2012年4月22日 (日)

またもや滞り、そして43歳。

最後に更新したのが2/2。「これからはこちらも」と言いながら、さらに2ヶ月と20日間野ざらし…。

思うこと、言いたいことは日々たくさんあるのに、まとまったものにする心身のゆとりがないのが一番の理由ですかね。決してブログがもういらない、とは思っていなくて「書かなきゃ」「書きたいな」という気持ちはある(twitterの140文字では書ききれないから)。でも、コネクティビティということで考えるとやっぱりtwのほうが簡便なのよね。(iPhoneと首っ引きというのがどうしても抵抗があるので、結局、昼間ひとりでPCに向かって仕事しているときだけだけど。そういうときに限って「書付」が増える)

twitterのアカウントは、父にも知らせている。あれから、直接「コミュニケーション」することの難しさを痛感する場面が多かったし、父の口から新しい妻、新しい暮らしの話を「うんうん」と聞く気持ちにはなれないので、やりとりは避けて過ごしてきた。彼はどこまでも、そのあたりの心の機微がわからないらしいので、そこはもう期待しないことにした。だけど、「絶縁」しようと思ったことはないし(心理的にはそのようにして思い切ったけれど)、何かがあれば、結局引き受ける覚悟は常にしている。内緒だけど。

父への葛藤については、他人にあまり話さないようにしている。うまく説明ができないから。母の晩年までの、私たちの心持ちについて(母の言葉や思いも含めて)知っている人でなければ、「いつまで子どもみたいなことを」と失笑を買うのが関の山だから。親離れできていない、と。たしかにこれが他人の話であれば、私も「第二の人生をもう一度生きられて、娘達に依存せずに余生を生きられるのだから悪くない話だ」と思っていると思う。今も、左脳ではそのように理を通して考えることができる。その点では、受け入れているのだと思う。

でも、一方では、「娘に依存はしないが、本質的な意味で(対人間だけでなく思想でもなんでも)依存ベイシスな父親」という哀しさは、まだ完全に受け入れきれてはいないのかも、と思う。自分たちの育った家、母が帰りたかった家が、今は「新婚さんの愛の棲家(スイマセン)」になっていることへの、どうしようもない抵抗感はやっぱりある。そこに、子どもたちも連れて、普通に訪ねていくことはもうできないわけで。子らも、どこかで傷つきを抱えているままだと思うから。

それでも、今の自分の生活文化(っていうほど大げさなものではないですが)、たとえば食事の好みやおいしいもの大好き!なところとか、本に囲まれて潰されて死にたいとか、古典芸能にどうしようもなく惹かれてしまうとか、そうしたものすべてに、自分が育った家庭の遺伝子を継いでいることを否応なく感じさせられる。

そして、親離れのプロセスで、一度そういうものをすべて壊して、自分なりの好みや基準を培っていった思春期(この時の経験が、すべて今の自分の核になっている)。その感覚や軸は、親たちの「善し悪し」に対抗し、ぶつけて跳返ってきた手応えから確信となって形成されてきたものだから、これもまた大きな影響を受けてきたことに変わりがない。

そう思うから、今の私にできることは、「今日、今を生きている私や、私の家族たちとの暮らしぶりは、お父さん、お母さんに育てられた家庭文化のエッセンスでできているんだよ」ということを、発信し続けるしかない。つながっているし、受け継いでいる。その上で、流れを分かつ別の家庭文化を作っているということ。別の人間、別の家庭であり、もう流れは戻らないが、水脈は一ですよ、と。

言葉にすると、陳腐になるし、ちょっと言いたいことと変わってしまうし、知りたくなかったことまで聞かされるはめになるから、やりとりはしないほうがいいのだ。でも、「切っていないよ」「思っているよ」、っていうことだけは、ね。

妹やオットにはまた呆れられるかもしれないが、母が亡くなってもうすぐ丸3年。長い人生を考える時、この3年間、そして晩年の辛かった時期を含めての5年、さらに10年。長いようでいて、ごく一期間かもしれないから、拙速に切り捨ててはいけないのではないか、という気持ちになりつつある。少なくとも私は。

いずれ父が本当に老いて、ムスメやムスコが大人になり、いろいろな機微がわかるようになった時に、「祖父はあなたたちを見捨てたわけではなく、そういう生き方しかできない人もいるんだ」ということで決着をつけてやりたいとも思うから。いま、切ってしまいたくない。子どもたちにも狭量な人間観(親のそれをそのまま引き継ぐようなかたちで)はもってほしくないから。

器の小さい親のもとに生まれついてしまった彼女・彼に私がしてやれることは、せめてそのくらいデス。

ということで、今日は私の43回目の誕生日。何の区切りでもないけれど、またひとつ無事に齢を重ねられたということで、メデタイね。ここ数ヶ月の過労で、今日はめずらしくダウンしたからお祝いめいたことは準備できないけど、妹と我が家とで近所の蕎麦割烹で蕎麦膳をいただくことに。

心の中で、母に「産んでくれてありがとうございます」という気持ちを捧げつつ。


2012年2月 2日 (木)

3ヶ月も更新していなかった…

気づいたら3ヶ月以上、ブログを放置していました。
身辺でいろいろ動きがあって、あれほど拒否していたTwitter、そしてあろうことかFacebookまでやる必要が出てきて、すっかりそちらに気と手をとられていました。

ETSのその後とか、きちんと定期的に報告していくのが、一度施術を受けたことを公開したものの責任、と思っているので申し訳ないなぁと思っています。

いま、いろいろ新しい動きがあって、コミュニケーションツールやアプリケーションを実際に使う必要に迫られているためです。

思うこと、書きたいことはたくさんあるのですが、なかなか心身のゆとりがなく、クイックで伝播力のあるTwitterによもやまばなしを書き込むことが習慣化しています。(相変わらずPCからですけど)

その一方で、思考をきちんとまとめて文章として成立させる、という作業はやはり自分にとって必要で、それぞれの場の長短を実感しています。
3ヶ月近く、「あちら」に肩入れしたおかげで、双方のバランスをうまくとっていく、ということをこれかはしていきたいなと思い始めています。

本当はこちらも匿名を排除して、オープンにしたいのですけれど、家族内の問題など、まだまだ屈託なく公開する気持ちにはなれず。なのでしばらくまた「思索的?(というには稚拙ですが)」な、。ディープでヘビーめのものは、こちらに整理していきたいと思っています。

ということで決意表明!

2011年10月20日 (木)

あせもでなくてラテックスアレルギー…

掲題の通り、前回のログの後でラテックスアレルギーが判明しました。
「ひどいあせも」だと思っていたのは間違いだったのです…。

下着(特にショーツ)のリムのゴムによる接触性の蕁麻疹でした。

どうりでおかしいと思ったヨ。

だって、本当にゴムが当たっているラインだけがペンで描いたように等幅のミミズ腫れになっているんだもの。衣類が密着しているはずの面積の広い部分は無症状。もっと早く気づくべきだった!

