2009年10月30日 (金)

母の日記

母を見送ってちょうど半年。妹が実家から母の直筆日記をみつけて持ち帰ってきた。

1999年から2004年までの、たった5年間の記録。

予想もしなかった日記の存在に驚く。まだ私も実物は見ていない。

病理解剖報告書の「直接死因は肺炎」という記述を見て、「自分が最後に口に運んだプリン(嚥下能力が完全に失われた母は誤嚥し、その場で吸引してもらった)のせいで母を死に至らしめた」と思い込んだ妹からの、悲痛な懺悔のメールが送られてきて。

「それは事実とは違うし、点滴による輸液で増えた体液が片肺に滲出して起こったことだから」と事細かに説明して、やっと妹も我に返ってくれて。まだ彼女の傷が生生しいことを知って不憫に思う。妹はまだ一生懸命なのだ、と思った。

その妹が、日記の存在と、内容を教えてくれた。だから概略しか知らないけれど。

1999年当時は、まだ母は日々遠くなる耳に不安と怖れを抱きながらも、ふつうに生活をしていたし、維持しようと努めていた頃だ。私が結婚したのは1997年。当時はまだ母と電話で会話ができていたし、母は一人で私たちの新居まで訪ねてきてくれて、出張中のワンの世話やらしてくれていた。まだのどかだった頃だ。

1999年に、母は完全失聴し、2002年には平衡感覚が失われ自立歩行が危うくなった。

2002年にムスメが生まれ、祖父が死んだ。2004年にはムスコが生まれ、母の障害は深刻化した。

日記が終わっている2004年は、私がムスコを妊娠中で、切迫早産に悩まされながらも副流煙満タンの会議室で三徹なんていう生活をしていた頃だ。ムスコの無事出産報告を、オットがFAXでやりとりしてくれたものもまだ残っていて、この頃はまだ、母もかろうじて筆談ができた。

まだ祖父母(母の実父母)が健在で、伊豆の山中に立てた二世帯同居の別荘と東京を往来できていた頃だ。

日記の内容を、妹が読みあげてくれた。

短くて、歯切れよく、面白い。無駄がなく、潔い。端的だが要点を突いている。母の性格を如実に表している。

父の文章表現はどちらかといえば冗長で情調。装飾が多くて難解。ロマンチストで自己愛傾向にある男に多い。

直筆の日記は、これといったテーマがなくとも、短くとも(いや短いからこそ)その人の本質がにおい立つ。お母さんは、ユーモアのセンスがあったんだ!と新鮮なおどろき。

母が年老いた自分の両親を表だって非難や批判することはなかったが、日記には、小粒でピリリと辛い山椒のようなエスプリに富んだ文章がそこここに。権威主義や形式主義的な言動を何より嫌った母の精神が息をしている。

数か月ごとにしか会えなかった孫(私のムスメ)へのあふれるような愛情が、母らしい節度と抑制をもって記されていた。私すら、忘れてしまっていたような、些細な成長の一場面。

「●●は、久しぶりに会うと可愛くなっていた。もともとか。」

「乾杯のジェスチャーがお気に入りのようで、何度も何度もやらされる。当分飲めない」

「●●さん(娘の氏名)と呼ぶと、『はーい!』と手を挙げて返事する。かわいい」

どれも、大したことはないことばかり。でも、まぶしいくらいにフラッシュバックする。

一方で、日々衰退していく自分の身体機能を嘆き、悩み、苦しむ様子も時に川柳のかたちでつづられていた。歌心があったことも知らなかったし、一人で悲しさ悔しさを抱えていたことがつぶさに書かれていて、胸がつぶれるように悲しかった。正確には憶えられなかったけれど、

「A川の土手でキャリーカー(歩行器)によりかかり、一人涙を流す」

「スロープに立って自分の頬を何度も叩く」

「今日、ついに両方の耳が聞こえなくなった」

といったことが歌に歌われていて、切なかった。

しかし。

全体として、喜怒哀楽を表に現さない人だと思っていた母が、本当は些細なことにも心を動かし、心を砕いて、しかしでーんと構えていたことはよくわかった。母自身の美意識として、愚痴や悪態はたとえ日記でもくどくどとは書かないし、楽しいこと、面白いことを探して、節度とユーモアももって処したい、という固い意志が立ちあがっている。

最後の5年間、苦しくて悲しいことばかりだった。みんなが傷ついて、母が一番苦しんで。そのあまりの悲しさ辛さがすべての家族の記憶や時間を上書きしてしまって、「母の人生はいったいなんだったんだろう?」「私たち家族って、いったいなんだったんだろう?」という、これまた無間地獄のような苦しみにはまり込んでしまっていた。

でも、母の5年間の日記(2004年以降は、識字も筆談もおぼつかなくなり、日記は途絶えた)は、小さくて、どうでもいいような、些細な笑いや怒り、喜びや気がかりがアソートのようにつづられていた。

悲しいだけの人生も、楽しいだけの人生もないんだ。あの過酷な母の人生にも、こんな風に、ふつうの笑いや怒りも、ぼやきや浮かれもあったんだ。最後は悲しかったけれど、だからすべてが悲しかったわけではない、と思うと気もちが緩んで、泣けて泣けて泣けた。

そして、私やムスメとの時間をこんなにまで慈しんで楽しみにしてくれていたのに、その気持ちに十分応えることができていなかったことを、母の写真に向かって詫びた。喜んでもらえてよかった、だけど、もっと喜ばせてあげたかった。そう思って、久しぶりに泣いた。

この日記を父に見せるべきかどうか。妹と話し合うが、今のところ、「お父さんにはちょっと酷かな…」ということで意見の一致をみる。そこには、あふれんばかりの、父への気遣いと心配が書きつづられているという。自責と詫びの気持ちと必死で向き合い、寂しさに押しつぶされそうな父には、この母の優しくて切ない日記はまだ辛いのではないか、と。

私自身、読みたくて仕方ないのに、どこかで躊躇している。

生の、お母さんの字を、言葉を、思いを読める自信が、実はない。会いたくなってどうしようもなくなってしまい、きっと泣いてしまうだろう。悲しくて辛い涙ではないようには思う。暖かくて、緩くて、でも、だからこそ切ない涙になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

病理解剖報告書

10月15日付で、母の病理解剖の報告書が届いた。剖検から、ほぼ半年たっていた。

A4サイズにしてわずか3ページ半のボリューム。

うち、1/2ページにわたって母の「物体」としての基本情報が並んでいる。

「死亡時65歳、身長153cm、体重43kg、痩せ型の女性屍体…」とある。

母は、私がはっきり記憶している限りでは、30代後半で身長156cmはあった。成長の早かった私は、小学校5年生で158cmを計測した。4月の身体測定の時に、母を追い越したことを2人で話しあったことをはっきり憶えている。

母は、2~3年前には60kg近い体重があったと記憶している。平衡感覚が衰えて運動機能が著しく低下し、運動不足のために体重が増えてしまった、とぼやいていたから。ゆるい食餌管理をして、少しずつ体重を絞っていたのは知っているけれど。最後の数週間はほとんど絶食状態だったし、輸液による最小限の水分補給しかしていなかったせいだ。

小柄で痩せ型、という記述にはなじまなかった。祖父譲りの頑強な体躯で、骨格もしっかりしており、最期に清拭したときも「骨はしっかりしているなぁ」と妙な関心をした覚えがある。

半年をかけて行った解剖所見のRAWデータは膨大な量に上るそうだ。送られてきたのはサマリーレベルのもの。しかし、難解な専門用語が並ぶリポートは、素人にはおおざっぱな理解しかできないものだった。知りたいことは、私にはここから読み取ることができない。

たとえば、

致命的な病気となった「中耳悪性腫瘍」は、いったいいつごろから発症していたのか。

病気が発覚した時点で、どの程度まで進行していたのか。

癌の可能性は、一般的に、いつごろ、どの段階で発見可能だったのか。

早期に発見していれば、治癒とはいかないまでも、もっとちがった手立てがとれたのか。

いや、最後の疑問はいまさら思っても致し方ないことだから、除外しようか。いずれにしても、解剖していただいた病院と、最後の診断をしてくださった主治医の先生には深謝するより以外にない。先生方に解剖していただくことは、母の望みでもあったろうと思う。

過去25年間にわたり、母が繰り返し受けてきたグリオーマの手術の履歴は、文字にするとたったの6行だった。40~65歳までの母の人生の概要は箇条書でたった6節なのだ。

直接の死因は「気管支肺炎、うっ血水腫、出血性肺梗塞による呼吸不全」なのだそうだ。

なんだかぴんとこない。

「腫瘍は右中頭蓋窩を開窓していくと、壊死を伴う腫瘍塊が見られた。腫瘍は乳様突起を破壊して浸潤し、右耳介後方の潰瘍性病変に連続。腫瘍は右顎関節および内頸動脈周囲に浸潤しているが、咽頭粘膜への露出は認めない。明瞭な角化傾向を示し、癌真珠を伴う角化型扁平上皮癌を認める…云々」

要するに、右の耳の周辺はすべて腫瘍に浸食破壊されていて、しかも腫瘍自体は壊死してしまっていた、と。実際、耳の穴からは腫瘍が日を追って、猛烈な勢いで増殖しているのが見て取れたし、右の顎が痛いという訴えは、まだ病状が判明しない1月の段階からあった。

中耳腫瘍塊を切除採取して調べた結果のところを見れば、腫瘍は、鼓索神経や顔面神経の枝と思われる太い神経が含まれており、ほかの部分をみても、迷走神経や三叉神経をも抱きこんで広がっている部位があるとのこと。周辺組織への浸潤は高度で、一部に造骨も認められる、とある。顔面まひや歩行困難との関連性が指摘される一部報告もあった。

父は、この報告書をもとに、件の公立病院に意見書をおくるつもりでいるらしい。あちこちの機能が衰えて、生きる気力が萎えつつある父にとっては、最後の動機付けになるものなのかもしれないが、私はやはり躊躇する。深追いすれば、ひどいダメージを受けるはず。覚悟していても、後悔することになるのではないか、と。

一方で、どのような結果を招こうとも、自分なりに決着をつけたい、と思う父の感情もわからなくはないので、ここで制止することがいいのかどうか、迷う。(母を「見殺し」にしたのは、決して病院だけではない、という思いが今も私のなかにあるので、厳然とした対決姿勢を見せることができない、ということもある)

父はこのリポート内容を、同病院で25年前に執刀してくださった当時の医師に伝えたそうだ。この方は、この25年間、何くれとなく父や母を励まし、助言しつづけてくださり、私が長女の出産時に脳出血のことなどで不安になっているときに、診察もしてくれた老齢の医師だ。決して愛想よくはないが、誠実で温厚な人柄に、25年間も支えられてきた。

その医師が、「リポートをよく見せてほしい。その結果、今後(自分の所属していた病院でもあるわけだから)、もっとも適切な対処策について相談してほしい」という依頼があったそうだ。

私は、この先生に期待している。専門家の視点で(たとえ元身内をかばう言動があったとしても)父の疑問に答え、父の怒りを鎮め、父の悲しみを和らげるに足る何かが提示されることを。あるいは、手負いが深刻にならないような賢い方策を進言してくれることを。

父独りでこの問題に立ち向かうには、疲れ過ぎていると思うので、私も同席しようと思う。そのうえで、家の問題を一手にお願いしてきた父の旧友の弁護士の方にも相談して。

「勇気と無鉄砲は違う」んだよ、と父を守るのも自分の仕事だろう、と今は思う。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

「悔いのないように」

いったいどれだけの人からこの言葉をいただき、自分自身にも言い聞かせてきたことか。

余命わずかとわかってからの母の看護に際しても。こどもたちの養育に対する期間限定の責任を指しても。

あたりまえのように「あとで悔いの残らないように」という言葉を人は口にし、自分もそれを頼みにしてなんとか日々をしのぐ。

「悔いのないように」というのは、反論の余地のない言葉だ。

自分を奮い立たせ支えるための志として正しい。苦境にある他者への進言や励ましとしても正しい。それは確かに正しい言葉だ。

だけど、いまだから、あえて言ってみる。

どんなに誠実に、骨身を削って、献身的に尽くそうとも看護者・介護者にとっては、「悔いのないケア」というのはありえないんじゃないか。

実際には、相応の時間が経ってみて、あとから「結果はどうあれ、自分なりのベストは尽くした」と思える時が来るかもしれないけれど、愛すればこそきっと何かしら悔いる。看護者・介護者である家族にとっては、大なり小なり「悔い」は残るはず。

「もっとあんなことがしてやれたのではないか」「もっとこうできたはずではないか」もっと、もっと、もっと…って。

看護にあたっている最中も同じで、「これでいいのか」「本当にベストを尽くしているのか」と考えれば考えるほど泥沼に足をとられてはまり込んでいくようなしんどさに囚われる。

それなりに親しい仲にある人は、それぞれの考えから、いろいろなアドバイスをくれる。辛い経験をしたと自認する人ほど、苦境にある人に「アドバイス」「励まし」を贈りたがる。

「あなたは母親。今の家庭を大切に。こどもたちの育ちも今しかないのよ」と。

「あなたの母親はこの世にたった一人。限られた時間なのだからそばにいてあげて」と。

母が亡くなってからも、

「大変でしたね。お辛いでしょう。でもお母さんなのだから前を向いて歩き始めなきゃ」「お子さんたちも頑張っていますよ」「いつまでも悲しんでばかりいられないわね」とか。

「お父さんもおひとりになって寂しいと思うから、なるべく顔を見せてあげて」とかとか。

ひとつひとつは尤もな意見だ。反論の余地がない。自分の気持ちで精いっぱいな分盲点となっているところを指摘し、気づかせてくれる効用はある。「見失うな」「こっちも重要だぞ」と。

だけど、答えがなく、時間も策もなく、余裕を失った境遇にはまりこんだ苦しい心には、どれもが同じように重い。何が正しく、何を優先すべきなのか、選べない、判断できない。

