2009年4月27日 (月)

他界

2009年4月27日14時02分、母他界。

もう永遠に動かない。声を聞けない。温かい手を握ることができない。死んでしまった。

悲しくて死にそうだ。こんなにつらいとは思わなかった。

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2009年4月22日 (水)

産んでくれてありがとう

今日は私の40回目の誕生日だ。母はまだ、がんばってくれている。

1週間前、実家に帰宅したときは、私の誕生日まで存命だとは思っていなかった。金曜日に昏睡に陥った直前も、これが最後のアイコンタクトだと覚悟した。

実際、母はもう眼を覚ます(意識を取り戻して状況を認識してくれる)ことはないし、以前として昏睡しているし、バイタルサインは緩やかに、しかし確実に下降している。

金曜日は、土日に命が尽きることを覚悟していたから、病理解剖の手はずを確認したり、最期の挨拶に訪れるごく親しい間柄の見舞客を迎えたり、とあわただしかった。

土日は、ナースの計らいで、昏睡ながらも小康状態を保っていた母を1カ月ぶりに入浴させることができた。ストレッチャーにシートを引き、お湯をためて、頭髪と全身をきれいにしてもらった。

耳の腫瘍が悪化してから1か月余。頭を洗ったのは40日以上ぶり。もはや、感染しようと大勢に影響はないし、「これが最後のチャンス」という決意が漲った入浴だった。意識レベルが低いくせに、母は、温いお湯に全身を横たえて、頬を上気させて、芯からリラックスした表情をしていた。「きれいにして差し上げたくて」という、真心のこもったナースの言葉が心に沁みました。

入浴で血圧が安定したのか、母は、土日を安定して越すことができた。これなら誕生日までもつかも。そんな希望をもったけれど、月・火は、見舞客もひと段落し、母は一段と深い昏睡に入っていったから、私たち家族は特にこれといってすることもなく、ただひたすら、母の呼吸に異変が起こるかどうかを固唾を飲んで見守ることしかできなかった。

脳内圧亢進が進んでいるのだろう。母の舌は完全に麻痺して歯の間から横に垂れ、右目は腫瘍のせいで瞼が閉じない。右こめかみにテニスボール程度の容積の腫瘍があるからか、顔は無残に湾曲している。人間の顔が形作られるのは、骨格だけでなく、筋肉の力によるところが大きいことを改めて知らされた。完全に顔面の筋肉が弛緩した母の右半面は、ありえないくらいCの字に変形してしまっている。

だから、本当は、ごくごく親しい人(姉妹や親交の深い人)のみしか招きたくなかったし、見せたくなかった。母は、自分の容姿がこのようになったことすら知らなかったんだから。美しかった母。凛々しく、エキゾティックな顔立ちで、物静かに笑う母の面影は、かすかに左目だけに残されているけれども。

20日(月)の夜の段階で、母の容体は一転して衰退しはじめた。一度家に戻って子供たちにと過ごした私も、いっときの急変に呼び出されて病院に向かった。サチュレーションは70を切り、血圧も上が80を、下が50を割り始めた。体温は39度あたり。それでも脈拍は120台を維持し、ときどき呼吸はスキップしながら浅くはなっているけれども、規則正しく、地道に続けられている。急降下したバイタルは、朝には低いながらも水平飛行に持ち直し、「もしかして22日までもつかも」と、ふたたび希望をつなぐ。

21日は、さらにレベルが低下しながらも、22日を迎えられることが現実的になってきた。

はっきり言って。22日(の私の誕生日)を迎えられようが、迎えられまいが、私にはあまり大切なことなんかじゃなかった。いまさらのように母の労をねぎらい、壮絶な最期を悲嘆し、過去を美化しながら思い出話に浸る父のつぶやきにうんざりしていた私は、父が「22日の誕生日まであと少しだよ、頑張れよ」と、母に語りかけるたびに、内心毒づいていた。「今さら、だよ。お父さん」と。

それでもやっぱり、母が、私の誕生日までは頑張ろう、と思ってくれているとすれば、そのことはうれしい。たとえ勝手な思い込みでも。私の誕生日と、母の命日が一緒ならそれはそれで素敵だ。妹は「おめでとうっていいにくいから、1日くらいずれていたほうがよくない?」と言ったが、私をこの世に送り出してくれた日と、母がこの世を旅立つ日が一緒なのは、なかなか素敵なことじゃないか、と思う。

連日のように病院に泊まりこむ日々はそれなりにハードだ。それでも昨夜は特別だった時計が0時をさし、日付が22日に変わった時、私は母に御礼を、妹は私にお祝の言葉を伝えた。3人で記念撮影をし、手を握り、足をさすりながら、しばし「娘」の時間を満喫した。

朝方、夢枕に母が立った。何も言わないけれど、母の長年の癖であった、顔を少し傾け、髪の毛をひと束指に巻きつけて、どこともなく見つめながら「アルカイックスマイル」風に黙考する母。その母が、ただただ私を見つめている。笑っているような表情。決して悲しそうでも、つらそうでもなく、ただ見つめている。なんとなくだけれど、私は母が「もう戻れ」と言っているように感じて目覚めた。「もういいよ、十分だよ」と言っているように感じた。

母がホスピスに入って13日。家のことはなおざり、オットに任せきりで、こどもたちの我慢も孤独も限界に達し、それでもなんとかものわかりよく頑張ろうとしてくれているのだけれど、ストレスもかなり高じている。しばらくの間、「娘」として母に寄り添い、甘え、お別れの時間を過ごさせてもらったことで、昏睡に陥った母に思う存分触れたことで、私はもう十分なごりを惜しむことができた。

もちろん惜別に区切りなどないけれど、40歳の誕生日を母のそばで迎えることができ、明け方夢の中で母と相対することができたことで、「私は、そろそろお母さんに戻らなきゃ」と自然に思えた。

だから私はいまこうして帰宅し、PCに向かうことができている。

妹には、母に少しでも異変が起こったらすぐに、躊躇なく連絡してもらうように頼んだ。しかし、「もう十分に触れ合ってお別れしているから、もし臨終に間に合わなくても、私は満足している。お母さんも同じ気持ちだと思うから、間に合わなくても責任を感じないように」とだけ伝えた。

今日は連絡がないことを祈るけれど、私はその時を心静かに、自分の家庭で、自分の子供たちと待とうと思っている。母が大好きで、最後まで心配していた「小さいひとたち」と。

お母さん、私を産んでくれてありがとうございました。

今日まで40年間、母でいてくれてありがとうございました。

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2009年4月17日 (金)

昏睡

念願の、万感を込めた帰還からクリニックに戻った昨日。

父と母ふたりきりで過ごせるように、という妹の配慮で(本当は父の健康が不安だったけど)、妹も私も自宅に戻った。ずっと気持が張り詰めて、神経も高ぶっていたから、子どもたちを伴って外で夕食を済ませ、私たちはビールを飲んだ。お互いに自宅に戻って、倒れこむように寝入った。

朝7時に妹から電話。「母が未明から高熱を出しているらしい。誤嚥性肺炎の可能性もある、と父が不機嫌」だという。実は昨夜、母の求めに従ってなめらかプリンを1匙口にいれたのだそうだ。その際に少し気管に入ってむせ、痰の吸引と一緒に吸い出してもらったらしい。妹はかなり動揺していたが、私は電話口で「3日前から熱は高かったし、耳管から膿が喉・気管へ流れ込んでいて吸引時にかなり吸い出していることも聞いている。プリンもその場で吸い出せているので、誤嚥性肺炎だと断定できない。よしんば肺炎だとしても、これまでのさまざまな要素が重なっているのだから、気に病む必要はない」となだめる。

父は、混乱を極めていた。すじみち立てて、話のつじつまが合うように考えられなくなっている。自分の無力感や、娘たちに依存している状況が、いつしか理不尽な怒りにすり替わっていた(というか、考えられなくなってすべての現状を否認するしかなくなっているだけかもしれない)。だから、私にも妹にも、労いや思いやりの心が持てないどころか、相当不愉快な態度や言動が目立っていた。みんな疲れている。苦しんでいる。でも、同様に極限の緊張と慙愧のなかで必死に母によりそう妹にとっては(私にも)、寛容でいられるだけの度量がない。傷つくし、いらつく。

妹と父を二人だけにしないほうがいい(私も同じく)と思い、一緒にホスピスへ向かう。

父は、知ってか知らずか、母の容体を訊ねるすべての人に、判でついたように「プリンを食べて誤嚥してしまい、熱が下がらない」と説明する。それを傍で聞いて苦渋の表情を浮かべる妹。気にしないよう慰めるが、何度目かの説明を耳にして、ついに私が「お父さん、プリンの誤嚥による肺炎とは誰も言っていない(発熱の直接原因ではない)のだから、あまり吹聴しないで。●●が傷つく」とたしなめた。

父は「そんな意図はない。直接原因でないことは知っている」と釈明。しかし、妹の我慢は限界を超え、大声で泣いた。父は少し目が覚めたのか、素直に詫びた。そして、これまでの労をねぎらい、謝意を口にし、自分の不明を重ねてわびた。泣き声の大きさ激しさに、妹の苦しみの深さを思い知り、胸が痛む。自分を責める必要などどこにもないのに。もう十分すぎるほど尽くしてきたのだから。でも、結果として父の混乱をひも解き、私のなかにある耐えがたいいらだちや怒りも鎮めるきっかけになったから、妹には感謝している。

母は、肩で息をしながら、喘ぐような苦しげな呼吸を繰り返す。右半面から顎、首筋にかけて、まるで巨大な蜂にでも刺されたように、ぱんぱんに地腫れして、発赤しているのがすぐにわかる。昨日までとはまったく違う。まるで、何か液体を皮下に注入したかのように、ぱっつんぱっつんに張って、赤みを帯びている。これを見ただけでも、発熱の原因はここにあることがわかるほどだ。

回診時の説明で、舌根沈下と肥満による「二重あご」と思ってきた部分は腫瘍による咽頭下垂であることがわかった。MRIを撮っていないから、詳細な状況がわからなかったけれど、耳の腫瘍は、頭がい骨や脳はおろか、右眼窩・顎関節・下顎骨・リンパ腺・頸動脈を覆い尽くし、あごの扁桃腺にまで転移していたことがわかった。

数日前までは、あやういながらも、言語的コミュニケーションが成立するくらいに発話できた母だったけれど、すでにもう舌は完全にマヒし、たとえは悪いが、死んでしまった牛や馬のように、歯の間から頼りなく横によじれ垂れている。右の眼球は真っ赤に充血し、もはや左右の動きが同調しなくなっていて、まつ毛に触れても反応しない。右のこめかみを頂点として、腫れは右へと張り出しているのか、顔が右から引っ張られているように変形している。見るも無惨な、母の顔。右半面だけ見ていると、ホラーの特殊のメイクのようだ。

少し前、「右の眼に押されるような違和感がある」「のどが痛い」「顎が痛い」と不快感を訴えていた母。その症状のすべてが今、目に見える形で表れている。母の頭のなかで、なりをひそめてきた腫瘍が火を吹いている。本当に「暴発」という言葉がぴったりくる。すでに麻痺している右足の先が、時折不規則に痙攣する。左顔面も、ひきつる。40度近い高熱が、母の頭の内部で展開されている壮絶な戦いの証だ。充血した右眼球は、眼窩の腫瘍の勢いを示している。もう瞼が閉じないのに、目頭から膿と涙が分泌している。

緩和医療では、積極的治療は行わないし、不要な輸液は体の負担を増やすので最小限にすると聞いているが、高熱が続いて水分と体力の消耗が激しく、痙攣や発熱といった周辺症状の苦痛を誘発しやすいことから、抗生物質と最小限の水分補給を点滴で行うことになった。しかし、生来血管が細く、ラインが確保しにくい体質のうえに、衰弱でますます血管が探せない母。血管注入をあきらめて、おなかから皮下注入をすることに。

500cc程度の輸液を長い時間かけてゆっくり行った結果、夜には熱もかなり下がり、呼吸も脈も安定してきた。しかし、午前中は呼びかけに反応してくれた母の意識は、午後から完全に昏睡状態に入った。

医師からは「完全に日単位の状態に入った。しかも、かなり限定的な日単位(=2~3日)」だという診断が下った。「もし会いたい人、会わせたい人がいるなら、今日明日のうちに済ませておくように」ということだった。この期に及んでどうしてもあわせてあげたい人、となればさほど多くもない。母の姉妹、40年来の知人数名程度だろう。日中、あわてて、長姉(Yおばさん)と、父母共通の45年来の友人(Sおじさん)、私の小学校時代からの同級生の母親で、父母とはPTAを通じて30年にわたって交流を続けてきたIさんが視える。

夜20時頃、ホームのスタッフが10人近く、母を見舞ってくれたと聞かされた。みんなユニフォーム姿のままで、勤務中だったろうに。夜勤明けや非番の人は明日来たいと言っているという。昼間、母の荷物を引き取りにたちよった時も、いつも母の健康管理をしてくれていた日勤の看護師と鉢合わせし、状況のあらましを説明した。「次に来るときは、片づけになるけれど。いろいろ、本当にありがとうございました」というのが精一杯で、泣いて言葉にならなかった。看護師は「よく頑張りましたよ。本当に頑張ったじゃないですか」と、泣いて肩を抱いてくれた。御礼を言うのは私の方です。

みなさん、ありがとう。こんなにしていただいて、母はとっても幸せ者です。悲しい思いを抱えて入居し、最後まで帰りたがっていた母だけれど、少なくとも、私たち家族はみなさんに安心して母をお願いすることができました。たったの3か月のホームでの暮らしは、家族にとっても、母にとっても、胸がつぶれる思いばかりだったはずなのに、今はホームを出ることがとても寂しく切ない。「有り難い」出会いがたくさんあり、ひとりひとりの心遣いや励ましのおかげで、私たち家族は、短い間でもゆとりをもって乗り切ることができたのだと思います。本当に本当に、ありがとうございました。

スタッフのみなさんへの感謝で胸が詰まる。きっとみなさんの気持ちは母にも届いていることと思う。そう思いたい。

あとは、孫たち(うちのちび)をどのタイミングで連れていくのかが問題だった。苦しむ姿、見るに堪えない姿を幼い子供に見せるのは忍びないけれど、母がいかに死を従容しつつも、敢然と生に立ち向かっているかを、見せておきたい気持ちもある。私たちにとってどれだけ大切な存在であるかも、感じてほしい。いろんな思いのなかで逡巡する。

が、夜、ムスメだけを伴って、ホスピスを再訪した。もともと死生に関して感受性の高い子であり、母の置かれている状況を、自分なりに必死に受け止め見極めようとしているのがわかるから。過酷だけれど、優しく、寡黙で、あたたかく、頼りなげな祖母がどのように生きているのか、死んでいこうとしているのか。ムスメはきちんと見つめて、泣いたと思う。そのあとのケアは、彼女の親であり、母の娘である私が責任をもって引き受けるしかない。ムスメは、「明日も学校を休んでババのところに行く」と言う。私はそれでもいいと思う。

今日から母と私たちは「家族室」という看取り家族専用のコネクティングルーム式の病室に移った。今日は父と妹が泊まり込んでいる。明日は、私が泊まるつもり。いや、明日はみんなになるだろうか。母がさびしくないよう。でもうるさくないよう。賑やかに、あたたかに、穏やかに、最後まで母を見守り、見送りたい。

どんなに悲しくても、最後の瞬間が、母にとって本当の自由と解放となりますように。

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2009年4月15日 (水)

帰りたかった家

今日、母は、40年近く暮らした家に戻った。

医療搬送の民間サービスを利用して、ストレッチャーのまま送迎してくれる業者をくりにっくから紹介してもらって、3か月ぶりの、そして最後の帰還。

昨夜病室に泊まり込んでひとばん付き添ったけれど、刻々と衰弱しているのがわかる。それこそ、ひと眠りして覚醒するたびに、できなくなることが増えている感じだ。

かろうじてスプーンで数匙のめていた液体も、もはや嚥下ができずにむせてしまう。右手も右足も、自分の意志で動かすことはできない。痰の吸引をしようとチューブを挿入しても、拒絶する力が残っていない。痛む頭部を触りたくても、左手を頭に持ち上げる力がない。腫瘍のせいか、脳内圧の亢進のせいか、39度近く発熱したまま下がらない。

加えて昨夜は、残された左半面の顔(こめかみから頬骨あたりにかけて)に拘縮が。縮緬のように肌がくちゃくちゃになり、口角があがったままになって数分固定。かつて、右半面が痙攣した初期症状にとてもよく似ている。それほど強烈なものではないけれど。最初は苦痛に顔をゆがめているのかと思ったが、やっぱり痙攣様の現象みたい。体位転換をしようと、後頭部に腕を差し入れると痛がる。