ふつうは、ラテックスの曝露が多い医療従事者(医療用グローブの常時着用とか)がなりやすいのだそうだが、一部には、手術中に医療者の医療用グローブが体内組織に触れることで起こる場合もあるんだとかで。さらには、ラテックスへの接触機会が少なくても、フルーツアレルギーがあるとなりやすい、と。

ラテックスの原料であるゴムノキと、フルーツアレルギーの抗原が似ているとかで、バナナやパパイヤなどの南国フルーツは特に要注意なんだそうで。ほかにも、キウイや桃、いちごなどでもなるらしいです。

私の場合、産後に体質が変わったために、アボカド、パイナップルなどのフルーツを食べると激しいアレルギー反応を起こす。体調不良で免疫が低下している時にはこれに加えて松の実やかぼちゃの種、カシューナッツなどの脂肪の多いナッツでもアナフィラキシーを起こすことがある。日常的に回避しやすいものばかりなので、反応が起こる頻度は低いけど、決して軽いアレルギーではないと思われる。

でも、これまでラテックスグローブに反応したことはなかったから(学生時代は歯科助手のバイトもしていたし、最近も何度も手にはめたこともある)、まさかまさか…。

ところがですね。なぜわかったか、というと…。非常にアレな話なんですが、判明したのはコンドームがきっかけだったのです。

ここ数回(だから夏以降の話ですね)、事後10分もしないうちに、首筋から鎖骨のあたり、両手首内側(脈をとるあたり)、両肘内側(静脈が見えるあたり)、二の腕の内側、内くるぶしの周辺、足の甲あたりが猛烈に痒くなるのが気になっていました。かいてかいて、しばらくすると落ち着くので、その都度忘れていたのですが。

が、直近の時にまた同じことが起こったので、バスルームの鏡で見てみたらびっくり。首から鎖骨、耳の裏側にかけて、大陸地図のように真っ赤な丘疹が広がっていました。そのうち鼠径部にも同じ反応が。これはただごとじゃないと、保冷剤で冷やして弱いステロイド剤を塗り、30分ほど安静にしたら元に戻ったけど、確信したのはこの時。「これはゴムだ!」と。

そう思って振り返れば、長時間の会議で座りっぱなしの後、帰宅してボトムスを脱ぐと、ショーツのクロッチ部分(おまたから鼠径部と臀部にかかるあたり)にも、同じような丘疹ができたことがありました。そのときもあまりにひどかったので、「すっかり体質が変わってあせもが常態になっちゃったなぁ…」とブルーだったのですが。

そうすると、あれもこれも、無関係だと思われたエピソードが全部つながる!ということばかり。

夏場、フットカバーのリムのラインに足の甲が痒くなる(蚊に刺されたとばかり思ってた…)。ゴム風船をふくらませると唇の内側が腫れる。ヘアゴムを手首に長時間つけていると痒くなる(蒸れたのかと思ってた)。

しかし、コンドームにしてもこれほど強い反応はこの夏まではまったくなかった(と思う)。いや、恥ずかしい話で恐縮だが、これまで自分が「女性のデリケートゾーンのかゆみ」に悩まされることが多くて、てっきり体質とかケアの問題だと思っていたことが、実はアレルギーだったのでは、と思い起こされ。もっと早く気づいて適切にケアしていれば、ここまでひどい反応に発展しなかったかも、と思って悔やまれるー。月経の時にもかゆみが増すのを、加齢のせいで皮膚粘膜が弱っているため、と勝手に思い込んでいたのだけれど、生理用ショーツのクロッチ部分のせいだった可能性大。う゛ー。

今になっての憶測だけど、表皮ではなく、粘膜に直接触れるのがコンドームの特徴だからこれほど強い症状が出たのではないかと思われる。いや、絶対そうだ。と、悩んでいても仕方ない。放置したり、曝露が重なるとさらに悪化するのですぐに対処が必要、と頭を切り替えました。

で、ひとまずは切実なところということで、当座の肌着と避妊具だけはラテックスフリーのものにすることにしました。そしたらいいところを発見!

医療用アパレル/ブティック(通販)の「Malliah(マリア)」
http://www.malliah.jp/shopbrand/004/Y/

ここ、がんサバイバーのための衣類や、アスペルガーなど感覚過敏の方向けのお洋服も扱っていて、どれもセンスと気遣いのバランスがよいです。私はさっそく、ラテックスアレルギー対応の肌着から、ブラとショーツ、そしてパンティラインが響かないようメンズ用(Sサイズ)のトランクスを購入。

それからナプキンも布ナプキンにすることにしました。これはいつもコーヒーやオーガニックフードを購入している「福猫屋」で。
http://www.fukuneko-ya.org/EC/index.html

そして、生々しい話で恐縮ですが、よく調べて避妊具もノンラテックスのものを求めました。
第一三共ヘルスケア製の「ノンラバー」というもの。
http://www.kenko.com/product/item/itm_8312197072.html
※他メーカーも出しているようです。これがベストということではないですが。

伸縮性のあるメリヤスだとへばりも早いので、トランクスタイプは型をとって自作しようかと。晒し木綿を反物で買って作ればいいかなと思っています。よく考えれば、最近までゴムでフィットさせる服なんてなかったわけだし。汗対策も兼ねればちょうどよいかと。

でも、婦人科での経膣プローブのカバーもラテックス製のサックだし、ふつうは歯医者もラテックスグローブをつけてるはず。受診には、「ラテックスアレルギーです」と事前に伝えないといけないんだよね、きっと。あるいは、自分でラテックスフリーのグローブを持って行かないといけないんだろうか。水泳用のゴーグルも、シーリングがシリコン製とかじゃないとダメだろうな…。いやぁ、面倒。

しばらくチビたちのアレルギー対策からも解放されてきたから、ここにきて自分が気を付けなければならなくなるとは。むむむ。

同様の症状がおありのかたは、あせもと即断せずに、きちんと調べたほうがよいですよ。汗をかくと皮膚がふやけて刺激に弱くなるから余計に症状が強くなるみたいです。ご参考までに。


2011年10月12日 (水)

ETSのその後について(まとめてお返事)

ETSの術後経過について、非公開希望も含めてたくさんの問い合わせをいただいております。

これまでの経緯については過去のログを遡って確認いただくとして、術後2年3カ月経った現時点での状況と気持ちを書いておきます。ダイレクトメールでのお返事を希望されている方もおられますが、当初から書いている通り、直接の推奨やアドバイスは遠慮させていただいています。一番の理由は、いまもって私自身が「受けてよかった!」と双手を上げて賛成・支持できる境地には至っていないからです。

これまで何度も「後悔はない」と書いてきていますし、その気持ちに偽りはありません。しかし、ETSの場合は、得たかった結果と引き換えにする現象が、他と比べ物にならないほど大きいことも事実です。実際、私もこの夏は、町中の節電対策の影響もあって、大変な発汗とその副次的な症状のケアに苦慮しました。昨年の夏よりも症状が著しくなったと感じる部分もありますし、今後もさらにヒドくならないという保証はありません。ケースによっては、手術後のほうがQOLが落ちるという人もいると聞きます。

自分の場合、代償性発汗についても許容範囲として引き受けられますが、それでも、たとえば娘が施術を受けたい、と言ったなら現在の年齢・ライフステージや性別などを考えて反対すると思います。ETS手術を受ける以外の工夫や発想の転換で、手掌多汗症による人格形成への影響度や社会生活上の便益を守ることを考えるべきだと言うでしょう(たとえば職業の選択に代表されるライフスタイルなど)。

私は、以前の悩みが非常に重苦しいものだったので決断をしましたし、最大の悩みである「手と手の触れ合い」への躊躇はなくなりました。その一方で、胴回りの温感性(25℃以上)の異常発汗による、さまざまな不便や不快はありますし、以前に比べて現在がとても良いということではないのです。QOL上のよしあしでいえば、before/afterで単純比較はできない、ということです。

