私は長女だから、母の没後は捌かねばならぬあれやこれやを、ひたすら捌きまくった。
「長女だから」という言い方はなじまないし、長女的な性格だと自覚したこともなかったけれど、結局、これまでの経緯もあって、すべてをリードせざるを得なかったから。
臨終にあって泣き崩れる父と妹とは別に、医師・看護師への挨拶、近親者への連絡、死後すぐに病理解剖へと献体するための手続、亡骸の清拭…。とにかくどうでもいいようなことから、すぐに算段しなければいけない大事なことまで、片っぱしから手をつけては片づけた。
頭のどこかでは「2時間もしないうちに病理解剖のための搬送業者が来ちゃう。いまのうちにお母さんとお別れしなきゃ。体に温もりが残っているうちに、もう一度ぎゅっとしなきゃ。チビたちが来る前に涙を流しておかなきゃ…」と逸るくせに、体が言うことを聞かなかった。「そんなこと後でもいいから、今のうちにお別れを」という、周囲の人の言葉も受け止めつつ、気持ちより先に体が動く。
いま動きを止めて母にしがみついたら、もう離れられなくなってしまうし、「病理解剖なんて止めてくれ、このままそっとしておいてくれ」と泣き喚きたくなってしまいそうで怖かった。
たまたま見舞で居合わせた小母の親切心や、葬儀の段取りに関する問い合わせ、遺族としての振る舞いに対する助言も鬱陶しく、家族だけにしてくれ!とのど元まで出かかりながら、顔がこわばっているのを自覚しながら、事務的に体を動かしていた。
母の臨終については、実のところあんまり詳しく思い出せない。11時過ぎから容体が急変し、結局持ち直すことなく、カクンカクンとステップダウンしていった。マニュアルミッションの車がエンストを起こしそうになる間際のように、呼吸が不規則に空回りするかんじ。何度も呼吸が止まり、都度刺激すると再開。呼吸停止の頻度が上がりつつ、間隔は開いていった。「もう戻らないかも」とぼんやり悟ったのは、昼ごろだ。
「時間の問題(今日明日にも)」と医師から告げられたのは、せん妄が悪化した今月10日の入院から5日後の15日。大事な人には週内に引きあわせておくように、という指示もあり、私の誕生日である22日までは難しいだろうと思っていた。予想どうりに何度も危機的状況に陥ったものの、奇跡的に持ち直すことを繰り返した。「さすが、不死身だ」と、妹と冗談交じりにわらい、母の健闘をたたえたりしたものだった。
22日を迎え、その週末を越そうとした時までにも危篤状態にはなんどか陥ったものの、やはりその都度、高度を下げながらも低空飛行を続ける母に感服していた私たち。多くの週末期癌患者を見送ってきた医師たちも「驚異的な生命力」「人知を超えたバイタリティ」と驚嘆した。
週が明けた27日月曜日には、いわゆる「虫の息」になっていながらも、しかしまだ確かに拍動を刻み、サチュレーションも血圧も低いながらも確認できた。その様をみた主治医と院長は「これはもう、彼女の明確な意志を感じますね」「こうして生きようとする姿勢にただ敬服する」「神秘主義的な意味ではなくて、こうしたことにはなんらか意味があるはず」「何かまだ、言いたいことやしたいことがあるんでしょうね」と異口同音におっしゃった。そして、「しばらくはこの状態が続くかもしれないから見守りましょう」と。
意志たちのこの言葉を聞いて、私のなかで気持ちが動いた。「お母さんは、やっぱり“あのこと”を父にきちんと伝えてほしがっているんじゃないか」という思いが込み上げた。
母が聴力を失い、視力をほぼ失い、次いで平衡感覚を、知的安定力を損ないつづけてきたこの10年余、ずっとずっと独りで抱え、何度も解決しようと試みては挫折して、諦めてきた父への思いについて。
それをいま指摘することは、父にとっては受け入れがたい自己の振る舞いへの批判となるものだし、今となっては主体的な意思表示ができない母の前で、父子が骨肉の争いを繰り広げることになるリスクをはらんだ「爆弾」だったから、軽々に口にすべきでないと思い、私と妹の腹に収めてきたことだった。