毎朝ある回診では、主治医に「左脳にも腫瘍が及んでいる可能性があり、発熱や半身麻痺、顔面痙攣なども脳内圧亢進による影響が考えられますね」と言われた。もう何を言われても驚かない。

自宅への一時帰還は、妹と私、そしてたぶん誰よりも母が切望していた最後ののぞみなんだけど、完全に思考と記憶が混乱・錯綜している父は「帰りたいと言っている意味がわからない」「今帰ってなんの意味があるのかもわからない」を繰り返すばかりで、実現は難しいと思われた。しかも、昨日は雨で、母の体調も芳しくなく。このまま、きっと、願を果たせないままお別れするのかと思って悲しかった。

が、今朝になって父もどういうわけか気持を変え、天気は晴れ。母の熱も解熱剤でコントロールできそうだということになり、急きょ搬送業者に連絡をとり、受け入れなどの算段をし、オットにも同行してもらって、午後13時、帰還は実現した。

「いまさらでもいいから、せめて”帰れた”ということだけでもわかってもらえたら」。それが、私たち家族の最後の希望だった。

鎮痛剤等のせいで移動中は終始うとうとしていた母だったが、搬送車からストレッチャーごと外に出て、実家の外階段に入ると、反応が変わった。もはや言葉にならないけれど、声を発し、家族の存在を確かめるように手を伸ばし。狭い外階段を担架で運びあげられる時には、あきらかに「ここはどこか」わかっていたと思う。

一足先に父を伴って実家に入り、受け入れのための整備をしていた私は、母が、住み慣れた家のにおいを感じ、かつての自室のベッドに移されたあと、覆いかぶさって泣く父の背中をさすっているのを見た。お母さんは、ちゃんとわかっている。家に戻れたとわかっている。と、思った。妹とオットと私は、父母を部屋に残して、ダイニングで昼御飯を食べた。

かつて、妹や父と激しい葛藤を繰り返して、悩み、苦しみ、かなしんだ母の思いがつづられた「連絡帳」に眼を通す。そこには、衰えていく母の筆記能力の履歴と、やりばの苛立ち、やりきれなさを母にぶつける妹の苦悩と、家族の軋轢に耐えきれずに眼をそむけようとする父の嘆きがびっしりと記されていて、遠まきにみてきた私にはとても苦しかった。

「こんなに苦しく悲しい思いをしながら晩年を暮らした家でも、それでも戻りたかったんだね。苦しく悲しい思いをしたからこそ、”もういちど”と思ったんだね」そう思うと、あとからあとから涙が出てくる。

実家までのわずか10キロメートル足らずの道路を、車を走らせながら思ったことも同じ。

「こんなに近くだったのに、一人では帰ることができず、帰っても居場所がないからとあきらめて、それでも、どうしても帰りたかったんだね。帰りたくて帰りたくて、もしかしたらそれは”家”ではなくて、とっくに失ってしまった”時間”とか”暮らし”だったのかもしれなくても、それでも帰りたくてしかたなかったんだね。」と思うと、あとからあとから涙が出てきた。

医者は「元気なら泊ってきてもいい」と言ってくれたのだけれど、父の「かわいそうだから病院に戻そう」という声で、たった1時間半の短い帰還は終わった。母の体調をおもんぱかって恐る恐るだった父の気持もわからないではないから、私たちはそれに従った。でも本当は、もっと家にいさせてあげたかった。

まぶしいくらいに晴天の4月15日。桜は散ったけれど、ハナミズキやケヤキやヤナギの新緑がはじけんばかりに伸びる、翠嵐の午後。今度こそ、二度と帰れない家をあとにして、母は、父と一緒に病院に戻った。

病院に戻ると、体が熱かった。疲れたのか、解放されたのか。

日単位のいのちは、あと1週間もってくれるだろうか。来週の今日は、私の誕生日。40年前の同じ日に、25歳の母が私を生んでくれた日だ。そしてこの日私は、母が脳腫瘍をわずらった最初の年齢・40歳になる。

だからなんだ、とは思うけれど、もっと生きてて。お母さん。

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2009年4月14日 (火)

「週単位」から「日単位」へ

舌根沈下による呼吸困難(無呼吸)状態が著しい。炎症性発熱(腫瘍によるものらしい)も続いている。口呼吸により口腔内の粘膜はほとんど乾燥してカピカピに。

でも、鎮痛剤や鎮静剤をもちいなくとも、母はほとんどうつらうつらしている。ほとんど栄養も水分も摂取していないのに、尿意はあるらしく、脱水症状もなし。

脱水症状だけは気になって、朝の回診時に先生に質問。「ここ数日水分をほとんどとっていないんですけれど、大丈夫なんでしょうか」という問いに、先生からは「このような衰弱状態になると、水分代謝もかなり抑制されるので、思っているよりも大丈夫なんです」と。

うとうとしている状態は薬によるコントロールではなく、衰弱による自然な体力維持システムによるものだそうだ。つまり、かなりローモードで体を維持していることになっているらしい。ここ数日の、急速な衰退が気がかりだ。「帰ろう」と決意していた私たち姉妹だけれど、母の衰弱を心配する父の反対にあい、泣く泣く断念。

主治医(若くて誠実な緩和医療専門医)の回診時、母の予後について再び訪ねる。

「週単位で状況をみていきましょう、とおっしゃっていましたが、現状はどうですか?」

という私の問いに先生は、

「そうですね…。われわれの分野では、予後測定の単位のめやすとして「月単位、週単位、日単位、時単位」といった基準を用いるんですが、お母さんの場合は、週単位から日単位への移行期と思われます」と言われた。

そっか。日単位か。ということは、最悪は「来週」はないのだな。穏やかに眠っているだけのように見えて、かなりの測度で腫瘍は進行しており、おそらくあと1週間、10日のレベルなんだろう、とあらためて覚悟する。

母は、ほとんどをうとうとしているものの、たまに覚醒して、(眼は半開き出し、言葉は判読不能でも)手を握ると意思表示してくれる。たまらず胸に突っ伏してなく私の頭を、おぼつかない手で撫ぜながら、あやすように励ましてくれているようだ。

「日単位」は早すぎるなぁ。急激に衰退していることが見て取れてつらい。

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2009年4月13日 (月)

「3千円」で帰れる。

一時的鎮静の効果があって、今朝は覚醒(正気とでもいえばいいのか)していた母。今日は妹に頼んで、一日オフにしてもらうつもりだった。嵐のようなこの1週間に、すっかり後回しになって寂しさもピークに達していたちびたちの心のケアをしてやりたい、と思っていた。でも、「起きている」のなら、それこそ今のうちに、ちびたちも含めて会わせてあげたかったから、予定を変更し、妹のお弁当とコーヒーを用意し、オットとともにこどもを伴ってホスピスを訪ねることにした。

母は「覚醒」しているとは言い難い状態(正確には、まどろんでいる感じ)だったけれど、手を握ると、私とオット、子どもたちの判別はできたようだ。「あら、すごい」という言葉もおぼろげながら聞き取れた。

午前中、ホームで懇意にしてくれたケアスタッフが2名、出勤前にお見舞いに立ち寄ってくれたという。担当のスタッフも、昨夜勤務後にプリンをもってきてくれたそうだ。忙しく疲れているだろうに。もう、ホームの契約も解除するのに。優しさがありがたく、切ない。

そのスタッフの方から伝え聞いた話を、妹から聞かされて、私は今日も号泣した。

一昨日、狂乱状態に陥った母は、筆記用具を要求し、手渡したノートに、判読不可能な数字と、「3千(チとも読めた)」という文字を書きつけ、そのノートを命綱のように両手で抱え込んで離さなかった。

その前日にも、スタッフに「三千円借りたから返さなければ」と繰り返す場面があった。

ほかにも「お金を持っていないから借りたんだけど、返さなきゃ」「行先を書いておかなきゃ」といった言葉を口走ることが多かった。思えば、異変の予兆だった。

「でも、なんで三千円なんだろう」「なんで、メモに書きつけたんだろう」と、疑問には思っていた。今日、病室を訪れたスタッフの話から、その理由がわかった。

「お母さまは、ホームからご自宅に戻るのに3000円あれば、帰り方がわからなくても、タクシーに乗って行き先を告げて送り届けてもらえると思っていたのです」ということだった。そしてそれは事実だ。道路の状態によるが、実家とホームは3000円あれば余裕で戻れる距離に位置している。そして、これも初耳だったが、母は過去に一度だけ出先で見当識生涯のために家への戻りかたがわからなくなり、警察のお世話になったことがあったのだそうだ。妹に教えてもらった。

その一件依頼、母は、もしもの場合に備えて、自宅の住所と連絡先、そして目と耳が不自由であることの但し書きを書いた手紙と、3000円を入れた「迷子札」のようなキットを鞄に入れて外出した時期があったそうだ。その後まもなく、一人での外出も不可能になり、そうした備えもほとんど無用になってしまったけれど、母にとっては、見当識障害で家に戻れなかった出来事は強烈な記憶となったのだろう、と察する。

行き先と3000円さえなんとか工面できれば、家に戻れる。ノートになんども「3チ(千)」と、自宅の電話番号らしき数字(のようなもの)を書きつけては見せる、錯乱した母の必死な顔が蘇る。その切実な願いの深さ重さが押し寄せてきて、ただただ悲しい。

母は、そんなにも、「家」に帰りたかった。あたりまえのことだけど、正気を保っていた間の母は、「仕方ない、みんなでは暮らせないから」と言って、事情を引き取ってきたし、実家に戻りたいという具体的な願望を口にしてきたことはなかったから。てっきり、クールな母のことだし、実家に執着はないのだろうと思ってしまった。実際、「実家」そのものが大切だったのではないとは思う。

「どこで暮らすかが大事じゃない。誰と暮らすかが大事なの」といい続けてきた母。でも、それは正確ではなくて、「どんなふうに暮らすかが大事」だったんだと思う。

生活機能・能力がどんどん衰え、視覚・聴覚障害といった身体障害のみならず、失禁や見当識障害といった認知障害まで抱えるようになって、「もう、家族と一緒にいままでのような暮しは維持できない」とあきらめざるを得なかった母の絶望。家族に負荷をかけまいと、施設に入ることを自ら決めた母の覚悟。それはみんな本当だったのだけれど、母はやっぱり、「みんなとの暮らし(ができていたころ)に帰りたい」ということだけを切望してきたんだと思い知らされた。

せん妄が激しくなる前も、錯乱してからも、ずーっと「帰りましょう」「連れていって」「帰るところがない」「どこにも行くところがない」「三千円借りたから、返さないと」「送ってくれれば帰れます」「あなた方の手は借りません」といった言葉を繰り返し発してきた母。

ホスピスに再入院して鎮静の処置を受け、効いてくるまでの間、ずっとうわごとのように「起こして」「連れてって」「帰ろう」と繰り返し、何度も起き上がり、出口を求めた母。

鎮静が効くまでの間、「トイレに行かせてください」と、用便のことだけをひたすら気にかけ、安らかに眠ることのできなかった母。「おしも」のことは、ひとの尊厳の根幹だから、どんなに我を失いそうになったとしても、粗相だけは気がかりでしかたなかったんだろう。はじめて認知障害を指摘されたときのきっかけも粗相だったから。

今日も時折「帰ろう」「連れてって」と口にする母を見て、その思いが、私たちが思うよりもずーっと、はるかに、想像を絶するほど強く深いものであることを思い知らされて、苦しかった。身もだえするようなやりきれないかなしさ。

母が「なんとしても帰りたかった家」は、もうない。母にとってだけないのではなく、私たち家族みんなにとっても、過去の幻影のようなもの。家はあるけれど、そこに暮しはない。

それでも、ホーム入居の前日、腑抜け状態の父にあてこするように、身の回りのものをかき集めて、母を保護し、まるで「ちょっとお泊り」にでも出かけるかのようにあっさりと、母を永遠に「家」から連れ出して、そのままホームへ送り届けてしまった私は、今さら自分の愚かさを思い知る。母は、長年暮らした自分の「家」に、ゆっくりと別れを告げる猶予も与えられないまま、娘たちによって「終の棲家」に移されてしまった。

それから3か月の間にすべてが変わってしまって、母はいま、全身全霊をかけた願いを繰り返す。「帰ろう」「連れて行って」「帰りましょう」「どこに変えればいいの?」「帰る場所がない」と。「三千円あれば、行き先を告げれば送り届けてもらえる」と信じて。

妹と、「お母さんを、家に連れて行ってあげよう。短い時間でも、お母さんの指定席だったダイニングの一隅に座らせえて、懐かしい匂いを感じさせてあげよう。多少、薬の準備などは必要かもしれないけれど。もう、匂いも何もわからないかもしれないけれど。そこに母の望む暮しはないけれど、それでも”おかあさんの家”なんだから」と話して、オットの助けを借りることを想定に入れて、算段する。もちろん、父にも一緒に「帰って」もらうつもり。

こんどは、お金の心配をしなくていい。家族と一緒に帰れるんだから。短い時間だけれど、おうちに帰ろう。目覚めていられるかどうかわからないけど、帰りたかったところに、みんなでちょっとの間でも帰ろう。家族の気休めかもしれないけれど、みんなのために、帰ろう。

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2009年4月12日 (日)

セデーション

ホスピスに入った母は、数時間の格闘の果てに、鎮静剤の坐薬を入れたことで深い深い眠りについた。おそらく1週間ぶりの、連続した、深い睡眠だと思う。

母だけでなく、妹も私も、「夜間は十分に休養する」ことを優先することで基本合意したため、昨夜は、ほんとうにほんとうに久しぶりに、ぐっすりと眠ってしまった。もちろん、携帯電話を枕もとにおいて、いつでも飛びだせるようにはなってはいたけれど。

事実上のセデーション(鎮静)に入ったと認識している。最終鎮静ではなく、一時的な鎮静ではあるけれど、余命1か月もない人間にとって、一時的鎮静と断続的終末鎮静との境目はあるんだろうか、と思うと、その峻別はほとんど意味無いと思う。

妹と病室で落ち合って、昨日の様子を聞く。早朝、トイレに行きたいという母の願いで、個室内のトイレで用便を済ませたあと、薬効が切れたことで、やや多動・不穏な気配が見られたために、坐薬を追加。昨夜、デュロテップのパッチ(貼付式モルヒネ)を中止したために、痛みの度合いがどの程度になるかが心配されたが、いまのところ耐えがたい痛みは感じていないようすらしい。

早朝の坐薬が効いたのか、母はほとんど今日一日をベッドのうえで熟睡またはうとうととして過ごした。発熱・発汗が目立ち、うとうと時には腫瘍部分に手をもっていく素振りが見られ、たまに顔をしかめる。失禁はしておらず、トイレの失敗に対する不安は相当根強いものがあるもよう。

看護師に、痰の吸引と、オーラルケアをしていただき、妹と2人がかりで清拭と着替え。舌根沈下のせいで頻繁に無呼吸になるのが気になる以外は、よく眠ってくれているけれど、

昨日から食事はおろか、水分もほとんど経口摂取できていない。

たまーに「起こして」「連れてって」「帰ろう」という言葉が聞き取れると、やはり切ない。「痛い」という言葉も聞き取れたので、モルヒネを中止したこともあり、痛みどめの坐薬を入れる。このまま息をしなくなってしまうのではないか、という不安は多少ありながらも、眠る母を横にして、片手ずつ握りながら、妹とこれからのことや、胸の内をさんざん話まくる。

これまでの母の壮絶な苦しさ。絶望的に悪性のグリオーマから奇跡的に生還したとはいえ、まるで真綿で首を占められるように、じわじわと「できないこと」が増えていく恐ろしさ。それと比例するように家族(特に父)と隔たっていくことへの寂しさ、悔しさ、虚しさ。ハンディキャップの増悪は、父から「現状を直視する強さ」を奪い、父の人生から母を排除する結果を招き、それは結局最後まで変わることがなかった、という事実への深い深い母の絶望。

私たち姉妹と家族の、母の病気の末期に対する取組みをみた何人かの人は、「娘さんっていいわね」「家族っていいわね」と、無邪気に感心し、労ってくれる。でも。実際には、救われ得ない葛藤やら、怒り、絶望といったものが私たちの胸中にはどす黒く渦巻いている。そのほとんは父に対してなんだけど、表裏をなすものとして、自責の念も日に日に増している。ホームで私たちの報告を待つことしかできない身の父は、考えてみれば哀れだし、同情もする。

しかし、酷薄なようだが「いまさらどんなに泣いても、悔やんでも、謝っても遅いよ、お父さん」と、私たちはどこかで父を突き放している。錯乱する母と全力で対峙し格闘し、抑制しながら、泣いて詫びる私たちのその目の前で、「落ち着いて(=母が亡くなって)自分一人で家に戻ったら、家の中を独居に向けてこんなふうにしようと思うんだ」と、悪びれずに口走る父に、憎悪に近い気持をもつことが少なくなかったが、ここに来て、妹も私も、「お父さん、確実に、なにかが壊れたね」という確信をもつようになった。