また、それほどの大きな判断を、私は2009年の7月(実母の死後3カ月後)にしたわけですが、今考えると、この時機的な影響は大きかったと思います。何か思い切った変化・転換をしたくて、思い切った大きな判断をしたと思うからです。今、同様の決断ができるかといえば(こう見えて結構慎重なので)、踏み切れなかったかもしれません。

社会生活の支障となる「汗」がどれほどの物理的・心理的負担になるか、私も他の人に負けず理解できると自負しています。でも、それでも「アドバイス」はできません。時間が立てば、心理状態も価値観も変容していきます。いま後悔しないことが、これから先もずっと変わらないとは言えないのです。

とはいえ、最初にログにアップした自分の責任もありますので、以下には2年3カ月目の実態について、なるべく正直に、つつみ隠さず書いておきます。それをもって各々でご判断いただければと思います。

<ETSを受けてよかったこと>
●社会生活上最も接触の多い「手」の悩みがなくなることで、日常的な挙動や所作に神経を尖らせなくてよくなった。気持ちのゆとりができた。
●手仕事時の発汗による煩雑さがなくなった。
●子どもと手をつないだり、スキンシップにためらいがなくなった。
●夏場(6〜9月)は代償性発汗がヒドいが、それ以外は汗にまつわる悩みはなくなる

<ETSを受けて困っていること>
▼うち工夫で解決可能なこと
●手が乾燥しすぎて、滑りやすい。マウスパッドが反応しにくい。(保湿で補う)
●冬場は手荒れがひどくなりやすい(保湿)
●胴回りの大量発汗(日本手ぬぐいで日常生活上のケアが可能)
●夏場の汗ケアのための出費がかさむ(衣類の予備の充実やタクシー代などの交通費)
●運動性発汗も激しいので運動不足になりがち(水泳などで対応)
●味覚性発汗(味の濃いもの、熱いもの、アルコールは控える)

▼うち原因不明またはケアに苦慮していること
●夏季の後背部中央、乳房の間とアンダーバスト、ウエスト、パンティライン、両太もも外側・背面、顔面を中心とする代償性発汗(ETS前よりも著しく憎悪。下着などのケアで基本的には対応可能)
●夏場は汗対策を優先するために、ファッション性は後回し(チュニックやワンピースのみ)
●発汗時の着衣圧迫部分のあせもなど(完全なケアが難しい)
●むくみ、だるさ、疲れやすさ(ETSとの因果関係は不明だが時期的には経過と一致)
●冷え性、低代謝、免疫低下(ETSとの因果関係は不明だが時期的には経過と一致)
●じんましんや皮膚掻痒、頭皮・頭髪の乾燥(一時的だが以前は興らなかった症状)

その他、(年齢的に体調・体質の節目にあるので単純には)因果関係を証だてることができませんが、全体に副交感神経優位が過ぎるように感じます。眠気や食欲の増進、集中力や活動性の低下、代謝・免疫の低下などは、代償性発汗以外の変化として自覚している部分です。社会生活上の支障があるほどではないものの、もしこれが若く、恋愛や結婚、出産や育児をこれからに控えた身だとしたら、ずいぶん心身への新たな負担となったかもしれないなと思います。(娘に勧めない理由のひとつです)

これらのことから、手掌多汗症(あるいはその他の部位の多汗症)にフォーカスするのであれば、ETSは非常に有効な手法かもしれませんが、それによって全身の包括的なバランスは崩れる恐れもあるものと思います。いまは私も40代ですが、もう少し老いて体力が衰えたときにどのような影響が表れるのか否か、今後、免疫系や神経系への新たな影響が違うかたちで生じないか、という問題もあるかと思います。人間の体や生命活動をホリスティックなものとして考えてみれば、当たり前のことですが。

汗そのものに対しては、来年の夏には、さらし木綿を買って、手づくりのアンダーウェアをつくろうと思っています。また夏場の衣服は、ウエストの締め付けや肌との接地面を少なくできるワンピースや、チュニックとパンツの組み合わせで乗り切るつもりです。(勤め人ではないのでスマートカジュアルでよいため)代償性発汗については鉛化アルミニウムなどで対症療法的にケアする予定です。あとは、今後の心がけとして、漢方、鍼、冷えとり療法などで全身の免疫や代謝を上げる、補えるように意識することとを考えています。

職業柄、また年齢や人生設計の観点から「人生を変える手術」としてETSを認識し、期待している方が多いと思うのですが、いま言えることがあるとすれば、であればこそ、いまの生活や心身の不便を強いている理由を「多汗」だけに求めないほうがよいのではないか、と思います(以前、自分がどれだけ苦しんだかを考えれば、その思いは痛いほどわかりますが)

ライフステージがある程度定まっている私が、「これさえなければ」と思い続けて踏み切った手術ですが、それでもなおかつ「これで万事解決!」と言えない代償を負う可能性のあるものです。

幸いオットは、昔から私の症状に対して抵抗感が少ない人だったこともあり、「手汗があっても関係ない」「手汗の代わりに胴汗(?)が出ても仕方ない」と思ってくれる人だったことが、いまの私の受容感のベースにあると思います。また自由度の高いライフスタイルのおかげで、かなり工夫しやすい点でも恵まれていたと思いますが、「一か八か」では決して判断しないほうがよいと思います。

最後に、あらためて。お問い合わせに直接ご返事しないのは、上記のように、私にとってETSを受けると決めたいきさつや、生活様式上の調整可能範囲、ライフステージ上の転機など、極めて個人的で、なおかつ現在も変わりつつある状況のため、個別具体的にアドバイスすることはできないと考えているから(来年には考えが変わっているかもしれませんし)です。どうかご理解いただき、過去ログからここまでの私の記録と、心境の変化が伺われるのであれば、それも含めてご判断いただきたいと思います。


2011年10月 7日 (金)

twitter、なんとなくやってる…

大分こちらを留守にしてしまっている。

激しく忙しくて、気づいたら初夏から秋に切り替わっていた、という感じ。

ずいぶんまえに「twitterをやらない訳」というログをしたことがあって、「私はやらない(多分。)」と明言したんだけど、実はけっこうtwitterは続いている。アテにならない事例、ここにも。

やらない理由はふたつあった。

一番は、目の前の相手や現実をおいて、手元の端末と首っ引きで入力している、という挙動がどうにも嫌だったから。

もうひとつは、「今、どこそこで、何をしてます」というのをイチイチ発信したり、関係ない人の発信に絡んだりするのが受け付けなかったから。それが元で、人を傷つけている例をたくさん間近に見ていたし、いつも他人の目を(気にしていないようでいて)意識して「つぶやく」なんてあり得ないと思っていたから。

そのふたつとも、今もって気持ちとしては変わっていない。

よって、非常に邪道な使い方。twitterの本質的な活用とはまったく違う使い方に徹してしまっている。

まず、他人のtweetには関与しない。気になる人、常にチェックしたい人はフォローはするし、備忘的にリツイートはするが、自分はしてもらわなくていい(ていうかしないでほしいくらい)。

それから、iPhoneではTweetしない。目の前に人がいるときもしない。日中や深夜、ひとりでPCに向かっているときに、思いついて書くだけ。

画像も具体的な情報も書かない。要するに、メモ。ブログと何ら変わらず。ただ、ショートでクイックなのがラク。字数制限があることが、別の意味でラクにしてくれるところがある。そこは気に入ってる。

