)「上手に食べられてるよ」と声をかけるムスメ・ムスコに、深謝。こどものほうが、眼が開かれているのかも。

オットは、わざとなのか、それとも最初から視界に入っていないのか、自分からは母に話しかけることはしない。もしかしたら、「家に連れておいで」というのが精一杯の思いやりで、本当は、どう接していいのか一番わからないのがオットなのかも。そう思うと心中複雑だ。

母を一時的に預かることで、父の心身の負荷も軽減されるし、母も少しリフレッシュできると思っている。この暮らしを少しでも続けさせてあげるには、必要なサポートだと思っている。

が、本当の本当の正直な気持ちを書くと、少なくとも、この綱渡りの生活を続けていくことは、私のなかで潜在的な「緊張感」がずーっと続くことを意味する。そのことによる「疲れ」は、自覚している。

時々、ちょっとした地震みたいに、意味もなく大きな声を出して歌ったり、叫んで気持ちのバランスをとりたくなることがある。

言っても仕方のないことだけれど、屈託のない生活が恋しいな。

犬の調子が悪いからなのか、ちょっと今日は弱気の虫モード。

できないことより、できることを。

今日はこのことを胸に、おやすみなさい。

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2008年11月27日 (木)

「あなたのために」

犬の状態が落ち着いてくれたー。

すり潰して粉末状にした消化器官修復剤を、ポカリスエットにまぜてスポイトで無理やり飲ませたり、が奏功したのかな。

深夜、仕事の会食から戻ると、表情に生気が戻っていて、体調が回復しているのがひと目でわかった。相当おなかがすいているみたい。

ためしに、スープを少し与えてみる。

連休に仕込んでおいた、畑の大根とスペアリブの塩煮の煮汁。

大根とスペアリブを塩と水で煮込んだだけのもの。一晩外においておくと、表面をぎっしり厚さ5mmの脂が覆っている。クリーム状のそれをお箸で取り除くとお茶碗一杯分にもなるけれど、スープはとてもクリアでおいしいのだ。だしがよく出て、旨みは深く、刺激がないので、体が弱っているときには最適。

ふだんは犬には塩気のあるものは与えないのだけど、大匙1杯くらいをお湯で薄めて出すと、白目をむいてぺろりと平らげた。48時間絶食状態だもの、おなかも空きますわね。

でも吐かないし、催促で眼もきらきら、じゃなかった、ギラギラしている。ほっと一安心。

そういえば、母のためにぜひ、と辰己芳子さんの「スープ」の本を買っておいたのだったと思い出す。高齢で嚥下障害を持っておられたお父上のために、丹精こめてスープを作ったというところに特に感じ入って、「あなたのために」を買ったのだった。

あ、もちろん、完全なる手抜き料理である自分のスープを並べて語るなんておこがましいことこのうえないのだけれど、消化に余分なエネルギーを使わず、食べ物の栄養とおいしさを引き出し、封じ込めたスープは、ワンコの元気までも養ってくれる。という事実に、あらためて気づかされた次第。「やっぱり、からだとこころに滋養たっぷりのスープというのは奥が深く、力強い世界だなぁ」と思った。

思えば、いきものの命をつなぐのは、なんといっても液体なのであった。母乳にはじまり、離乳食、そして病弱なときのスープやおかゆ・おもゆ、そして年老いてからの栄養食…。

母も、耳と眼がだめになったいま、嗅覚と味覚は逆に鋭くなっていて、ちょっとした匂いや味の変化にも敏になった。資格連合野の障害で、挙動の制御がうまくできず、食器から上手に食べ物をクチに運ぶのが難しかったり、嚥下障害が出始めていて、麺類をすすったり、乾いたものをクチに入れるとすぐむせてしまうのだけれど、スープならその心配も少ない。

おいしくて、栄養があって、舌も心もおなかも満足できるものを、届けたいとおもって「あなたのために」を求めたのだったけれど、犬のこともあってガゼンやるきがでちゃった。

幸い、新鮮で香り高い野菜はたくさん手に入るし、一度にたくさん作って作りおきやおすそ分けもできるから、食材も無駄にならないし。スープなら、寒い朝の朝食にも、夜食にもいいし。

「あなたのために」と願いながら、心を込めて、手をかけて、美味しいもの、温かいものを作るっていうのは、いいもんだなぁ、と思うのでした。

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2008年11月20日 (木)