父には、現実を理解し受け入れ、処理できるだけの力がないのだ。ただただ混乱し、断片化した思考を思いつくままに口走り、そうやって自分の心を落ち着かせている(つもり)なのだ。私たちの知っている、期待している父は、もうどこにもいないのだ、と私たちは覚悟した。かわいそうなお父さん。自分でもわかっていないくらい、弱くて、脆くて、軟な人だ。途中で変質してしまった結果だとしても、父の地金が出た。

母は、そんな父の本質を見抜いたのだろうと思う。数日前まで、父の名前と存在を必死に求めていたのに、2日前からピタリと父を求めなくなった。かわりに、妹に心と体を預けようとするようすが増えている。最後に、自分の行き場のなさ(体だけではなくて、たましいの行き場)を受け入れざるを得ず、その切ない気持を共有して、寄り添ってくれる相手に妹を選んだということだろうと、私は理解している。お母さん、それがいいよ、と思う。

人は、観念論だけでは生きていけない。知的コミュニケーションだけでも生きてはいけない。最後は、やっぱり触れ合いだ。弱り、衰え、滅ぼうとする自分のからだを、ありのままの自分を(たとえ苦しい葛藤や格闘が生じたとしても)受け入れて、汚いものも含めてすべて、「手を汚して」触れてくれる人が、最も尊いのだ。そして、母のすべてを受け入れて苦しみ、母から離れて自分を責め、再び母に尽くそうとしている妹は、いちばん尊い。

最後の最後に、母の意識と記憶から締め出されてしまった父は、途方に暮れた迷子のような立場になってしまった。あんなに求められていたのに、いまはもう存在すら口にされない。手を握っても、頬ずりしても、わかってもらえない。仕方ないよ、お父さん。求められている時にこたえなかったんだもの。呼んでも返事がなければ、「いない」と思うのが自然だ。いるとわかっているのに返事をしない=スポイルしてしまったのだから。母のなかでは、「父はいないもの」となりつつある。

そのことについて、妹と私は、またふたたび泣く。かわいそうなお母さん。かわいそうなお父さん。あんなに絆が強かった夫婦の気持ちは、もう通いあわないのだろう。これから鎮静の時間が増えていくことを考えれば、そのチャンスを失ってしまったのだろう。どんなに愛し合った間柄でも、メンテナンスのない関係は滅び去ってしまうのだな、と思う。

意識レベルを下げたお母さんは、いま、何を思っているのだろう。目覚めればまた、落着きなく、話すことも、聞くことも、見ることもできない不穏な時間が待っているならば、このまままどろみの中にたゆたっているほうが幸せなのだろうか。

できることなら、もう一度、私たちの顔をわかって、名前を呼んでほしい。冗談を言って笑ってみせてほしい。私たちの手を握って、さすってほしい。子育てのことなんかを話しあいたい。おいしいものを作って食べてもらって、喜んでもらいたい。そうして、お父さんが、本当はへたくそだし、決して上等ではないけれど、お父さんなりにお母さんのことを思い、なんとか心を通わせたいと思っていた(実際には遠く及ばなかったけれど)ことを、感じてもらえるようにしたい。

お母さん。私たちのお母さん。私のお母さん。家族みんなから、こんなに必要とされていたんですよ、私たち、お母さんにどれだけ感謝しているか計り知れない、お母さんのこどもでよかった、と何万回でも叫んで伝えたい。

でも。どんなに言葉を重ねても、書けば書くほど陳腐で、無意味だ。書かないと胸が苦しくてパンクしそうだから吐き出すしかないけれど、この苦しさの前に、どんな慰めも、労いもまったく意味をもつことができない。

家族にも、この悲しさの緩和の特効薬はないものか。

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2009年4月10日 (金)

退院、錯乱、再入院。

ログを見たら、ホスピスに入ったのは7日(火)となっていた。今日は10日(金)。まだ3日しか経っていなかったんだ。この4日で、すべては一変した。

7日(火)、サチュレーションが下がってホスピスに入った母だったが、入院からほどなくして容体が安定し、翌8日には相当に持ち直し、不穏(そわそわ、イライラ、内側から衝き立てられるような多動感にさいなまれる感じ)があるものの、父とホームに戻りたがるので、医師の診断とホームの受け入れ体制の許可を得てホームに戻った。

担当のスタッフは「もうお戻りになれないと思って、非番のスタッフもオフ返上で出勤してきたくらい衝撃が大きかった。戻ってきてくれてうれしい」と声を詰まらせながら歓待してくれた。母も表情が柔らかく、父も安堵し、しばらくはすべてば「キープ」されるものと思われた。スタッフに促されて、妹も私もホームを後にし、我が家で夕食を共にして眠った。どこかで「母は本当に大丈夫だろうか」と思いながら。

翌9日。ホームに母を訪ねると、施設長と看護師長がそろってお目見え。予感は的中した。昨夜、母はせん妄がひどく、転倒防止のセンサーを鳴らしまくり、巡視にいくスタッフに敵意むき出しで拒絶し、ほとんど一晩中保護と監視が必要な状態だったという。母の安全確保と夜勤スタッフの業務維持の観点から、母一人を夜間居室に置いておくのは不可能、という判断があり、家族か(それは負担が大きいと思うので)見守り専門のスタッフを充当してほしいという要請。

妹と相談し、母が身内以外のスタッフを容易に受け入れるとは思えないので、姉妹交代で泊まり込み見守る方法を選択。スタッフに頼んで、居室にベッドを入れてもらい、1晩ずつ交代で泊まることに。私は4月の仕事を断って体を空けているが、妹は日勤の仕事がある。それを父に頼み込んで1ヶ月の経済的保障をしてもらうかわりに、妹も1ヶ月の休職を申請し、姉妹そろって看護にあたることに。

最初の晩は、なりゆきで2人そろって泊まることになった。

母は落ち着いている時と不穏の時との落差が激しくなっている。特に不穏の予兆が見え始めてから鎮静剤を飲ませるまでのタイムラグを計算に入れないと、少しでもタイミングを損ねると、薬を飲ませること自体が非常に危うくなるほど、せん妄や錯乱が激化している。筆談はほとんど不可能。視覚はもちろん、たのみの綱だった嗅覚も相当低下。

妹と私の判別も、恒常的につかなくなっている。ひどければ、父の存在も判別不能。

一度ホームには戻ったものの、そう遠くない先には、医療介入がなければ平穏な生活ができないところまで来ているような気配がする。私よりも母への感情移入が大きい妹は、「最後まで私が見るから」と頑張るけれど、神経が張り詰めているのがわかるから、そう長持ちはできないだろうとも思う。

2人で泊まり込んだこの日は、不穏時の頓服として処方されたリスパダールを服用したことで、母は至極穏やかで、3時間ごとにトイレで目覚めるものの、それなりに落ち着いて休めた。「これなら交代でなんとかいけそうだね」と楽観し、翌日は妹が泊まり込み、朝9時から私と交代することに。ところが…。

泥のように眠ってしまった私の携帯には、昨夜、妹からリアルタイムの状況報告が入っていた。母は錯乱状態が激しく、昨夜は薬が切れてから、次の服用可能な時間までのタイムラグをしのぐのが大変で、かなりの修羅場(妹曰く「バトル」)だったそうだ。あわてて、朝ホームに駆けつけると、母の薬指は紫色にはれ上がり、疲労困憊の色こい妹が眼を泣きはらしていた。聞けば、昨夜暴れた母を抑制する際に、どこかでぶつけてけがをしたらしい。心配したが、母はすでに穏やかで、非常に平和的な空気が流れてはいた。

涙のわけを訪ねると、今朝、薬が効いて穏やかになった母の言葉に泣いたとのこと。以下、妹と父からの伝聞要約。(安静だけれど身内の認識が定まらなくなっている母が、めずらしく清明な意識で、)妹のことを(他人と勘違いしている)父に話したらしい。

「この子はね、私の娘なんですけれど、とってもいい子に育ったでしょう?不器用で口が悪いけど、どんなに大変なことでも頑張ってやってくれるんですよ。この子の上にももう一人いるんですけれどね、その子もがんばりやなんですよ。私の自慢の娘たちなんです」

と、話したそうだ。昨夜のバトルで、とっくみあいに近い格闘で疲れた妹には、堪らない母の言葉だったことだろう。さらに、妹には

「私ね、どこにも帰るところがないのよね。どうやって帰ったらいいのかもわからないし。だから、あなた、一緒に帰ってくれない?一緒に帰りましょう。ね?連れて行ってくれる?」

悲しい言葉。悲しいお母さんの思い。その一部始終を聞いていた父は泣いて泣いて、胸が苦しくなって、自分の部屋に戻って横になったそうだ。

思えば母が錯乱するその前日、私は母を車いすに乗せて、ホームのまわりを少し長く散歩した。このときも、珍しくクリアな言葉と意識で「ちょっとお話しましょう」という母に促されて、近所の公園のベンチで、ゆっくりと話をしたのだった。うららかな陽気と、気持ちのよい風にだまされて、「このままこんな時間が続く」なんて錯覚しながら、母の言葉を聞き、泣いたのだった。

「ちょっとお話しましょう。私ね、こんな風になる前に、話しておきたかったことがたくさんあったのよ。今はもう、うまく言えないんだけど。私ね、あなたには本当に申し訳なかったな、と思ってるの。あなたには自分の家族と子どもと仕事と生活があるのに、わたしのせいで迷惑をかけちゃって、ごめんなさい。ほんとうにごめんなさいね。ごめんねしか言えないわ。●●●●さん(オット)にも謝らなきゃ、って思っていたの。小さい人たちとも、もっとたくさんお話したり遊びたかったわ。よろしく言ってね。かわいい人たちに、よろしく言って」

「あの子(妹)ね、一人でしょ?私もここで一人でしょ?だから、もしあの子さえ良かったら、一緒に暮らしたらどうかな、って思ってるの。あなたどう思う?そうすれば、お金も無駄にならないし、さびしくないんじゃないかなって思うのよ」

昼下がりの公園には、小さい子どもとママたち、わずかな通行人しかいなかったけれど、あまりに悲しくて、人目もはばからずおお泣きしてしまった。車いすのお母さんの膝に突っ伏して、ただただ泣いてしまった。聞こえないってわかっていても「お母さん、ごめん。」としか言えなかった。謝るのは私の方。申し訳ないのは私の方。

その日の晩に、母は錯乱して妹を困らせ、ひと夜明けてから、またもクリアな言葉で妹のすべてをねぎらい、妹の後ろめたさをぬぐってあげ、今日、ふたたび錯乱した。

それはもう、錯乱という域を超えて、発狂、いや狂乱に近いものだった。

リスパダールを増薬し、さらにセレネースを毎食後に服用することに決まった矢先だった。いつもならリスパダールを服用すれば、間もなく沈静するにもかかわらず、今日は1時間経っても一向によくなる気配がない。それどころか、ますます攻撃的に、敵対的になり、不穏が強い。私の顔すら、感触すら判別できず、体に触れると「大きな声を出しますよ!あなたなんですか?」と怒気をはらんで拒絶する。

歩けないのに、車椅子から立ち上がろうとし、転倒を恐れて体を支えようとすると「抑制」と勘違いして大声を上げ始める。「だれかー!たすけてー!!」と、聞き取りにくい発音でひっくり返った声を上げ、手をつねり、足でけり、髪の毛を引き抜こうとして、腕にかみつく。ナースコールで看護師を呼び、3人がかりで抑制しようとするが、興奮と錯乱は激しくなる一方。ナースが「どうしますか?」という目でこちらを見るので、決断する。

「ホスピスに戻します。ドクターに連絡してください。もう、ここでは無理です」と答える。

提携医とナース、施設長、ホスピスとの間でやりとりがあったのか、30分ほどして、ホスピスへの搬送のてはずが整ったとの連絡があり、そのまま母を抑制しながらホスピスに移す。搬送中も全身全霊の力を振り絞って暴れる母を抑える。

ホスピスに着いたのは、発狂から4時間後。それでもまだ多動と興奮、混乱が収まらない母に、リスパダールを倍量入れるが、それでも反応変わらず。仕方なく坐薬で沈静剤を入れて、待つ(待たせる)こと1時間。20時になってやっとダウンした。格闘5時間。地獄。

緩和ケアのドクターと相談して、最期までクリニック(ホスピス)で診ることにしてもらった。今後は錯乱も苦痛も倍加するだろうということで、24時間の適切な医療介入が不可避とのこと。また、家族や環境の変化に対する感受性も落ちているので、今後は医療環境を整えて、母の心身の苦痛をいかに取り除くかに集中すべき、という判断から。

私はそれに合意し、父と妹には事後報告をした。

そして、ホームには「今度こそ、もう戻れません」と一報入れた。さびしいけれど、感傷よりも、いまは母の安寧と、ホームの他の入居者の方々の健全な暮らしが優先だから。

クリニックの医師からは、今後は沈静を視野に入れた緩和中心の処置がメイン。夜間も睡眠をとれるよう、適宜薬剤を投与して体力を安定させるので、ご家族もいよいよの時まで、夜間は体を休めるように。という進言をいただき、言葉に甘えて家に戻る。父は、様子が見えるまではホームで体を休めるように頼み、了解してもらった。

何の心配もなく夜を過ごすのは、何日ぶりだろうか。そして、母の容体を案じながら過ごす日々はあとどのくらいなんだろう。

「自慢の娘たちなんです」「いままでごめんなさい」「私には帰るところがない。どうやって帰っていいのかもわからない」「あなたの家族を大切に」「さびしいから一緒に暮らしたらどうかなっ、て」…

家に戻り、一部始終をオットに報告した。母の「遺言」と、昨日今日のうららかな公園の時間が頭に蘇って涙が止まらなくなる。決して、めったなことでは涙を流さないオットが、一緒に泣いてくれた。それがなぜか心底うれしかった。

お母さんが、お母さんでいてくれる最後かもしれない公園の時間。でも、その最後の時間まで、お母さんは、本当に自分のことより、私たちのことを心配してくれていた。そのことが、切なく、かなしく、ありがたい。私たちの誇りの、自慢のお母さんは、どんなときもやっぱりすごいお母さんなのだった。

明日は、朝から、クリニックに妹と行く。目覚めたお母さんがどんな状態なのかわからないけれど、自慢のお母さんだから、どんなお母さんでもいい。

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2009年4月 7日 (火)

さよならホーム、今日からホスピス。

朝、父から「母の容体が急変した」という電話が入った。「ついに来たか」という気持ちと、「父から、というところがどうも…」という冷静な疑問とが入り混じる。「サチレーションが急激に下がり、徐脈。単座位ができず、意識も不鮮明」なので、ナースとオンコールでやりとりして処置しているという。でも、なんでホームから連絡がないの?っていうか、父の説明はいまひとつ要領を得ず、(父の癖で、やたら専門用語や具体的な数値・名称を用いるんだけど、「で?」というところがわかりにくい説明をする)私にホームへ来てほしいと言ったかと思うと、まだ妹には伝えなくてもいい、と言ったりする。

昨夜から39度もの高熱を出してダウンしているオットと、溶連菌の余波で外出を禁じられているムスメを置いてどうやって外出するのか、策を講じるもノーアイデア。元気なムスコを保育園に送り届けようかと思ったが、確実にお迎えにいける確証がないなか、それも賭け。結局、妹に状況を説明して待機してもらいつつ、オットとチビ2は自宅で過ごしてもらうことにする。

いそいでホームに駆けつけると、母は酸素吸入と血中酸素計測の処置を施されている最中だったが、不穏状態がひどく、あらゆる処置を拒否。私とナースの違いも判別できず、父の手だけを握っているが、まったく制御不能。ありったけの力で自分の体に触れるモノ、手を払いのける。サチレーションは75以下に下がる。出勤してきたナースが、看取りをしてくださる緩和医に連絡をとり、急きょ、ホスピス(看取りをしてくださるクリニック)に入院することに。搬送用の救急車も呼んだという。

明け方から母に付き添っていた父は疲労困憊で顔色が悪い。この状態で、救急車に乗り、ホスピスまで同行するのは無理っぽい。かけつけた救急隊員にも、父のコンディションで救急車に同乗することを拒否された。そこまで責任を負えないとのこと。御説ごもっとも。ひとまず、担当スタッフとともに私が同乗してクリニックへ。1週間に2回も救急車に乗るとは思わなかった。

母は、まだ混乱が激しいものの、鎮静剤が効いてきて朦朧気味。ストレッチャーに移す際に頸部に腕をまわして上半身を起こすと、激しく痛がる。首の転位が相当辛いらしい。これまで気付かなかったけれど、頸部にも相当進行が見られる模様。救急車の揺れは、母の首にかなりの負担をかけているように見えた。手で頭部を支えようと手を触れると、激しく払いのけられた。「勝手なマネしないでください」と語気を荒げる。もう、私と他人の区別もつかないのだ、と思うと覚悟してはいたけれど悲しくなる。