一番気に入っているのは、タイムライン。多くはないが信頼できる人をフォローしておくだけで、リアルタイムで発信内容がわかるのは、こういうご時世には重要。仕事中、ラジオもテレビもつけたくないので、なおさら。いまは50人程度のフォローだけど、十分世の中の流れがわかる。これは他にはない機能。

でも、一番大きいのは、もう胸の内を言葉に任せて書きなぐらなくてもよくなった、ということなのかもしれない。いろんなことが通り過ぎて行って、私の心の中に、滞りや溜まりがなくなった、ということなのかもしれない。むしろ、その時々にふと思ったことが、時間の流れのなかで集積していくほうが
いまの生理には合っているのかもしれない。

だから、とてもtwitterだけでは無理、というときにはブログに書くほうがいいのだけれど、できるなら、このままライトにいけるといいなと思う。いろんな意味で。

で、これ、どうやったら自分のtwitterアカウントと連携できるんかな。やってみたけど…。

2011年9月11日 (日)

10年目と、半年。

8月は記憶のないままに終わりました。

親になって10年近く、公的保育の支援を受けながらフルタイム(の二乗)で働いて来た日々。
丸一日、母子だけで過ごした経験がほとんどなかった有職母だった私にとって、はじめての経験をした夏休みでした。

4年生になったムスメは、これまで学校の長期休みの間は学童保育サービスを利用していたので、9-17時は不在だったし、ムスコも去年まで保育園児だったもので、「夏休み」とは言っても、ほとんどふだんと同じペースで生活してきたのでした。

ところが今年は、ムスメは4年生。つまり、学童保育の対象外。ということは、日中は自宅でひとりで過ごさないといけない。少なくともお昼は自宅でお弁当(のはずだった)。

そしてムスコは学童にお世話に(なるはずだった)。

オットは母の死後、思うところあって福祉職を志すことに。これまでの仕事は細々と続けながらも、福祉事務所で福祉職の嘱託勤務&資格取得の日々に突入しており、日中も土曜もほぼ不在。

大げさだけど、母子だけでなんとか長い夏を乗り切るためにどうやりくりするか、初めての試練だったのでした。いってみれば、「ちゃんと(専任の)お母さんをした」初めての夏だったのだ。

そんなこと言ってると、外勤フルタイムで働き続け、子どもにも早くから生活自立させて、シッターサービスも利用しながら四苦八苦して乗り切って来た父母からはおしかりをうけそうだけど、「子どもを一夏家庭において過ごさせ、仕事もしつつ乗り切る」ことの大変さを、いまさらながらに痛感させられました。

これまでは、うちもいろいろ大変だったけど、オットとの交代で「どちらかは必ず、何かあったときに家にいられるように」体勢を整えてきたから、よほどのことがないかぎり子どもの在宅時間をどうするか、で苦慮することがなかった。(それを許すには、私が過剰に仕事をしたり、オットが仕事を絞ったりと、不均衡や歪みも伴ってしまったわけだけど)

きっといつもなら、「もう4年生だし、自宅で長時間ひとりでも大丈夫よね」と、ムスメも私もお互いに新生活のリズムをそれなりに楽しめていたかもしれない。

だけど、3.11があって、私とオットの「安全観」は揺らいだ。

あの日、たまたま近くの事務所に打ち合わせに出かける寸前だった私は自宅で地震に遭遇した。
ムスメは学校で授業中、ムスコは保育園の午睡明け、オットは自転車で15分の福祉事務所で勤務中だった。

後日談で、幕張や青物横丁からヒール&徒歩で夜通し歩いて帰って来たママ友の話、品川から横浜までスーツと革靴で夜通し歩いて帰ったら踵の骨を疲労骨折した男性の話などを聞いたし、たまたま短縮授業の日で、ひとりで帰宅した瞬間に地震が来て大きなショックを受けた子の話や、私学へ地下鉄で通学していて電車が緊急停止で、通信網不全で連絡もとれずに立ち往生した小学生の話なんかを聞くにつけ、徒歩圏で、お互いに目が届く範囲で生活ができていることのありがたさや、緊急時に子どもをひとりにしなくて済んだ安心感などが骨身に沁みた。

だから、この夏も、万が一のことを考えたときに、少なくとも自宅にムスメひとりで長時間、という状況はつくりたくなかった。どうしてもそれはできなかった。忙しかったにもかかわらず、終日長時間の会議や外出を余儀なくされる場合には、オットに時間休をとってもらうか、あるいは思い切って祖父母宅に預けるか、あるいは同じマンションの上階に済むご夫婦世帯の奥さんを頼るか、にした。

いろいろ腐心しているなか、ムスコも「オレだけ学童なんてやだし。オレも一緒に家にいるし!」と宣言。結局、日中のほとんどをムスコも一緒に在宅で過ごすことに。

いや、とにかく子ども2人とひがな一日(もちろんこちとらずっとPCに向かって仕事、仕事、仕事)一緒にいるというのが初めてなもので、いろんな意味でよい経験になった。

午前中はそれぞれ高学年と低学年のプール実習に。戻って来て午前中に自宅学習を終える。お昼を一緒員食べて、午後は自由時間。夕方帰宅したオットと、時間が合えばみんなで徒歩数分の室内プールで水泳。夕食と寛ぎタイムが終わって就寝したら、それからまた仕事。そんな感じ。

しかし、一緒にいると、とにかく集中力のないムスメ(ムスコの面倒をみるからしかたない)と、集中力も意欲もあるがつきっきりでないと何も進まない(1年生だからあたりまえか)ムスコに気と手をとられて、日中の仕事の効率は、少なく見積もっても40%はダウン。結果的に、夜更かしになってしまうという悪循環に。

そして、そういう子どもたちの挙動に目がいってしまって、気になって気になって仕方がなく、ついつい口やかましく小言を連発してしまい、親子ともにウンザリ…ということの繰り返し。

よく、夫の定年退職後、ずっと家に居られると気詰まりで、一挙手一投足が気になって落ち着かなく、メンタルに変調をきたす妻が多いと聞くが、そういうのに近かったのかも。ふだんは気にならない子どもたちのようすも、日がな一緒にいるといちいち目に留まるし気に障る。非常に、お互いにとってストレスの多い日々だったことも否定できない。もちろん、すごく新鮮な経験もたくさんしたわけで、「ふだんはこんなふうに過ごしているんだな」とか、「こういう一面があるのか」ということもわかって興味深かったんだけど。でも、ここまで忙しくもなく、気持ちにある程度ゆとりがあれば、もっと楽しめたのに、と思うと非常に残念。

親っていうやつは、本当に欲が深くて、ついつい子どもの実力以上の何かを求めてしまうし、達成度を高く見積もってしまうから、「なんでできないの?」「どうしてもっと〜しないの?」と問いつめてしまう。いつのまにか欲張りになってしまった自分の至らなさを、いろんな局面で知らされた夏だったともいえる。

今日は2011年9月11日。

10年前の今日、私のお腹にはやっと授かったムスメがおり、ちょうど4カ月目に入っていた。切迫流産で在宅勤務の許可をとりつけ、ひどい妊娠悪阻で苦しんだ夏をなんとか乗り切ったものの、なかなか寝付けずに、深夜、NHKで「アリー my love」の再放送を見ていた。突然緊急ニュースに切り替わり、そこから後は朝まで画面に釘付けだった。これから世の中に何が起こるのか、お腹のこの子はどういう世界を行きて行くのか、不安や気持ちの高ぶりで寝付けなかった。