そうした「御託宣」がすべて正論であればあるほど、身も心も裂かれる思いがする。

そういう必死な日々のなかで「悔いのない」選択などできようがないし、もしできたとしても「悔い」は、やはり絶対、残る。

だから、私もいまは「悔いのないように」とはもう言わないことにしている。「こっちのほうが大切」などとは、もちろん絶対に、口が裂けても言えない。そんなの誰にわかるっていうんだろう。

物も言わなくなった母の傍らにただ日がな一日いて、一晩中手をつないで添い寝する私を見れば、他人は「親孝行な娘」と思うだろう。

一方で、連日連夜不在にしている母親を恋しがる幼い子供たちの心のケアを後回しにしつづけるママだと見る人もいるだろう。

選べない状況、理解されにくい事情の狭間で心が引き裂かれる思いをしている人には、何も言ってはいけない、と今なら思う。前は無神経に言っていたかもしれないが、たとえ請われても、今の私なら、言わない。

こっそり心のなかで言えるのは「今日を大切に」ということだけ。

「どんなにベストを尽くしたとしても、不可能なくらいのことを為し得たとしても、やっぱり悔いは絶対に残る。だからもう、親にも子にも、オットにも他人にも、みんなにはひたすら心の中で謝って、無力な自分にはこれしかできない、と言い訳してでも、いつか理解して許してもらえることを信じて甘えて、愚かしい選択でも、鈍い判断力であったとしても、その日、その瞬間に”やってしまった”ことを自分の限界と思うしかない。もっとできたはず、はないのだと腹をくくるしかない。その時やったことが、その時の自分にできた唯一のこと。」

というくらい。言葉にすると、すごく投げやりで、無責任な感じになってしまうのだけれど。でも、今日というこの日に、そもそも選びようのない事情を秤にかけて、残された時間と、とりかえしがつくか否かを判断基準に「どちらが大切か」を考えるのは、無理だもの。

でも、母を見送って半年たって、やっとのことで「結局自分にはあれが精いっぱいだった」と、すこしずつ諦め、執着を手放すようになりつつある(まだ、「つつ」だけど。まだ痛みは生生しいけれど)。

もっとできることはあった、と時間をさかのぼって後悔しはじめると止まらなくなるけれど、それでも「無理だった」んだから。

「その後」も、残された家族や私の人生は少なからぬ影響を受けている。当然ダメージは計り知れないほど大きいものであるし、完全に立ち直る日など来るのだろうか、と気が遠くなるような思いに駆られることも、まだある。

でも、必死で、ほんとうに死ぬ思いで没頭するしかなかった(正気ではなかった)けれども、一応いま、こうして生きて、気を確かにもって、自分の家族と人生を生きている。

子どもに悲しい思いをさせ、オットに負担をかけ、父の寂しさを後回しにしつつも、自分の人生について「正気で」考えるくらいには回復している。意志薄弱で、無責任で、気分屋なわたしであっても、なんとか切り抜け、生きのびている。

それも、悲しいくらいに愚かしく悔いばっかりの日々に揉まれたからなのか。あるいは、お母さんが最後の最後に私を鍛えた「チャンス」だったのか。

とにかく。いま苦しく悲しい思いでいっぱいの方がいるなら、どうかその苦境を、どんなかたちであれ乗り切れますように。ただ祈るばかり。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009年9月 8日 (火)

病理解剖

母の最終診断と、病理解剖をしていただいた病院から電話があった。

4月27日に亡くなってそのまま遺体を預け、翌朝に病理解剖に付して、午後には戻ってきたのだから、すでに4カ月以上が経過している。

当初は3カ月くらいで分析結果が出るという予測だったので、父は首を長くして待っていた。剖検直後の報告では、腫瘍が右頸部の動静脈を圧迫して血流を阻害し、その結果さまざまな症状が現れたのであろう、ということは報告された。また、腫瘍の進行が著しくて、腫瘍自身がすでに破たん(死滅)していたことも言われた。

原発が脳腫瘍であること。遅延性放射線障害の影響を調べること。どのような経緯をたどって最後に至ったのか。もし未確認だった転移がまだあるのであれば、原発と転移、原因と結果の因果関係はどうなっているのか…。

さまざまなことを子細に調べるためには、相当な時間がかかるとは言われていた。が、当初予定を大きく上まわって(最初は7月頭には、次に7月内にはという話だった)、いまだ連絡がないので、父はかなりやきもきしていたようだ。

病理解剖に献体する、というのは思っている以上に大変なことで、どんなに確固たる信念のもとに下した決断であっても、「これでよかったのか」「遺体に傷をつけて本人はどう思っているだろうか」などと、平常時なら一笑に付したような心配もよぎるものだ。だから、延期するならするで、その旨状況の報告は、やっぱり本当は少しほしい。病院から一方的に要求された病理解剖ではないし、忙しいなか、母の遺体は「解剖サンプル」のひとつでしかないのかもしれないが、「献体数が少なくて困っている」というなら、遺族に対してももう少し丁重に、敬意を表した扱いがあればと思う。(担当した医師は非常に誠実だけれど)

で、現状は、「やっと標本化が完了しそう」という段階なのだそうだ。

自分なりに調べて、最低でも3カ月、場合によっては半年以上かかる、ということは知っていたのだけれど、母に関しては「臓器すべてをサンプリングしている」ということを聞かされていなかったので、正直驚いた。

それじゃあ、たしかに時間はかかるだろう。全身全部位なんだものね…。と思う。

そして、ふと思った。4月28日に病院から戻ってきた母は、息を引き取って(それまでの面妖と悲惨が一転して収束してしまったような)安らかで美しい顔をしていた前日の死顔に対して、無機的で、無表情、文字通り「なきがら」となってしまったような、まったくニュアンスの感じられない印象を受けたのだったが、あれは、当然と言えば当然だったのだ。すべての臓器を抜きとって、外側だけきれいに整えてもらったがゆえの、正真正銘の亡骸だったのだな。」と、妙な納得をする。

これから、膨大な量の標本(サンプル)をもとに、「Aさん」として、母の病理が解明されるわけだ。そのことが、耳鼻科外科や頭頸部癌の医療に対して大きく役立つことを、ただただ願う。

それから、今回の病理解剖のもうひとつの目的でもあることについて。

父は、剖検の結果をもって、長らく母を診てきて、最後まで状況を見過ごし、最終的に誠意も倫理観のかけらもみせなかった例の公立病院(病理解剖をしてくださった病院とは別)に対し、内容証明を送るつもりであるらしい。このことの意味や、是非については、私自身ははっきりした見解を持ち合わせていない。「今さら何を言っても彼らには無駄だろう」という気持ちと、「しかし医療者としての倫理や責任、職業的使命の重さを再認識してもらうことには意味がある」という気持ちと、半々だ。

いや、今は、「伝えておくべきでは」という気持ちに少し傾いてはいる。そもそも、意識の変革を促すことは無理だろうと思う。偏狭な自治行政の歪みを一身に受けてしまっているような、病院経営や医療理念の志の低さは、構造的な問題も少なからずあるし。

でも、もしこれからも、医療に関わるものが、患者や家族の訴えるさまざまな不安や悩みに対して、「いやぁ、仕方ないですよ。そういう病気ですから。何があってもおかしくないからね」とか、「いつになったら退院できますか?次の患者さんが待っているんです」という反応しか示せないのだとしたら、やっぱり、そういう人たちは医療に関わるべきではないと思う。

自分のなかにある、諦めや惰性や、ある種の「職業すれ」、もっといえばおごったプロフェッショナル意識を戒め、命や人生に関わる自覚を持てないのだとすれば、医療者であることをやめてほしいとすら思う。医療現場の事情や都合は理解できなくもないけれど、そのことが医療における責任や倫理をゆがめてよい理由には、絶対にならないと思うから。

父は、「意見書」というかたちで、病院運営組織あてに出すつもりらしい。

遺族としての無念や後悔もしたためるつもりのようだ。病院を疑わず、手をこまねいたことへの悔恨。結果的にそうした不見識が母を死に追いやったであろうことへの無念さ。そのうえで、医学的な解剖所見をもとに、「今後の医療のありかたに一石を投じたい」という思いが、今の父を支えるよすがとなっているのかも。

その問いかけに対する病院側の反応は、ある程度予測がつく。

母が亡くなったことを、一番最初の主治医だったB医師(すでにリタイアされており、この先生にはその後25年にわたって大変お世話になった大恩人の先生)と、最終的に診断を見誤った、同じ病院の後継のC医師に伝えたことがあった。

B医師は、絶句ののちに「長い間大変でしたね、本当によく頑張りましたね、お疲れさまでした」と、父母の労をねぎらって弔意を示してくれたが、これに対し、C医師は「ああ、そうですか。はあはあ。それでご用件は?」と返答したという。父は憤っていたが、私は怒りも覚えなかった。

想定の範囲内だし、であればこそ、のこれまでの処遇だろうと納得すらする。

だから、病院に対して「意見書」として患者家族の意思を伝えることは、無駄ではない。ただ、その結果や物言いによって、あらたな傷を負うリスクを相当に懸念しながらも、父の思うようにするのがよい、とは思う。「絶望的観測をしたうえでの行動なら、いいと思うよ」とだけ、伝えた。

幾分かのリスクがあったとしても、これが父にとっての、グリーフワークのひとつであることは間違いないのだから、手負いになる覚悟もふくめて、見守り支えるしかないのだろう。若干、心配だが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月 4日 (金)

失われた時間と同じだけ

緑内障でメールの送受信ができなくなっている父と、連絡が途絶えがちなので、電話をかけてみた。

まだ悲嘆に暮れている。目が不自由なことで、不安も孤独も増しているもよう。

もう一度カウンセリングを勧めてみるが、やはり拒まれた。

朝起きて、母にコーヒーを供え、花の水を代え、写真に向かって問わず語りをする父を思って、不覚にも初めて電話口で泣いてしまった。

これまで長い間、母の障害が進んでからの10年間ずっと、どこかで「下」に見てきた父に対して、これからは娘に戻りたいこと、もう一度、お父さんに戻って威厳を保ってほしい、という思いを伝えてからすぐに緑内障の症状が出て、なんとなく放置したままだったことを話したからかも。心のなかで、何かが消えた。

私たちが生まれ育った家族の輝いていた時間の尊さについて。夫婦の、そして親子の、家族全体にとっての、失われた時間の長さについて。

長い時間をかけて、徐々に怒りと、悲しみとがないまぜになって、そういう葛藤が家族の絆を変質させてきたことについて。

家族みんなが少しずつ違う種類の苦しさを抱えたまま、今日に至り、なんとか立ち直りたいともがいているなかで、私自身が「家長」としてずっと抱えてきた思いについて。

いまだからこそ、お父さんに、娘としての気持ちを受け止めてほしい、ということで伝えたことが、父にもちゃんと届いていた。

だったら、もっと早く言っていればよかった。そうしたら、こんなに葛藤が深くなる前に、家族みんなの、お互いの苦しさ辛さがわかりあえていたかも知れないのに…と思う。

だけど、何事にもタイミングというものがあって、今だから私も思いを吐露する気になり、父は耳を傾ける気になれたということなんだろう。機が熟さなければ、決裂して終わりだったかもしれない。

なぜ自分が泣いてしまったのかはわからない。ただ、「お母さんがいない寂しさ」について、初めて父と共有したように感じたからかも。

「お母さんに話しかけるんだけど、声が聞こえないからね。やっぱりさびしいよね」という父の言葉が、嘘いつわりのない悲しいものだったので、私の心にも同じくらいさびしく響いたのだった。

そして、ほんとうに十何年ぶりに、はじめて心から「お父さんに、もっと電話しよう。会いに行ってあげよう」と思ったのだった。義理でも義務でもなく、そうしてあげよう、と思ったのだった。しばらく忘れていたくらいの自然な感情。新鮮だ。

「正気」に返り、ほんとうの悲しみに打ちひしがれ、素晴らしかったこと、辛かったこと、あらゆる家族の記憶を思い返すことができるようになり、「さびしさ」を認め、やがてきっと立ち直っていくであろう時までには、きっと失われてしまった時間と同じだけかかるのかもしれない、と思った。

それまでは、無理やりかさぶたをはがすような拙速な真似をせずに、ひたすら時間が過ぎるのを待つのがよいのだろう、と思う。

それまでは、時間がかかっても、見守ることしかできない、すべきでない、と思う。

それまでは、父にも元気で生きていてほしい、と心から思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月18日 (木)

「四十九日」だというのに…

いわゆる「忌明け」といいながら、ここ最近いろいろありすぎてオンもできずじまい。

今さらだけど、ダイジェスト。

リンゴ病を甘く見ていたが、成人のかかるそれは、恐ろしく辛い。オットも解熱してから数日は頭痛だの、筋肉・関節通がひどかったみたいだが、私もまだだらだらと症状が続いている。先週は、手頸全体がしびれたり、体中がばらばらになりそうなくらいのいやな痛みに覆われて、重力にあらがって経っているのが精いっぱいのありさま。やっと諸症状が遅真った!と思っていたら、昨夜、四肢が猛然と痒くなり、足首は曲がらないわ、脛がパンパンにむくんで痛痒いわ。そうこうしているうちに、四肢すべてが赤いだんだら模様に。それはもう、大変醜い。教科書通りのリンゴ病の症状が時間差で表れた。「まだ来るか…」というかんじ。

終末は、ただひとり無傷だった娘にも伝染。ムスメは頭痛とかゆみ、だるさ、関節痛、発熱。比較的症状は穏やかながら、自覚症状としては、大変不快のようで、機嫌も悪く、ちょっと始末に負えない感じ。症状が発現した時には、もう感染力はないようで、小児科の先生も、日常生活の節制は不要、とおっしゃる。ところが、月曜日には学校の保健室から早退の呼び出しがかかり、仕事をすべてキャンセル。昨日は休んで、今日は元気に登校したと思ったら、1~4時間目まで保健室に寝ていたんだと。