クリニックに着くころには、母はもうかなり反応が鈍くなっていて(逆にバイタルは安定していた)、遠ざかる自意識のどこかで「ここはどこ?私はどうなるの?」とは思っていたかもしれないけれど、そうした言葉も口にしなくなっていた。体位転換や処置にも抵抗しない。虚空を見つめ、首を垂れたまま、何かをブツブツ口にしてはいるけれど、無反応に近い。それもまた悲しくなる。

妹もクリニックに到着。先生のカンファレンスを一緒に受ける。父は体調不良で来られないことも伝え、初対面の妹を先生に紹介。「サチレーションが低いと、今後違う不具合や苦痛が出てくる可能性もある」ので、早めの入院を判断した、というお話がある。また、これまでの経緯と現状を考えると、予後は非常に厳しいことについても言及。私たちも黙ってうなづく。

継続的に飲み続けてきたプレドニンのおかげで、実態よりも軽い症状しか呈してこなかったかもしれないが、実際には腫瘍の脳転移と、それによる脳浮腫はすでに引き起こされていると考えられる。プレドニンが効きにくくなってきたせいで、急激に悪化しているように感じるのかもしれないが、本来の状態が呈されてきたと考える方が自然だというお話も。

覚悟はしていた。していたから、そんなに動揺はしないけれど、「1週間単位で状況を見て判断しましょう。しかし、個人的には1ヶ月は厳しいと思う」と言われるとやはりショック。

今日明日、仕事を休んだということで、妹と算段の結果、私はいったん家に戻ってオットと子どもたちの所用を片付け、夜再び来院することに。その前に、ホームに戻って、当座必要な身の回りのものをクリニックに搬入しなければ。

紙パンツ、着替え、衛生・グルーミング用品などなど、とりあえずすぐ必要なものと、家族の写真たてだけをかき集めて袋に放り込み、部屋を後に。1月9日からのわずか3か月の間にたくさんのことがあった部屋。もう二度とここに戻ることはない場所。ホームに入るために実家を出た時には、そんな風には考え(たく)なかったのに、今日は居室を後にするのが辛い。母にとっては、そんな思い入れもないほど悲しい思い出しかない空間でも。

父には「今日明日はホームに来られないかも。まず体を休めて体力を養って」と労いと断りを入れ、親しいスタッフには「いろいろありがとうございます」とだけしか言葉をかけられないまま、あわててホームを後にする。

こんなに早く、ホームにさよならしなければならなくなるとは。

ホスピスケアのクリニックでは、母は、うとうとするか、不穏になるか、の斑状態。妹に「帰りましょう。お父さんと、あなたと、●●(私)のいるところに帰りたい」と訴えて嘆くか、エキサイトして(身内と看護師が判別できずに)ケアを拒否するか、のどちらか。

夜、妹に夕食を届けがてら、母を見舞う。今日明日は昼は私、夜は妹が付添い、必ずどちらかはそばにいることにする。父をこのシフトのどこに、どのように組み込むかはこれから考える。妹と私がそろって母の手を握ったところで、初めて母は私たち姉妹を認識し、子どものように号泣した。私たちをわかってくれて私たちも今日初めて泣いた。

「いつかこの日が来るとは思っていたけれど、本当にお母さん、私たちのこともわからなくなっちゃうんだね」と言う妹。子どものようにさめざめと、怯えて泣く母の、小さく小さくなってしまった肩を抱きしめて、腫れあがった腫瘍を刺激しないように頬ずりし、足をさする私たち。

「帰りたい」と泣くお母さんに、帰れる場所はない。帰る場所を取り上げてしまったのは、私たち家族だから。「どこで暮らすかではないのよね…。誰と暮らすかなのよね…。」というかつての母の言葉が頭のなかを去来する。それから。「お花が散るように、自然に死にたいわ」という言葉も。ホスピスの窓の外はそれはみごとな満開の桜。外は、眩しい陽光、うららかな陽気で満ちているし、その中を新一年生の晴れ姿やかわいい嬌声が駆け抜ける。去年の今ごろは、私たち家族もあんな感じだった。今年はかなしいいとしい春。

「願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

お母さんが大好きな西行のうたも、一緒に思い出した。

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2009年4月 5日 (日)

いろいろな4月

4月1日

しかかりの仕事、最後のひと山を越した。情報構造とゴールの整理、プロジェクション上の課題抽出、タスクとスケジュールの確認…。よほどのことがなければ、ひとつひとつこなしていくことで順調にことが運ぶような段取りまではできた(と思う)。これで12月からの戦争はひと段落。各方面との事務処理手続きにもめどがつく。肩の荷が下りた。そのまま母のもとへ。比較的コンディション良好。コミュニケーションも円滑。ただし食欲なく昼夕食を拒むのが気がかり。モルヒネの副作用か、腫瘍の影響か…。母と、父の誕生日祝いについて計画。父にプレゼントの希望を訪ねると「お母さんが元気ならそれでいい」と。それを簡潔に母に伝言すると、「それが一番難しい」と一言。考えてみれば気障なセリフだ。ずっと望んでも得られなかった願いを今さら、という気も(私は底意地が悪い)。

4月2日

今日から緊急の要件がなくなるのでホームにもPCは持っていかないで済む。急ぎは携帯にと関係各位に連絡済み。心おきなくケアに集中できる。待ち望んだ日々。今日は父の誕生日。前日からの相談は結局結論が出ず。発熱で休んだムスメと相談し、ムスコとムスメの写真をフレームに入れたものをプレゼントとすることにした。さらにムスメは、ロバート・サブダのポップアップアートのメッセージカードに、弟の分も一緒に祝の言葉を書いて用意。私も、オットと連名で父宛に簡単なメッセージカードを用意。ホームに着くと、母に品を示しながら概要を説明。母も納得し喜ぶ。「お母さん、字、書ける?書いてみない?」と尋ねると、「ずっと書いていないから…」と躊躇しつつも、「書いてみようかな」と前向き。

「●●(母の名前)だけでもいいよ」と、名前を連ねるだけのつもりでプッシュし、母にマジックとカードを示すと、母は緊張したまま、想定していなかった余白部分に文字を記した。

Image040 「おめでとう ●●●●●●」

息を詰めて、一字一字、ありったけの力と思いを込めて書いた拙い文字。でもどんな言葉よりもよりも尊い11文字のひらがな。母の心意気と尊厳が凝縮された贈り物。その重みは父にも十分響いただろう。父は意外な贈り物に嗚咽した。やっぱり、お母さんはすごい。「へたくそね」と照れ笑いしていたけれど、私は携帯のカメラで撮らせてもらった。これから先も、私や妹、みんなの祝いごとのたびに見たいから。

4月3日

穏やかな時間を過ごした父の誕生日から一転、翌日の母は非常にコンディションが悪かった。午前中は、看取りをお願いしているクリニックに、「偽診」と面談を兼ねて母を連れて行く。父と、担当スタッフも一緒に。緩和クリニックの院長先生に父母を引き合わせるのは初めてなので、父母の安心のためにも必要なプロセスと考えたから。ホームに迎えに行くと、母は非常に不機嫌で混乱もしていた。手を握ると熱い。クリニックに着くと不安げ。受診の意図と場所は再三伝えておいたが、嗅覚や気配から「いつもと違う病院」とわかるからか。

院長先生には事前情報として、既往を含めた医療情報は提供されていたけれど、母本人を診ていただくのはこの日が初めて。「面妖」と言っても過言ではなくなってしまった母の状態をみて、先生も「辛かったですね」と声をかける。簡単な問診をするが、今日の母はすこぶる反応が鈍く、筆談は非常に困難。あまりコミュニケーションを強いると、かえって負担をかけると判断し、「耳をみる」とだけ示して、患部視診へ。ガーゼをとると、耳介は赤黒く腫れあがり、一度自壊した膿疱がまた癒着してイチゴ大に膨らみ炎症を起こしていた。熱っぽさや不機嫌さもここから来るのかも、ということになり、圧を下げるためにも切開することに。もはや皮膚は感覚がないだろうとのことで、無麻酔で切開。あまりに大量の膿が排泄される様を見て、父は発作を起こし舌下錠を含む。痛みもあるらしく、母が苦痛に呻く。すべての膿が出た後を見てがく然とする。耳介の裏はもはや空洞。皮膚も壊死。

敗血症の疑いや、頭蓋内への浸潤による髄膜炎を予防するために抗生剤の点滴をすることに。また、現状だと、腫瘍の侵食による頸動脈の破裂、脳浮腫による意識障害や、最悪の場合は脳ヘルニアの可能性もあり、どの症状が台頭するかは予測不能との見立て。まだら状態で、知的能力の不鮮明さや反応の鈍さがあらわれるようになっていることについても、軽度の意識または知覚障害と考えるほうが自然、とのこと。納得。悄然。

この点滴がいけなかった。説明への理解が十分でない状態で点滴針を刺し、驚いた母を看護師が制止したことが刺激となって、母は恐怖と不安でパニックに。それを抑制する看護師との間で悪循環となり、最後は大変な拒否反応と怒りを煽る結果になってしまった。献身的なケアをしてきてくれたスタッフはとんだとばっちりをうけ、母に「裏切り者」と目されてしまい、その誤解をあとから解くことに苦労した。父に助けを求め、なんとか落着きを取り戻したけれど、その日は心身ともに疲労困憊。

そんな状態の父母をホームに残しておけず、寝かしつけまで面倒をみるつもりでいたが、ムスメの発熱が回復せず、しかも頭痛と、耳下腺・うなじ一帯の痛みを訴え、痛みの余り首が動かせないという連絡をうけ、ホームを後にして帰宅。小児科を受診させた。思えばこのところ、頻繁に頭痛と発熱を断続的に繰り返す。すっきりしない。ぜんそく以外は基本的に元気で、風邪もインフルも無縁だったはずなのに。この数か月のストレスのせいか。

受診結果はまたもや「溶連菌」crying 。細菌の種類が違うと、何度でもかかるのだそうな。これで5日間の登校停止が決定。始業式も入学式(こんどは2年生だけど)も欠席。もう、激しくついていない。

4月4日

本当は身内に感染症患者がいるのなら、ホームに行くのは控えるべきなのだけれど、背に腹は代えられず、マスクや手洗いで完全予防して、父母の居室へ直行。完全に食欲減退(ホームの食事に食傷気味というのもあるかも)している母のために、前日、鯛のあらで「潮汁」を作って冷蔵。コラーゲンのせいで、にこごり状態になっているのでちょうどよい。若干塩気を強めに。持参すると喜んで2杯分ぺろりと平らげる。やっぱり、家の味がいいよね。そして、すこしエッジの利いた味付けが、疲れた心身には効くときもある。

実は5日はオットの父の誕生日なので、前夜祭として晩御飯を一緒に食べることが急きょ決まった。こちらまで来てくれるという。19時に戻る約束をしていたが、母のケアがなかなか切りよくおさまらず、ぎりぎりまでかかってしまった。

冷や汗をかきながらも、なんとかやるべきことを済ませようとしているさなか、父が、その横で、知り合いの内装屋に電話をはじめた。「ひと通りのことにけりがついたら、独居になるので、自宅をIHにしようと思う。そんなに先の話じゃないので見立ててほしい」みたいなことをのうのうと話している。その無神経さに無性に腹が立ち、そして情けなく、やりきれなくなって、「お父さん、何考えてんの?信じられない。悪いけど、あとよろしく!」と言い放って飛び出してきてしまった。

何かの誘いや予定の打診があるたびに「落ち着いたら」とお茶を濁してきた妹や私。その「落ち着いたら」は、そんなに遠くない未来と知っているから、そういう「先の話」はあえて避けてきている。仕事の話も、遊びの話も。オットからの「そのうち落ち着いたら運動でも始めれば?」という何気ない言葉や、オットの両親の「GWには遊びにおいでね」という誘いすら、胸に刺さるのに。

「あと」はない。「そのうち」もない。「いま」しかない。そう思って無酸素疾走する私たち姉妹の思いをどう考えているのだろう。やっぱり父と言う人は、最終的に「いつになったら元の自分の生活に戻れるんだろう」という頭しかないんだろうか。やっと受け入れられるところまで来たのに、こうやって、いともたやすく期待を裏切るのかしら。

なんて、毒づきながらダッシュで家に戻ると、ちょっとした言葉と事情の行き違いでオットと口論に。(オットの両親がいたんだけど…)実にくだらない理由による、お互いの語調に対する不快感という、他愛もないものだけど、だからこそ、いかに私たちの心身が疲れているのかがわかるというものだ。なんとなく面白くない感情を抱えたまま、オットは先に寝た。

と思ったら。いやだ。熱があるらしい。どうしよう。いまオットにダウンされたら、もう最後。

泣きっ面に蜂。4月も前途多難。困った!

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2009年3月30日 (月)

デパス追加、桜はまだ。

金曜日、相変わらず感情の浮沈はあるものの、いつになく意思表示が明解で、意欲的な言動も多かった母。「刻み軟食に飽きたから、歯ごたえのある食感とパンチのある香味の食事がしたい」と言う。しかし、夜はやはり不安感が増してなかなか寝付かれず、多動気味なので、医師の往診では「精神安定剤の処方」が決まり、ケアマネとの協議では、食事を常食に戻す試みが決まった。

土曜日の昼下がり、子どもを稽古事に送り出してからホームに赴くと、そこには「廃人」のような母がいて驚かされる。車いすに座って、意識もあるものの、下をうつむき、反応はすこぶる鈍い。聞けば朝からこの状態だという。昨夜から処方されたデパスのせいかと思うが、看護師によれば、ごく微量であり、17時間以上も強く作用するとは考えにくいとのこと。母の手を握るが、やはり反応は鈍い。ふだんなら私であることを認めると、泣くか笑うかか、どちらかなのにほぼ無反応。

時々、思い出したように眼に涙を浮かべて、虚空を見つめるものの、やはりいろいろなものが正しく認知できていないもよう。「孫たちに会いたい」という希望を受けて、夕方には子供たちも呼び寄せていたが、このままでは会っても意味がないというか、会ったら子どもたちのほうがショックを受けるかも。そう思ってオットに連絡を入れるが、とりあえず向うという返事がきた。父は自分の体調不良もあるのだろうが、疲労困憊で苛立ち気味なので、部屋に戻ってもらった。気力も活力も失せている感じ。

母の様子を見る限り、薬の影響は関係ないともいえないけれど、やはりそれだけが理由とも思えず。ほぼ24時間の時間をおいているにも関わらず、反応は薄い。目や耳の痛み、違和感を訴えることもなく、始終ボーっとというか、朦朧としているようにも見える。また、首が据わらないというか、姿勢を制御できなくなっている。また、私の腕を自分の掌で手探り(盲人が手探りでモノの形状を認知するように)するときには、かすかに左手が痙攣しているようにも感じる。確証はないけれど、不随意運動であるとは思う。昨日まではなかった動き出し、左手だけというのも気になる。腫瘍があるのが右だから。

到着したムスメとムスコは母のあまりの状態に驚いていた。こんな時に会わせるのは、親として、大人としてどうなのかという迷いもあったけれど、子どもたちは自分なりの防御反応で、そのまま遊びに没頭し、別室にいる父を訪ねてそこで時間をつぶして楽しんだ。

オットの手を握って、誰かを認識できた母は、言葉にならない言葉で何かをもごもごといい、泣きだした。ここに至ってやっと昨日までの母に戻ったような気もするが、やはりその状態が持続しない。すぐに「あっち」へ行ってしまう。薬だけでなく、腫瘍の進行のせいのような気がする。

夕方になるとだいぶコンディションが安定してきて、ムスメも傍らに寄り添う。ムスメの手を握り、シニョンにまとめた小さなムスメの頭を手で探って「●●ちゃん?かわいい手。元気?」と言う。照れて手を握り返す娘の手を両手で包んで泣き出す母。戸惑った目で私に指示を促すムスメ。おぼつかない動きながら、手でムスメを探る母と、それを受け身でじっと待っているムスメを見ていたら、涙が止まらなくなってしまった。理由はわからない。

泣いている私をみて、ムスメが泣き出してしまった。ごめん。

ただ、これが、私のおかあさん。これが、私のむすめ。そう思ったら胸を衝かれたようになって、感情が抑制できなくなってしまった。

ムスメは「ばばは、もうすぐいなくなっちゃうの?死んだらいやだ。会えなくなったらいやだよ~」とおいおい泣き始める。「大丈夫だよ、順番だよ。たくさんさびしがると、ばばは安心して星になれるし、すぐにまた会えるよ。ワンたちだって、順番だよ」と、今まで繰り返し話してきたことを、また話す。それで気が休まるとも思えないけれど、でも私はそう信じているから、そのように伝えることしかできない。

すべての生命は粒子からできていて、粒子に還り、また新しい生命となって循環する。その人の精神というか、たましいは、関係したあらゆる人やものに宿って、姿がなくなったあとも息づく。ということを、私は信じているので、輪廻とか、来世とか、天国とか極楽とかはよくわからないけれど、「ずっとともに在るよ」ということは信じている。死生観というか、自分だけの「理屈」として信じていることだから、ムスメにも自分の言葉で伝えることはできる。そのことには、ずいぶん助けられている。

タゴールの死生の詩とか、手塚治虫の火の鳥とか、野の花診療所の徳永先生の話とか、リソースはまちまちだし、かなり拙いけれど、40年を生きてきたなかで自分なりにたどり着いた、いまのところの考え。

母は、ムスメの手を握って、私に背中をさすられて、落着きを取り戻した。自分が何者か、だんだんわからなくなっているらしい。私を自分の子供だとは認識しているものの、これまでのように、現在時点での対話は難しくなっている。記憶が退行しているし、正確な認知ができなくなってきている。

日曜日は、腫瘍のせいと思われる発熱。38度以上。解熱鎮痛剤を服用して休養。デパスを半減したにも関わらず状況はほとんど変わらないところをみると、やはり現状は腫瘍による影響が大きそうな気配。主治医に相談して、予定より早いけれど、看取りをお願いしているクリニックに、早めにかかることになった。今週金曜日に、母を伴って訪ねる。

最初に診断してくれた医師の見立てに、ほぼ正確、いやそれ以上の速度で推移していることになる。2月後半の時点で「もって3~4か月。そのうち好いのは2か月程度」。と言われたスケジュールが、着々と進んでいく。

でも、桜はまだ咲いていないし、本格的な春はまだ。時間がゆっくり過ぎればいいのに。

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2009年3月26日 (木)

眼に転移…?