「灰になるまで燃え尽きる」

大変な修羅場を経て、介護施設への入居は見送りになった。

「自分はなんとしても自宅に残る。母が拒むなら、単身入居でもなんでも好きにすればいい」という父の言葉で、すべての努力が瓦解した。

二転三転、紆余曲折、右往左往、七転八倒…。土壇場になって、入居に抵抗を示した父の翻意に翻弄され、いわれのない不信感でひどい言葉を言われ、私も妹も「売り言葉に買い言葉」で全人格を否定するような、痛烈極まりない批判をし。ふつうの人間関係ならとっくに絶交、どころか訴訟とか、悪くすれば刃傷沙汰になってもおかしくないくらいの険悪なムードに。

10月頭の認知症騒動に端を発した、この入院生活+入居先探しの2ヶ月。緊張と疲労もすでに極限状態にあった。日がな一日病室で、ただひとり車椅子に座ってすごすしかない母。身の振り方が決められなくて、完全に冷静な判断力を失ってしまった父。転職間もない仕事に追われ、心身ともに疲労困憊の妹。そして、調整に次ぐ調整で東奔西走するも報われず、むしろ老親を施設に押し込む策士として反感を買う私。ストレスで緊張が高まるこどもたち。もはや限界でした。

絶縁状にもちかい内容の手紙を父に送った私たちは、その勢いのまま、母を近所の施設にひきとって2人で面倒を見ていくことまで決意し、施設も見学までした。その結果、「理想的な施設」は見つかったけれど、そこではたと気づいたことがあった。

「聞こえない、見えない、歩けない(けど、まだ頭はしっかりしている)」母は、どんなに近くて、よい環境の施設に入ろうと、24時間のほとんどを音も会話もない状態で、孤独のうちにすごすしかない。私たちとの同居は最後まで拒み(自尊心が強い。それだけで生きている人だから)、一人で大丈夫だと言い張るけれど、きっと、あっという間におかしくなってしまう。

理性的な判断を欠き、煮え切らないまま事態を引き伸ばし、最後は逆切れしてしまった父への、母の怒り、落胆、失望は大きい。私たちも同じく、疲れ、気力が萎える。

が、勢いに任せて「母の単身入居」という選択肢をとってしまって、本当にいいのか。意地で断絶して、本当にいいのか。それで、母の余生は幸せになるのか。よくよく考える。

すると、これまで、父の苦労や努力をまったくねぎらってこなかったことい思い当たる。スーパーストロングな、気丈な母の立ち居振る舞いは、本当なら家族みんなから労わられてもおかしくないほど、大変な苦痛をしょっている心臓患いの父の辛さをかき消してしまう。

私たちも、父に「たいへんだね」「よくやっているね」と労いの言葉をかけることなどついぞなく、「お母さんに甘えている」「自分だけ大変だと思っている」などと心無い評価をしてきた。母の余生のために、父の余生を犠牲にしても当然、という物言いしかしてこなかった。

残り少ない時間を、自宅で、娘に迷惑をかけずに限界まで維持するにはどうしたらいいか、なんとか模索したかった父。

父とふたりでの暮らしをしたかった。それだけの母。

その思いを両立できる方法を、手っ取り早く「施設への夫婦入所」というかたちでまとめようとしていた私。在宅で、2人で、限界までがんばる、という思いを尊重し、支援しようという選択をハナから考えていなかった。自分の暮らしを変えずにバックアップできる自信がなかったから。

それが、今回の入院看護と、施設探しに没頭したことで、大事なことがわかった。

ひとつは、結局ひとの心は道理だけ、正論では動かせないということ。そこにはその人の思いがあり、その軽重は他人には計れないこと。

もうひとつは、人間は、生活利便や安全、快適さだけで生きていけるわけではなく、住み慣れた場所や、暮らし慣れた人の匂いや気配とともに生きている生き物だということ。言語的コミュニケーションのすべを失われても、いや、失われたからこそ、「用が足りる」だけの快適さを強いたら、精神的に死んでしまうのだということを知った。

私は、合理性や実効性を重視するあまり、あやうく「精神的死」を両親に強いるところだった。そう思って、母には父の思いを伝えてとりなし、父にも母の言いたかったことを伝え、最終的に2人で暮らす方法を選んだほうがいいこと。限界がきたら素直に認めることで合意し、決着した。