体調が悪いこともあるけれど、いろいろあった今年前半の揺り戻しで、メンタルな要因もあるんだろうなぁ、と思う。原因不明の腹痛も訴えるし、心因性と思う方が自然なエピソード多し。半年以上も大変な負荷をかけてきた生活だったから、そんなに簡単に元に戻るなんて思えない(実際自分自身が戻れていないし)けど、気は重いなぁ。

本格的な大学院入試の勉強を始めるために、ほぼ専業主夫に徹していてくれたオットは、パートタイムの仕事を引き受けて9時5時の仕事をすることになった。今週はその仕事初めだったのだけど、ムスメの体調不良やら、私の仕事の調整やらで、我が家(というか、ほとんど私の心中)はにわかに雲行きが怪しくなり、不穏な空気が流れていたと思う。

当たり前のことだけど、これまで我が家の生活を担ってきた大黒柱の私が、生き方働き方を変えたい、という意思表明をし、それを最大限に尊重しようとしてくれたオットの努力と、小さいなりに理解して協力しようとしているちびっこたちの意に、私自身がきちんと報いていない気がする。自分だけがゆとりをなくしてピリピリしてしまっている。

ムスメは特に、そうした微妙な変化をこと鋭敏に感知するタイプだから、私がわがままにふるまっていることの余波をもろにかぶってしまっているんだと思う。情けない母親です。

そう思って、今日は早めに学童保育へお迎えにいき、オットと二人で(ムスコを迎えに行く前に)、ムスメと相対して話をしてみた。私たちも大人といえど、立派になれていなくて、自分たちの気分などでイライラをぶつけちゃったり、こどもの気持ちを考えないで決めつけたりしてしまうこともある。私たちの言っていることがすべて正しいわけではないし、理不尽で納得がいかないと思うことは、勇気を出して指摘してほしい。教えてもらわないと気がつかないことも多いから。でも、挨拶や返事をきちんとすること、食事を行儀よく食べること、大人と約束したことは守ること、の3つだけは口を酸っぱくしてこれからも注意すること。という点だけは表明した。娘も、私たちに日頃感じている不条理な点を、ぽろぽろと口にするようになっていた矢先…。

私の携帯に父からの電話。厭な予感がして出ると、夕方からひどい胸痛に襲われているので、かかりつけの病院付属の高度救命センターへ救急搬送されることになった、という連絡。途中から救急隊員の人が電話に出て、状況を説明される。

「お母さん、まさかお父さんを連れていくの?」という心配が一瞬頭をよぎるけれど、父が電話をかけてきてくれたことで、少し安心している自分がいる。これが脳卒中などだったら、ろくに会話も成立しないどころか、電話すらかけてこられなかったかもしれないし。

とはいえ、やっと、母の他界後、ふつうどおりの生活を取り戻そうとしていた矢先だったのに、突然の電話で「ちょっと病院に行ってくる」と身支度を始める私に、ムスメがおびえた目で「どうしたの?じじは?いつ帰ってくるの?」と尋ね、泣きだす。事情をきちんと説明して、安心させてから出かけたいけど、今はそんな時間がないし。

心休まるときがないなぁ…。

と、不謹慎ながらため息をついてしまった。私の気苦労という意味ではなく、子どもたちに、いつになったら、不安や心配のない日々を約束してやれるのか。父のせいではないし、ある意味仕方のないことだけれど。「ごめんね。本当にちゃんと戻るから!」と言い残して、半べそをかくムスメを後に家を飛び出す。溜息。

夕方の幹線道路の下り車線は渋滞がひどく、病院まで何十キロもあるような気分になる。ぶっとばして、やっと到着するものの、容体についてはまったくわからず、ただ家族控室で待たされる。仕事を終えた妹にも連絡をとって、病院に向かうように伝える。

待つこと3時間。

結局、父は心筋梗塞や脳梗塞ではなく、極度に血圧があがった以外は原因が特定できなかった。おそらく心因性の要素も大きく働いているだろうが、まずは自宅で様子をみていいとのこと。こちらは安心したが、父はそれなりに考えるところもあったようで、「こうした事態が繰り返すようなら、お母さんが入っていたホームに入ろうと思う」とポツリ。

「まあ、そういうことは、あとから考えればいいじゃないか」と言ってお茶を濁したが、心中は複雑。そのほうがこちらは安心だけれど、それが本当によいことかどうかは別だから。

自分たちが心安らかに生活できる環境を整えるために、親に、意に反した暮らしを強いて後で悔やむのは、母のことで懲りている。なるべくなら、意志を尊重したい。そういう思いと、我が子とわが家庭の情緒的安定を、いったいいつになったら保証してやれるのか、という迷いとが交錯する。

お母さんだったら、どんな言葉でお父さんの先行きを案じ、どんなプランでお父さんの思いを酌んであげるのだろうか。

そんなことを思いながら、帰ってきた。今晩は、妹が実家に泊まって父の様子を見守ってくれる。少なくとも、今日は安心だ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2009年6月 9日 (火)

ペンディング人生一掃

月曜日にはログつけよう、と決めていたのに、昨日は挫折した。

そもそも、金曜日の夜、寝入ったムスコの両腕両足に妙な発疹発赤を発見。膨らみのない赤いブツブツは、懐かしい「突発疹」にそっくり。両腕は真っ赤に腫れあがり、ほっぺたも真っ赤。すぐにネットで調べると「りんご病」の症状にぴったり。そういえば、保育園の掲示板に「流行ってます」告知が貼ってあった。リンゴ病はウイルス性の伝染病だけど、症状が出る頃には急性期を過ぎているそうで、見た目は激しいけど、もう手の打ちようはないのだそうだ。ムスメはかかったことがないので、初めての体験。

熱もないし、食欲も便通も睡眠もふつう。ただし、ほてりとか、かゆみがあるのか、機嫌はいまいちで、ぐずぐずベタベタいらいら。何かと難癖をつけては駄々をこねて、体調がすぐれない親はいずれも辟易。ムスメはいたって元気。

考えてみると、オットも先行してリンゴ病にかかっていたのかも。熱と体の痛み以外は目立った症状がなかった。しんどい体をひきずって直接町医者に行ったら「保健センターに電話してから来院したんですか?」と冷やかに断られて、そこで初めて「すわ、新型インフルエンザか?」と戦慄したくらい、ぬるい認識だったけど、海外渡航や大阪出張はおろか、在宅生活でほとんど外部の人間と接触していない私たちが罹患するとも思えず。

インフル検査は陰性、他に思い当たることもなく、ムスコの発症を目の当たりにして、消去法的に「まちがない」と確信した次第。

で、肝腎の私も、「この家族は何としても守る」などと息巻いておいて、日曜日には自分がダウンした。全身がだるくて、筋肉がこわばるような感じで。慢性の肩こり(特に左)が、左半身全部と、後頭部から首筋に張り付いたような辛さ。体温37.1℃。平熱が36℃程度なので、微熱でも辛い。

「私もリンゴ病?」と思ったけれど、結局熱は微熱のまま。全身倦怠感とこわばり感だけが残り、異常な肩首こりをほぐしている間に、首筋にぐりぐりしたものを発見して慌て、近所のクリニックを受診。リンパ節が腫れていたらしい。膝の裏とか、脇の下とか、いろいろごりごりしているみたい。原因は不明のままだけど、平素気になっている愁訴感を説明したら、女医さんから「甲状腺機能を一度調べてみましょう」と一言。

そういえば、以前もアナフィラキシーショックの原因を調べて特定できず、消去法的に甲状腺機能の問題を指摘されて調べたことがあった。その時は「若干、機能が低め」という程度で経過観察だったんだけど、40歳も超えたし、ちゃんとしらべておくべき、と踏む。

この1年ほどで急激に太ったこと。慢性的に体の重さだるさを感じること。精神活動もどちらかというと停滞気味だったこと。のぼせ。ほてり。むくみ。体温調節や発汗異常などなど。生活環境に負荷が多かったこともあるし、もともと月経前緊張症(PMS)があるので、一概に原因を特定できはしないものの、体の傾向として把握しておいたほうがいいこともあり。

血液検査の結果は来週に判明。

ちなみにむくみやのぼせは、婦人科で処方された「カミショウヨウサン」っていう漢方薬を飲み始めてから、若干緩和されてきたみたい。心配された副作用もいまのことろほとんどなく、ほぼ快調。完全にフル活動する前に、これまで気になっていた体の不調はなるべく治しておきたくて、婦人科・歯科・神経内科・皮膚科プラス、成人検診などなど、あらゆる検査診察をかたっぱしから予約・受診中。

今週水曜は、母の看護中に折れた歯のメンテナンス。

今週土曜は、四谷の某総合病院にて、「手掌多汗症」の受診。物心ついてから、ずっと気がかりの種であったこの症状は、私の成育過程で心身に大きな影響を与えてきたもので、「これさえなければ性格も人生も変わっていただろうに」と思う最大の要因だった。

家族以外に打ち明けたこともなく、ひとに悟られないように細心の注意を払ってきたがゆえに、正確形成には無視できない影を落としてきたものだから、匿名ながらもこの日記に示すのもかなり迷ったけれど、これも自分の人生・人格の一部として向き合わざるを得ない段階にきた。

って、気づいて決断するのが遅すぎ。本当は、せめて、子どもを授かった時点で「スキンシップ」の重要性を直視して、対処法を考えるべきだったと思う。上のムスメに「お母さん、お手手、つなごう」と乞われても「ごめんね。お母さん、お手手つなげないから、スカートの裾を握っててくれる?」と、やんわりかわしたことは数え切れず。きっと幼い心を傷つけたことだろう。

が、過ぎたことを悔いてもしかたなし。今からでも、とにかく「変えよう」と思ったんだから。

母の終末期は、筆談や言語コミュニケーションがおぼつかなくなってきていて、「触れ合う」「手を握る」といったスキンシップ自体がコミュニケーションの根幹だった。その時はもう、こちらも必死だったから、「手に汗をかいているのに、触れたら気持ち悪いだろうな」などと考える暇もなく。むしろ、しっとりした掌に触れて「この手は、●●?」と、母が私を識別してくれる「個性」にしてくれたことは、「変えよう」と前向きになれたきっかけになっている。

「手掌多汗症」なんて言葉は、私が十代のころには一般的じゃなかった。そういう病名はあったのかもしれないが、ネットもない時代、素人が自分で調べられる手だてがなかったし、親に言っても、医者に言っても「精神的なもの」「気にしすぎ」と一蹴されて終わりだった。

「気にしすぎ」で、これほどまでに社会生活に支障が出るものか。これほどまでに悩むものか。そう思うと、十代になってからの私の心はずっとどこかで重かった。うらわかい乙女には重い心の枷だと、おばさんになった今でも思う。

「シザーハンズ」ならぬ、「スウェットハンズ」。

#シザーハンズを見た時、あまりに共感して泣いた。

フォークダンスが嫌だった。遠足のとき、2列に並んで手をつないで移動するのが嫌だった。女の子同士で手をつなぎたがるような「女の子っぽい子」が嫌だった。年頃になって、男の子から手をつなごうと促された時も、げらげら笑って拒み、相手も自分も傷つけた。

自転車や鉄棒、縄跳び、運挺、テニスや野球…。「手で握る」スポーツは、とっととクリアしたくて、ひとの見ていないところで猛練習して、さも「たった一度でできました」と思われるように苦労した。小学校5年のとき、やむを得ず手をつながなくてはならない体育で、私と手を握ったあとに、相手の子がこっそり手を自分の体育着で拭っているのを見て、「二度と他人と手をつながない」と決意した。その晩は、布団のなかで泣いた。

折り紙や工作、手芸などの手仕事は、汗で材料が湿ってヨレヨレになるのが嫌で、手を抜いてやっつけた。粗雑な仕上がりでも、ばれなければそれでよかった。本当は細かい作業は好きだったし、手先は器用だったと自分でもわかっていたのに。ピアノも、家での練習は苦痛ではなかったけれど、先生の前で鍵盤を濡らすのは辛かった。いろんな先生に「君はがさつだな(笑)」と苦笑されても、一緒にへらへら笑うだけでやり過ごした。

中学・高校のころ、医師や心理職になりたいなぁ、なんて幼い希望を抱いていた頃も、「ひとのからだに触れる」ということへの抵抗があって、結局、ひとやものではなく「こと」を相手にする仕事を選ぼうと、人文系、マスコミへ進んだ。それでも、ポジフィルムやイラスト原稿を素手で触れることができず、白手袋をして扱い、先輩から「慎重だなぁ」と笑われたし、原稿に赤字を入れる時に湿したくなくて、わざと人のいない深夜に残業して作業した。昼間に赤入れをしなくてはいけないときは、「忙しいと赤字の入れ方が雑」と叱られた。

ワープロやPCは、私には福音だったが、カメラは触りたくなかった。なるべく、一人で完結できる仕事。他人と身体的接触をしなくてもいい生活。そればかりを望んで大きくなった気がする。知的生産活動に重きをおいている「成人」だけで成立している生活であれば、何も問題なかった。

結婚し、子どもを授かり、親や子の体に触れずに生きてはいけない生活になって、少しずつ考えを改めなければならなくなったけれど、それでも決心するまでには結局20年以上かかったことになる。

「このまま、自分の掌についてはあきらめて、他者との濃密な触れ合いを諦めて生きていくしかない」と飲みこんだ関係と行動の限界を、自分で広げてみようと思っている。

なんでもかんでも、母親の死に紐づけてきっかけとするのは、ちょっとやりすぎだとは思うんだけれど、「変えようとして変えられなかったこと」を、今度こそ変えてみる理由にするなら、お母さんも文句は言わないんじゃないか、と勝手に思っている。

ムスメもムスコも、この体質を受け継いでいる可能性は大。せめて、彼らの自我が確立しはじめる頃には「人格形成の枷」にならないよう、相談には適切に乗れる程度の情報と経験(できれば自分で治療をひととおり受けておけばなお安心)は得ておきたいので。

そういう意味では、先端治療の症例が多い病院にかかっておくことは、どちらにしても先々無駄にならないと思うし。

| | コメント (0) | トラックバック (12)

2009年6月 2日 (火)