今日は年度末の最後の納品日。2つの納品が重なったうえに、いずれも少しトラブってしまい、結局ホームに行くタイミングを逸してしまった。父にその旨を伝えると、ただ「無理しないでいい」という返事が。妹にもピンチヒッターを頼んでしのいだけれど、夜、その妹から連絡が。今日の午後は、母は激しく暴れたらしく、手がつけられないので、不調は承知のうえで父を呼んでなだめてもらったらしい。ストレスがピークだったのか。

今日は父の体調が悪く、午後はベッドに伏せっていたようで、母は一人で共有スペースに預けられて過ごしたらしい。日に日に増す体の不快や不調への不安、意志の疎通ができない苛立ち、見当識がなくなることが多くなって突如脈絡のない時空認知をせねばならずに怯えてしまう、など不安要素が一気に押し寄せたのだろう。

いまどこにいるのか。なぜここにいるのか。どうしてこんな目に合うのか。そうしたすべての不安が、怒りと不信になって、ホームのスタッフに向けられてしまったらしく、「ここのスタッフは信用できない」と激しく拒絶したらしい。夜、ホームを訪れて母の様子をウォッチした妹いわく、かなり意味不明な言葉や、思いこみの話を頑なに信じ込むなど、「錯乱」「混乱」といってもいい状態になっているのは確からしい。

しかも、ずーっと不快感・違和感を口にしていた「右目」の状態が悪化しているらしく、「チリチリする」「むずむずする」と言っていた状態から、今日は「痛い」「奥に何かある」「出っ張っている感じ」といった発言が増えているようだ。

右耳の耳介にできて自壊した腫瘍の増殖速度、耳下腺から顎関節にかけてひどく炎症を起こして腫れあがり、瞬く間に右半面の顔面痙攣から顔面麻痺(弛緩)へと至った経緯、舌根まで麻痺して構音障害や嚥下障害を起こしつつある状況、(解熱鎮痛剤で押さえてはいるが)毎日37度以上の発熱が続くほどの激しい炎症を考えるだけでも、腫瘍は確実に右目(眼窩:がんか)奥に及んでおり、しかもかなり激しく増殖していることは間違いないと思う。

疼痛管理のための麻薬はオキシコンチン(オキシコドンの経口錠剤)から、デュロテップ(フェンタニル系の経皮吸収貼付薬)へと切り替わり、頓服鎮痛剤もロキソニンからレスキュー用のモルヒネに変わった。おかげで耳やのどの痛みを訴える頻度や程度は軽減したが、目の違和感はずーっと訴え続けていた。そしてその程度もかなり我慢の限界を超えていることを、母の態度が示している。

「最悪の場合、お母さんが意識も体力もあるうちに、眼球が落ちたり、ということはないのかしら」と、妹に話す。返す言葉のない妹。しかし、首から下はかなり体力のある母のこと。頭頸部腫瘍の苦しみとは別に、体力があるのであれば、いまの(さらに悪い)状況に持ちこたえねばならない時間が延びる可能性もある。

「どんなになっても、長生きしてほしいよね」というのは、家族の偽らざる願いではあるし、母本人も生への執念や希望を持ち続けているわけだから、「どんなになっても長生きはしてほしい」ことに変わりはないのだけれど、いま、目の前で、母の身に起こっている急激な異変にどこまで本人が耐えられるのか(きっと耐えてみせるのだと思うが)、不安になる。

「緩和ケア、っていうけど、本当にこのまま痛みだけとるだけでいいのかな」とつぶやく妹の気持ちがよくわかる。自分たちで選んだ道だけれど、痛みさえなければよいというわけでもない。心理的な不安、恐怖、焦燥、不快をも緩和できてこその終末医療だと思う。

明らかに知的判断力は落ちつつある母だけれど、動物的というか、身体的な不具合に対する直感は衰えてはいないはず。むしろ、状況がロジカルに把握できないだけに、不安だけが膨らむ結果になっているのが厳しい。「私、どうなってるの?私はどうなっちゃうの?」という母の心の叫び、怯え、怒りが、やりばのない思いが出口を探して、怒気や多動やせん妄となってあらわれている。

あんなに強い決心をして、「死ぬ気で嘘をつく」と誓った私たちだけれど、嘘は、知的対話が保たれていて初めて成立するものだ、という点を見誤っていた。もはや嘘を上塗りすることすらうまくできいない今、母のあらぶる心を静める手だてが見つからなくなっている。

「誰か、母を、私たちを助けてください」と、つい弱腰ですがりたくなってしまうところをグッとこらえて、採るべき態度をもう一度きちんと考えなければ。明日は、終日そばにいて、新しい大嘘をこさえて、死ぬ気で「本当のこと」にしなければ。私にできるかな…。弱気。

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2009年3月24日 (火)

J'arrive

ホームを後に、家めがけて自転車で、全速力で疾走していた今日18時30分頃。世田谷通りを一瞬並走した、白いポンコツ(失礼)のシビック(だったと思う)から漏れ聞こえてきた歌。「J'arrive!」というフレーズ。一瞬にして子ども時代に引き戻された。

時代のせいか、シャンソン好きでもあった父のヘビロテ、ジャック・ブレルのアルバム。名前はもうわからないないけれど、この歌だけは憶えている。淡々と、でも深い声で歌う「いま行く、いま行くよ!」のリフレインは、子ども心に戦慄を覚えるような凄味があった。ずいぶんあとから、ブレル自身が自分の癌を知って作曲した歌だと聞いて、ますます空恐ろしく感じた記憶もある。それから、母が病気になって、歌を歌として聴けなくなってしまって、すっかり遠ざかっていたのに。10代の記憶は、30年近くたっても克明で驚く。

そういえば、同じころに、ジュリエット・グレコの「Le temps des cerises」もよく聴いた。これは本当に好きな歌だった。パリ・コミューンのさなかの悲恋をモチーフにした歌だそうだけれど、それよりも、邦題の響きとグレコの声の渋さにシビレタ。シャンソン通の人によると、グレコの歌はあんまし…なようなのだけれど、私は当時のグレコにもシビレタのだった。骨格がわかるほど華奢なのに官能的な体で、いつも黒いタートルネックを着ていたっけか。

影響を受けやすい10代の女子は、あっという間に毎日黒いタートル、グレンチェックのパンツかチャコールグレーのフラノパンツで毎日学校へ行くようなはまりっぷりだった。あまりにベタで、恥ずかしい。「J'arrive」は、グレコも歌っていたな。懐かしいな。あの頃は、おませで生意気で自尊心と自意識だけ強くて、鼻もちならない子供だったと思う。

いまはすっかりただのオバサンになったけれど、耳はすべてを憶えていた。あんまり懐かしくて、しかも別の意味で生生しくて、自転車のペダルを漕ぐ足が少し鈍る。頭の中を、2つの歌がしつこくしつこく、往来する。

♪いま行く、いま行くよ。
でもなぜ、それは僕で、なぜ今でなければならないんだろう
なぜもう行かなければいけないのか、それにいったいどこへ行くのだろう
いま行く、いま行くよ!
いつだって僕は、こうなるようにしか生きてこなかったんだから♪

的な歌詞。

♪桜んぼ実る頃、懐かしい思い出のよみがえる時
よろこびや悩みさえ思い出はほろ苦く
桜んぼを揺らす風にむせながらしのぶよ♪

的な歌詞。

帰ってきて、この2曲が入ったアルバム(当時は間違いなく、この2曲が入ったグレコのアルバムが家にあった!)を探してみたが、ついに見つからず。

諦めて、HMVのMulti Buyでブレルとグレコのを別買い。

気づけば、2つとも死にゆく悲しみのこもった歌だった。昔から、暗かったんだな、と自覚。

でも、街や身辺が、春うららな、ほころぶ花を待ちわびるムードないまだからこそ、花は咲いたら散るんだぜ、的なクラーイ歌を欲してしまう。自分の生まれ月ということもあって、4月は大好きな季節だったのに、いまは春が、花が、恨めしいのかも。

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2009年3月17日 (火)

一生懸命生きるということは。

う゛ぅ゛…。こんな時に限って、風邪もらっちゃった。連日徹夜、連日ホームや病院通い、連日保育園・小学校帰りの子供と暮らしてれば、風邪くらいもらうよなぁ。しかし間が悪い。

明日18日までに、すべての納品を前倒しで済ませて、フォローはチームメンバーにお願いしようと躍起になりすぎた。18日はムスメの誕生日だし、20日はお祝いを兼ねて、ホームでオットの両親と私の両親とでささやかな誕生祝いをやろうと思っていたから。

それに、何よりもう時間がないから。

週末は私が付添い、昨日今日は妹がついていてくれて、つぶさにリポートしてくれた。

母はせん妄が進んで、ひどく理性的に筆談ができるときもあれば、父の姿が見えないとパニックになり、まったくわけのわからない状態になることが増えているみたい。入浴やトイレなど、ちょっとした不在でも不安になるようだ。

妹からのメール。

筆談はなんとか出来てました。

ちょっと父の姿が見えないだけでパニック状態になっていました。

私は●●●●(母の氏名)であなたは●●●●(妹の氏名)よね?

あなたは●●●●(父の氏名)ね?と戸惑っていました。薬の副作用と思われますが。

父の手を握って離さなかった。痛みは訴えていません。食事は完食。(2009/3/16)

今日もちょっと父の姿が見えないだけでパニック。

私が『お母さんは本当にお父さんが好きなんだね』と言うと

『だってお父さんがかわいそうじゃない、お父さんが心配なのよ』だって.

二人でゲラゲラ笑いました。

今日は入浴日、耳に水が入ること非常に恐がっていました。

今日はわりと文字の判読ができていました。痛みも訴えていません。(2009/3/17)

そういう母の姿が、父の中の何かを動かしたみたい。父はこのところ、昔の父だ。体調が厳しくても、母の傍でじっと手を握っている。うとうとしたり、本を読んだりはしているが、もはや言葉も態度もどうでもよく、手を握って「そばにいる」という気配を感じさせてあげることが一番。それが父にもわかっているらしい。

遅い、と思うこともできるが、大体にして気づくのは遅いもんだ。自分だって同じことだものね。気づくことができて、少しでも振る舞いに反映させられているんだからいい方だ。

人は全存在をかけて必要とされると、何かのスイッチが入るんだなぁ、としみじみ思う。

思えば自分も、子どもをもって、全存在をかけて求められるってことの重みと喜びを初めて知った。

厳密に言うと、子どもは生まれたらそれなりに育つものだ、と思っていたら「手を抜くんじゃねぇ」「ちゃんと眼を向けろ」的なサインが出されて、自分の子育て(人間との向き合い方)に刃を突き付けられた気がして、かなり根底から子育て観・仕事観・人生観を揺さぶられた結果として、「ひとの親になること」=全存在を受けとめること、ということを思い知らされたんだけど。

大人になると大抵のことを理性で処理し、封じ込め、抱えて生きていくことができるんだけど、老い病いを経て、死に際してはじめて、もういちど全存在をかけて何かを求めることができるようになるんかなーと、ぼんやり思う。

それはそれで、素晴らしいことだ。そういう機会に接することができて、私はほのかに幸せを感じる。こんな境遇で知ることはないけれど、それでもしらないよりはいいと思っている。

一所懸命、ではなく一生懸命生きるって、そういうことなのかな、と。

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2009年3月15日 (日)

モルヒネ増薬…。

連日の徹夜。40目前の老体には、もはや徹夜は仕事の意味をなさないくらい過重(ムスコ妊娠中@35歳の頃は3徹も平気だったのに)。ぼーっとして、仮眠してから読み返した原稿は、まったく意味不明。だったら少しでも寝てから書けよ。と思ってしまった。途中で気を失ったかのように、つじつまの合わない文章。怖い。

週明けには、今度こそ仕事にけりをつけたくて、何がなんでも巻き上げた。

3月の10日には重いとこを超えようと思ってきたのに、はや半月。ふだんなら何も気にならないが、今は一日が惜しい。ずるずると引き延ばすのがつらい。

毎日、燃料のメーターのメモリが落ちていくように、母の状態は衰退している。刻々と近づいている終わり。火をみるより明らか。余命3か月、と言われた時には「いつが最期かなど、だれにもわからない。あくまでも統計の話」と思ったこともあったけれど、今は、予想外に早く訪れそうな終わりの予感に気持ちが沈む。厳しいことだが、「思ったより早いね…。日一日と悪くなっていくのがわかるよね」とオットに問うと、「うん。」と即答された。客観的に見ても同じ見解なんだな、と思った。

今日は、わらべうたの集まりにちびたちを連れて行ってから、遅めのホーム訪問となった。仕事あがりの妹をピックして、みんなでホームに向かう。

今日の母は、精神的に不安定だった。昨夜もナースコールでスタッフを呼び、父に添い寝を請うたという。父は夜中に母のベッドに横になり、手を握って寝入るまで一緒にいたようだ。今朝は耳から大量の血液混じりの滲出液があふれ出て、ガーゼから滲みだし、母を驚かせた。耳の裏の膿疱(腫瘍)が破れた後もどんどん壊死しているという。食事の飲み下しが難しく、嚥下に違和感を感じるので、母の不安も増しているらしい。

日中も父にそばにいてほしがり、ホームを訪れた私たちがかわるがわる手を握っても、もう私と妹の区別も、孫の小さな手も判別がつかないらしい。そして「わたし、何がなんだかよくわからないの。どうしたらいい?」と不安を訴える。あんまり心細く、哀しそうな表情に胸が痛くなる。状況を知りたくて、看護師に話を聞く。昨日から増量になったモルヒネの影響で少し朦朧としているのか、あるいは不安が膨らんで不安定になっているのか。

その両方であるらしい。予想通りだけど。

帰り際、母を着替えさせて、就寝の準備をする妹に「行かないでね。ここに居てね」と訴える母が切ない。これまでどんな時でも「みんなありがとう、風邪ひかないでね、またね」と送り出してきた母なのに、「行かないで、一人にしないで」とは。そういえば、今日は常にナースコールのありかを確認しては、手で握りしめているのが気にかかった。まるで命綱みたいに両手でしっかりと握りしめている。

布団に入る時も、ナースコールばかりをしきりに気にしている。寝入る時の不安、夜中に目覚めた時の不安の大きさを思い知らされる。今までずっと、そんな不安を抱きしめて眠ってきたんだろうか。妹と私で、母の手を握ったりさすったり、トントンしたり。崩れ始めた右耳を圧迫しないような体位にして寝かしつけをするが、母はなかなか入眠しない。母の額と手を撫ぜながら、妹が泣いている。妹を慕うムスメが、それを見て慰め、しかし我慢しきれずに自分も泣く。