父母が、在宅介護生活を選択した以上、私たちにできる物理的なサポートの範囲は限られる。が、今回のことでわかったとおり、精神的な支援は離れていてもできる。家族にしかできない。コミュニケーションのサポートや、溜まってしまう不満や不安の澱を、ときどき吐き出させて掃除してあげるだけでも、きっとこれまでとは違うはず。

とにかく、来週母は退院し、家に戻る。父も喜んで、あれほどしんどそうだった在宅介護を心待ちにしている風なのが不思議だ。

これからどうなるのかわからない。多分、それほど長くない将来に、母は認知症が進行して、もう私たちのこともわからなくなるだろう。そのときまでは、父の「楽して無為に長生きするより、燃え尽きて終わるほうがいい」という言葉を信じて、見守るしかなさそうだ。

灰になるまで、燃え尽きる生き方も、それはそれであるのだろうと思う。

たとえ娘であっても侵すことのできない、両親の尊厳というか。

しかし、疲れたな。

自分の未熟さ醜さにも直面せねばならず、しんどかった。

少し、休もう。っていうか、ふつうの生活に戻らなきゃ。

というか、父母のメンタルサポートを含めた「ふつうの生活」のリズムを立て直さなきゃ。

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2008年11月13日 (木)

ふたつよいこと さてないものよ

せっかく決まりかけた介護施設への入居話に暗雲が。

資産管理と最終的な意思決定権を握っている父が渋り始めた。経営母体の財務体質が、万が一の場合の入居者保護の不備が、自分の入居後のQOL低下が、とかとか。あれこれ不安や不満が出てくる出てくる。これまでなんども行きつ戻りつしながら、情報を集め、整理し、検証して進めてきた話だけれど、いまは私に対する不信感も言葉の端々にちらほら見える。

「娘の都合でホームに押し込まれる」ということだろう。私だって、要領よく算段しようとすればするほど、「姥捨て山」か「親の余生の金勘定をする酷薄な娘か」「命の値段を時間で切り売りするセールスレディか」というむなしい気分に襲われるんだから。妹や母自身や、夫に励まされながら、なんとか気を取り直しているくらいなんだから。

たしかに重大な人生の決断だし、父の迷いも不安もよくわかる。重篤な心臓疾患に苦しむ身で、意地を張りながらも母を介助してきたという自負心もあるだろうし、何より、元来筋金入りの頑固者だ。そう簡単に自分の人生の舵とりを他人に任せるなんてこと、できるわけない。

QOLという言葉でくくってしまえば呆気ないことだけれど、暮らしの細部に対する個人の拘りこそが、人生の価値だとすれば、介護施設への入居生活は、そこがどんなにラグジュアリーだとしても、「生活・人生の質へのあきらめ」を意味することは間違いない。それもわかっている。

それでも。

母は、これまで、そんな頑固で意地っ張りな父の、どんな意向も、わがままも、振る舞いも許容してきた。余命ン年という重病にあっても、その後遺症でどんな苦しい障碍を負おうとも、自分の権利や利便、快適は脇においておいても、いつも家族や父のことを考えてきたはず。

いま、残り少ないとわかっている「私たちのお母さん」でいられる時間に、そんな母に対して、「生きてきてよかった」「この人生でよかった」と思ってもらえるように心を尽くすか。それが最優先なはずだ。

父の迷いはよーくわかる。母の苦しみは、すべてではないけど想像することはできる。妹だって、自分の人生のある部分を家族に捧げている。私は、これまでのツケを払う意味も込めて、いま踏ん張るしかないが、そのしわ寄せは如実に小さな子供たちに及んでいる。みんな瀬戸際の時間のなかで生きている。

60代半ばの初老期に、すべてをあきらめて施設に入らなければならないことは、不本意きわまりないだろう。だけど、母の運命の理不尽さを思えば、誰もが少しずつ「不本意」を呑むしかしかない。

この1ヶ月半、いや、この10年ちかく、父は自分の不遇を嘆きながらも、決して自分の生き方、暮らし方は変えずにきた。今度は、少しくらい母に捧げてもいいだろう、と私はつい思ってしまう。

せっかく祖母からのギフトとして、遺産や義兄弟との絆の再生があったのだから、それを「生きたもの」にするには、いまのこの家族の窮地に、父がどのように対処するかで決まる。