「私だけの悲しみだから」

昨日、ちびたちと連れだって訪れた「クレヨンハウス」で偶然出会い、タイトルと絵に魅かれ、思わず手にとって、そのまま買ってしまい、ずっと私の傍らにある絵本。

「ああ、これだ。」と思った。

私がほしかったのは、これだ。

感情過多な慰めや同情ではなく、訳知り顔の理解や共感でもなく、信仰に支えられた希望でもなく、ただただ絶対的な、圧倒的な、完全な、絶望的なかなしさ。

自分ひとりのなかで噛みしめ、感じるしかないような痛み。後ろめたさ。

湯船のお湯に、掛け布団の綿に、車のハンドルに口を押し当てて、声を殺して絶叫したいような、身もだえするような苦しさ。やりきれなさ。

どんなに言葉を駆使しようと思っても稚拙で陳腐な結果にしかならないだらしなさ。

それでも今は、傷口にしみるけれど、治りを早くする薬のような、こうした言葉を素直に受けとめられる自分がいることに気づける。少し、回復している。

たとえばこんな言葉に。

“誰にも、なにも話したくないときもある。

誰にも。どんなひとにも。誰ひとり。

ひとりで考えたい。

私の悲しみだから。ほかの誰のものでもないのだから。”

そうです。他の誰でもない、私だけのものだから。

親子であれ、姉妹であれ、それぞれに「私だけの悲しみ」がある。

それぞれの「悲しみ」は、たとえ当事者同士であるはずの家族であっても真に理解はできない。

だけど、「私だけの悲しみ」「あなただけの悲しみ」が途方もないことだけは理解できる。

そういうような、つつしみに満ちたあきらめが、かなしみなのだと思っていたのだった。

慟哭しても何も変わることのない現実に疲れ果てて、絶望して、絶望することもあきらめたくらいのところで、「それでも生きていくか…」、ともう一度思わせる力をもっているのも、「悲しみ」かも。

51j5xtssjdl__ss500_

「悲しい本」

マイケル・ローゼン 作/クェンティン・ブレイク 絵/谷川俊太郎 訳 (あかね書房)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月31日 (日)

悪い癖

逸る気持ちと、食っていくことの重圧との間で揺れる思いに飲みこまれそうになってしまったけれど、よくよく話し合って、よくよく自分を省みて、やっぱり簡単に弱音を吐いてはいけないと思いなおした。

リスクは百も承知、「できない」理由や事情をあげつらえば、いくらでも列挙できる。それでも前を見て歩いていくにはこれしかない、と覚悟を決めて踏み出した道。

年齢が行ってからの転機を決行しようと思えば、20代の倍量の労力と工夫が要る。扶養家族がいて、職業をもち、多くの社会的関係のなかで生きていればこそ。

私が針路を転換をするとき、一緒に生きる家族もまた新しい選択や、気持ちも切り替えを余儀なくされるのだから、動揺するのは当たり前だった。

ただ「しばらく大変だけど、後悔はさせないよ」という一言を言ってあげるべきだった。

自分のムードと同調できないことをもって、クサクサするべきではなかった。激しく反省。

私の悪い癖。

有言実行。不断の努力をする覚悟さえあれば、結果はついてくる。はず。

でも、やりかたはかなり工夫しないと。少しずつ現実路線で軌道修正しつつ、本来目指すべきところを見失わないように。てっとり早いアプローチに逃げて、本末転倒にならないように。

人のせいにせず、環境のせいにしない。そういう私のいちばん悪い癖も捨てることを決めたのだから、ぐだぐだ言うのはなしに。戒めも込めて、前のエントリは残しておく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

食っていく私。

結局のところ、私に選択の自由はない。

扶養家族がいて、守らねば生活があって。社会的・道義的責任は果たさなければならず。

空気が冷え、会話がささくれだち、大黒柱としてこの生活を選んできたことの重みを、いやでも思い出させられる。

私に「リセット」はない。

食っていかなければ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

「月命日」

ちょうど暦で1か月前の今日、母が死んだ。今日は月命日だ。

妹と一緒に実家に父を見舞う。私は10日ぶりの訪問。

電話とメールではやりとりしてきたけれど、顔を見て、あまりの痩せ方に思わず驚く。「やつれた」とはこのことだ、と思う。

肩を落とし、力なくうなだれ、声に張りはないものの、ともかくも涙があふれて話せない、というほどの激しい悲嘆ぶりではなかったし、IHクッカーを入れ、訪問看護士やヘルパーも受け入れ、巡回図書館の手配も一応自分でしているから、日常はなんとか乗り切っているみたいだ。

でも、目はうつろだし、反応も鈍い。思考ははっきりしているけれど、話の繰り返しや物忘れはある。体重が5キロ近く落ちたとのことだ。

あれほど押しかけた供花やお悔やみ・慰めの電話もひと段落して、今度こそ本当に静かな独居生活が始まったのだと思う。虚弱のためにADLが落ちているとはいえ、父はまだ66歳、世間的には「アクティブシニア」とかいってもてはやされているはずの世代。

時間と経済力はあるけれど、いまや意欲と希望、そして母がいない。

今の父には、ムスメの私たちですら無力だ。父はいま、永遠にかたわれを失った夫婦の生き残りとして、やっと「ほんとうの夫婦」として、この悲しみに一人で耐えなければならず、私たちはもう傍観者でしかない。

とある大学院の公開授業に参加した際、死生学のテキストとして採用されていた書籍(愛する人の死、そして癒されるまで―妻に先立たれた心理学者の“悲嘆”と“癒し”:相川充著)を購入して持参する。

多くの関連分野の本を読んだなかでは、この本が一番私の気持ちにはなじんだし、信頼と共感をもつことができた。悲嘆反応と回復のプロセスが科学的態度でとらえられているだけでなく、その「事実」が、家族を失った人にしかわからない、どうしようもない悲しみ苦しみの感情に裏打ちされているから。

カウンセリングなど受けなくてもいいけれど、父には少しでも「この辛さが永遠に続くわけではない」ということを、幽かな希望として予期してもらえたら、と思う。早く立ち直れ、ということではなく、早くなくても、この地獄は永遠に続くものではない(いま自分がどの段階にいるか、の認識も含めて)ということを、わずかでも感じてさえもらえたら…。

「まだ1か月」という思いと「もう1か月」がないまぜになって、5月27日は過ぎゆく。妹は、時々フラッシュバックする母の言動やできごとで突然むせび泣いたりしていた。

できることは、精一杯やったんだ。最善ではなかったかもしれないが、自分たちのできる範囲でのことは、やったんだ。そんな風に胸はまだ晴れないけれど、自責と後悔の念で潰れそうになるような、ひどい苦しみは、私の中でも少しずつ乾いてはきている。

ただ、心理的に時間をおいて眺められるようになってきたからこそ、終末期(自己認識能力を失いかけていたころ)の母の心中を思うと、どうしようもなく、やりきれず、哀しい。

このわけのわからない不調はどんなに不安だっただろう。この理不尽さは、どんなに無念だったことだろう。お母さん、ほんとうにかわいそうだったと、今になって改めて思う。辛かっただろう。怖かっただろう。

「さようなら、みんな元気でね」

「こんなふうになる前に、あなたにはたくさん話したいことがあったのよ」

「ごめんなさいね。みんなにもよろしく伝えて。小さいひとたちに”ごめんなさい”って伝えて。いままでありがとう。」

「私ね、帰るところがなくて一人でしょう?あの子(妹)も一人でしょう?だから一緒に暮らしたらどうかな、って思うのよ。どう思う?」

「どんどん(自分が)だめになっていくのよねぇ。どうなってしまうのかしら。教えて?」

「私にはどこにも帰るところがない。どこへ行ったらいいのかしら。教えて?」

「私をおかしくしないで」

そこにないものが見え、聞こえるはずのない話や音が聞こえ、家族の顔も感触もわからなくなって怯え暴れた母の顔。

もはやしゃべることも、起き上がることもできなくなったベッドの上で、泣き伏す妹や私の頭を撫でてくれた母の掌。

「いいのよ」「しょうがない」「あなたのせいじゃない」「大丈夫よ」…。

たくさんの言葉と声が、今になって甦るのがさびしい。寂しいなぁ。寂しい。

これから何度も、「もう」と「まだ」を確認しながら、少しずつ心の中に母を葬っていくのだろうが、それはとても苦しいことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月25日 (月)

王様の耳はロバの耳

個人的な恨み事を書くのは美しくないとはわかっているし、迷ったのだけれど、持って行き場のない思いが鎌首をもたげてくるので、放置しておくと心の中で膿みそうで厭だ。だから、ここで「口に出して」、忘れたい。王様の耳はロバの耳。

中学(正確には小学校)からの、私たち夫婦の先輩=ほぼ兄貴のような存在の男性が、先日ついに独身生活にピリオドを打った。十代の多感で自意識の強すぎる時代を一緒に過ごしたことで、たまに会うけれど、かけがえのない友達(兄貴)のような存在。豪胆なようでいて、実に繊細な人柄が禍したのか(幸いしたのか)、42歳になるまで「独身主義」を貫いてきたのだけれど、ついに、年貢の納め時ということで、7歳年下の同僚女性と結婚した。なかなか結婚の意志を明らかにしない彼に業を煮やした「彼女」の身の上相談に乗ったり、「彼」の背中を押したりするなかでの、長い春の終わり。

偶然にも、私の母の終末期と、彼らの結婚式が時期的に重なってしまったために、手放しでお祝してあげることができず(おめでたい知らせにも沈みがちのレスポンスになってしまって)申し訳なく思ってはいた。それでも、話がまとまったのは私たち夫婦の貢献があったから、ということで「彼女」からは深い謝意を受けていた。「幸せに」と、心から思ってた。

でも、母が亡くなって2週間しか経っていなかったから、挙式関連の出席も辞退させていただき、祝電だけで失礼して、遠くから門出を祝うことにさせてもらった。とてもじゃないけど、大勢の前で、笑顔で、「おめでとう!」とはじける心境などになかったから。祝電も、極めてシンプルに。

「ご結婚おめでとうございます。病める時も、健やかなる時も、お互いを必要として末長く歩まれんことを。遠くから、心から、お二人の幸せをお祈りします。(家族4人連名)」

その彼女から、祝電のお礼メールが届いた。

お礼が遅くなりごめんなさい!Aくん(オット)、Bちゃん(私)、電報をどうもありがとうheart5/xxに無事挙式終わりました。感激感動の挙式でしたshineいやーいいものだねー。あんなに幸せな気分は人生初でした 二人とも想像しえなかった幸せ気分で、ほんわかしました。でも私は月曜日から昨日まで出張でボロボロhappy02また写真見せに行くね!落ち着いたら連絡くださいね!今週のパーティーが終わればこちらもやっと落ち着くからnotes

思わず、オットに「どう思う?」メールを投げてしまった。狭量な人間にはなりたくないし、人生の幸せの絶頂にあるのだから、神経をとがらすようなことはしたくないのに、心がささくれだつ。「ありがとう、そのうちにね」だけでいいじゃないか。と思って胸がざらつく。オットは「よほどうれしかったんだよ。そう思ってあげようよ」と私をなだめ慰める。御意です。

それでも、幼稚なようだけど、せめてちょっとだけの配慮がほしかった。祝う気持ちは十分あったし、幸せに水をさしたくなかったから、遠慮してきたのに。残念だよ。いつか私も、こんなこと忘れて「そんなこともあったね」くらいに心穏やかに受け入れられるのかしら。ぜひそうあってほしい。いつまでも、引きずりたくない。

それでも、少しは楽になった。王様の耳はロバの耳。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

グリーフ・ワーク(喪の仕事)

4度目の月曜日。まだ一か月も経っていないのに、何か月、何年も時間が経ったみたいだ。

この1か月は、近隣や子どもつながりの仲良し家族とも、極力接触を避けて「ひきこもる」ことで乗り切ってきた。家にいても、オットや妹と話をしても、もう泣くことはない。時々、ほんとに時々だけど、感情の潮が上がってきて、言葉に詰まったり、目が潤むことはあるけれど、日常生活に支障が出るほどではない。

当たり障りのない近所づきあいをしている程度の人なら、笑顔で挨拶もできるし、あっさりとした世間話もできる。大丈夫。詳しい当方事情を知らない保護者同士なら、小学校でも保育園でもふつうに話せる。感情移入をせずに、ことのあらすじを話すくらいならできるようにもなってきた。そういう時は、なぜか他人事のように淡々と筋を話せるから不思議だ。

私の悲嘆は消えたのではなくて、いま、別のことにそのエネルギーを転化しているから、苦しくはなくなっている。むしろ、これまでいろいろなことを言い訳にして先延ばししてきたり、実現させる努力を怠ってきた課題に、正面から取り組む原動力として効いているようだ。あまりに大きな悲しみ、あまりに大きな出来事を、このまま鎮まるまで漫然と待っているのはいやだ。「なりゆきにまかせて」なんて消極的な処し方はいやだ。何事もなかったかのように「もと」に戻っていくなっていやだ。

母の死を、自分なりに消化して意味付けしなければ前に進めない気がした。

人は「元気を出して」「時間が解決してくれる」「死別とはそういうもの」と、軽く言ってくれるけれど(そしてそれは気持としてはとても有り難いことだけれど)、母が死に至るまでに辿った道のりを思うとき、それを悼むだけでは、時間はいくらあってもたりないと思った。

母の、家族の、私のこの人生はそれとして受容せざるを得ないとしても、得難い思いをしてきた事実や経験(多分に痛みを含むが)を実りあるものにしようと努めなければ前に進めない。この苦しみには意味がある。この悲しみには理由がある。と、思いたい。

私は信仰を持たないから、「おおいなるものの意思」としての苦難に意味を見出すことができないけれど、たった一度きりの自分の人生(家族との人生)に起きたできごとに対して、どのように受けとめ、向き合っていくかが、自分が人生の意味を決める唯一の手がかりだと思っている。母の娘に生まれ、一時期を一緒に生きたことの意味も含めて。

