先週は、子供不孝親不孝の1週間だったので、土曜日はこどもたちと、日曜日は母を家に連れてきて過ごした。四方八方、不義理続きのツケ払いみたいな、ね。(夫にはもう返済のしようがないくらい、雪だるまのように「借金」人生ですよ)
子どもたちはチビなので、ちょっと真剣に向き合って、抱っこしたり、叱ったり、添い寝したり手をつないだり、本を読んでやるだけで、割とさらりとチャラにしてくれる。
ところが母は、1週間の間にへこんで、ダメージを受けていた。
火曜日、ホームに行った妹から電話があり「お母さん、顔が硬縮してくちゃおじさんみたいなの!」と。右側だけが攣っているらしい。片側だけなんて、しかも右だけなんて、いやな予感。母は左の視力を失い、右目も視野のほとんどを欠いている。放射線障害のため、右耳の耳骨もむき出しになってしまっていて、内耳の炎症に悩まされている。それでも「右」は、母にわずかに残された知覚機能が集約されている側なのだ。
脳腫瘍の手術から25年間、てんかん止めのデパケンを常用してきたが「ついにてんかんか?!」と考える。そして、右目が完全に失明するという恐怖が頭をよぎる。でも、なんだか、ようすを見ていると心因性のようにも思える。
「そろそろ帰るね」「明日は●●が来るから」「もうすぐ夕食だから食堂に行きましょう」などと、私たちとの別れを予期させるような話に及ぶと、いきない痙攣が始まる。難解な質問や筆談にこたえようとすると、痙攣する。なんらかの心理的負荷がかかると興るように思えてならない。
一方で、いろんな悪い可能性が頭をかけめぐるのを、もう一人の自分が冷静に観察しているのを感じる。酷薄だけど、もう何が起きてもおかしくないし、今となっては「いかに本人が苦しまないタイミングと順序で、それらが一つずつ到来するのか」が気になる。
やがて、目も見えなくなり、自力で姿勢制御をしていられなくなり、食事や排せつも自力でできなくなるだろう。あるいはそれより先に、かろうじて成立している唯一のコミュニケーション手段である筆談が、母の識字能力の低下、認知機能の低下によって、不可能になるかもしれない。何が、どの順番で来てもおかしくないけれど、できることなら「わからなくなっちゃってほしい」と思う。完全な痴呆といえばいいのか。
この世の苦しみも、悩みも、恐れも、不安も、自分が誰か、私が誰かも、全部わからなくなってしまうほうがいい。家族にしてみれば「あなただれ?」と言われるのは悲しくて悲しくてどうしようもないけれど、それでも、無間地獄の恐怖に打ちのめされながら「正気」で過ごさなくてはならない母のことを思えば、何ほどか。
いやいや、心配しても仕方のないことは、考えない。今日を生きる。
でも、いい気になると衝撃はすぐにやってくる。
日曜日、40年来の友人が偶然、我が家に来ている母を訪ねてきてくれ、泣き笑いしながら筆談をしていた母だったが、途中から挙動がおかしくなってきた。不規則発言や、問いかけと無関係の返答、筆談内容が読み取れないことが、私にだけはわかる。
いいや、たぶん母自身もわかっている。だから、混乱して、不安になって。いてもたってもいられなくなっているのだ。勝手に会話内容を先読みしたり解釈しながら、さも話に乗っているように答える。目が悪いから、ほかの人なら「読みにくいかな」程度にしか思わないだろうが、私にはわかる。「お母さん、読めてない。判読できていない」ということがわかる。
その直後に、母はどんどん混乱が進んだ。筆談用のマグネットボード自体が見えていないことは、そのすぐあとにわかった。「見えてもいないんだ」と、愕然とした。見えていないことを、母も感じているけれど、なぜかパニックになっている様子はない。
「見えていないこと自体が、わからないのか?」と、またもや慄然とする。手を大きく振って視界を遮っても、母の視線は宙を見たまま。何かを考えながら?虚空を見つめたまま。母も茫然としているのか。オットを読んで、一緒に確かめてもらう。オットも「見えてないね」と 言う。ああ、どうしようか、おかあさん。