娘には、隠しきれないので真実を打ち明けた。おばあちゃんはもうすぐサヨナラすること。一足先にサヨナラしたら、空に昇って星になること。星になってみんなのことを見守って、順番がきたらまたいつか会えること。強く願えば願うほど、また家族になれること。だから、お別れの時の寂しさは隠したりせずに、思いっきり、気が済むまで、うんとさびしがって、哀しがって、泣いてお別れしていいのだということ。たくさんの人に愛されて、惜しまれて、悲しまれて見送られた人は、安心して空に昇れること。きっとまた戻ってきてくれること(うちでは、死と生をそのように話している)を伝えてある。

自分の大好きな母と叔母が、狂おしいくらいに思慕し敬愛する祖母。その祖母の旅立ちが近づいていて、はじめて自分と祖母との絆に目覚めているように見えるムスメ。母は間違いなく、私のなかにも、妹のなかにも息づいており、ムスメにも受け継がれている。フィジカルにも、スピリチュアルにも。

母は、右手にナースコール、左手で私たちの手を握ったまま、一生懸命眠ろうとしている。が、突然起き上がろうとし、あわてたように何かを探しはじめる。妹が制止するが、意味を理解していないもよう。「行かなくちゃ。帰らなくちゃ。お父さんは?」と。なかなか言うことをきかない。これはもう、見当識を超えて、ある種のせん妄といえるだろう。妹と相談して、父を呼びに行く。今日は一日付き添ったおかげで疲れたらしく、一足先に眠っていたが、母の様子をみて、寝入るまではそばで手を握っていてもらうよう頼んだ。父は快諾。何か憑きものが落ちたように、毅然とした父がそこにはいた。子供のように脅え、心細がる母が父を変えたのか。

モルヒネの量は、急激に増やされた。残された時間と能力、そして待ち構えている苦しみを考えると、麻薬は躊躇なく使うべきだ。苦痛が緩和されるなら、それでいい。いいのだけれど、母の心の奥深くに、母がしまいこんできた「思い」の箍がはずれ、何かに脅え、父を求め、妹を、私を求めてすがる姿が胸を刺す。いま、私の心のなかは、お母さんへの思いでいっぱいだ。今となっては、滅び崩れゆく肉体、膿んで流れ出る肉体の残滓ですら、精一杯生きて、闘っている母そのものだと思うと、不思議といとおしい。

何もわからなくなってしまっても、何もできなくなってしまっても、それでもお母さんはお母さん。人の全存在を、掛け値なしに、代償なしに求めて受け入れるってことの意味が、今頃になってやっとわかった。「能力ではなく、存在によって愛されること」の意味を、今私の母親が、私に身をもって感じさせてくれている。

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2009年3月11日 (水)

一世一代の嘘

母の肉体は、どんどん破綻してきている。一日、いや、数時間刻みのスピードで。

この週末、土曜日にホームを訪ねると、右の耳介裏側に真珠大の膿胞ができ、周辺が赤く炎症を起こしていた。手で触れたり、枕に触れると痛いと言うが、さほど深刻に受け止めていなかった。

翌日の日曜、連日の徹夜で完全に寝不足だった私は、朝10時まで眠ってしまった。ホームからのホットラインを知らせる着信音で飛び起きて出ると、看護師から。膿胞がたった一晩で数倍に膨れて辛そうだとのこと。父が救急に連れて行く、と言っているがどうしたらよいか、という連絡だったので、「私が行くまで待つように伝えてください」と伝言。子供たちとの約束を反故にする詫びを入れて、ホームへ駆けつけると、ひどいものだった。

ビー玉大にまで大きくなり、皮膚が張り裂けそうに膨らんだ膿胞。もはや耳介と頭との境目さえわからないほどに地腫れした耳の裏。赤黒く腫れて熱をもった耳下腺あたり。違和感と痛みから、しきりに患部に手をやる母を軽く制止するのが関の山。「どうしたのかしらねぇ。ほら、こんなに腫れているでしょう?ひどいわねぇ。触ると痛いのよ」と母。思わず目をそむけてしまうほど、ひどい。

たった1晩でここまで「育つ」なら、明日にはどんなことになっているか想像もできない。でも日曜日の救急には、耳鼻科医なんていないので、我慢して月曜日を待つしかない。さすがの母も、手をやるたびに「これ、どうなってるのかしら…」と不安そうだ。見えないから余計に、痛いから余計に、違和感と不安が増していくのだろう。月曜日に受診するから、となだめる。

母の顔は、右半分が完全に変形してしまった。頬骨の頂点と耳をつなぐあたりは盛り上がり、右目の瞼は完全に下がって半眼状態。口元も方麻痺状態で構音障害も著しくなっているし、もう、コップから水を飲むことができない(ゆるんだ右の口角からこぼれてしまう)。そのようすは、幼い子供の目などで見れば、まぎれもなく「妖怪」のように見えるものだろう。私には、変わらぬお母さんでも。

月曜日、朝一番で妹とホームに向かい、母をピックして総合病院へ。ビー玉は、チュッパチャプス大に腫れあがり、もはや皮膚は限界。頂点が黒ずんでいる。自壊するのは時間の問題だろう。腫れは一層ひどく、「ここに心臓があるみたい」と母が訴える。腫瘍専門の主治医は外来診療の担当日ではなかったが、ラッキーなことに朝一番で手術があったとかで、臨時に、空き診察室で見てもらえることになった。が、結果としては、「何も処置できない」とのこと。

素人判断も甚だしかったんだけど、私と妹は、「膿を抜いてもらえれば」くらいの感じだった。ところが「膿じゃないんですよ。腫瘍そのものなんです。だから切開や吸引なんて不可能なんですよ」とやさしくたしなめられた。そして「ここからきっと崩れてきますから、表面を消毒して衛生を保ち、痛み止めを増やして苦痛を緩和するしか手立てがない」そうだ。

腫瘍の状態を見てくれた先生が、滲出液をせき止めるために耳に栓をしているガーゼを取り除くと、戦慄するくらいの量の滲出液(膿?)があふれ出て、目を背ける。目を疑う位に、腫瘍は大きくなっており、耳の穴のとば口までせり出してきている。ものすごい増殖のスピード。こんなふうに、目に見えるかたちで「癌」というものを見たことがないから、妹も私も、声が出ないように口を手で押さえるのが精いっぱいだ。

そろそろモルヒネの量が足りなくなってきているのかも、といわれる。早めに、多めに、モルヒネを投与して、痛みの増幅や進行を最小限に留めるように、といわれて返される。

肉体は、こうやってほころびて、ほろびていくのか。頭の中のどっか別の場所で、そんなことを思ってみるのだけど、突き詰めて考えることができない。去来し、浮かんでは消え。

でも次の瞬間には、肉体を蝕まれ、その痛み苦しみに耐えているのは「私のお母さん」なんだと思い知らされ、とにかく、ただただ「痛くありませんように。苦しくありませんように」とだけすがるような思いで、祈るような気持ちで願うしかない。こんなに大事に思っている家族なのに、娘なのに、まったくの無力だ。母は孤絶しながらも闘って、そして力尽きようとしているのに、何もしてあげることができない。

今日は、とてもホームに行けるようなゆとりがなかったのだけれど、どうしても気になって、午後からホームへ。一足先に、到来物のデコポンを一口大に剥いて差し入れしに行ってくれていたオットを追いかけて。母は、「他人」である夫の手を握りながら、一生懸命マッサージしていた。(いまとなっては、マッサージだけが、母が誰かにたいして、自力で、積極的に「何かをしてあげる」ことができることだから。)

私と入れ替わりに、子どもたちを迎えに戻ったオットと、「疲れた」とかで、部屋に引きこもった父がいなくなって、私と母2人になった。とどまることをしらない、耳の腫れと熱をもった痛みを、手で触って確かめようとするように、母はしょっちゅう耳に手をやる。腫れはもう、首筋にまで至って、顔を右に傾ける(圧迫する)だけで痛いらしい。

触ると痛い。触ると怖い。でも、触らずにはいられない。どうなっているのか?何がおこっているのか?こういうとき、自分はどうしたらいいのか?そういう不安が、母の心のなかでむくむくと膨れ上がっている。今日は、ひさしぶりにゆっくりと話したからかもしれないが、母はしきりに不安を訴え、涙声になる。その姿に胸が潰れそうになるけれど、私も必死で嘘をつく。

「お母さんはね、25年間も、放射線障害の予防のためにステロイドを常用してきたでしょ?だから、そのせいで骨粗鬆症になったでしょ?骨がとても脆くて、弱くなっちゃったんですって。そして、慢性中耳炎を2年近くも放置して、こじらせてしまったから、その炎症が耳の骨にも飛び火しているんですって。耳の骨は、視神経や顎関節にも近いでしょう?とてもデリケートな場所だから、外科的処置はできないんですって。だから、炎症と痛みを抑えるために、とっても強い薬を調整しながら使って、地道に、時間をかけて直さなければならないの。わかる?よく効いてるな、と思っても、調整のバランスが崩れて一進一退ということもあるそうよ。お父さんの心臓の薬といっしょで、調整が難しいのよ。それで、その痛みを抑える薬は、とっても強い薬なので、目があきにくくなったり、口が閉じにくくなったり、けいれんしてしまったりするんですって。副作用が強くて不便や不快が多いだろうけど、頑張って我慢してくださいね、ってお医者様から言われているのよ。わかる?こんなにこじらせるまで放っておいて、ごめんね。かわいそうに。つらいよね。それでね、耳が腫れているのは、もともと骨が弱い上に、何かに感染しちゃって、なお泣きっ面に蜂状態なのですって。薬を常用しているぶんだけ耐性ができやすくて、効きが悪くなることもあるみたい。わかる?」

あることないこと。医学的根拠なんてないことまで、とにかく思いつくかぎりの嘘を並べ立てる。根拠なんて、どうでもいいわけだから。なんとなく論理的に理由があるような感じがして、適度にリアリティがあって、母が「なるほどねぇ。確かに言われてみればそうよねぇ」と思ってくれそうな、あることないこと嘘八百。

私は、子どものころからたわいもないウソやホラ、作り話なんかがだいすきで、時々「虚言癖かな」なんて自分で心配になるほど、平気でWhite Liesを口にして楽しんでいたけれど、いま、人生で最も重大で、最も責任の重いウソを、必死でついている。たとえ閻魔様に舌を抜かれても、最後の審判で嘘つきの烙印を押されても、私は必死で嘘をつきとおす。告知をしない、母に不安や苦痛を与えない、という道を選択した時点で、嘘の痛みや苦労は引き受ける覚悟をしたんだから。地べたを這いつくばってでも、嘘をつきとおしてやる。

それなのに、器の小さい私は、嘘をつきながら母の前で泣いてしまう。母の前に座って、母の眼を見て、手を握り、足をさすり、母の思いのたけを受けとめながら、母の眼と耳が悪いことをいいことに、泣いてしまう。嘘への自覚がたりない。覚悟が足りないからそうなる。

本当に、お母さんの耳と目が不自由でよかった、細かいことをロジカルにつきつめて考えられるだけでの認知思考力がなくてありがたかった、と今ほど思うことはない。意気地なしの私は、きっとお母さんに、瞬く間に嘘と動揺を見抜かれてしまったことだろう。泣きはらした目や、万感を込めて握る手の力に、「ほんとうのこと」を気取られてしまったはず。

すっかり面相が変わってしまった自分の顔を鏡で直視しないで済む母。ひとの表情や声音の機微を感知せずに済む母は、少なくとも、いま自分が置かれている状況、向かっている先を正確には理解できないでいる。もし「クリア」だったら、どうなっていたんだろう。

あと2か月の寿命。変形し、破たんしていく自分の体。見た目。ひどい苦痛と恐怖。どうなっていたんだろう。そして私たちは、そういう母と、どう向き合い、見送っていたんだろう。

考えただけで、恐ろしい。「告知しない」という選択は、絶対にありえなかった。根性無しの私はきっと、泣いて泣いて、母に死の恐怖と別れの辛さばかりを与えてしまったに違いない。いまは、母のハンディキャップが、私たちの窮地をも助けてくれているという情けないありさまだ。

人の弱みに付け込んで、じゃないけど。そんなレベルでしか「一世一代の嘘」がつけない。最悪の事態だったはずの、認知障害や知覚障害の数々が、いまでは弱気な自分たちのせいで、母を苦しめないために計らってくれた天の采配としか思えないくらい、そのくらいにしんどい。

嘘をつくなら、本気でつきとおせ。というフレーズが頭の中をめぐる。とにかく、徹底的に母の不安や不信を濯ぐ落とす。振り切る。最後まで。

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2009年3月 5日 (木)

顔面痙攣が消えた

昨日は雛祭り。納品日と重なって1時間とてオフラインになれない状態だったんだけど、日曜日からまったく母に会いに行けていなかったから、無理やり時間をひねり出してホームへ。さしいれに、とらやの雛菓子を持って行きたくて。父がホームにいてくれて、妹が毎日仕事後に顔を出してくれているから、少し油断した。

ホームに入って、2日ぶりに会った母の顔をみて愕然。腫瘍のある右側半分の顔面は、完全に重力にまかせて「流れて」いた。瞼は下がって瞳を隠し、ほっぺたと口角はなだれ落ち、あまりに変わり果てた面相に言葉を失う。そして、右側の額関節と耳介周辺の骨が腫れあがって、右側は輪郭まで変わって痛々しい。

日曜日にチビたちとオットと訪れた時は、多少その傾向はあったけれど、ここまでではなかった。たった2日で、こんなに面変わりしてしまうなんて…。

右目がちりちりと痛痒くて、よく目が見えないのよ。耳のまわりが腫れているし、なかなかよくならないから、耳鼻科にかからなきゃ。あなたから手配してね。薬飲んでいるだけでいいのかしら。お父さんから聞いてみてもらわなきゃ。あなた、仕事は大丈夫なの?ちいさいひとたち(母はちびたちのことを昔からこう言う)は元気?忙しいのに、悪いわ。

筆談用のマグネットボードに、大きく「大丈夫よ」と書いて示すが、もはやボードそのものを認識できていないもよう。筆談をあきらめ、わずかな、簡単な手話で意思表示してみるも、手話そのものが見えていないのか、見えても認知できないのか。

ああ。全然わからないのよ。困ったわ。目がどんどん悪くなっちゃって。あなた、仕事大丈夫なの?ちいさいひとたちは元気?(母の同級生が養豚場を営んでいる)佐久にもう一度みんなで行きたいわね、って話しているのよ。みんなでまた行きましょう。薬がとてもよく聞いていて、耳の痛みは全然ないの。いい薬なのね。合っているのね。でも、目や手がうまく動かせなくて困ったわ。ほんと、いやんなっちゃう。

もう、「話す」のはやめようと思った。話したいと思うのは、こちらの話を聞いてほしいからなわけで。母が話したいことを、話せるだけのことを聞いて、「聞いているよ」「ここにいるよ」というサインだけを返していれば、それでいい。両手を握って、母が何か言うたびに、手をぎゅうっと握ったり、手の甲をなぜると、母も同じように返してくれる。

脳の腫瘍の影響か、鼻をかむのも、お菓子をつまむのも、もううまく操作できなくなってしまった右手なのに、両手をつないで、手を握り合うことで「会話」をしている間の母の手は、とても滑らかで優しく動く。入浴介助の順番が来るまでの間、30分余りの間、ただただ言葉ではなくて、掌だけで会話していた。しみじみと温かくて、ふにゃふにゃと頼りなくて、さらさらと乾いたおかあさんの手。このままいつまでも握っていたかったけれど、入浴の声掛けにきたスタッフの方に母を託した。

手をぎゅっと、何度も強く握るのが「じゃあね、またね」の合図だ。

ああ、そう。気をつけて帰ってね。来てくれてありがとう。またね。風邪ひかないでね。元気でね。みんなによろしくね。さよなら。気をつけてね。ありがとう。またね。さよなら。

私とはまったく違う方角を向いて、母が私に声をかけ、お風呂へ向う。

あとで妹がくるよ。お父さんもいるよ。またすぐにくるよ。と伝えたいけど、それすら、もう難しい。

予想よりはるかに時間がない、と思った。そして気づいたことがもうひとつ。母の顔はもう、痙攣もなくなっていた。顔面の右半分の痙攣の頻度が上がっていたのが気になっていたけれど、もう痙攣はなくなった。そのかわりに右半分の筋力が完全に失われた。呂律もまわらなくなり、話が聞き取りにくいのもそのせいかも。

春まで、なんて言っていられない。いま目の間にある仕事をとにかく一日も早くやっつけて、目鼻がついたところで人に振るつもり。今週は何日徹夜してでもめどをつけなきゃ。

PCの前に戻ると、理不尽な八つ当たりメールが届いていた。何週間も前から引いてきたスケジュールが押し気味になってテンぱっているディレクターから、「こんなのどう考えても非現実的。何考えてんだ」メール。「いまごろ何言ってんですか」と思ったけれど、今はとにかく丸く収めたいんだ。変なところで躓きたくない。謝れば気が済むならそれでいい。「仕切りが悪くてすみませんでした」と返信し、あとはもう反応しないことにした。