私は、こういうふうに悲嘆を人生の転換点にしようと試みること(これまで半ばあきらめてきたことに「本気で」挑むこと)でしか、「喪の仕事」をやり遂げることができない。

父は、グリーフケア(カウンセリング)を受けてみようという私の誘いを頑なに拒んだ。心理臨床について根深い批判と猜疑の念があるようだ。「どんなに時間がかかっても、自力で精神を再建してみせる。新しい暮らしを固めてみせる。後追いするようなまねは絶対にしない」と断言しているから、これ以上は無理強いできないけれど、油断は禁物だ。

それでも、キッチンにIHを導入し、週に1回の訪問看護を受け入れ、移動用のシニアカー(移動に伴う心臓への負担を軽減するため)の手配など、少しずつ環境整備に眼を向け始めているようだから、父なりのペースで「これから」を考えようとはしている気はする。

妹は、仕事に戻りながらも、まだ1日おき・時間短縮の勤務のまま。数日に一度、父を訪ね、話をしながらともに涙を流したり、実家の整理整頓をしたりしているらしい。「父の心配をすること」「父の悲しみに寄り添うこと」が、妹の「喪の仕事」なのだろうと思う。

私自身は、先週、大学院に入ることをオットと話合って了解をとりつけ、父や妹に話をし、既存の仕事の整理・集約と、これからどのように仕事と研究を両立させていくか(その前に院試にパスすることも含め)、子どもたちの成長段階の想定も含めて算段をした。学費には、母の遺産の一部を充てることにした。

「もし、これはやっておきたかった、と思うことがあるなら、できるうちにやってほしい。あとで後悔しないように。もし途中で挫折することがあっても、やれることはやった、と思えるように」「私や家のせいで、あなたが自分の夢やプランを果たせなかった、というようなことがもしあったなら、私は悲しいの。やり残したことがあるなら、ぜひやって」という、元気なときの母の言葉が甦る。

母のことも、子どものことも、いろんな事情も、結局は「やらない」理由でしかなかったわけで。人間その気になれば「やってやれないことはない」と、妙な自信を持って断言できる。そして、いろんな困難や障害があったとしても、今の自分なら、へこたれることなく突破できるのではないか、という確信も。

いま、私は毎朝の母へのコーヒーのお供えをも、忘れてしまうことがある。つい最近まで、小さなフォトフレームを持ち歩かないと外出できなかったのに、先週、院試説明会に出かけた時は、うっかり忘れてしまった。

「ごめんね」と心の中で手を合わせながらも、自分が、今まで感じたことのない何かに突き動かされて、院試と、その先の資格試験と、最終的に到達したいところまでを構想することに集中している。どこかで「どうせ無理だけど」と諦めのエクスキューズをちらつかせてきた過去の自分からすると、考えられないことではあるけれど、このエネルギーが、一時的な副反応でないという確証もない。だから、少し遠回りすることになっても、自分がその高度専門職にふさわしいかどうかの検証をしながら、準備をしようと思っている。

私がやろうとしていることは、自分が救われたいから就くような安楽な仕事ではなく、もっと厳しい研鑽と科学的態度が求められるものだから。自分の悲しみをいやすための場であってはならないと思うから。自分が癒され、救われるのは、目標を達成するためにどれだけ努力できたか、という姿勢においてだけでよい。本質は、私と言う個人のバックグラウンドにかかわりなく、高度専門職としての技能と使命が果たせるか、ということに尽きる。

仕事を集約し、研究準備に力を入れることで、家計の減収は避けられないだろう。その点もオットと相談のうえ、対応策を講じ始めている。これも意外なことだが、相当な覚悟が必要と思われた「倹約」「緊縮財政」だけれど、具体的な目標とその意味が家族で共有できてしまうと、まったく苦にならないことを知った。4歳と7歳の小さなこどもたちですら、だ。

自家用車を手放し、さまざまな経費・出費を束ねて圧縮し(本代だけは限度があるが)、時間を大切に使う(メリハリをつけ、時間に追われるような暮し方をしない)だけで、収入が半減してもやりくりできる目処が立っている。

人は、きっかけさえあれば何歳からでも変われる、と言う。本当に変われるのかどうか、わからないけれど、「きっかけ」が人生観を変えることができるかどうかは重要だと思う。少なくとも、変わるのは今、というエネルギーの強さは悲しみの深さに比例しているように感じる。勢いをなくすと、精神まで死んでしまいそうだから。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月18日 (月)

口唇ヘルペスと円形脱毛症

「三七日」。

月曜日が来るたびに、「ああ、もう●回目の月曜日か」と思う。

「もう」なのか、「まだ」なのか、よくわからないけど、時間は確実に過ぎる。父にも、妹にも、私にも、みんなにも平等に時間は過ぎる。

私のなかからは、湿り気のある痛みはずいぶん失われて、乾いた悲しさが増している。陽気がよいほど。まわりが普通で、活気にあふれているほど、カサカサと悲しい。

妹も仕事を再開して、ふだんは普通の顔をして過ごしているようだけれど、週末に夕食に呼んだら、ときどきケータイに残った母の写真を眺めていた。妹の痛手はまだ深い。

父にいたっては、悲嘆による抑うつ状態がひどく、妹と私の見立てからすると「対象喪失による一時的な反応としての悲嘆」とは思えない様相を呈している。これが病的悲嘆の初期かもしれない、と考えるとあまり楽観視して機を逸するのもまずい。真性のうつに移行する前に適切な初動対応をしないと、と話す。父の生傷はまだばっくりと開いているだけでなく、日ごとに増悪しているようにも見える。心配。

ホスピスのMSWから紹介されたグリーフケアの手だてを講じなくては。

なんて思っていたら、「持病」の口唇ヘルペスの特大最悪なやつが、みるみるうちに育って大きな水泡になってしまった。見るのもおぞましい立派なやつ。下唇が変形して醜い。

GWからこちら、実はずっと体調がすぐれなかった。

体の節々が痛くて、なんともいえないような、厭な感じの全身倦怠感があり。「これももしかして、死別後の悲嘆症状のひとつ?一時的抑うつ状態の一反応?」と思ってもみたが、あまり深く考えずに放置しておいた。

しかし治らない。昔はこうした症状は高熱が出る予兆だったのに、最近は熱すらちゃんと出ない。微熱がだらだらと続く。自覚症状としては、体が鉛のように重くて、筋肉も間接もこわばってきしむような感じ。それが長引く。「年のせいか」と思っていたけれど、これぞまさに「ヘルペスウィルス」の悪さだったみたい。

口唇ヘルペスは、母から垂直感染でもらいうけているので、物心ついた頃からのつきあいだ。小学生時には「あ、そろそろ来るな」という予兆がわかっていたから。娘にも垂直感染で授けてしまったし。

だからヘルペスとのつきあいはよく心得ているものと過信していた。疲れたり、ホルモンバランスの問題で、免疫が低下している時にでる「黄色信号」として、体調のバロメータにしてきたつもりだった。少し休養をとって薬を塗れば、たいていはそのままなりをひそめてくれるものだったのに、最近は、先のような全身症状がだらしなく続き、治りも悪い。悪化しやすい。加齢に加えて、ストレスもやっぱり関係するんだろうな。

GWから、連続して唇に3か所できて、やっと治ったと思ったのに、比べ物にならないくらいのものだった。体がだるいのも、やっぱりそのせいみたいだ。ずっとからだにため込んだ疲れを毒だししていると思えばいいのかもしれないけれど、体が躓くと気持ちも挫ける。

頭頂部にも、これまた長いつきあいの円形脱毛症が2つできた。

私の頭皮は固く、血行もよくないらしくて、毛根がストレスの影響を受けやすいのだとか。「円脱」も、中学生のころからちょくちょく(周囲にはわかっていなかったみたいだけど)できたから、長い付き合い。だいたい、ストレスの渦中にある時ではなくて、一過の段階で抜けてしまうみたいだ。

気持ちが乾いている、と思っているぶん体に出るのかな。いやだな。

気持ちは、長らく中断せざるをえなかった大学院へ向けようというくらいになってきているのだけれど、これもどこかで自分を偽っているのかしら。

とにかく体調の赴くままに、もうしばらく流れに身をゆだねていたいけど。

しかし、円脱と唇の変形とは、気持も凹む。

これも回復へ向き直ったポジティブな(?)心身症のひとつであってほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (5)

2009年5月14日 (木)

ともに泣くことで

ムスメの個人面談があった。当方事情を知っている保護者たちに会いたくなくて(会ったら気持ちが挫けそうで)、悪いことでもしたみたいにコソコソ人目を忍んで裏門から学校へ。

公立小学校の個人面談は一人たったの15分。15分で何を話す?というくらい、かなりダイジェストしてやっとまとまる程度の時間。新学期(学年)になってからずっと、私の心身の重心が母の看取りに置かれていたので、ムスメにはかなり負荷をかけていることは覚悟していた。しかし、「終わり」が見えていることなので、心の中で手を合わせつつ、あとで埋め合わせをするつもりで、あえて眼をむけずにきた。

ムスメは、気の毒なくらい、こういう事態に際して弁えてしまう人だから、本当はいろんな思いで胸がいっぱいだったろうに、家庭にはそうした不安や葛藤、苛立ちなどは極力持ち込まないようにしていたと思う。家ではほとんど心配させるような言動はなかったから。

でも、一度だけ、母が他界する直前に「今日、学校でババが心配でどうしようもなくなって泣いちゃったんだ」と、半分テレながら、ぼそりと言ったことがあった。オットも私も、「そうか…。で、どうしたの?」と尋ねると、先生(産休の代任として今年だけムスメのクラスを受け持った新任の代理教員)が、”いまここで泣いてもおばあさんは喜びませんよ。あなたがこらえて、心の中でおばあさんを応援したり、お母さんを励まさなくてはね”と諭したとのこと。内心、「ちょっと荷が重い要求では?」とは思ったけれど、それ以上娘も言わなかったので敢えて追究しなかった。きっと、ふと不安になってさめざめと泣いたのだろう、と思い。

それが、今日の面談では、「1時間近く、かなり激しくしゃくりあげた」ということを聞いて、正直驚いた。そして、本当にムスメに申し訳なく思った。小さな胸に収めきれなくなった不安や恐怖が、堤防が決壊でもしたみたいにあふれ出してしまったんだろう、と。そして、最終的には、「あなたがしっかりしなければ」という言葉の意味を理解せざるをえず、涙と言葉を飲み込んで毅然と帰宅し、ちょっとエピソードの片鱗だけを見せて終りにしたんだろう。

健気で、不憫で、申し訳ない。

母の最期の日。臨終の知らせを持ってムスメを迎えに行った父を待つ間、ムスメはまた担任の先生に「おばあさんが亡くなりました」という呼び出しを受けて、一人帰り支度をしたそうだ。「病院に着くまで泣いてはいけませんよ」という先生の指示に従って、ムスメは表情を固くしたまま病室に入ってきた(そうした経緯も、今日、知った)。

それから20日間。葬送を終え、GWを過ごし、少しずつ平静を取り戻してきたかに思える暮らしのなかで大切なことを忘れていた。ここ半年に我が家に起こった、一連のことに対するこどもたちの内面のケアを、きちんとしていなかった。もろもろの対処事項、自分の悲しさ、父や妹への心配といったことに気をとられていた。

よく考えてみると、母の病と死について子どもたちときちんと語り合ったことはなかったし、涙が枯れてきたことで敢えて「死」には触れようとしなくなっていた気がする。なかったことにしたくない気持ちは本当なのだが、子どもたちを「悲しさ」に引き込んだままにしたくない。一日も早くいつもどおりの生活に戻してやりたい一心だったとも思う。子どもの気持ちはきっと置いてきぼりだった。

今日の個人面談の開始時間を待つ間、教室の廊下に張り出されたムスメの絵を見て、それを知る。「新学年での楽しいできごと」を描く絵日記風の自由課題を見て固まった。クラスメートが、新入生との交流や、新しい教室・席順の感想や、運動会への抱負などを、春らしく色彩豊かに描き込んでいるのにも関わらず、ムスメの絵は、鉛筆1色の線画のみ。「(初めて入った)理科室の骸骨の標本が怖くて、トイレにいけなくなる」というようなことが書き添えてある。

気持ちが空寒くなるような、殺風景な絵。あれほど絵が好き、色が好き、手紙や作文が好きな子が、と目を疑うような殺伐とした絵。たとえは変だが、「心を病んだ児童の描く典型的な絵」としてよく例示されるような。

重ねて掲示されたその他の絵もめくってみる。数枚下にあった別の作品は、またも鉛筆のみ。それでもまだ、ドレッシーな女の子が数名、手の込んだ筆致で描かれていたけれど、せっかく描き込んだその上から、紙が破けるのではないかというくらいの筆圧で、乱雑に塗りつぶしてある。

少し前のムスメの、胸がつぶれるような、叫びのような苦しい思いが生々しくそこにある。

「私、自分のことで精いっぱいで、何にも考えてあげていなかった」と、ショックだった。自分の辛い気持ち、悲嘆の感情は、妹はもちろん、ふだんの夜も、子どもたちが寝静まってからオットに吐露し、泣いてきたから、抱え込まなくて済んできたところがある。

でも、ムスメ(もムスコも)は、嘆き悲しむ大人を前に、自分のなかで消化しきれないくらいの、人生で初めての死別の衝撃や重みをひとりで抱え込んでしまったままだったわけで。やっと泣かなくなった大人たちに、今さら自分のなかの重苦しい気持を打ち明けることもできず(明確に認識もできていなかったかもしれないけれど)、かといって「泣くな」と言われて抑え込んできたさまざまな感情の処理もできず。泣くことすらできていなかったはず。

ここ数日、子どもたちは、それぞれのやりかたで、自分のなかの不安や緊張を解消しようとしているようにみえる。やたらとはしゃいだり、すねたり、喧嘩したり。赤ちゃん帰りがあるかと思えば、大人びた訳知り顔をしてみたり。要するにふつうじゃなかった。その理由もわかった気がする。