けれども、今際の母を前にして、根深い夫婦の断絶・葛藤という過去をすべて美化(辛いことは抹消)し、麗しい夫婦愛に没入している父の立ち居振る舞いを見続けることは、私には耐えがたく、理想的な終末医療環境にありながらも、「献身的な家族愛」という欺瞞とか茶番ぶりに対する怒り、嫌悪感は頂点に達していた。
その苛立ち、不快感を、妹と2人、携帯のメールでやりとりしながらうっぷん晴らしをし続けた数週間だったわけだ。以下は、27日朝に、一度自宅に着替えとシャワーに戻った妹に送った私からのメール。
回診の後またナニが始まり、我慢の限界を超え。●●先生が「まだ言いたいこと、やり残したことがあるんですね。きっとこの粘りは意味があるんですね」っていうのを聞いて、「何が気になるんだい?」だって。その一言で私のスイッチがONに
でも非難ではなく、代弁に徹した。「配偶者として母のすべてを誰より知っていると自負するなら、母の本当の気持ちを知ってあげて」と。
「母は耳が聞こえなくなってからずっと淋しかったんだよ。父とコミュニケーションができない。私はひとりっていつも言った。今の父の思いやりや涙は真実だと思うけど、何故、100分の1でいいから、一緒に暮らしていたときに返してあげなかった?と思う。お母さんの長年の悩みを思うといたたまれない」って。
泣いちゃったけど、責めず怒らず。父は黙ってたけれど、きっと正しく理解はできないだろう。また逆ギレモードになるかもね。でも、Drの話はベストな呼び水だったから。わかってもらわなくても、母の心情はとにかく伝えた。でもありゃ憤死しないぜ。むしろ私が仮想敵になって活性化するかも
それまで、自分のなかでどろどろと毒づく思いを制御しきれなくて、「きっと息の根を止めてしまうくらい、痛烈なことを言ってしまいそう」と恐れて言えなかったことだった。だけど、なぜかこの日、誰もが驚嘆する生きる意志と、医師の言葉に促されて、急に感情の質が変わった気がしたのだった。
「はらいせ」や「こらしめ」で、「よき夫」に耽溺している父に母の心中を教えるのではなくて、「お母さん、ほんとうはこうだったんだよ。それを、一番大切に思っていたお父さんに知っていてほしかったんじゃないか。だから、ここまで粘って、頑張って、その思いが遂げられることを願っているんじゃないか。あるいは、そういう思い残しや無念だけではなくて、ずっとさびしかったけれど、今は本当に家族がそばにいてうれしくて、幸せだから、もう少しこの状態を満喫していたいんじゃないか。なごり惜しいってことなんじゃないか」と。
話しながら、「アレ?私、こんな好意的なことが言いたかったんだっけ?もっと痛烈な一撃を加えたいと思っていたんじゃなかったっけ?」と思ったのだけれど、どういうわけか、そんなよこしまな思いはなりをひそめて、「私たち、本当にお母さんのことを理解していたのかしら?」「お母さんのことを理解していると自負する資格があるのかしら?」と問うていた。
話しながら感極まってしまったけれど、父に対する詰問をする気にはなれず、よって父の見解を問いただすこともなく、そのまま買い物に出てしまった。しばらく隣の公園で頭を冷やしつつ、少しして病室に戻ると、父が何事か母に話しかけているように見えた。しかし、「また例のナニだろう。懲りない人だ」と冷ややかに見つつ、黙殺して本を読んだ。
母の容体が急変したのは、その直後、午前11時頃だった。それからあとは、先のとおり。
母がこと切れたとき、父が泣き叫んだ。
「俺が悪かったんだ。本当に非人情なことばかりで、お母さんの気持に気付かずに取り返しのつかないことをしてしまった。許してくれ。さっき、そう言ってお母さんに謝ったんだ。そうしたら急に呼吸がおかしくなった。そんなことも今のいままで気付かないで、俺はどうしたらいいんだ」というようなことを悲痛な声で叫んだ。
私は何かを考える暇もなくて、父の肩を何度もさすり、「お父さん、こんな時にこんなことを言ってごめんなさい。残酷なことを言ってしまってごめんなさい」と何度も謝った。