あれから10年たち、ムスメは小学校4年生になり、第二次性徴期の兆候もみえて来た。反発心と甘え心がないまぜになった面倒くさい年齢でもあるが、ずいぶん「おねえさん」になった。この10年で、私たちは親になり、四十路に入り、ムスコも授かり、犬たちは老い、母は亡くなり、父は新しい後添えを得て、私と妹とは違う道を往った。光陰矢の如し、とは言いにくいくらい濃密で重厚な10年だった。

そして2011年3月11日。

翌日にムスコの卒園式を、1週間後にムスメの誕生日を控えて、私たち家族にとっては(父のことなどいろいろあったものの)前を向いて生きていこう!という気持ちになっていた矢先の地震。そして原発事故。今日までのあいだ、家族が無事でよかった。近くにいてよかった。生きて行く上で本当に必要なことってなんだろう。そういうことを嫌が応にも考えざるを得ない半年だった。

今日、偶然、秋の祭り着を新調しに浅草の専門店へ家族4人と妹とで物見遊山がてら出かけ、浅草寺で恒例の祈願をしたのだが、ちょうど15時少し前だった。手を合わせて、家内安全を祈ったときに、まっさきに頭に浮かんだのは、「こうしているだけでありがたい」という思いだった。

「生まれてきてくれるだけでありがたい」と真剣に思った10年前。「無事でみんな一緒に過ごせるだけでありがたい」と切実に思った半年前。

そういうことが、偶然にも一気にフラッシュバックしたのでした。つい忘れてしまう、つい高望みしてしまう日々のなかで本当に何かひとつを祈るとしたら、家族や大切な人の息災でしかないんだ、ということに、そんな簡単で大事なことに、あらためて気づかされた次第であります。

とりとめもないけど、そんなことを噛み締めている10年目、そして6カ月目の私です。

2011年8月 4日 (木)

父、入籍。そして家はなくなった。

最後のエントリから2カ月近くブログを放置していたのは、忙しかったせいもあって、iPhoneで、移動中なんかにちびちびとTwitterに心情をメモっていたから。

というのはほんとうだけど、実際には、心の底に沈んだ重苦しい思いを直視することができなくて、かといってそれをなかったことにして当たり障りのないことを書くのも虚しくて、「考える」「書く」ということが億劫になっていたから。

父の行状については、6月以降情緒も不安定だし、記憶もところどころ欠落して、電話で話したことはおろか、電話そのものがなかったことになっている、ということもままあった。また、前回はウエットに、情緒的に、懐柔的態度で話してきたかと思えば、次にはまったく脈絡のないタイミングで電話をかけてきて、開口一番ののしられる、ということも断続的に続いた。

あるときは、「おれは一生お前たちの父親だ、どんなことがあっても、お前たちが拒んでも」「おれはおかあさんに対して恥ずべきところは一点もない。いい夫だったと思っている」と懐古したかと思えば、あるときは「財産目当て、カネの切れ目が縁の切れ目」「遺産は新しい連れ合いにすべて相続させるからそのつもりで」と言い放ち、その言い様に絶句して声を詰まらせれば、「今度はお涙頂戴か」とくる。

結局、覚悟を決めて、本来母からわたしたちが相続すべきだったはずの最小限の分だけを妹と私に配分してもらえるよう(交渉しても無理なので、とりあえず感情的にならないための策は講じて)算段して、とにもかくにも、いったん身辺整理をしてから自分の新生活をスタートしてもらうように手はずをとった。

なぜならば。

父は、母の三回忌だった4/27から2週間後、5/10に、すでに入籍していたのだった。

そして、我が家とのあれこれで失職したその女性が、次の職場に勤める7月までに同居を開始したいと考えており、実家にある、母の遺品や、妹の私物をすべて撤去・処分させたいと考えていたのだった。

自分の要望を通すために、調整役として私と話をすることを望んだ父と、現実的に折り合いをつけて「父のことは忘れる」という冷酷な決意をせざるをえなかった私の利害が一致したということだろう。現実問題の処遇を事務的に済ませたらあとは、妹とふたりだけの肉親として行きて行こう、と心に決めていた。

ただ、一点。妹に、父の考えと行いをどう伝えるか。それが気重だった。

母があれほど帰りたがった家。妹が血を流しながら母と向き合い、後にした家。わたしたちが育った家。母の没後、こまめに足を運んで父の世話をしようとしてきた妹に、「実家から、6月中にあなたと母の私物を搬出して、あなたの部屋を、後添えに明け渡せと言っている」と、私はとても伝えられずにいた。

いやらしい言い方だが、父が再び変心し態度を硬化させる前に(そうなったら、本来母が亡くなった時点で正当に相続するはずだった分すら「財産目当ての骨肉の争い」という名目をつけられて泥沼化してしまうから)、煩雑なことは済ませてしまいたかった。感情的なぶつかりあいが再燃することで、ネガティブな関係がずるずると続くことが、もういやだった。父に、自分の心の澱をかき乱され、どろどろとした憎悪にまみれるような事態だけはもう避けたかった。

父の新生活への決意の固さ、自分を美化し正当化する姿勢は、もう十分にわかっていたし、それはもうよい、と思っている。父を変えることはできないし、もちろん、変えたいとももう思わない。それぞれの人生だ、と本心から思う。しかし、父の言動のすべてが私を失望させるのは、肉親だから、親だからなわけで。これ以上、がっかりしたくない。これ以上見損ないたくない。それが正直なところ。

そして、今回これきりだけれど、後添えとなるわたしたちと同年代のその女性は、結婚前にきちんと合って話そう、という呼びかけに対して「怖いから会いたくない」とのたまったそうだ。父は不憫そうな顔で「そりゃそうだろう、あれだけ熾烈に責められれば。怯えるのは無理もない」と言う。「… =3」と嘆息して私は思う。「円熟期(?)のバカップル、ここにあり」と。これでまたひとつ、諦めもついた。

「●●につける薬はない」のである。

妹には、「最小限だけれどおかあさんの志は配分を得た」ことと、「父はすでに三回忌直後に無断で入籍していた」こと、「後添えの都合で同居のために早々に実家を明け渡さなくてはならず、母と妹の私物を撤去してほしいと言われていること」を抱き合わせで話すつもりだった。妹はそれを聞いて激昂するだろうか。それとも泣き崩れるだろうか。そんなことを思いながら、片手間では話せないからと、仕事のケリがつくまで、とずるずると引き延ばしてしまった。

父には私から条件を出した。同居前に配分額を振り込んでほしい。そして私物撤去は業者を頼んでトランクルームに一括保管させるようにしてほしい(妹に搬出をさせるな)。そして一連の話は私からきちんと話すので勝手に言わないように。そのかわり、もう何も反対も、口出しもしない。お好きに、と。

父は嬉々として条件を受け入れたが、病弱な老人の身分、40歳の後添えを娶るにあたって十分な蓄えは確保しておきたかったのだろう。配分については再三未練がましい愚痴をこぼされた。聞こえないふりをしたが。

しかし、結局父は私との約束をいくつか反古にした。金額は催促した7月末まで支払われなかったし、妹には勝手に喋ってしまっていた。そのぶん、結果として妹には私から「宣告」する必要はなくなったわけだが。