そう思っていると、母がやおら「なんか、疲れちゃったから今日はもう帰るわ」と立ち上がろうとする。ホームに帰ろうとするなんて、おかしい。でも、ホームの門限(なんてないけど)をやたらと気にする。オットと相談して、本当はオットがホームまで送ってくれるはずだったんだけど、急遽予定を変更し、私が送っていくことにした。
道中、車を運転しながら、助手席で相変わらず虚空を見つめる無表情の母の横顔を気にしつつ、左手で母の手を握る。いつもなら握り返して返事をするのに、母は何も言わず、手も握り返さない。「お母さん、このままあっちの世界に行っちゃうのかしら。もう、私のことも、誰のこともわからなくなったままなのかしら」という不安が押し寄せる。
ホームに着くと、施設長がいつもの笑顔で出迎えてくれる。状況をつぶさに話しながら、見えていないことを示すと、施設長も「見えていないですね」という。母はもう、私のいつもの「じゃあ、帰るね」という挨拶の握手にも無反応。見知らぬはずのケアスタッフの手を握って離さない。私と他人の区別がついていないのね、と思ったが、よくよく申し送りをして翌朝の様子を伝えてもらうよう頼み、ホームを後にした。
家に戻り、妹に状況を報告。そして、先に書いたように「いっそのことこのままわからなくなったほうが、お母さんは幸せかも」と言うと、電話口で妹は泣き崩れた。オイオイ泣いて、クールな妹じゃないみたいだった。「それはそうだけど、私のこともわからなくなっちゃうのは、辛い」と泣き続ける。私は、それをなだめるようにして、持論を続ける。「お姉ちゃん、冷静だね」と、妹に言われて苦笑してしまった。
クールな立ち居振る舞いと毒舌で、誤解されやすい妹。いきり立ち罵声に近い口調で接しながらも、母の介護をやめなかった妹。「私このままじゃ、お母さんのこと虐待するような人間になりそう」と悲痛な愚痴をこぼしていた妹。入居前にお母さんにしがみついて号泣していた妹。
私は、いつもどこかで状況を俯瞰しながら、実務的に動いて対処してきた。本来の性格と対照的。私は、やっぱり酷薄なのかも。
そうか。妹は小さい頃から、私よりずーっと、ほんとうはお母さん子だったのだった。引っ込み思案で内弁慶で、「父の娘」だった私とは違い、母の後ろから世をうかがっているような子だったのだった。本当は、私よりはるかに、母への思慕と後悔で押しつぶされそうだったのだと思った。
そういえばついでに、妹が17歳の時、学校で脳動静脈瘤破裂で生死の境をさまよい、1か月も意識が戻らなかったとき、ただうなされて口にし続けたのは「おかあさん」という言葉だった。言語障害に苦しんでいたときも、最初に口にできたことばは「おかあさん」という言葉だった。それを見て父は「父親なんて、つまらないもんだなぁ」とつぶやいていたっけか。
うちのチビどもも、どんなにお父さんがそばにいて、大好きでも、やはり弱ったとき、困ったとき、ふあんなときはお母さんじゃなければだめだものな。うちなんて、絶対にオットのほうが私よりやさしいのに、それでもやっぱり「おかあさん」じゃなきゃだめだものな。
そうか。こどもはみんな(健在か否かは別として)お母さん子なのか。
今朝、ホームに電話をしてみると、母はいつもどおり筆談ができているという。「きっと、心身が疲れていたんでしょうね」と、スタッフは気遣ってくれた。そうかもしれない。でも、私は楽観しない。
これからは、そういうことが増えていくんだろう。あれは、単なる疲れじゃないと感じる。きっと間違ってないと思う。そうやって、頻度が上がり、程度が上がり、だんだん「お母さん」と「そうじゃないとき」との比率が変わっていくんだろう。そんなことをまた冷静に考える自分がいる。
でも、こんどは妹にはそんなことは言わないでおこうと思った。たとえ私の想定が事実だとしても、妹だってそんなことはきっとわかっていると思うし。何でも言い合える姉妹であったとしても、わざわざ念押しする必要はない。
なんだか、今日はまったくまとまらないワ。冷静だ冷静だといいながら、結局私も激しく動揺している。自分の母親の苦しむ姿を冷静に見られるほど、私もひどくないということか。私もお母さん子ということか。
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