早くカタをつけたい。くだらないことに巻き込まれたくない。

ちびたちが帰ってきて、やっといつもの気分を取り戻すけど、仕事への意欲がどんどん減退しているのがわかる。でも、この子たちのため。1年後、10年後、30年後のため。流れを止めるわけにはいかないから、いまは心を亡くして頑張るのみ。ああ、しんどい。

時間も、お金も、約束も、信用も、責任も、何もかも関係ないところで、母と子どもたちに向き合いたいなぁ。

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2009年3月 3日 (火)

「山月記」

父はラクナ脳梗塞と診断されている。細かい血栓が脳血管に詰まって、一時的に記憶が脱落したり、感情失禁がおこったり。自分でもうすうす異変に気付き始めることで、不安定な心理状態に陥り、猜疑的になる。

母のことがあって、自分のこともあって、それでいっぱいいっぱいなんだと思っていたが、ここ2日ほどは、「ああ、父は脳血栓性認知症の初期症状を呈しているんだな」という思いを強くしている。そうでもないと合点のいかないことが多すぎる。いや、自分がそう思いたいだけなのかな。

ホームに「入居」して、心身にゆとりができたこともあるのだろうが、「このままホームに入れられるんじゃないか」「今後の生活資金(貯蓄)が底を着くんじゃないか」「自分だけ冷遇されているんじゃないか」という不満と不安が言外ににじみ出る。お父さん、ひとが変わっちゃったみたいで情けない。という話を、妹とこぼさずにはいられない日々。

それでもまだ、母と一緒に過ごしてくれていることで、なんとか平和な時間が流れているわけだから良しとしたいが。病気なんだから仕方ない、と思った方が気持も安らぐし。そうでも思わないといられないということがいい証拠に、結局私は、父のことを赦していないんだと思う。苦難は気の毒としか言いようがないし、本人のせいではないけれど、抗いがたい苦境に立たされたとき、理不尽な事態に直面した時に、ひとは「地金」を出すということを思い知らされてしまった。自分の父親になんとひどいことを、と思うけど。

なんだろうね。フランクル先生のいうところの「態度価値」が見えた、とでもいえばいいのか。どうすることもできない運命に直面したときに、それに対してとりうる態度への価値。母と父のその落差に。比べることは意味がなく、父にとってははなはだ不当な話だということは重々承知しながら。

移動時間、頭をからっぽにしたくてケータイに無料ダウンロードの小説を落としてみた。高校時代、教科書に載っていた中島敦の「山月記」。20年以上たっても印象が強いほど、当時も影響をうけた話。(すっかり読むことはなくなっていたから)思い立ってDL。短いからすぐ読める。当時は、驕りの余り畜生に身を堕したエリート、というモチーフがすごく斬新に思えて「切磋琢磨を怠らないようにしないと」という、若さ満点の警句的解釈で楽しんだのだけど、まあその程度のこと。

それが、読みなおした後、いいようもなく打ちのめされる。そこには私の父がいた。

本当は、先ずこの事を先にお願いすべきだったのだ、もし人間だったなら。飢え凍えようとしている妻子のことよりも、自分の貧しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。

昔は、虎に身をやつした李徴の悲しみ、悔い、慙愧の念にさいなまれる様のほうに、どちらかというと感情移入して読んでいたと思う。でも今の自分は、その業というか、性というか、そちらの根深さに思いが行く。決して滅私奉公的に、道徳的に生きることが善とは思わないけれど、「己」「我」に執着するあまりに、意識的か否かにかかわらず、それ以外のすべてを人生からスポイルせざるを得ない者の愚かさ、哀しさ。

お父さんはこのまま虎になって、どこかへいってしまうのかしら。

そういう業の深さゆえ、自我の強さゆえに、私もある時期「父の娘」であったわけなので、そのことに感謝もしなければいけないのだろうけれど。しかし、自分が母になり、家族を持って思うのは、私は才能も意欲も乏しいけれど、それでもやはり「虎にはならないな」ということだけはわかっている。なれないし、ならない。絶対に。

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2009年3月 1日 (日)

告知しない

こんなときにすら、仕事の責任を果たすために躍起になっている。自分ひとりの看板で仕事を引き受けたことの因果に苦しむ。

リリーさんの「東京タワー」の最後のほうに、おかんが亡くなって、それでも締切は待ってくれなくて、原稿の取り立ての義理を果たすために、仏さまのそばで職務を果たし、「くだらない」仕事の仕方しかできない自分を責めるようなくだりがあったんだけれど、それが頭をちらつく。

仕事の中身や進め方が悪いわけでも、自分の生業がくだらないわけでもないんだろう。

でも、「こんなときに、何やってんだ私は」という気持ちに負けそうになる。仕事のくだらなさのせいにしたくなってしまう。きっとどんな仕事に就いている人でも、職業をもっていない人でも、同じように苦しい気持ちを抱えるのだろうと思いますが。

「残りの日々」や「無為に過ごしてしまった日々」をカウントするのはやめよう、とは思っているけれど、刻々とカウンターの数字が落ちていくような焦燥感に駆られている。

ふと、「お母さんは、本当にこれでいいんだろうか」という疑問がわきあがる。

あと2~3か月の命。治療の余地もない絶望的な状態。「痴呆」とはいえないほど知的レベルは保たれているにも関わらず、自分の置かれた状況を冷静に把握できるだけの意識が一定のクリアさで保たれているわけでもない。

筆談の文章を判読できるだけの視覚認知能力はもはやなく(ここ1カ月で急激に悪化した)、自分の意思や思考を適切に言語化できる能力もなく(本人が自覚している)、限りなく言語的コミュニケーションに制限があり、円滑な意思の疎通は困難。

現状は確かにそのとおりなのだけれど、「本来のお母さんだったら、自分の人生の始末は自分でつけたい」と思うんじゃないか。「どうして当事者の私が、自分の人生を把握できていないのか」と思うんじゃないか。私の、家族の判断は本当に正しいのか。迷いが出る。

妹にその迷いを正直に伝えるが、妹は「言う必要はない。知っても、もはやどうにもできないし、気持ちをうまく処理できない状況なのに、衝撃と不安だけを与えて苦しめることになる」と言った。それで、自分も正気に返る。やはり、私もそう思う。

私は告知主義者ではない。自分なら、ちゃんと知りたいし、残された日々でできることを「処理」しておきたい派だから。でも、他人に告知することは、「自分なら」とはまったく別ものだと思う。もし母が、耳も目も、意識もクリアで、余命がないことについて、尽きることなく言葉を交わせるなら、母の気性と人格を考えても告知をしたことだろう。でも、今は無理。妹に相談してよかったが、妹はこうも続けた。

「お母さん、なんとなく察知している気がする。最近“家においてきた私のアクセサリーや大切なものを、あなたたちに受け取ってほしいのよ” “アルバムや手紙や、そういうものがどうなっているか、気になるし、大切な人たちにも連絡しておきたいの”とかって言うし。寿命が尽きていることを理解しているかどうかはわからないけど、少なくとも“自分”がもうすぐいなくなることを感じていると思う。死期が近づいた猫が姿をくらますみたいに」

切ない話に胸が詰まる。それでも。やっぱり最後まで、大好きなお父さんがそばに来てくれて、やっと穏やかな気持ちで過ごせるわずかな日々を「演出」するしかない。大法螺ふきの娘2人の拙い芝居ではあるけれど。きっとお母さんにはわかってしまっているかもしれないけど。これでいいのかな。これしかないものな。

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2009年2月27日 (金)

「死ぬまで生きるんです。」

在宅での看取りをお引受くださるクリニックへ行ってきた。

詳しく書いている時間はないけど、どうしても残しておきたくてログ。

「終末期の方との1日は、10年に匹敵するんです。振り返るより、残された日数を数えるより、今日の一日、できるかぎりひねり出した1時間、数十分でも十分に”生きた”時間だということを、これまでお見送りした何百人の方と、その家族から教えてもらいました。

「できることをやりましょう。今、この時間を大事にしましょう。」

「緩和ケアは、痛みをとるだけじゃなくて、心の辛さを和らげることも一環としています。徐々に生命レベルが下がって、緩やかに、穏やかに旅立とうとしている人の邪魔をしない、というのも緩和ケアのひとつだと思っています。点滴での輸液や栄養補給も、それが苦しさを取り除く目的でないかぎりは、ひとりひとり違う生命力の流れに任せて、最小限にします。つまるところ、それが最もその人の体と心に無理を強いないものであることが多いです。」

「あたりまえのことだけど、ひとは、死ぬその瞬間まで生きているんですよね。たとえ意識がなくなっても、命の灯が消えるその瞬間まで、その方の生なんですよね。だから、それを静かに見送ってあげましょう」

見送られて、帰ってくる間、気持ちが穏やかだった。

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父、「入居」。

今日、父は母と同じホームに「入居」する。

ほんの少しの月日を、母と一緒に過ごすために。というのは事実なのだが、どちらかといえば、母に「お父さんも、入居することに決めたって。お母さんと一緒でないと、やっぱり厭だって。」と言うために。

一緒に暮らしたかったのに、一緒にいるとお互いの苦しみにしかならないとわかって、一人でもホームに入ると決めた母だったけれど、認知障害も手伝ってか、入居後は時折「お父さんはいったいこれからどうするつもりなのかしら」「私はもう、家には戻れないのかしら」「結局一人でここにいるしかないのよねぇ…」と嘆くことが増えた。

どうしたらよいのか、解決策を考えようにも、母の思考では到底答えなど見つかるはずもなく、見つかったら見つかったで、希望のないその答えに再び打ちのめされるだろうし。「考えようと思っても、どうしていいかわからないの」という嘆きの方がまだ幾分幸せかも、と思ってきた。

寿命があと3か月と聞いてから、父の決断は早かった。迷っている時間すら、策を講じている時間すらないということがわかって、居ても立ってもいられなくなったのだと思う。

在宅(ホーム)で、最後を看取ってやりたい。もうこれ以上環境を変えたり、母を独りにしたくない、と思う私たち姉妹の気持ちと、父の思いも一緒だということもわかって、安堵した。

しかし、今のホームは介護という面では頭が下がるほど素晴らしく、文句はひとつもないかわりに、24時間体制でのメディアケアはできない。ホームでのターミナルケア(with 父)を望む私たちの思いに、制度上どこまでこたえられるのか。ホームのスタッフの表情にも、自分たちの思いだけでは対応できない苦渋がにじむ。

頼みの綱は、ホームの提携医が緩和ケアを引き受けてくださり、かつ、24時間365日の訪問緩和ケアが可能で、緊急受入れ(入院・処置)設備を整えている系列クリニックが、最後の「看取り」を引き受けてくださるかどうか。

母の病状を考えても、施設や医師、家族(もちろん本人)への負荷もリスクも十分承知したうえで、私たち家族の最後の望みに答えてもらえるのかどうか。

さらには、ホームに入居する意思のなかった父を、母の最期の望みのためだけに「ショートステイ」というかたちで数か月入居して一緒に暮らすことを許容してもらえるのか。のこりわずかな時間で、入居にまつわるさまざまな手続きの規定を飛び越して、「超法規的」措置にて受け入れてくれるのか。普通、審査や検診、手続きには短くとも2週間はかかる。母の入居にもかなり特別対応してくださったけれど、今回もうまくいくとは限らない。しかも、まず部屋が空いているのかどうかもわからない。父が入居できないなら、母を在ホームでみとることの意味もなくなる。

今週に入って、すべてがクリアされた。

ホームは、事情を鑑みて特例的対応として、予約検討中の方に予告してくださり、父を空室にショートステイのかたちで、必要な手続きをすべて端折って入居させてくださることになった!もし母の予後が思ったよりよくて、長引いても構わないとのこと。

母のターミナルケアも、ホームの提携医がみてくださり、24時間体制が必要になった場合は、系列クリニックの緩和ケア専門医と連携しながら、夜間を問わず訪問ケアでみられることになった!万が一、予期せぬ緊急事態に陥った場合も、積極的治療はしないながらも、入院設備のある、その系列クリニックで受け入れてくださるとのこと。(そして、最初に診断してくださった、某(元国立)総合病院の腫瘍専門医とも病診連携ということで、連絡をとってくださるとのことだった。

何もかもが、望んだとおりに。すべて、ホームの方の陳情と、顧客相談室の方の判断、そして提携医の理解のおかげだ。ほかに持ち合わせる言葉がない。ただただ、感謝するばかり。何の縁もゆかりもない人たちなのに、これほどまでに(たった1週間の間に)、みんなが奔走してくれて。経営的企図なしには(ようするにビジネスのためという意図がなくては)、そこまでやらないだろうことは、重々承知。

それでも、「できるかぎりのことをするとお約束します。本社にも掛け合います」といってくださったみなさんの言葉を一生忘れません。ついていないことばかりだったのに、最後に人の優しさ、真心に触れることができて、私たち家族は果報者だと思う。

父も、「ホーム」という場所への違和感が融解しているようだった。火曜日には、顧客相談室の方が、突然キャンセルになった別の顧客対応の予定の代わりにといって、父を、検診に自分の車で連れて行ってくださった(私の仕事の都合がどうしてもつかず、途方に暮れていた矢先のこと)。ホームの施設長は、ホームで保管してたあらゆる備品を、父のテンポラリーな入居生活のために供出してくださった。

いろいろなことが決まったその日、ホームの通路を歩いていると、他のスタッフも「よかったですね」と声をかけてくださる。「ほんとうにありがとうございました。勝手ばかりで、すみません」と答えるのが精いっぱい。

前にも書いたけれど、このホームは、ハード面は決してピカピカでもなく、改修型だけに不備や不便もあることはたしか。見た目の華やかさや充実度でいえば、確かに系列の他ホームに比べても見劣りはするかもしれないが、「ひと」は、本当に素晴らしい。

顧客相談室の方によれば、「決して労働環境がいいとはいえない介護業界にあって、自社も苦闘を強いられており、現場にも苦労を強いていることはたくさんある。けれど、この施設は、職員のモチベーションが高く、定着率も非常によいので、継続的なキャリア形成をここでしている職員が多い。そのことが、一番自分たちにとっても安心であり、誇りである。内部的なフラッグシップホームなのだ」そうだ。

はじめて見学に来た昨年末。外見は見劣りしたかもしれないが、「ここなら」と感じた自分の直感は間違っていなかった、と思う。(きっと保育園などをたくさん見てきたせいだろう)当の母本人が、自分の目と耳で、ここの人たちの温かさを見聞きできないことが少し残念だ。とはいえ、母も、肌身で同様に感じているようだから、それはそれでいいのかな…。

母に「お父さん、決心して、やっとホームに今週入るって。よかったね」と伝えると、表情が輝いた。「ほんと?それはよかったわ。お父さん、落ち込んでない?無理してない?」と気遣いながらも、涙ぐんで喜んでいる。自己満足かもしれないけれど、「自分一人が結局重荷だったのだ。父を苦しめてしまった。もう一緒に暮らせない。父は一緒に暮らしたがっていない」と思い込んでいた母の孤独は癒されたと思う。遅かったけれど。もっと早くに、というか、そんな思いをさせずにいたかったけど。

少なくとも、去年10月、「認知障害」の検査で入院した時点で母の病気がわかっていれば、母を独りで2~3か月も病院や施設に置いておかずに済んだ。孤独や失望のうちに、過ごさせなくて済んだ。余命半年のうちの半分を無為に過ごさせなくて済んだ。そんな風に思いはじめると、自分を責めたり、怒りを持て余すところに陥ってしまうから、あわてて「結果的によかったと思おう」と、思考のはまり込みを打ち消す。

昨日は、父を伴って総合病院の腫瘍科の先生を訪ねた。医療情報のクリニックへの提供と、緊急時の受け入れの要請のために。そして、父に「母の最期を告知した先生」を引き合わせたくて。穏やかで理知的な先生と話し、画像診断の結果を確認すれば、父も納得がゆくだろうと思い。案の定、父は、先生に深深と頭を下げて、丁重に礼を言った。

そして、母の寿命が尽きた時には、病理解剖をしてほしい、と申し出た。先生はやや驚いていたが、グリオーマと中耳癌という、非常に珍しい病気を重ねて患った母のような症例は少ないといい、「篤志に感謝します。お心に報います」とおっしゃった。父は事前に私に断わりを入れ、謝ったが、私も反対はしなかった。父と母は、以前から献体登録をしていたし、病気を患ったものの責務(せめてもの働き)として、医学の進展に貢献したいという思いを持っていたから。短いおつきあいだったけれども、この先生に最後を役立てていただけるなら、本望だと思ったのだろう。それを見極めたくて、先生に会いたがったのだろう。