妹はもはや憤りを越えて失望にいたっているかのように冷静だった。私は拍子抜けしたが、それは表面的なものだろうとも思った。この話は、あとからじわじわと、環境汚染のように自分の気持ちを蝕んでいくということを、これまでのさまざまないきさつから知っていたから。

「これからが大変だろう」「深層心理的にダメージを受けるだろう」と思った。

「もう考えないことにするよ」と妹はさばさばと言ったが、「それはできないよ」と私は返した。抱え込めば腐敗臭を発して、悪いガスが溜まる。毒をため込んで、心身が蝕まれて、本当に病気になる。だから、無理矢理なかったことにしてはいけない。かといって毒を履き続けていると、自分自身の魂も傷つく。きょうだいでつつしみをもちつつ心情吐露しあって、少しずつ時間の流れにさらして毒抜きしていくしかない。そう言い合った。

「孫とは会いたいみたいだし、私たちとの関係もこれまでと変わらない、と父は言っている。それには応えてやらなければならないのかも」と言うと、オットは怒った。「オレは認めない。そんなむしのいい話があるか」と。私は「やば、地雷を踏んだ」と後悔したが、妹は「●●くんの言ってること、私もわかる。それは虫のいい話だし、そこまでする必要も義務もない」とオットに同調した。「たとえ後添えが財産目当てで、そのうち放り出されて野垂れ死にしたとしても自業自得」というオットと妹の言葉に、私はふたりの怒りの深さを知る。怒りは、ネガティブだが積極的で主体的な感情だ。

私にはもはや、怒りすらもない。もともと感情エネルギーが薄弱で、怒っても持続させることができない。それは私が「仏」だからなのではなくて、単に薄情なだけだ。酷薄だっていうことだ。

私の気持ちのなかにあるのは、もう、「おかあさん、ごめんね」という気持ちだけ。「父は、母より前に亡くなったと思おう」というやりかたで、怒りや失望を自分の心のなかに葬るだけだ。

私には守るべき家族と暮らしがあり、世の中は平穏ではない。妹も含めて、いまのこの家族をどれだけ大事にしていくかに注力して生きていきたい。

結局、お金が振り込まれ、私たちの私物は搬出され、彼らは同居し、その後一切連絡もないし、しない。「それでも一度はきちんと会っておかないと」と言っていた妹だったが、あれから足を向ける気にはなれないでいるようだ。「帰る家、なくなっちゃった」と、ぽつり。その言葉は、父と過去を見限った私の思いとはまったく違う重みを持っている。妹のことだけが気掛かりだ。

ひとつの決着がついたが、虚しさは何も変わらない。むしろ増しているかも。

8月の終わり、母の眠るお墓に妹と我が家で参るつもりだ。母に挨拶し、詫びるために。

うーん。しかし、ひさしぶりだと、ますます文章が書けなくなっている。気力体力も落ちるのね。

2011年6月25日 (土)

代償性発汗の夏を乗り切るために…

しばらく、またもや更新していなくて。

5月からこちら、ほんとにいろいろありすぎて疲れちゃった。
そんなこんなのうちに、梅雨に入って「寒いなー」と思う日が続いて、「今年は冷夏かな」なんて思っていたら、いきなりの真夏日続き。ついに来ました。魔の夏が。

ETSについて一度は書いた者としては、その後についてもやっぱりちゃんと書いておかないと。

夏が終わると本当にほっとしたもの。1年のうち6〜9月の半袖シーズンは本当に憂鬱。もうすぐETSを受けてまる2年経つのだけれど、去年より今年のほうが、代償性発汗は厳しいように感じる。突然暑くなったので落差の問題なのかもしれないし、シーズン半ばになれば「慣れ」るのかもしれないけど。

今年、特にきついなと感じる一番の理由は、ウエストまわりの「汗負け」がヒドいから。下着のゴムが当たるところが、赤くミミズ腫れのようになってしまって痛がゆく、見た目も痛々しい。今年けっこう太ってしまったせいで、肌の密着度が高まっているからなのか、肌そのものが過敏になっているのか、原因は特定できないのだけど。

私の代償性発汗は、結構ヒドいほうだと思う。部位としては、
●背面:レーサーバックタイプのタンクトップがあたる場所(肩甲骨の間、背中から仙骨)の中央部。
●前面:アンダーバスト、乳房の間(いわゆる谷間)からおへそくらいまで
●大腿:太ももまわりは前後左右ぐるり(5部丈のスパッツが当たる部分)
●顔面:額生え際と、いわゆるTゾーン(頬や首、頭皮はあまりかかない)

この季節、ちょっと動くだけで胴回りは滝汗。本当に、サウナに入ったみたいに汗粒が出て流れ落ちる。ぴったりしたTシャツを1枚で着たりは絶対に無理。でも、一応自分なりの対策で、たぶん、日常生活には問題ないくらいにカバーはできている。
そのコツだけ、ここに書いときます。今日みたいな酷暑でも、1日汗を忘れて生活できる。

1)用意する基本アイテム:1回分
●ユニクロの「サラファイン」カップ付きキャミソール:ワキパットがついて肩ひもが調節できるもの
●てぬぐい:私はおしゃれなてぬぐいメーカーのものをたくさん買って、ハンカチがわりにもローテーションで使ってるけど。2枚
●レーサーバックのランニングか、薄手でぴったりしたTシャツ。
●7分丈のスパッツ:黒かチャコールグレーで、股上まわりがメッシュになってるもの。そのままチュニックの下にも切られるようなタイプでもいい。

2)サラファインはブラまわりはぐるりと二重になっていて、ゴムでしっかりホールドしてくれるので、その前面と背面に、4つ折りにした(B5サイズくらい)てぬぐいをしわにならないように挟む。

3)前面はてぬぐい上端を乳頭の位置にあわせて、谷間の汗を吸えるように。てぬぐいはこの位置でもウエストラインまで来ます。

4)背面は、肩甲骨の間に上端を合わせる。腰の位置まで手ぬぐいの下端が来ます。
★私は胴の側面はほとんど汗が出ないので、ふだんはこれだけだけど、気になるときはウエストラインにてぬぐいをもう1枚広げて巻いてもいいと思う。

5)サラファインは裾が眺めなので、そのまま前後のてぬぐいを押さえるように裾を伸ばしておく。
そこに7部丈スパッツをはいて、サラファインの裾を入れるようにしてはく。

6)その上から、レーサーバックかTシャツを着て下ごしらえはおしまい。

いまだと私は、この上からマリメッコなんかの大胆な柄で白地なんかのAラインのチュニックに、下はクロップドパンツをはきます。胴回りがカバーできるし、ウエスト周りの着膨れ感もカバーできる。

あとは、プチバトーの麻のたっぷりしたランニングとプルオーバーに、下はデニムパンツとか、ZARAのたっぷりめのTシャツに麻の黒いカーデガンとか。

太もも周りは汗が目立たないおゆに、ベルメゾンの「ももはり」パンツで、ウレタンストレッチなんかの、水なじみが悪くて、厚手で、ストレッチが強いもの。型くずれもしないし、下に七部丈のスパッツをはくと完璧。このスパッツもベルメゾンで探したんだけど、もたつかなくても快適です。チャコールグレーのスパッツだと、白いクロップドパンツの下にはいても透けないし。

上半身はたっぷりめ、下半身はコンパクトというのがベストバランス。ベルメゾンの、化繊の衣類はなかなか賢いです。ほかにブランドでおすすめなのは、ZARAやマリメッコ、MUJI、プチバトー。
おしゃれをあきらめなくても、それなりにまとまります。