父は首をぶんぶんと横に振りながら「お前がさっき教えてくれなかったら、俺はお母さんが生きている間に謝ることもできなくて、一生後悔した。ありがとう」という。
その間に、看護師が姿勢を整えてくれた母を見やると、(その場に居合わせた人間以外は信じないだろうが)、あんなに歪曲し、醜く面変わりしていまった右半面はすっかり元の、整った面立ちに戻っていて、腫瘍の痛々しさも、壮絶な闘病を示す顔貌も、どこにも見られなかった。わずかに下顎が左右にずれていた程度だ。
ベッドサイドから見る母の顔は、信じられないくらい穏やかで、笑っているようにも見えた。あんまり驚いたので、泣き伏したままの父に言う。「見てよ。あんなに穏やかな、優しい、元通りの顔をしているお母さん、すごいよ。あの顔を見たらわかる。お母さんはとっくに赦してくれてる。“わかってくれればそれでいい、もう十分だ”って言ってると思う」と言う。父はただただ声にならずウンウンとうなづいて泣く。
私は、号泣する父の肩をさすって(父の体に触れるのは何年ぶりかもわからないくらい)、泣き崩れたままの妹の頭を撫でて、「お母さん、お疲れ様でした」とだけ言った。なんだか、幽体離脱でもしそうなくらい脱力し、空腹に燗酒を空けたように体中の血流が変わった気がした。お母さんは、私にも何か言いたかったんじゃないだろうか。
「何も言わないで相手を蔑んだり、罵ったり、怒って拒んでいるだけじゃだめなのよ。家族なんだから、話さなきゃだめなのよ。お父さんにはちゃんと言ってあげてほしい。言わずに、知らせずに、断絶しないでほしい。お父さんがかわいそう。お父さんは、ちゃんと話せば本当はわかる人だから」と、いつも言っていたように、言いたかったんじゃないか。
私は、母の気持ちを理解し代弁しているつもりでいて、いつの間にか事態を硬直化させる要因を作ってしまった張本人になっていたんじゃないか。そんな風にも思った。そうでなければ、あれほど怒り、見限ろうとして苦しかった父に対して、急転直下、こんなに悲しいくらいの情けを感じることはなかったんじゃないか。父を許しているようでいて、自分が許されていたような感覚に陥った。
妹は、ただただ冷たくなっていく母の体にすがり、抱きしめ、頬ずりし、悲痛なくらいに泣いた。妹はいつでも邪な感情をさしはさまない。率直なぶんだけ、一生懸命で、脆くて、悲しい。
私も神秘主義者ではないけれど、お母さんはこうして、長い長い間凝り固まってしまった、自分以外の家族の間のわだかまりや、それぞれの心の底に澱のように溜まってしまった葛藤を、いとも簡単に、あっさりと融解し、浄化して持ち去ってしまった。私のなかでドロドロと渦巻いてきた、あんなに苦しかった思いは、毒々しかった情念は何だったんだ?と、急に心細くなってしまったほどだ。肉のシミは、もうわからなくなってしまった。
すっかり途方にくれて、戸惑ってしまった。急に善人になっちゃったみたいで心もとない。急に「お母さん!」と抱きついて泣くことができなかった。馬鹿みたいだ。もう時間がないのに。たったの2時間。病理解剖のお迎えがくるまでのわずかな時間を、家族水入らずで共有していたかったのは事実だったんだけど、あんまりにも簡単に、憑きものが落ちるみたいに身軽になってしまったせいで、落着きもなくなってしまった。
父と妹の涙が少し引いた頃、私も「作業」の手を止めて、やっと母の傍に行き、母の額とほっぺた、憎い憎い腫瘍があったこめかみから頬骨にかけて、まっすぐに通った格好のよい鼻、滅び始めた右の耳介あたりを、すべて、そっと、手で触れた。もうひんやりしている。
それから、左手で母の左手を握り、こどもの頃とおなじ、ふにゃふにゃで頼りのない掌を握りしめながら、浴衣の袷の部分に頬を置く。苦しげな呼吸音も、不規則な心臓の音もなければ、ぬくもりももうない。もともと豊かでないおっぱいも、すっかり所在がわからなくなって、肉付きのよかった肩や鎖骨のあたりは、ごつごつと骨ばっている。
枕もとの向こうは、明るくて眩しい午後の中庭。巨大な鯉のぼりや、白いサツキ、オダマキ、テッセンが風に揺れている。涙があとからあとから流れ出てきて、母の浴衣の肩が濡れていく。このまま、というわけにはいかないものだろうか。