先生からは最後に、腫瘍が高速・広範囲に広がっているが、急激はショック症状の心配よりも、徐々に衰弱していくのではないか、と言われた。そして、万が一ありうるとするなら、腫瘍が頸動脈に接しているので、頸動脈に異変が起きて大出血を起こす可能性はわずかながらあること。また、大出血に至る前にも、感染症を起こして髄膜炎を起こす可能性があることは指摘された。それでも、基本的には穏やかに2か月は暮らせるだろう、と。

これで、環境は整った。

あとは思い残すことなく、一緒に暮らすだけ。実際には、思い残しがないなど、無理なことだけれど(今の時点でもすでに悔いばかり)、父の表情にも、入居できる安堵が見える。

これで、あとはお父さんとお母さんの時間になる。よかったよ、お母さん、お父さん。

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2009年2月20日 (金)

「もって3か月」

頭頸部腫瘍の専門医の受診日だった。母を伴って病院へ。

中耳癌であることはもう判明しており、本人への告知も、積極的治療もしないことも決めていた。だから、あとは「今後の治療方針と余生の過ごし方」を相談するだけだった。

2時間半待たされた予約時間は、気がつけば外来診療時間の一番最後だった。

先生はとても柔和で物静かな物腰の方で、話していると気持ちが落ち着く気がした。

すでにどんな「治療」も選択しようがないほどであることがまず語られた。であるから、MRIを新たに撮影する必要も、もうないこと。手術はおろか、放射線や投薬治療もまったく意味をなさないこと。今後はモルヒネを中心とした疼痛管理にのみ集中するべきことも。

また、咀嚼や嚥下ができなくなることを想定して、経口で食事ができない場合に「胃ろう」を想定したほうがいいのかどうか、という私の問いにも、「その手術自体の負荷が大きいので推奨できない」という返答が。

「その場合の栄養補給はどうするんですか?」と尋ねると、先生は「その頃には、点滴でラインを確保して、必要最小限の栄養補給とモルヒネなどを投薬するようになるでしょう」と。

ちょっと飲み込みきれなくて、「それはいつぐらいからになりそうなのですか?」と尋ねた。

「4か月…、うーん、もって3か月でしょうか。(今のコンディションが保てるのは)せいぜいこの2か月が山でしょうね。」という答えに、言葉を失う。耳鳴りと脈拍で体が揺れているような感覚。なんとか普通のトーンでもう一度念を押す。

「1年は無理ですか?」

「いえいえ、とてもとても…(あとは首をゆっくり横に振っただけ)」

2か月って、私の誕生日までってことですか?3か月って、GWってことですか?この夏にはもう、お母さんはいなくなっている、ってことですか?夏休みにはムスメのバレエの発表会があるんです。この夏休みは、最後にゆっくり思い出をつくれるように、小旅行なんかを考えていたんです。暖かくなったら、公園や散歩にもっと連れて行ってあげたいと思っていたんですけど…。

どうでもいいようなことがらが、頭の中をぐるぐるぐるぐる。横では、母が私と先生のやりとりを眺めているけれど、もちろん話の内容はまったくわかっていないようす。私の顔色もわからないでしょう。それでも、母の方をまったく見ることができない。

「CTを見てみますか?ほら、ここ(右の耳骨あたり)、見えますか?もう骨が映っていないでしょう。これはみんな腫瘍です。まもなく脳に至るでしょう。その頃には苦痛で意識のある状態にするのは困難かもしれません。ともかく”だんだん痛くなってきた”という思いをさせないように、初期から疼痛管理に集中したほうがいいと思います」

先生の穏やかな口調のせいで、私の緊張の糸は途切れてしまった。涙腺決壊。

「緩和ケアは、在宅でしたいんです。最後は家族がそばにいると実感させてあげたいんです。医療機関に身を預けなければいけない事態はあるのですか?」と泣きながら聞くと、

「それはないです。病院でなければできない処置は、お母さんの場合はないでしょう。在宅緩和ケアの専門医は、入院と同等の処置ができるはずですよ。必要であれば紹介しますし、もちろん病診連携ということでフォローも情報提供もしますから。できることはしますからね」と。

昨日から、鎮痛剤が4時間空けられなくなっていることを伝えると、しばらく考えて、「まだ早いとは思ったけど、オピオイドといわれる薬を出しましょうかね。モルヒネです。麻薬ですから、効きますが、多少眠気や吐き気が出るかもしれませんけれど。少しすると慣れてきますから」と。

来週、再診することにしたけれど、その時はもう母は連れてこなくてよい、と言われた。

そして先生は「ちょっと耳を見せてくださいね。ガーゼを交換して消毒しておきましょう」とボードに自ら書いて母に示し、もう必要のないはずの処置を施してくれた。

「話を聞いているだけでは変だと思うでしょうから。せっかく来てくれたのだから、見ましょうね」と言って。

「はい、終わりです。時間がかかるけど、気長に治療しましょうね。痛みの我慢だけは絶対にだめですよ。痛みを無視すると、こうやって悪化しちゃうのでね。痛みは大事な体のサインですから、絶対に我慢しないでくださいね」と言って。

「薬を変えましたから、今日からは痛みも和らぐはずですよ。それでも痛かったら、頓服薬も出しますからね」と言うと、母は今日一番うれしそうな顔をした。

「はい、ありがとうございました。」と笑って答えた母の手を、先生がギュッと握る。初めての診察。そして最後の診察。こういう先生もまだいるのだ、と心の中で手を合わせる。

診察室を出ようとして、先生に頭を下げる母のすがすがしい表情を見たらいたたまれなくなってしまった。外来診療時間が終わって、人気の少なくなったとはいえ、まだスタッフや患者がちらほら見える待合を、明らかに泣きはらした目で、車椅子を押しながら歩く私を、行きかう人が見ているのがわかるけれど、気にしていられなかった。

たまらなくて、夫にSOSの電話を入れる。「3か月だってさ」としか言えなかった。「落ち着け。ホームに戻るんだろ?おれもそっちに行くから合流しよう」という言葉が、耳鳴りの向こうで聞こえる。母に気取られないように、トイレで顔を洗い、マスクをする。

会計・処方箋の窓口で呼ばれたが、「すみません、この薬は押印が必要なので少しお待ちください」と係員に言われて足止め。麻薬なので、管理が厳しいのだろう。

私が生まれ、ムスメとムスコを産んだ思い出深いこの病院は、母を看取る相談をするための病院にもなってしまった。

帰り道はサングラスをかけて運転。涙が止まらない。「薬が変わってよかったわ」「今晩は安心して眠れるわ」という母の笑顔と言葉がつらい。

ホームに着き、オットに報告をしようとしたが、胸が詰まって声になりにくい。「3か月だって。意識が保てるのは2か月だって。CTにはもう骨が映ってなかった。いまの状態が不思議なくらいだって。」言えたのはこのくらい。

ホームの看護師とスタッフには、できるところまでホームで緩和ケアを受けたい。そしてぎりぎりまで父が寄り添えるように(父が母と一緒に暮らす決心をした、ということを理解してもらえるうちに)、ショートステイでもいいので父もホームに身を寄せて過ごさせたい。在宅訪問緩和ケアを提供してくれるクリニックを手配したい。というようなことを頼んだ。

24時間の医療行為はできないが、夜間訪問診療が可能なクリニックが確保できれば可能だということ。父のショートステイも可能ではあるらしい。詳細は明日施設長と提携医と協議することになる。こういう事態にすら、事務的にものごとを処理できていることに一抹の心苦しさを感じる。

子どもたちをお迎えに、一足先に戻ったオット。私は先に家に戻って、父に報告の電話をする。余命1年と聞かされて泣いた父に、さらに追い討ちをかける残酷な報告。

「GWまで保証できないって。もう骨が映ってなかった。」ということしか言えなかった。ちちは「本当かよ。畜生…」といって、電話口で大声をあげて泣いた。初めて聞く、父の号泣。

すぐにでも母のもとへ移りたい、という父に、自分の目論見を伝えて、明日以降また連絡を入れることを約束する。「そっちへ行こうか?」と尋ねると「今は誰にも会いたくない」と。

しばらくして、妹にも伝えようと、近所にある彼女の家を訪ねると、もう知っていた。たまたま父を案じて電話を入れたら、まだ号泣していたそうだ。

妹はホームに泊まり込む、と言う。でも「いきなりだと、変に思われるから、徐々にしたら?」というと、同意してくれた。しばらく仕事をセーブするつもりだという。私もできることならそうしたいけれど、時期が悪い。いま仕事を「セーブ」するということは、途中で降りるということに等しい。それは現実的に不可能だから。

私の家の前には、保育園があって、18時ころになるとお迎えのにぎわいに包まれる。

最近のこどもはみんな「ママ」というけれど、たまに「おかーさーん」という子供の声が聞こえることもある。(うちも伝統的に「お母さん」と呼んできたので)「おかあさん」が胸に刺さる。おかあさん。おかあさん。おかあさん。こんなに切ない響きだったっけ。

こんなにあっという間に、こんな予期しないかたちで、どこかへ行ってしまうの?

「できれば、花が散るみたいに、自然に死にたいわ。どうしたら上手に死ねるか、よく考えるのよ。このまま生きながらえてみんなに迷惑かけたくないわ。」という母の、ここ数年の、口癖のようなつぶやきを思いだす。迷惑なんかじゃないのに。上手く死ぬより、長く生きてほしいのに。往生際なんてどうでもいい。もっと生きていてほしい。

認知症やら、介護やら、家族の葛藤やら、そんな今までのいろんなことが吹っ飛んでしまうくらいに、ただただ生きていてほしい。いつの間に、こんなことになっちゃったんだろう?

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2009年2月18日 (水)

「余命1年」

母の耳の診断結果が出た。内耳癌。かなり進行し、ほぼ絶望的な状態。

切迫している仕事の合間をみて診断結果をもらいに近所の総合病院へ母を連れていく。

先生が、CTと生理検査の結果をみながら、ためらいがちに告知。(母の認知症状の具合を尋ねられ、完全失聴しており、同席のままでも過酷な告知が直接本人に伝わらないことなどを確認して、その場で告知された)

覚悟していたので、その場で取り乱すことはなかったが、無邪気に結果報告をまつ母の横顔を見ていて苦しくなる。先生が、わざわざ人の出入りの多い外来診察時間をはずして診察時間をとってくれたことの意味を思い知る。いつもの騒々しさがまったくない診察室で、ゆっくりと、時間をかけて説明してくれる。

わかっていたのに、覚悟していたのに、大声で泣き出したい気持ちでいっぱい。でも今日は私一人なので、動揺を抑えるのに精いっぱい。でも、そのままホームへ母を送っていくのが耐えられなくて、オットに電話する。心配して結果を待っていたオットも絶句。私も声が詰まってことばにならない。泣いていられないのでいったん電話を切り、帰路につく。

耳が聞こえず、目も相当に悪くて周囲の気配を察知するのが不可能、認知症状もあって込み入った情報を理解・記憶していることのできなくなっている母の現状に、今日ほど感謝したことはなかった。「お母さん、認知症でよかったよ。もしクリアだったら、正気を保てないかもしれないから」と、心底思った。

ホームまで送る道すがら、車を運転しながら、父に、妹に、なんと言えばよいのか考える。ホームのスタッフも結果を待っているだろうけれど、先にスタッフに告げていいものかとも思う。が、母の身を預けた時点で、全幅の信頼を置いて情報共有してもらわねばならないことを思い、看護師長に報告。看護師も絶句。

これまで25年間主治医としてかかってきた某公立病院。認知症状が出て検査入院した昨秋、2か月もの間、結局積極的検査や診断をせず、●●の一つ覚えのように「遅延性放射線障害ですからね、何がおきてもおかしくないので」の一点張り。原因ではなく、対症療法でもいいから治療を、と千回も万回も頼んできたのに。痺れを切らして転院を決意したときにはすでに手遅れとは!一人の人間の症状を、脳は脳、耳は耳、と断片的にしか診てくれなかったことの結果がこれか。いやいや、母のかわりに、全人的な存在として辛さ苦しさを訴えきれなかった私たち家族の怠慢の結果がこれか。

父に結果報告を催促されて、以下のメールを送った。血圧への負荷が気になるが、隠すことはできないし、私にその権利はない。

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お父さん、これから●●(妹)を呼んで詳しくは伝えておきますので、明日聞いて下さい。もうA病院では、詳しく検査をしてもらう必要はありません。生理検査とCT検査の結果、お母さんはかなり進行した中耳癌であることがわかりました。すでに内耳・耳骨のほか、頭蓋骨まで腫瘍が及んでおり間もなく脳にいたるであろうという見立てで、最近の認知症状などの急激な悪化、顔面痙攣や視力低下、顎関節・歯根の痛みなどもここに起因する可能性が高いとのこと。手術は不可能ではないが状況からいっても成功率は厳しく、本人への負荷も大きすぎる。また内耳癌は再発性が高いが、お母さんの場合はすでに放射線の許容量を超えており、もうこれ以上は照射できないことからも、積極的治療は困難。今後は激烈な苦痛に見舞われることを想定した緩和ケアが中心になるものと思われる。かなり以前から進行していたと思われ、昨年末からの諸症状の急変も無関係ではないと推察される。予後はもっても1年。その前にモルヒネなどを用いた疼痛管理を行うとなると、知的対話ができる期間はさらに短い。脳への腫瘍の影響が現れる時期は想定困難。本日すぐに耳科腫瘍の専門医とカンファレンスを行い、木曜日に今後の治療方針について診断したいとのこと。腫瘍の性質や詳細を知るためにMRIを撮りたいが、シャント手術をしているとのことなので、MRI撮影が可能かどうかをA病院主治医に確認してほしいとのこと。そのうえで可能であればこれまでの医療情報を全面的に提供してもらうことはできるかどうか、確認してほしいそうです。

●●にはこれから話しますが、私はいま非常に憤っているので、A病院にこれ以上の「治療」を期待することには絶対に反対です。また、お母さんの余生と、私たちの生活を考えると、B病院(いまかかっている総合病院)ないしは都心部の専門病院を主治医にしたいです。その観点で、以上の状況をA病院のC先生に報告し、医療情報の提供というかたちでの協力のみ依頼してもらいたい。とりいそぎ、今日の報告のみ。お父さんの体調を考えてどう伝えようか考えていましたが、まだA病院を信頼しているのだと思って考えを変えました。事実のままに伝えます。母には「内耳の炎症が長期間放置したひどく悪化していて、顔面痙攣や耳・顎の痛みなどもそのせい。部位的に外科的治療は効果がないので、時間がかかるが内科治療で気長に直していくそう。悪くなったのと同じくらい時間はかかるけど、よく動かす部位で不便も多くなるから、まずは痛みを緩和しながら気長に頑張りましょう」という風にしか伝えていません。お母さんも不快苦痛の原因がわかってすっきりし、喜んでいるし、私は告知には反対です。最後くらい不安を取り除いてあげたい。今後の暮らしについては、もう一人ぼっちにしない方向で考えます。認知症になったおかげでこの恐怖におののかなくて済むのなら、これも天恵だったのだと思いたい。

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こどもを寝かしつけてから呼んだ妹には、口頭で説明する自信がなく、父におくったこのメールをそのまま読ませた。途中で声を上げ、テーブルに突っ伏して号泣する妹にかける言葉がない。「あんまりだ」という言葉に、背中をさすってやるしかできなかった。

オットと3人でさっきまで話しながら、少し気持ちを落ち着けたようだけれど、妹は一人暮らしなので、しばらく気持ちを引きずるだろう。そう思うと不憫だ。

話し合った結論としては、ホームでの手厚いケアを受けなければ、生活が厳しいのは事実だが、そう長くは「在宅(医療機関以外で、という意味)」生活はできなくなるだろう。そう考えると、いまのホームでできるところまで在宅緩和ケアをがんばる。

しかし、入居以来、母の心にある思いは一貫して父と一緒に暮らすことなので、ベストな案として、ホームの目と鼻の先にマンションを借り、父と妹がそこに引っ越す(いまの実家はとりあえずそのまま)。日中はホームに行きやすくし、夜はホームで眠る。父も妹も私も、いつでもすぐに会いに行けるように。なるべくみんなで過ごせる時間と環境を確保する。

在宅緩和ケアを提供するクリニックを利用し、ホームおよび家での生活をなるべく長く続ける。入院しなければならなくなるまで(かなりの劇薬管理が必要になる末期まで)、がんばる。せめて数か月のことだから。

父には、なんとしても了承してもらうつもり。最後くらい、母が「生きててよかった」と思えるようにしてあげるべきだ。それができる条件は整っているんだから。

私、やっぱり怒っているんだ、と思う。

誰に対して?何に対して?父に?病院に?母の人生の理不尽さに?

自分に腹が立つ。手遅れなのは母の病気ではなくて、自分の怠慢のせいのようで。

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