それなのに、あいも変わらず迷っている。

そんな先行きの見えない優柔不断さに、母も「迷っていることに酔っている」「なまじお金があるせいで、お父さんの判断力は狂ってしまった」「あんなひとではなかったのに」「いつまで私は、ここ(病院)で待てばいいのか」と舌鋒鋭く。(認知障害のある人間とは思えないほど、キレのいい批判。御意です、母上)

私の気力もこのままでは萎えそうだ。父の迷いがわかるからこそ、プロセスを端折らずに、自分で決めたという実感が持てるように、急かさないで待ってきた。どんなに遠回りでも、納得がいくまで考えたらいいと思ってきた。

だけど、無期限の迷いは、答えを出す気のないことと同じ。迷っている間に、母や娘たちの置かれた状況がますます切迫していることに思いが及ばず、漫然と「迷い続けている」のは、みんなのことを本気で考えていないことと同じ。そんなふうに思ってしまう。

母の堪忍袋は、ついに切れた。

「これでお父さんがあれこれ難癖をつけて、迷いを正当化するのであれば。あるいは話を白紙に戻そうとするならば、私はもう、家には戻らない。お父さんとは、暮らせない。暮らさない」

と、眼を真っ赤にして、言葉を詰まらせて私に胸の内を吐露する。

どんなに苦しい人生も、父を最も信頼すべき人生のパートナーとしてがんばってきた母。ともに仕事をし、ともに子を育て、ともに病を患い。途中から父の自己愛が強くなり、自分のことしか考えられなくなった、と家族みんなが感じるようになってからも、それでも「様子を見ましょう」と淡々と生きてきた母の、最後通牒。

「眼も、耳も、歩行もだめになり、もうすぐ「正気」も失われるのに、最後にこんな切り捨て方をするなら、もういい」

そんな言葉を言わせてしまってはいけない。最後にこんな仕打ちは、絶対にしてはいけない。信仰も、心のよりどころもない母だけれど、父は同士。最後まで一緒に戦いたいのだと思う。幻想かもしれないけど、私も両親の人生は、そうあってほしい。勝手だけど、そういう両親をみて育ってきたんだから。そのためのサポートは全力でするけど、父には逃げないでほしい。

老後の選択肢はないと思ったら、祖母の遺志がギフトとして贈られ、それによって父は迷ってしまっている。

やっと次善の策として、これ以上ないくらいのタイミングと条件でホームがみつかったと思ったら、かえって父が怖気づいてしまっている。

こどもが育って、身も心も少し楽になってこれからが楽しみだと思ったら、親の老い先が現実の問題として立ちはだかる。

こんな時期でもまだなんとかやっていけるのは、いまがちょうど繁忙期の直前、閑忙の端境期だからだ。閑が続けば、経営が行き詰るから、仕事はしないと。特にこれから年末、年度末のかき入れ時になったら、私の体力も精神力も、家庭の安定ももたない。

ああ。「ふたつよいこと、さてないものよ。」河合先生の受け売り。

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2008年10月14日 (火)

ゆれる。

こうしてブログを書き綴ることの効用を、いまほど実感することはない。

最初はちょっとした身辺雑記のつもりで。

そのうちに、無為に過ぎ行く日々を書き留めて、もし自分が突然この世からいなくなったり、意思の疎通ができなくなるときが来ても、子どもや家族がなにかの折に、私という人間の断片を知ることができたらいいなと思うようになり。

そう思うと、毎日の些細なできごとが急にかけがえのないものに思えてきた。毎日はさすがに厳しかったけれど、予想外に続いている。日常生活がこんなにかけがえのないものだった、ということを子育てをして知った。掌からこぼれおちていくような、ひとときの記憶の通過を、ちょっとでもいいからとっておきたいと思うようになった。

人の記憶は曖昧で、変質するし、失われてもいく。だから人は記録に執着する。写真とか、日記とか。そのときはただの記録でも、ある時点、ある総量に達すると、記憶に変わるんだよな、と思う。

私のこの記録も、いつか自分と家族の記憶になりかわる日が来るのだろうか。ちょっと、外付のHDみたい。

それから、こうして思いのたけを整理もしないで書き連ねると、自分のメンタルな揺れが如実に見て取れる。自分を励まして前向きになったかと思えば、翌日にはもう打ちひしがれたり。達観しているように振舞い、分析したかと思えば、次の瞬間にはどっぷり悲嘆したり。