そういう意味では、真夏は、上記のフル装備ファンデーションの上にワンピース、というのが一番無難。

で、なにより絶対におすすめしたいのが、てぬぐい。あの薄い布を4つ折りにするだけで、それを前後身頃に挟むだけで、ものすごい給水力、しかも、洋服の外に響かない。薄いからアウターにも響かないし、ボトムのウエストに入れられる。ほんとうに、だまされたと思って、手ぬぐいパッドをお試しください。下手な厚手タオルよりも、よく吸って、すぐ乾き、響かない。

それから余談だけど、てぬぐいは、端っこをまつっていない、切りっぱなしだからこそ、速乾性にすぐれているのだとか。わたしは「かまわぬ」のかわいいのを含めて、おみやげやミュージアムショップでも買いまくって、いまや30枚近く持っているんだけど、1日中外出が続く日には、前後2枚装着のほかに、スペアを2枚もって出ます。てぬぐいはびっしょりになるけど、したたるほどじゃないし、半日に1回、帰られるようなら前後を交換すると本当に爽快。ぬれたてぬぐいもかるくすすいで絞ってジップロックに入れておくんだけど、すぐにすすげて、すぐに乾くから、夜まで持ち歩いても臭くなりません。

男性だとスポーツ用のぴったりしたタンクトップ(dry fitとかの)で前後を押さえてもいいかも。とにかくてぬぐいは必需品です。さらしでもいいです。
外出前に装備を点検/準備するのは面倒だけど、外出前にこの準備をするだけで、1日のQOLは本当に上がります。

ちなみにこの暑さで、浮腫やだるさがとれないのも、もしかしたらETSの影響かもしれないな、と思うし、からだのバランスは崩れたのかもしれないな、と思うことはあります。真冬は本当に寒いし、真夏は暑さや湿気に弱い。

それでも、個人的には、手足の発汗がとまったことで、社会生活はいたって快適。以前のストレスを考えれば、いまの不便は個人的には(あくまで個人的には)許容範囲。どちらにしても、悩み多きからだに生まれついてしまったのだから、40歳で見切ったことは半分正解だったのかもしれない。

ただし、やっぱり、我が子や他人、しかもまだまだ人生これから、なにがあるかわからない、という若い人には勧めないだろうな、と思う。手掌多汗症がどれだけ人生と人格形成に影を落とすか、そのことを痛いほどわかったうえでなお、「人魚姫の決意」と同じだけの覚悟ができて(覚悟だけでなく、その後の人生を本当に引き受けることができるかどうか)、あらゆる未知のリスクを引き受けることができる人はいない、と思うから。まだわかっていない副反応だってあるかもしれないし。

私自身はいまは多少生活上の不便があるけれど、会社努めではないし、服装や交通手段や生活スタイルについて自己の裁量でどうとでもできるからまだ、負担感もさほどでなく済んでいる。そういう点でも後悔はまったくしていないけれど、他の人に対して既知・未知の代償(汗だけでなく)を「大したことのないもの」とは言いきることができないでいる。だから、もしムスメに請われても、まずはあらゆる手だてを講じて心によりそいながらも、最終的には「子どもを産んで、人生後半にさしかかって、”この手のままなら死んだ方がまし”と本気で思えるくらいの覚悟ができるまで待ちなさい」って言うと思う。

ちなみに、夏場、合宿や旅行に行く人には、MUJIなんかの、パイル地(バスタオル製みたいなやつ)のロンパースみたいなやつがおすすめです。下にタンクトップやTシャツを来て下に短パンをはいて太ももをカバーすれば、相当汗をかいても外に響きません。花火や海辺、BBQなどにもいいかも。

それから、汗を大量に書くのでついつい冷たい飲み物でからだを冷やそうとしてしまいますが、できれば体を冷やさないように、生姜ものとかでからだを温めるといいです。

いろいろお尋ねをいただくので、そんなわけで夏の暑さ&汗対策。

2011年6月 3日 (金)

恥の記録|その3

そしてそのあと、一進一退ありながらも、母の三回忌をどうするか、などを話し合わなければならないと思っていた矢先、あの震災。そして、その後のもようはTwitterからもコピペしたケド。わがオットとの間に一大事変勃発。父はまた一方的に「侮辱された」と激昂。でも、秦で聞いていた身からすると、若干口調が厳しかっただけ。そして、父の痛いところを突いただけ。ふだん温厚だから余計に「飼い犬に手を噛まれた」(もちろん、飼い犬でもなんでもないけど)気分になっただけ。まあ、マスオさんが波平の不徳を指摘したら大逆鱗に触れた、というレベル。でも、こじれにこじれて、情けない。妹はひたすら「○○くん(オット)に申し訳ない…」と。私も同じく。

オットは性格上、たいていのことは一拍(というか、だいぶ間をおく)おいて眺めたり、他人に対して苦手意識を持たないタイプ。私の方が疳が強いので好き嫌いも実は激しい(口や態度には出していないつもりだけど、オットには「あからさまだ」と言われるから、きっとバレバレなんだろう)。彼は大分我慢も抑制も利くし、よほどのことがなければ見切ったり突き放したりはしない。

そのオット曰く「オレは滅多に怒らないし、見切らない。人を嫌いになることもない。そのオレを怒らせたということは、大分相手に非がある」とキッパリと。私はそこまで明言はできないけど、言ってることはわかる。そして、オットは、そのようなわけで、一度怒ったら、まず妥協による和解はしない。関係修復が不可能だとしても仕方がない、というレベルまで怒りを抑えるからだろう。22年間、私が彼を知る限り、そのような感情表出があったのは、これで2度目。きっと、父の気性を考えても二度と和解はないだろう。それならそれで。

結局、母亡きあと、父と私たち家族みんなの関係は崩れてしまっている。そのことが母には申し訳なく、情けない。いまはなんとなく小康状態を保っているかのようだけど、きっと二度ともとに戻ることはないのだろう。家族って、なんなんだろう…って、今も思っている。

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お父さん

先程は、思わぬ展開になりましたが、
三回忌については、きちんと話し合っておきたいと思います。

三回忌は、「お父さんが新しいステージに進む為のけじめ」ではなく
「私たちのお母さんが亡くなってようやく2年経ち、葬儀も納骨もせずに
家族だけで服喪してきた時期を、親しい方々とともに区切りをつける」
ためのセレモニーであるべきだと思っています。

お父さんは、お母さんのことも何もかも、早くケリをつけて終わりにし、
「そろそろ自分の幸せを考えてもいい頃」だと、「新しい人生」に踏み出したい
と言いました。それはそれで、お父さんの考えです。

3回忌が近づくにつれて、お父さんがたびたび電話をくれて
「ムスコの入学祝いはいつまでに何が必要なのか?」
「ムスメの誕生日には何をいつまでに送ればいいのか?」
「学資保険の件はいったいいつまで手続きを引き延ばすのか?」…
と、確認してくるたびに、私は、
「三回忌までに積み残しの用件をなるべく早く整理して、
きれいに身辺整理して、早く”次へ”駒を進めたいんだろうな」
「刻限が迫ってじれているんだろうな」とプレッシャーを感じてきました。

年度末ゆえ仕事で忙殺されるなか、
ムスコの卒園準備や入学準備に手が回らずに焦っており、
2月末には急性腸炎で家族みんながダウンするなかでの問い合わせに
「いまは余裕がないから待ってほしい」と何度も頼んだと思います。