すでに到着していたチビたちとオットも、別れの挨拶。いっときはあまりの面変わりに脅えたチビたちも、久しぶりに元通りになった穏やかな祖母の顔を見て、戸惑っている。みんなで、母の好きだったラベンダーの精油をたらしたお湯で、体を清めた。
オットの顔は見られなかった。だから、オットが母とどのような別れをしたのか、知らない。
もうちょっと。あともうちょっと。そう思っているうちに、出迎えの業者が来た。
淡々と、有無を言わせず、母の体をストレッチャーに乗せ、顔に白布をかぶせる。
母は、「亡骸」になり、死亡診断書とともに、寝台車で大きな病院の霊安室へ向かった。
妹は自ら希望して、母の見送りに同乗した。私はそれで、少し安心した。
母は一晩、病院の霊安室の保冷庫でたったひとり「保管」され、翌朝一番で病理解剖を受けるという。
ついさっき、心臓が止まり、呼吸が止まっただけの母の体は、もう「おかあさん」ではなくなってしまったみたいで、胸が破れるほど悲しかった。でも、声が出ない。まだ御霊がそこにあるかもしれないのに、母はたったひとりで、病院の地下の冷たいドロワーに収められる。
これまで観念的に理解し、賛同してきたはずの「病理解剖」に激しく動揺していた。私は、かけがえのない人が「死ぬ」っていうことの全部を、ちゃんとわかっていなかった。病理解剖がいけないのでも、無意味なのでもないけれど。そして、献体や解剖は、母自身の遺志でもあるから、私が賛否をどうこうする立場ではないことも頭ではわかっているのだけど。
でも「死んだ」ということを、きちんと受け止め、受け入れるには、瀕死状態から、臨終を迎え、やがて亡骸となるという一連のすべてを、絶やすことなく寄り添って、見守り、思い出を語りあい、話しかけ、労い、嘆きしながら、時間の経過とともに「お母さんは、死んでしまった」と、感じることが必要だった。少なくとも私にとっては。
私は、「死」を甘く見ていたのだと思う。
母のいない当夜は、寂しく、虚しく、母がいないことがどうしようもないくらい悲しく、母が恋しくてどうにかなりそうだった。
翌日。昼過ぎに終了するという病理解剖の結果を待って、大病院地下の霊安室待合にて母との再会を待つ。
予定の時刻より待つことさらに40分。母は、再びストレッチャーに乗って連れてこられた。
再開した母は、昨日見送った母とは別人のようだった。顔に傷はなく、開頭の後は一見してわからず、耳介周辺の腫瘍跡はきれいに縫合してあった。予想したよりも「無傷」だった。
それでも、ここにいる母は昨日とはまったく別の「亡骸」のように感じた。当たり前だが、生気のない、人肌の質感のない、かわいそうなからだ。額に触れると、驚くほど冷たい。
まるで、「遺体」から「死体」に変化したように感じた。お母さんごめんね。変な言い方だ。
あんなに穏やかで、安らかな表情をしていた母の顔は、何の意味も感情も事情も背景もみいだせないような、「無表情」に感じてしまった。いったん閉じた口が半開きになっていたせいかもしれない。術後に清めた頭髪が、しっとりと濡れて、頭に張り付いていたからかもしれない。胸の上で固く組み合わされた左右の手が不自然だったからかもしれない。
「お母さんは、こんなことしないよ」と、咄嗟に思ってしまった。
すると、再び、だんだん亡骸は「おかあさん」に見えてきた。「ひとりでいきなり、こんなところにお泊りしたら、表情もこわばるよね。寒いし、暗いし。」と意味不明のことをつぶやく。「お母さん、さいごのおつとめお疲れ様でした。おかえり」と言うと涙が出た。
母は、これから数日、家族葬を依頼した葬祭社の霊安室で休んでから、荼毘に付される。通夜・葬儀はしない。それまでの間、家族水入らずでしばし、最後の別れを惜しむ。
今度こそ、次こそは、ほんとうのさようならだ。もうすぐ会えなくなる。亡骸ですら、もう会えない。永遠に消えてしまうということだ。
父は、妹は、私は、この悲しさをいつか乗り越えられるのかな。
最近のコメント