生きるということ、失うということの生々しい現実やあらゆる葛藤の局面に、たった7歳の子が、つぶさに触れざるを得なかったというのに。そうやって、キャパシティ以上の膨大なできごとに接してきたというのに。感じるだけ感じて、立ち会うだけ立ち会って、受けとめかねるほどのさまざまなものごとを飲みこまされてきたのに、消化も排泄もさせてあげていなかった。もうパンク寸前だったのだろう。

就寝時、ベッドで水を向けると、ムスメは「いまこんなこと言ったら、またお母さんがかなしくなるかもしれないけど、ババに会いたい」と言って泣きだした。そして、「会えなくなるってわかっていたのに、もっと優しくしてあげればよかった。もっと会いに行って、たくさんお話すればよかった。ちょっと”怖い””気持ち悪い”って思っちゃってごめんなさい」と言って泣き出した。ムスコも、珍しくムスメのベッドに一緒に寝たがった。

子どもたちの名誉のために書いておくけれど、こどもたちは、面妖ともいえるほど面変わりしてしまい、呂律がまわらなくなってしまった母に脅えながらも、決して拒絶はしなかったし、小さな手で母の手を握って喜ばせてくれていた。大人でも複雑な心境になるほどの母の病態にも、臆することなく触れあってくれていた。私は、幼い子供たちの思いやりに敬意を感じたのだから、こどもたちが後ろめたく思う必要はまったくない。

母は「小さいひとたち」を心から(控え目ながら)愛していたし、会いに来てくれることを喜んでいたし、誇りにもしていたと思う。そういう母の思いと、私自身のこどもたちへの感謝を、母の死後初めて伝えた。娘も、母の死後はじめて躊躇することなくおお泣きした。ムスコは、ムスメほど情緒は成熟していないが、泣きじゃくる頭を撫でていた。優しい子たち。

母がこどもたちに贈った小さなぬいぐるみを抱きしめて、ムスメは泣き続ける。よく見ると、ムスコも目をパチパチしばたかせている。彼も泣いている。

涙が枯れたと思っていた私も、独りで泣くのとは少しちがう涙が出た。こどもに誘発されて、一緒に泣くのは、どこかで温かい感じがする。こんなに小さい子どもでも、幼く拙いながらに悔恨や自責の念をもっていて、心から泣くんだと思うと、人間の情は深いと思う。また、ともに泣くことで、大人のなかにある悔いや責めを一緒に灌いでくれるのだなと思った

2人のこどもたちのおでこを撫で、背中をさすっているうちに、2人ともコテンと寝た。これがほんとの泣き寝入りか。

オットにもこのことを伝え、これからは、こうして時折、水を向けて気持ちを分け合うことの必要性を話す。そして、まわりの子に比べて「こどもらしい屈託のない日々」を奪ってしまっているかもしれないことを再認識したうえで、これからは、意識的に「何の心配も不安もないなかで、思いっきりエネルギーを発散できるくらい、クタクタになるくらい遊ばせてあげる」ことを心がけよう、と話す。

子どもが子どもとして在ることに勝る幸せはない。母も常々言っていたことだ。どれほど物わかりがよく、弁えのあるこどもであっても、「遊びに没頭することを許されない子どもは不幸」だから。大人の心中を察し、自分の欲求を飲み込むのは、もう終わりにしてやりたい。

いままでありがとうね。そして、ごめんね。これからは「子孝行」しますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

取り返しがつかないのは

「二七日」が過ぎた。

宗教色を排して弔いを、という私たち家族の願いからすると、こうしたことにならうのは矛盾しているのだろうけれど、大切な人を失った悲しみからの距離を、過ごした時間をカウントすることで測るのは、とても合理的なことのように感じることがある。

その一方で、時間が過ぎるとともに、周囲の人が「ふだんどおり」に戻っていくことに気持ちが追い付かず、戸惑うことも増えていく。

40歳にもなる大人、自分の家庭をもち、独立した人生をもっている大人が、「老親」を見送ることはいってみれば当たり前のことで、いっときは悲しいだろうけれど、いつまでもそれを引きずっているわけにもいかないだろう。いいところで気持を切り替えて、大人として、親として、社会人としての務めに戻るべきだろう。そういう周囲の雰囲気も感じる頃だ。

私は、家族を失った悲しさは、ひとそれぞれ違うものだろうし、死に至る経緯や、歩んできた人生によって、客観的に死の軽重を測定できるものだとは思わないけれど、家族を失った当事者にしかわかりえない苦しみは、やはり厳然としてあって、他の誰にも理解してはもらえないものだと思っている。というよりも、わが身に降りかかってそれを知った。

今際に私たち家族が接したさまざまなことは、出来事をそのまま言葉でなぞって誰かに伝えれば「神秘主義」的な表現にしかなりえない。話せば話すほど、薄っぺらく、陳腐で、嘘っぽくなっていくようで。また、どれほど言葉を尽くしても、家族それぞれが母の死に際して体験したことや、母の死後に私たち家族におこった変化を表すことはできないから、結局、父と妹、オット(子どもたちはまだ小さすぎるけれど)と、沈黙のうちに、ただ事実は事実として共有しておくしかない状態だ。

人が一人この世からいなくなるということは、大変な苦しみなんだということを、この年になるまで知らなかった。

世間では、「もうそろそろいいだろう」と、なんとなく暗黙知として了解されている追悼の時間というのがあるけれど、それは、社会生活を運営していく上で便宜上設けられているものであって、遺された者が「泣き暮らすことを離れるのに十分な時間」とは別物なんだということを、いまさら思い知らされている。

涙も出ない、と思っていたけれど、時間が経つほど悲しさは増してくる。

父は、母とひきかえに「正気」を取り戻した代わりに、「正気」を失っていたこの数年間に、自分が精神の安定を保つために、無意識に、自己防衛的に母を拒み退けてきたことの事実を次々に思い出しては、自分自身を責め苛んで泣く。

妹は、母に捧げた時間の長さと、母との葛藤の深さを今も悔やんで、かなしんでいる。父に対する失望や怒りを私と共有してきたことへの反省と悔恨にも苦しんでいる。今日から仕事を少しずつ再開したのだけれど、きっと心ここにあらず、の状態だろう。

私も、悲嘆を通り越して自責に苦しむ父の姿を見て、今さら苦しい。あれほど「猛省」を促そうと鼻息が荒かったくせに、一人遺されて、取り返しがつかない、と母に嘆き謝る父を見るのが辛い。父の責苦は、私が課したようなものだから。

涙もかれたと思っていたのに、連休があけて、世の中が動き出し、「もうそろそろいいだろう」というムードを家族以外の周囲から感じ取るようになって、初めて封印していた自分の感情が動き出す。

結局のところ、私は、母が死んでしまったことだけを悲しんでいるのではなくて、余命の少なかったはずの母、さまざまな機能が失われるなかで大変な不安と恐怖を抱えていたはずの母の思いにじっくり耳を傾けるまえに、「みんなの事情」を調整しようといい気になって、母に事情を飲んでもらう舵取りをしつづけてきたことを悔いている。どうしようもなく後悔している。

お母さんは、あんなにも私を信じて、頼って、「あなたが判断したことだったら従うヮ」と言ってくれていたのに、結局私は「みんなのために、これしかないの。ごめんね、お母さん」と、母ひとりに帳尻あわせを押しつけた。「ごめんね」というのは、便利な言葉だ。良心の呵責が軽くなったような気にさせてくれるだけで、実際には、何一つ自分を変えるつもりのない時に使える言葉。私は、父に何度も「ごめん、っていうだけで、自分を変えないんだね」と責めたけれども、自分も結局同じだった。

母が末期癌で余命3か月もない、と言われた時も「告知はしない」と勝手に決めた。家族はみんな同意したけれど、リードしたのは私だ。今も、告知しなかったことの正否は正直わからないままだけれど、それでも、母には、自分の人生の行方を知る権利があったのではないか。それを、家族だからというだけで、真実を隠して、終わらせる権利が私にはあったのか。わからない。本当の母なら、自分の人生を最後まで自分でまっとうしたかったのではないか。

結局、肝腎なことは、何一つ、事実をゆがめることなく母に提供されることがなかったことになる。私の「配慮」という名の歪曲によって、母は、真実を知った上で、自分で決める機会を失ってしまった。

家族で本当に一緒に暮らせないのか、ということ。施設に入るしか方法がないのか、ということ。自分の病状の精確な把握。どのように死を迎えたいか、という選択。

そのすべてにおいて、私もまた、母を無力な障がい者として「庇護」の名のもとに、最後まで一人の人間として尊重することなく扱ってしまったのだと、今は思う。私は本当にいい気になっていた。悔やんでも、悔やみきれない。

取り返しがつかない思いにとらわれて苦しんでいるのは、父や妹だけじゃない。私こそ、母の人生を自分勝手に操作してしまった。そしてそのまま、母を逝かせてしまった。

私たち家族の看取りを見守ってくださった方々は、口々に「幸せな最期ですよ」と言ってくださる。けれども、それは、決して母にとってではない。周りでみとった私たち家族にとっては「できる限りのことはした」という自己満足にはなるかもしれないし、周囲から見守った方には美しく映るかもしれないが、母にとっての「満足ゆく死」ではないと思う。

そのことが、心から悔やまれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

涙も出ない

「初七日」の翌日から、ずっと雨だ。

母にまつわるこの数年の記憶のなかで、雨の中で何か行ったことはほとんどなかった。

歩行に不自由が出始め、杖や歩行介助、車椅子で移動をするようになってからも、足もとが悪い中を四苦八苦した記憶がほとんどない(私との移動は限定的だけど)。

母は晴れ女だったみたいだ。いなくなったら雨ばかりだ。

母を見送って、「初七日」が過ぎて、雨はたくさん降っているけれど、私はもう涙が出ない。

リビングの一等席に、母の写真を飾り、花とお菓子を供える。朝はコーヒー。夜はワインかビールを少し。日中は水やお茶。都度、「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「おやすみ」などと心の中で声をかける。

肌身離さず持ち歩く写真に、何度となく手をもっていき、確認しては安心する。そうすれば、なんとかふつうの顔をして生活できる。

ムスメは、祖父母宅に泊ったとき「おかあさんは、いっつも一人で隠れて泣いている」と言ったそうだ。ムスコは「ババは、骨になって、つぼに入った」と言っているそうだ。ムスメは夜尿が頻発している。ムスコも喘息が出ている。こどもたちも闘っているのだから、私も悲しい思いに引きずられてばかりいるわけにいかなことはわかっているのだけど、明日から世の中が一斉に動き出すことを考えると、気持ちがすくむ。

涙も出ないし、母がいない現実の希薄感は日々増していくばかり。実家にいけば、ホームにいけば、病院にいけば、どこかに居てくれそうな錯覚をしそうなくらい。仕事も、いつまでも音沙汰なしでいるわけにいかない。どこかで再開の連絡をしなければいけない。でも、平気な顔をして「元通り」になれる自信は到底ない。でも、働かなきゃ。学校の個人面談もあるし、保育園の行事もある。こどものおけいこごとの付添もあるし、仕事の支払い関連の整理もしなければ…。「母が危篤で」「忌中で」という言い訳はもうきかない。

明日からの世の中の動きに、私は歩調を合わせられるだろうか。

涙と一緒に、何か違うものも枯れてしまったようで、怖い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

「初七日」

母が旅立ってから1週間経ってしまった。もう1週間。まだ1週間。

この7日間の間に、母を病理解剖へ送り届け、出迎え、野辺送りまでの4日間の「お泊り」の間に、葬送の手はずと、ホームの退去を完了させる。あれやこれやの対処で、気がつけばあっという間にいわゆる「初七日」を迎えた。

世はGWまっさかり。1日に荼毘に付して、身内で仕切るべき葬送の儀式はひと段落し、さびしさ本番、という感じの日々がやってきた。私も妹も、もう涙は枯れてしまって、その代りにどうしようもない虚脱感、喪失感にとらわれていた。父は今になって、お骨になった母を一人で家に連れ帰って、返事のない問いかけを繰り返す暮らしのなかで、はじめて現実を受け止めざるを得なくなっているもよう。

心配で、姉妹でかわるがわる実家を訪れるものの、私たちの顔を見るたびに涙があふれてしまうようで、父の嘆きはいま絶頂にあるみたいだ。これまでの、10年余に及ぶ「長い夢」から覚めて、「正気」に戻った父は、かつての愛妻家に戻ったわけだけれど、その分、浦島太郎みたいに「失われた10年」の大きさを認め、直視せざるをえなくなっていて、かなり厳しい状態にあると思う。苦しさ、虚しさも人一倍だろう。

ムスメとムスコは、かねてより所望されていたオットの実家(祖父母)へお泊りに。悲しいムードが横溢している家にいるよりも、屈託なく遊んでもらえるじじばばのもとへ行く方が、こどもたちのためにはいいはず。息子はやや不安げな顔をしていたけれど、電話がかかってこないところをみると、それなりになんとかやっているのかも。

2日間のこどもの不在は、思わぬ休養を私たちに与えてくれたものの、半強制的に気分を切り替えなければならない名目がなくなったおかげで、放心状態になってしまった。夫はめずらしく昼寝。私も11時すぎまで眠ってしまい何もやる気にならない。

2日はオットの畑にこどもたちを連れていき、農作業をさせてやる約束だったので同行したが、農作業に一心不乱に打ち込むことができて気は紛れたけれど、畑を吹きわたる風や葉摺れの音、日差しのあちこちが「もっとここにお母さんを連れてきてあげればよかった」という思いを刺激する。

3日は、LFJ(熱狂の日)のプログラムで唯一予約していたシュ・シャオメイのピアノ(ゴルトベルク協奏曲)を聞きに行った。2月の予約時では、まだGWの予定が見えていなかった。母は状態が悪くなっているかもしれないが、この世を旅立っているとは思っておらず。万が一コンサートになどいけない状態であっても、ひとに譲って惜しくないように、22時からのピアノリサイタル1本@2000円×2人分のみの予約にした。