その振幅の大きさを見るにつけ、自分の許容量の限界を思い知らされるけれど、ある意味、客観的にもなれる。「あ、そろそろヤバイから、少し気を抜こう」とか「オットに吐露しよう」とか。たとえは悪いけど、吐瀉物を分析して、自身の消化能力や体調不良の度合いを分析するような。

こうして、日々自分のなかにたまりゆく滓みたいなものを吐き出すことで(たまたま目にして付き合わされた人はたまらないだろうが)、冷静さを取り戻すことができる。「王様の耳はロバの耳」と、穴に向かって叫ぶ男のように。

そうそう。母の見舞いの際の会話をログ。

母がめずらしく、お気に入りだという中島みゆきの昔の歌詞を諳んじる。もう音程はとれないから、歌詞だけつぶやく感じだけど。

年をとるのはステキなことです。そうじゃないですか?

忘れっぽいのはステキなことです。そうじゃないですか?

悲しい記憶の数ばかり、飽和の量より増えたなら

忘れるよりほかないじゃありませんか。 (「傾斜」)

「特に最後の2行が好きね、旨いことを言うわよね」と。御意。

20年以上も前の古い歌の歌詞を思い出すなんて、と思うけれど、信仰もそれに近い思想もない身にも、深く届く一節だなと思った。ただの他愛もない会話だけど、忘れがたいから、記録。

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2008年10月10日 (金)

いま、生きてこそ。

今週は毎日病院に通っている。

認知症検査で入院している母の介助のために。

今日、はっきりとわかったことは、間違いなく認知症であるということ。

入院した時点でわかりきっていたことだけれど、やはり厳しい結果。

25年前の脳腫瘍発症以来、限界値まで照射してきた放射線治療の後遺症。遷延性放射線障害というのだそうだ。

アルツハイマーや、老化による認知障害ではなく二次性認知症というらしい。

いつかは、いつかは、と思いながらも、とうとうその日が来た感じ。

聴覚、視覚、平衡感覚ときて、ついに認知症か。

これまでの経過を思い返しても、症状の進行速度を考えても、「私のお母さん」でいてくれる時間は、あまりないと思う。

本人も、行動記憶が断片的に抜け落ちていること、見当識(いまどこにいて、自分は何をしているのかという認識)がおかしいことをわかっている。大変な恐怖だろうと思う。

こんな事態になって、ようやく父も、私たちのそばに身を寄せること、そして母が最終的に至るであろう状態のために、専門介護が受けられる施設に入居することを考えたほうがいいことを受け入れてくれるようになった。

父の手帳には、新婚当時の母の、見たことのない写真が入っていた。それを隠すようにして、

「おまえに引導を渡す」「人の手を借りて、最後までお母さんのそばにいることにする」と父は言った。

ほっとしたけれど、それはそれで、切ない。

脳腫瘍になり、余命半年といわれた25年前。

そして手術が不可能な場所に再発し、余命がないことを宣告され、外科手術の代替治療として放射線を使い切った15年前。

25年目のいま、はっきりと進行性の認知症であると言われた。

長かった25年間。当初の母の年齢に、自分もなっていた。

医者には「正直いって、いまこうして生きておられることが奇跡的。認知症は悲しい事態だろうが、本来は25年前、あるいは15年前に亡くなっていたはずの運命だから、いま、生きてこそ、と思ってください」と言っていただいた。

その言葉には、母も深く頷いていた。けれど、そのあとに「こうまでして生きていくことの意味がまだ、見つけられないの」とも継いだ。私も同じ思い。

それでも今日の、心理評価のテストにおいて、ある質問項目に対する母の回答を私は忘れない。

Q「将来に希望や可能性を感じますか?」「生きていても仕方ないと思うことがありますか?」

A「(長い沈黙のあと)やっぱり、生きていたいと思います。希望はあります」

とはっきり、きっぱり回答した。涙があとから出てきて困った。「さすがお母さん」と思った。誇らしかったし、そういう母の態度に救われた。

「そうやって25年生きてきたので、いまさら降りることはできません」と、滑舌は悪かったけれど、はっきりと答えていた。

帰りの車の中で、はじめて大声で泣いた。大声をあげて泣くのて、物心ついてからはじめてかも。自分の声に、自分でびっくりして泣き止んだ、みたいな。でも家では泣けないし、ちょうどよかった。勘のいいムスメは、すでに私の心もようと、我が家に訪れるだろう異変に気づいていて、少し不安定になっている。隠し切れないけれど、悲嘆ばかりはしていられない。