しかし、ふたを開けてみれば、母は立つ鳥跡を濁さない、といった様でこの世を後にしており、ひとにチケット譲る心配もいらなくなっていた。

嘆き疲れ果てた心身で人ごみに出かけるのは勇気がいったが、シュ・シャオメイのバッハときけば、次はいつ聴けるかわからないし、いまはゴルトベルクのような音楽が聞きたかったから、余力を振り絞ってでかけた。

内容はすばらしく、万難排してて行ってよかった。静寂のなかで音が心に沁み渡り、そのまま薄闇の会場の座席に吸い込まれていくような、凛とした、気高い音楽だった。母の美しいすがたを切り抜いて名刺を2つ折りにしたサイズの皮の写真フレームに入れて持参し、掌のなかで母に「聞こえる?」といいながら、聞き入った。涙が出た。オットは寝てた。

去年と同じイベント。いつもと同じ曲。ふだんと変りない道路や電車の中。それなのに、何を見ても、何を聞いても、どこにいても、これまでとはまったく違う光景、感覚をもってしまう。寂しく、切なく、苦しく、恋しい。

人間は「忘れるという基本的生存能力をもったいきもの」だそうだけれど、だとすれば、この悲しみも1年後には少しは緩和されているのだろうか。

苦しみから逃れたい、和らげられたら、と心のどこかで願いながらも、「まだ忘れちゃいけない。ふつうの、まるで何ごともなかったみたいな顔をして、ふつうに生活するなんてできない。ふつうにしたくない。」という思いも反面でこみあげてくる。

二七日、三七日…と、少しずつ、かなしみの日々を指折り数えながら、乗り越えていくしかないんだろうけれど。

終わりの見える日々を終えたら、終わりの見えないかなしい日々が待っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

おかえり。おつかれ。

5月1日午前11時。

母は荼毘に付されて、天に昇った。深緑が鮮やかな、快晴の初夏。もう5月だ。

父母の信条により、通夜・告別式は執り行わず、日取りの関係で今日の野辺送りを迎えるまでは、総裁社の霊安室でお泊り。私たち家族と、母の姉妹と、40年来の旧友・親友数名を含めた、15名程度の、ささやかなお別れの時間を炉前で営むのみとした。

形式ばったことを好まない人だったし、常に、できれば、あらゆる因習や固定観念からフリーでいたいと考えながら、晩年は自分の心身のコンディションのためにそれを許されずに、ひとがかりで生きざるを得なかった母だから、なおのこと、遺志を尊重したかったというのもある。病理解剖や、略式の葬送も、眉をひそめるひともいたかもしれないが、すべて母の、私たち家族の哲学を実践したにすぎないこと。ただそれだけだ。

「通夜・告別式はしません。御供花・御供物の儀は拝辞します。葬送は家族のみで。」という、きわめてシンプルな、ささやかな願いを貫くのに、これほどまでに説明努力が必要だとは思わなかった。自分の不見識と社会経験の浅さを思い知らされた。

棺には、ホームのスタッフが総出で作ってくださった「祈りをこめて」と記された千羽鶴。母の実母(祖母)が老人ホームで手慰みに作った座布団。ムスメとムスコが折り紙で折ったさまざまな折り紙細工。私たち家族が全員で写っている写真数葉。家族・友人から母へあてた手紙の数々などを収め、最後にムスメと私で、母の唇に桜色の紅をさした。

さようなら。さようなら。さようなら。

こういうとき、なんといっていいかわからないので、とにかく心のなかで旅立ちの無事を祈る気持ちで見送る。炉の扉が閉まり、点火の音がし、みなで焼香をする。ほんとうは、快晴の空に母が昇っていくさまを見届けたかったが、休憩室へ促され、かなわなかった。

父は体調が悪かったようだが、懐かしい面々が(予想外に)集まったことで対応に追われ、気が張っているようだった。今日の実質的な仕切りは私の仕事だったから、ゆっくり思い出話に浸る暇もなく、収骨のときを迎えた。

母の骨は、見送った時そのままに骨格が残っており、3日を経た「亡骸」よりも、こちらの遺灰(骨)のほうが「おかあさん」という気がした。拾骨の段になり、妹と2人で、大たい骨を拾ったが、カサカサと「乾いたかなしい音」でありながら、しっかりと持ち重りがした。参列者がみんなで、お母さんの骨を拾ってくださった。ムスメとムスコも拾った。

頭がい骨に至った時、頭頂部の骨がはっきりとわかった。シャント手術を施した際の、人工的で不自然な穴がはっきりとわかったとき、母の生きてきた人生の壮絶さを彷彿とさせられて泣いた。そして、下顎の骨がきちんときれいに残っているところに、母が末期に後生大事に守ろうとした部分入れ歯を充てると、ぴったりと収まり、かなしくてさらに泣いた。

腫瘍が暴れた右側頭部の骨はなかった。

末期、すでに不必要になってしまったけれど、母がよりよい「視え」を求めて頼みにしていた眼鏡も、入れ歯と一緒に骨壷に収めた。

拾骨が済んで、母とのお別れの儀式は終了した。

骨壷を桐箱に収め、覆いをしたお骨を、父は万感を込めて抱いた。

が、次の瞬間、母の姉妹たちが、何を考えたのか「ちょっと抱かせて」と催促し、喪主としての発言をしようとしていた父を遮って骨壷をタライ回しにし、妹と私は軽く殺意を覚えた(母の姉妹を、私たちは幼いころからかなり「引いて」見てきたが、大人になってから意図的に避けて疎遠になってきた。しかし、「やっぱりこの人たち苦手!」と思った、今日は。)

母が後半生、誰よりも心頼みにし、尊重しあった、唯一の親友は、この叔母たちの振る舞いに圧倒されて、終始参列の最後部に控え、十分なお別れができなかったようだ。母としても無念だったのではないか、と気がかり。それでも、別れは、残される人の分だけ重みやかたちがあるのだろうから、それ以上は介入できないんだけれど。

式は、斎場で散会となったけれど、父と妹、父方の叔父、私たち家族4名だけは、母の遺骨とともに、念願の帰宅を果たした。

昨日、ホームを完全に引き払った際に、母の「お部屋」をリビングの日当たり・眺望のいちばんよい場所に設けてきたので、そこに安置するために。白木のテーブルに、シルクバティックのテーブルランナーを敷いて、ムスメが書いた絵(母の自慢)や、写真や、供花、供物などとともに調えた。あふれるほどの供花は、一部私たちが持ち帰ることにした。

オットが昨夜作成してくれた母の最も美しく映っている晩年の写真を、フレームに入れて遺影がわりにした。凛として、気高く、エキゾチックで意志的な笑顔の母がいる。

今日からは、父は、母と2人で、ここで暮らすことになる。望んで得られなかった静かで穏やかな2人の生活。母はもう見聞きはできないし、姿も声も現わさないけれど、それは前から変わらなかったのだから、こんどはこちらの気の持ちようで、気配や想念を感じることはできるのではないか、といった要旨で父と話した。

疲れの見える父をひとりにするために、一足先に叔父が帰り、妹と私たち家族も、父母に挨拶をして実家をあとにした。帰り際、父が、妹と私にふかぶかと「いままでいろいろとありがとう。お疲れ様でした」と頭を下げて礼をしたのが、切なかった。

「おとうさん、おつかれさまでした。おかあさんをよろしくお願いします。ちゃんと食べて、寝てください。」

と声をかけるのが精いっぱいで、結局涙まみれの別れに。

妹と、「おとうさん、ほんとうに後を追うように逝ってしまいそうで心配だ」と、妹と話す。ひとりになりたい、ほっておいてほしい、という父の意向も理解しつつ、GW中は初七日にかこつけて妹が、連休の最終日に私が顔を出そうと思っていたところへ、父からメールが。

●●(私)へ

 携帯では入力が疲れるのでPCにしました。

 今日、お母さんの無事な野辺送りが出来てほっとしています。ここまで、やってこられたのはあなたや■■(妹)の献身的な看護・看取りの努力とともにそれを支えてくれた▲▲(オット)君の絶大な協力のおかげ、そして母親の不在に長い間耐えてくれたA(ムスメ)とB(ムスコ)のけなげな支えがあったからと感謝しています。

 あなたの言うように四十六年ぶりに新しい結婚生活が始まるものと思いながら、寂しさに耐えていこうと思っています。もう誰はばかることなく好きなだけお母さんと語り合えます。思うだけで足らなかったこと、心の奥を読み切れなかったこと、お母さんに代わってあなたが代弁したことのひとつひとつを話し合っていこうと思っています。

 もう長女の役は肩から下ろしたらと思います。充分すぎるほど助けて貰って、自分で出来ることはこれまで通りこなし決して無理はしないので心配しないで下さい。その分を、家庭と仕事、自分の健康に注意をして下さい。君らのような娘を遺してくれたお母さんに改めて感謝を込めてお礼を言います。

 できの悪い父親で随分と手のかかる老人だけれど、勘弁して下さい。

 スズキ(仮名:私の中学からの親友)さんのメール拝見しました。「そうか余所の人にはわれわれ夫婦はそんな目で見られていたのか」それもこれも、お母さんの人徳のなせるところ。偉かったなあ、お母さん、本当にありがとう。そして●●と■■お疲れ様でした。ありがとう。

 C家(オットの実家)にはこれまでの▲▲君の八面六臂の大活躍に感謝とともに、彼を育てて下さったご両親に心からの感謝を申し上げました。

 どうか、これからは申すこし離れた距離から見ていて、肩の荷を少しでも軽くして下さい。

 本当にありがとう……

200951日 できの悪い父より

妹と二人で父に電話して「お礼もお詫びも、これで打ち止めにしよう。みんなそれぞれに十分頑張った。これからは、3人でお互いの人生と生活を見つめよう」と話す。言葉にすると、なんだか薄っぺらい。ほんとうはもっとさびしくて悲しいのに。それでも素直に、心から「お父さんが心配だ。体に気をつけて、長生きしてほしい」と言えるようになった私たちは、気持ちが安らか。お母さんのおかげだ。

今日からは、お母さんは、耳が聞こえないことや、目が見えないこと、平衡感覚がないことや、記憶・認知能力のことを気にすることなく、ゆっくりお父さんと話合える。ずっと望んでいて、ついにかなわなかった願い。お父さんとお母さんだけで、穏やかに、静かに、家で暮らせる生活。

妹と私は、25年にわたる母の健康と命の心配、10年にわたるコミュニケーション機能の障害による葛藤、2年にわたる認知・身体能力の衰退による心身・相互のストレス、そしてこの数か月における「寿命」の焦燥と悔悛、罪滅ぼしの献身。母を看取り、今日の野辺送りを無事に見届けたことで、それらすべてから一気に放免されたことで、途方に暮れ、虚脱・放心状態にある。

”精進落とし”のつもりで、今日は近所の蕎麦懐石へ食事をしに出かけたけれど、みな無言がち。ただ、ビールを味わい、ふかぶかとため息をついて。

おかあさんを偲びながら、乾杯する。みんなの心にもお母さんがいるだろう。

おかえりなさい、お母さん。おつかれさまでした。

おつかれさま、お父さん。無理をせずに。

ありがとう。こどもたち、オット。これから恩返し。

よくがんばった、妹。キミを身内ながら誇りに思う。

かなしいほど快晴の連休に、それぞれ少しからだと心を休めよう。

寂しかったらごはんを一緒にたべ、話そう。

あとのことは、これからゆっくりと、少しずつ考えよう。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年4月30日 (木)

惜別

私は長女だから、母の没後は捌かねばならぬあれやこれやを、ひたすら捌きまくった。

「長女だから」という言い方はなじまないし、長女的な性格だと自覚したこともなかったけれど、結局、これまでの経緯もあって、すべてをリードせざるを得なかったから。

臨終にあって泣き崩れる父と妹とは別に、医師・看護師への挨拶、近親者への連絡、死後すぐに病理解剖へと献体するための手続、亡骸の清拭…。とにかくどうでもいいようなことから、すぐに算段しなければいけない大事なことまで、片っぱしから手をつけては片づけた。

頭のどこかでは「2時間もしないうちに病理解剖のための搬送業者が来ちゃう。いまのうちにお母さんとお別れしなきゃ。体に温もりが残っているうちに、もう一度ぎゅっとしなきゃ。チビたちが来る前に涙を流しておかなきゃ…」と逸るくせに、体が言うことを聞かなかった。「そんなこと後でもいいから、今のうちにお別れを」という、周囲の人の言葉も受け止めつつ、気持ちより先に体が動く。

いま動きを止めて母にしがみついたら、もう離れられなくなってしまうし、「病理解剖なんて止めてくれ、このままそっとしておいてくれ」と泣き喚きたくなってしまいそうで怖かった。

たまたま見舞で居合わせた小母の親切心や、葬儀の段取りに関する問い合わせ、遺族としての振る舞いに対する助言も鬱陶しく、家族だけにしてくれ!とのど元まで出かかりながら、顔がこわばっているのを自覚しながら、事務的に体を動かしていた。

母の臨終については、実のところあんまり詳しく思い出せない。11時過ぎから容体が急変し、結局持ち直すことなく、カクンカクンとステップダウンしていった。マニュアルミッションの車がエンストを起こしそうになる間際のように、呼吸が不規則に空回りするかんじ。何度も呼吸が止まり、都度刺激すると再開。呼吸停止の頻度が上がりつつ、間隔は開いていった。「もう戻らないかも」とぼんやり悟ったのは、昼ごろだ。

「時間の問題(今日明日にも)」と医師から告げられたのは、せん妄が悪化した今月10日の入院から5日後の15日。大事な人には週内に引きあわせておくように、という指示もあり、私の誕生日である22日までは難しいだろうと思っていた。予想どうりに何度も危機的状況に陥ったものの、奇跡的に持ち直すことを繰り返した。「さすが、不死身だ」と、妹と冗談交じりにわらい、母の健闘をたたえたりしたものだった。

22日を迎え、その週末を越そうとした時までにも危篤状態にはなんどか陥ったものの、やはりその都度、高度を下げながらも低空飛行を続ける母に感服していた私たち。多くの週末期癌患者を見送ってきた医師たちも「驚異的な生命力」「人知を超えたバイタリティ」と驚嘆した。