これから忙しくなるなぁ。

行政の介護担当者と協議し、施設を探し、病院に通い、いろいろ算段する。それでも、長い間の膠着状態を打開できるのはいいことだから、手をこまねくしかなかった時よりも、ましだ。無性に動きたい。

そして自分は、いままでのように仕事をし、家庭に帰ってくる。家に帰ってきて、こどもの声を聞くと我に返る。ほっとする。私の家庭は、いまのこの、ちびっ子たちとオットとの暮らしにあるのだから。仕事は、私の精神の大切なよりどころのひとつだから。

「元気出してもらおうとおもって、いい映画借りてきたよ」とオットが取り出したのは「裸のガンを持つ男」coldsweats01 でも、ありがとう。うれしかったです。

さて、顔を洗って、こどもをお迎えにいかなきゃ。「いま、生きてこそ」だもんね。

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2008年10月 7日 (火)

淡々と。毅然と。

いま、ちょっと、かなりタフな状況にある。 まとまらないけど、整理のために。

母がついに認知症の症状を呈し始めたという父からのSOSが来たのが、先週。

夜間に粗相をすることが続き、いずれもその顛末を覚えていないのだそうだ。

母はときどき私のもとへ泊まりに来る。呼び寄せるのだ。そのほうが、ともに暮らす父のストレスも、お互いの緊張関係も緩和することができるから。

母は盲聾者。脳疾患の放射線治療の後遺症で20年前に聴力と視野の一部を失い始め、10年前に完全失聴した。そしてこの5年で機能する視野はごく一部に狭められ、ついでに平衡感覚も打撃的に失われた。

いまや住み慣れた家の中すら、ひとりで自由に歩きまわることもできなければ、テレビはもちろん、眼の前の孫の笑顔やしぐさを楽しむこともできない。わずかに残った視野の一部で、大きく書いた書き文字を追い、カンタンな筆談ができるばかり。その視力もまもなく完全に失われるだろう。その日のために、なるべく掌に指で字を書いて談話できるよう訓練していたところだ。

その指文字も、最近認知しにくくなっているという。

もともと心疾患のある父は、そのような知覚障害のある母との暮らしのなかで、心身ともに磨耗しつづけ、最近ではお互いに疲れ、諦め、抑うつ状態が長く続いているというわけだ。

自分の生活のリフレッシュと、両親の面倒を見ることを兼ねて実家に戻っていた妹も、結局、実家のそうした緊張関係と過重なストレスに耐え切れずに再び家を出た。

母は孤独だ。

父も過酷だけれど、まだ他人とコミュニケーションが自由にとれる。ネットも、電話も、会話もできる。テレビやビデオ、音楽を楽しむことができ、読書もできる。母には、そのどれひとつとして赦されない。

24時間、音のない世界で。ほとんど視覚的刺激の得られない暮らしを続けなければならない。

こんなことって、あっていいんだろうか。

こんなときですら、家族ですら、何の力にもなれないのか。どうすれば、苦しみや悲しみが和らぐのか。誰に聞けばいいのか。考え始めると暗闇にはまりこむ。私がそう思うのだから、本人の心中はいかばかりか。

母は、私のもとに来て話すときは「ふつう」だ。そんなことがあったと聞いたあとも、我が家で泊まれば見当識の兆しもなければ、認知障害とおぼしき気配すらもない。きわめて正常な対話能力、思考力。もちろん身体的な不自由はあるけれど、父と妹が口を揃えて言うようなエピソードはみじんもない。

それでも。

やはり、異変は事実なんだろう。そのように受け止める覚悟をするしかないときがきたのだと思う。

なんだかんだといいながら、上のムスメを授かってからの7年近くを無為に過ごしてきてしまった自分の愚かさを悔いる。恥じる。失われた7年か。「そのうちに」「落ちついたら」といいながら、ずるずると先延ばしにしてしまった。

愚痴る父を責め、悩む妹をなだめながら、結局、現実的な策を打とうとしてこなかったのは、私だ。現実を直視したくなかったから。怖かったから。その間、みんながそれぞれの事情で「とりあえず」ペンディングにしてきたことの結果を、母は一人で引き受けてきた。