週が明けた27日月曜日には、いわゆる「虫の息」になっていながらも、しかしまだ確かに拍動を刻み、サチュレーションも血圧も低いながらも確認できた。その様をみた主治医と院長は「これはもう、彼女の明確な意志を感じますね」「こうして生きようとする姿勢にただ敬服する」「神秘主義的な意味ではなくて、こうしたことにはなんらか意味があるはず」「何かまだ、言いたいことやしたいことがあるんでしょうね」と異口同音におっしゃった。そして、「しばらくはこの状態が続くかもしれないから見守りましょう」と。

意志たちのこの言葉を聞いて、私のなかで気持ちが動いた。「お母さんは、やっぱり“あのこと”を父にきちんと伝えてほしがっているんじゃないか」という思いが込み上げた。

母が聴力を失い、視力をほぼ失い、次いで平衡感覚を、知的安定力を損ないつづけてきたこの10年余、ずっとずっと独りで抱え、何度も解決しようと試みては挫折して、諦めてきた父への思いについて。

それをいま指摘することは、父にとっては受け入れがたい自己の振る舞いへの批判となるものだし、今となっては主体的な意思表示ができない母の前で、父子が骨肉の争いを繰り広げることになるリスクをはらんだ「爆弾」だったから、軽々に口にすべきでないと思い、私と妹の腹に収めてきたことだった。

けれども、今際の母を前にして、根深い夫婦の断絶・葛藤という過去をすべて美化(辛いことは抹消)し、麗しい夫婦愛に没入している父の立ち居振る舞いを見続けることは、私には耐えがたく、理想的な終末医療環境にありながらも、「献身的な家族愛」という欺瞞とか茶番ぶりに対する怒り、嫌悪感は頂点に達していた。

その苛立ち、不快感を、妹と2人、携帯のメールでやりとりしながらうっぷん晴らしをし続けた数週間だったわけだ。以下は、27日朝に、一度自宅に着替えとシャワーに戻った妹に送った私からのメール。

回診の後またナニが始まり、我慢の限界を超え。●●先生が「まだ言いたいこと、やり残したことがあるんですね。きっとこの粘りは意味があるんですね」っていうのを聞いて、「何が気になるんだい?」だって。その一言で私のスイッチがONにbomb

でも非難ではなく、代弁に徹した。「配偶者として母のすべてを誰より知っていると自負するなら、母の本当の気持ちを知ってあげて」と。

「母は耳が聞こえなくなってからずっと淋しかったんだよ。父とコミュニケーションができない。私はひとりっていつも言った。今の父の思いやりや涙は真実だと思うけど、何故、100分の1でいいから、一緒に暮らしていたときに返してあげなかった?と思う。お母さんの長年の悩みを思うといたたまれない」って。

泣いちゃったけど、責めず怒らず。父は黙ってたけれど、きっと正しく理解はできないだろう。また逆ギレモードになるかもね。でも、Drの話はベストな呼び水だったから。わかってもらわなくても、母の心情はとにかく伝えた。でもありゃ憤死しないぜ。むしろ私が仮想敵になって活性化するかもcrying

それまで、自分のなかでどろどろと毒づく思いを制御しきれなくて、「きっと息の根を止めてしまうくらい、痛烈なことを言ってしまいそう」と恐れて言えなかったことだった。だけど、なぜかこの日、誰もが驚嘆する生きる意志と、医師の言葉に促されて、急に感情の質が変わった気がしたのだった。

「はらいせ」や「こらしめ」で、「よき夫」に耽溺している父に母の心中を教えるのではなくて、「お母さん、ほんとうはこうだったんだよ。それを、一番大切に思っていたお父さんに知っていてほしかったんじゃないか。だから、ここまで粘って、頑張って、その思いが遂げられることを願っているんじゃないか。あるいは、そういう思い残しや無念だけではなくて、ずっとさびしかったけれど、今は本当に家族がそばにいてうれしくて、幸せだから、もう少しこの状態を満喫していたいんじゃないか。なごり惜しいってことなんじゃないか」と。

話しながら、「アレ?私、こんな好意的なことが言いたかったんだっけ?もっと痛烈な一撃を加えたいと思っていたんじゃなかったっけ?」と思ったのだけれど、どういうわけか、そんなよこしまな思いはなりをひそめて、「私たち、本当にお母さんのことを理解していたのかしら?」「お母さんのことを理解していると自負する資格があるのかしら?」と問うていた。

話しながら感極まってしまったけれど、父に対する詰問をする気にはなれず、よって父の見解を問いただすこともなく、そのまま買い物に出てしまった。しばらく隣の公園で頭を冷やしつつ、少しして病室に戻ると、父が何事か母に話しかけているように見えた。しかし、「また例のナニだろう。懲りない人だ」と冷ややかに見つつ、黙殺して本を読んだ。

母の容体が急変したのは、その直後、午前11時頃だった。それからあとは、先のとおり。

母がこと切れたとき、父が泣き叫んだ。

「俺が悪かったんだ。本当に非人情なことばかりで、お母さんの気持に気付かずに取り返しのつかないことをしてしまった。許してくれ。さっき、そう言ってお母さんに謝ったんだ。そうしたら急に呼吸がおかしくなった。そんなことも今のいままで気付かないで、俺はどうしたらいいんだ」というようなことを悲痛な声で叫んだ。

私は何かを考える暇もなくて、父の肩を何度もさすり、「お父さん、こんな時にこんなことを言ってごめんなさい。残酷なことを言ってしまってごめんなさい」と何度も謝った。

父は首をぶんぶんと横に振りながら「お前がさっき教えてくれなかったら、俺はお母さんが生きている間に謝ることもできなくて、一生後悔した。ありがとう」という。

その間に、看護師が姿勢を整えてくれた母を見やると、(その場に居合わせた人間以外は信じないだろうが)、あんなに歪曲し、醜く面変わりしていまった右半面はすっかり元の、整った面立ちに戻っていて、腫瘍の痛々しさも、壮絶な闘病を示す顔貌も、どこにも見られなかった。わずかに下顎が左右にずれていた程度だ。

ベッドサイドから見る母の顔は、信じられないくらい穏やかで、笑っているようにも見えた。あんまり驚いたので、泣き伏したままの父に言う。「見てよ。あんなに穏やかな、優しい、元通りの顔をしているお母さん、すごいよ。あの顔を見たらわかる。お母さんはとっくに赦してくれてる。“わかってくれればそれでいい、もう十分だ”って言ってると思う」と言う。父はただただ声にならずウンウンとうなづいて泣く。

私は、号泣する父の肩をさすって(父の体に触れるのは何年ぶりかもわからないくらい)、泣き崩れたままの妹の頭を撫でて、「お母さん、お疲れ様でした」とだけ言った。なんだか、幽体離脱でもしそうなくらい脱力し、空腹に燗酒を空けたように体中の血流が変わった気がした。お母さんは、私にも何か言いたかったんじゃないだろうか。

「何も言わないで相手を蔑んだり、罵ったり、怒って拒んでいるだけじゃだめなのよ。家族なんだから、話さなきゃだめなのよ。お父さんにはちゃんと言ってあげてほしい。言わずに、知らせずに、断絶しないでほしい。お父さんがかわいそう。お父さんは、ちゃんと話せば本当はわかる人だから」と、いつも言っていたように、言いたかったんじゃないか。

私は、母の気持ちを理解し代弁しているつもりでいて、いつの間にか事態を硬直化させる要因を作ってしまった張本人になっていたんじゃないか。そんな風にも思った。そうでなければ、あれほど怒り、見限ろうとして苦しかった父に対して、急転直下、こんなに悲しいくらいの情けを感じることはなかったんじゃないか。父を許しているようでいて、自分が許されていたような感覚に陥った。

妹は、ただただ冷たくなっていく母の体にすがり、抱きしめ、頬ずりし、悲痛なくらいに泣いた。妹はいつでも邪な感情をさしはさまない。率直なぶんだけ、一生懸命で、脆くて、悲しい。

私も神秘主義者ではないけれど、お母さんはこうして、長い長い間凝り固まってしまった、自分以外の家族の間のわだかまりや、それぞれの心の底に澱のように溜まってしまった葛藤を、いとも簡単に、あっさりと融解し、浄化して持ち去ってしまった。私のなかでドロドロと渦巻いてきた、あんなに苦しかった思いは、毒々しかった情念は何だったんだ?と、急に心細くなってしまったほどだ。肉のシミは、もうわからなくなってしまった。

すっかり途方にくれて、戸惑ってしまった。急に善人になっちゃったみたいで心もとない。急に「お母さん!」と抱きついて泣くことができなかった。馬鹿みたいだ。もう時間がないのに。たったの2時間。病理解剖のお迎えがくるまでのわずかな時間を、家族水入らずで共有していたかったのは事実だったんだけど、あんまりにも簡単に、憑きものが落ちるみたいに身軽になってしまったせいで、落着きもなくなってしまった。

父と妹の涙が少し引いた頃、私も「作業」の手を止めて、やっと母の傍に行き、母の額とほっぺた、憎い憎い腫瘍があったこめかみから頬骨にかけて、まっすぐに通った格好のよい鼻、滅び始めた右の耳介あたりを、すべて、そっと、手で触れた。もうひんやりしている。

それから、左手で母の左手を握り、こどもの頃とおなじ、ふにゃふにゃで頼りのない掌を握りしめながら、浴衣の袷の部分に頬を置く。苦しげな呼吸音も、不規則な心臓の音もなければ、ぬくもりももうない。もともと豊かでないおっぱいも、すっかり所在がわからなくなって、肉付きのよかった肩や鎖骨のあたりは、ごつごつと骨ばっている。

枕もとの向こうは、明るくて眩しい午後の中庭。巨大な鯉のぼりや、白いサツキ、オダマキ、テッセンが風に揺れている。涙があとからあとから流れ出てきて、母の浴衣の肩が濡れていく。このまま、というわけにはいかないものだろうか。

すでに到着していたチビたちとオットも、別れの挨拶。いっときはあまりの面変わりに脅えたチビたちも、久しぶりに元通りになった穏やかな祖母の顔を見て、戸惑っている。みんなで、母の好きだったラベンダーの精油をたらしたお湯で、体を清めた。

オットの顔は見られなかった。だから、オットが母とどのような別れをしたのか、知らない。

もうちょっと。あともうちょっと。そう思っているうちに、出迎えの業者が来た。

淡々と、有無を言わせず、母の体をストレッチャーに乗せ、顔に白布をかぶせる。

母は、「亡骸」になり、死亡診断書とともに、寝台車で大きな病院の霊安室へ向かった。

妹は自ら希望して、母の見送りに同乗した。私はそれで、少し安心した。

母は一晩、病院の霊安室の保冷庫でたったひとり「保管」され、翌朝一番で病理解剖を受けるという。

ついさっき、心臓が止まり、呼吸が止まっただけの母の体は、もう「おかあさん」ではなくなってしまったみたいで、胸が破れるほど悲しかった。でも、声が出ない。まだ御霊がそこにあるかもしれないのに、母はたったひとりで、病院の地下の冷たいドロワーに収められる。

これまで観念的に理解し、賛同してきたはずの「病理解剖」に激しく動揺していた。私は、かけがえのない人が「死ぬ」っていうことの全部を、ちゃんとわかっていなかった。病理解剖がいけないのでも、無意味なのでもないけれど。そして、献体や解剖は、母自身の遺志でもあるから、私が賛否をどうこうする立場ではないことも頭ではわかっているのだけど。

でも「死んだ」ということを、きちんと受け止め、受け入れるには、瀕死状態から、臨終を迎え、やがて亡骸となるという一連のすべてを、絶やすことなく寄り添って、見守り、思い出を語りあい、話しかけ、労い、嘆きしながら、時間の経過とともに「お母さんは、死んでしまった」と、感じることが必要だった。少なくとも私にとっては。

私は、「死」を甘く見ていたのだと思う。

母のいない当夜は、寂しく、虚しく、母がいないことがどうしようもないくらい悲しく、母が恋しくてどうにかなりそうだった。

翌日。昼過ぎに終了するという病理解剖の結果を待って、大病院地下の霊安室待合にて母との再会を待つ。

予定の時刻より待つことさらに40分。母は、再びストレッチャーに乗って連れてこられた。

再開した母は、昨日見送った母とは別人のようだった。顔に傷はなく、開頭の後は一見してわからず、耳介周辺の腫瘍跡はきれいに縫合してあった。予想したよりも「無傷」だった。

それでも、ここにいる母は昨日とはまったく別の「亡骸」のように感じた。当たり前だが、生気のない、人肌の質感のない、かわいそうなからだ。額に触れると、驚くほど冷たい。

まるで、「遺体」から「死体」に変化したように感じた。お母さんごめんね。変な言い方だ。

あんなに穏やかで、安らかな表情をしていた母の顔は、何の意味も感情も事情も背景もみいだせないような、「無表情」に感じてしまった。いったん閉じた口が半開きになっていたせいかもしれない。術後に清めた頭髪が、しっとりと濡れて、頭に張り付いていたからかもしれない。胸の上で固く組み合わされた左右の手が不自然だったからかもしれない。

「お母さんは、こんなことしないよ」と、咄嗟に思ってしまった。

すると、再び、だんだん亡骸は「おかあさん」に見えてきた。「ひとりでいきなり、こんなところにお泊りしたら、表情もこわばるよね。寒いし、暗いし。」と意味不明のことをつぶやく。「お母さん、さいごのおつとめお疲れ様でした。おかえり」と言うと涙が出た。

母は、これから数日、家族葬を依頼した葬祭社の霊安室で休んでから、荼毘に付される。通夜・葬儀はしない。それまでの間、家族水入らずでしばし、最後の別れを惜しむ。

今度こそ、次こそは、ほんとうのさようならだ。もうすぐ会えなくなる。亡骸ですら、もう会えない。永遠に消えてしまうということだ。

父は、妹は、私は、この悲しさをいつか乗り越えられるのかな。

| | コメント (2) | トラックバック (2)