「仕方ないのよ」といいながら。「自分のことを優先してちょうだい」といいながら。そのことばに嘘はない。寡黙で、誇り高いから、決して誰かの重荷になりたくない、と自分を励ましてきた母だ。そこが私は大好きだったし、敬服してきた。でも、そこに甘えてもきたんだ。あれほど気丈夫な母が、「生きていても仕方がない」と言うことが増えてきた。

母は、わがままをいわず、諦め、飲み込み、受け入れようと、病気や自分の運命と格闘してきたのだと思うけれど、もう限界だったんだろう。疲れたんだろうと思う。知覚刺激のない世界で、(意図的でないにせよ)スポイルされて過ごしてきた時間は長すぎたのかもしれない。

(非科学的な言い方だけど)どこまでが理性で、どこまでが夢の中か、わからなくなったほうが幸せだから?そうだとしたら、呆けてしまうことは、母にとってはまだ救いなのかも。音も、光も、歓びもない無間地獄のような日々を続けなくてはいけないよりは、苦しみが少ないなら。

呆けることを悲しまないほうがいい。母にとってどちらが安楽か。

そんなことばかりを、この数日考えてきた。

それでも、と、今日の私は考え直す。私と話すときに「いつもの、あのお母さん」で居続ける母のことを考えると、「まだ夢の中に行ってしまいたいたくない」って思ってくれてるんじゃないか。私や、家族と話すことに、喜びや楽しみを、希望を見出そうとしてくれているんじゃないか。

だとしたら、ほんとうに私たちがわからなくなるその日まで、今度こそ寄り添いたい。24時間を満たしてあげることができなくても、「生きててよかった」「楽しいこともあった」と少しでもいいから思ってもらいたい。

もう先延ばしにはしない。私が後悔したくないから、もうキレイに生きることに執着するのはやめる。いまならそれができる。

渋り続けた父を説き伏せ、私は母(父も)を近くに呼び寄せるつもりだ。近いから何ができるのか、と問われれば具体的な答えは持ち合わせない。それでも、すぐに飛んでいって、少しの間手を握り、背中をさすり、おいしいものを口にしてもらえるようにしてあげたい。

人間は、言語的コミュニケーションだけで生きているわけではないんだから。気配や、温もりや、匂いや、肌触りでわかりあうことができるんだから。そいういうことのひとつひとつを、私は子供たちから教えてもらったし、母からも分け与えてもらったと思っている。これは、私のなかの絶対的な信念になっている。

明日、母は入院する。

認知障害のレベルチェックだそうだ。精確な診断がでるのかどうか、疑わしい。一定の緊張を強いられる環境では、実態は現れにくいだろうし。その結果がどう出ようと、私は構わないけれど。

入院検査が済んだら、準備を始めよう。仕事も忙しくなるけれど、母が諦めずに立ち向かう人であるように、私もへこたれない。なぜだかはわからないけれど、こんどは燃え尽きない気がするから。できるところまで、精いっぱい。これ以上はムリだと心底思えるまで、投げない。

この週末、散々泣いた。でも、泣いても意味がなかった。だって、本当に苦しいのは私じゃないから。私が泣いて、何になるか?泣く暇があったら、そのパワーは母に、そしてこども達に注ぎたいもんだ。そう思ったら元気も出そうだ(涙も出そうだが)。

うまくまとまらない。明日、大ッ嫌いなあの病院-15才の時から通い続け、何度も母の剃髪を見守り、手術室の前で一昼夜過ごし、妹のリハビリを見守った、あの専門病院- に再び行かなければならないせいか。気が重い。目が冴えて眠れない。

いまでもすぐに思い出せる、あの病院独特のにおい。外来患者のいない、静かな病棟。重篤な患者だけが集まる病棟特有の、重苦しい空気。中学生だった私は、放課後に病院に足が向かなかった。食事が喉を通らなかった。どうしても耐え切れなくて、トイレで何度も吐いたっけ。あそこに行くと、15歳の自分に戻ってしまいそうだ。

いやいや、私はもうすぐ40歳。初めて母があの病気で倒れたのと同じ年になる。思春期のこどもではなく、黙って苦痛と恐怖に耐えていた母のようでありたい。淡々と。でも毅然と。そういう生き方を身をもって教えてくれたのは、お母さんだからね。さて。明日のために、もう寝なきゃ。

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