そして11日の地震、その後の余震や放射性物質関連の混乱で
子どもはもちろん、私たち親も消耗しきっています。
そのうえムスコはインフルエンザに、ムスメもストレスで体調不良に。
私たちも11日以降は余震や仕事でベッドで4時間以上安眠できていませんし、
長引く緊張状態で、心身ともにヘトヘトです。

周囲の親たちも、子どもたちも、心身症状が表れていて大変です。
お父さんには想像もつかないでしょうが、本当に極限状態に近いなかで
なんとか子どもたちの健康と、経済活動を維持しようと誰もが必死なのです。

お父さんも、地震でさまざまに思うところはあったのでしょう。
先を急ぐ気持ちもわからないではありません。
もはや結婚に反対してどうにかなるとも思っていませんし、
あきらめきっていますので、邪魔立てしたり、回避するつもりもありません。

しかし、「お父さんのこれからの幸せ」については、
大変申し訳ない言い方ですが、私にとっては最優先事項ではない。

私にとっていま喫緊の問題は、子どもたちとこの家庭生活を
なんとか「安定させ、なるべく元通りに」してやることなのです。
食事や睡眠の確保、通学通園の安全、安心して過ごせる環境の死守です。

そういうなかにあっても、お父さんは
「あの問題は?」「なぜ連絡してこない?」といらだちを隠そうとしません。

それどころか、勝手にこちらの状況を憶測し、気分を害して、
わざわざ○○(オット)に口止めをするようなことをして、
私が電話に出てみれば最初からケンカ腰でなじります。
理由を尋ねても、「別に。だから? それは悪うございました」と
子どものようなすね方で取りつく島もない。

私からすれば、こちらの事情を知ろうともせずに、その時々に
自分の都合や感情をぶつけてくるお父さんの心中がわかりません。

「三回忌が過ぎたらあらためて身の振り方を考える」というはずだったのが、
「3月中か、4月中旬までには、後添えと面談の機会をもって話してほしい」という
お父さんの考えにも、だから、二の句が継げませんでした。

ぎりぎりの状態で、入学準備もしなければならない。
子どもたちの飲み水や食べ物の心配もしなければならない。
子どもたちを日中ひとりで家に残さないために、日程の調整もしなければならない。
そんななかで、子どもも私たちも体調を崩して身動きがとれない。
余震も社会情勢も予断を許さず、いつ落ち着くのかも見えない。

そういう中で、新生活をはじめなければならないこの時期に、
お父さんの新生活スタートのために割ける心身の余裕などまったくありません。
三回忌をなんとかつつがなく執り行って、お母さんの供養を
きちんとしてあげることだけでも、精一杯なんです。

そういうことを、どうしてわかってくれないんだろう…。お父さんなのに…。
なんで勝手に怒って、そのくせ「こういう話はもううんざりなんだ」と、
まるで一人だけ被害を被っているような言い方をするんだろう…。
感情をぶつけるだけぶつけて、聞く耳は持たない、と言い放つんだろう。

そう思ったら、何も言えなくなってしまったところを、
○○(オット)がとうとう見かねて受話器をとりあげたのです。

お父さんも知っている通り、関は決して他人に対して感情をあらわにしたり、
声を荒げたりするタイプではないです。
お母さんの終末期に、私がお父さんにどんなに抗議をしても、
私の心中をよくよくわかっていながらも、同調せずに、客観的に、中立的に
「自分が感情的になったら最後だ」という立場を崩さなかった。
所詮は他人だから、という遠慮もあったと思います。

お父さんが再婚する、という話を持ち出したときも、唖然とはしていたけれど、
敢えてノータッチを貫いて来たんです。彼なりの理性的な判断として、です。
彼自身、誰よりもお母さんを大切に思って来たからこそ、
いろいろ思うことはあったと思うけれど、これ以上お母さんを悲しませたくないと、
あえて自分の価値や判断はさしはさまずに、黙って見守って来たんです。

だけど、お父さんや、各方面との度重なるやりとりのなかで、私が何度も泣き、
電話口のお父さんの物言いを聞いていたムスメが泣き、ムスコが不安になるのを
何度も見ながら、どこまで不干渉を貫けばよいのか、悩んでいました。

現在の私たちのこの緊張状態が、引き金になったのかもしれないけど、
彼は相当の覚悟をして、お父さんにあのように言ったのだと思います。

ただお父さんに、その時々の感情に任せて私たちに接するのではなく、
父親として、私や■■と、相応の順序で話し合い、手続きや気持ちを整理したうえで、
自分の「次」を考えてほしかったのだと思います。

そして、小さいこどもたちの父親として、かれらが陥っている混乱と不安について、
誰も悪者にせずに理解してもらえるよう、骨を折って来た彼にしてみれば
どんなに心を砕いても、なかなかお父さんに思いを酌んでもらえない状況に、
もう限界だと判断したのだろうと思います。
それでも「侮辱だ」と言うほどのひどいことを、ひどい言葉や語調で言ったでしょうか?
それはあまりに被害妄想的で一方的な怒りです。

長くなりましたが、お母さんの三回忌は、お母さんのためのセレモニーです。
そして、65年間、一生懸命生きたおかあさんというひとりの社会人と、
それから関係を築いて来たひとたちにとっての、ほんとうのお別れのセレモニーです。
私たち家族の事情や、お父さんの新しい人生をリスタートするためのピリオドじゃありません。

だから、どんなことがあっても、三回忌と納骨は再婚話の前提としてではなく、
お母さんのために、きちんと済ませたいのです。

それから先の話は、もう、お父さんの好きなようにされたらいいと思う。
どっちにしても、お父さんの言うように「私たちには関係のない話」なのですから。
新しい配偶者の方と、あの家で、お友達に支えられて、新しい生活を大事にされたらいい。

私には守るべき家族があり、守るべき生活があり、どんなことをしても生きて行きますが、
■■にはその再婚で、もう戻る家も、家族もなくなってしまう。そのことだけが気がかりです。
だから、■■が一生懸命築こうとしている新生活の保証となるよう、
彼女が本来お母さんから相続すべきだった最低限の遺産相当分は、きちんと渡してやってください。

子宮筋腫や体調不良を抱えながら、人の力を借りずに生きようとしていることを知ってください。
お父さんが、自分の望む通りの幸せを、なんとしても貫く人間であることは知ってます。
であるなら、せめて、■■にも、これからの幸せのために、体調を整え、一息つけるだけの
せめてもの準備をさせてやってください。体を休める実家にも戻れなくなるのですから、
それだけは、どうか、どうかよろしくお願いします。

●本来の意味での「おかあさんの三回忌」をきちんと行う為の準備をすること。
(あちら(オット)の両親にも、お母さんのために揃って出てもらいたいので。)

●三回忌後、新生活の算段の前に、■■の今後を支える備えを助けてやってほしいこと。
(今後、相続のことなどを話さなくて済むように。彼女が療養や新生活に専念できるように。)

この2つだけを、お願いしたいです。
再婚については、お互いのためにもう話さなくてよいと思います。

いまは感情の揺れも大きいと思いますが、とにかく必要な話を、きちんとしたいです。
どうか、よろしくお願いします。

●●

恥の記録|その2

自活を希望する父の意思を尊重して、遠隔の見守りと情報共有をしてきた自治体の包括支援センター(ケアマネ)と、訪問看護センター(看護師長)との、難度かのやりとりを経て、父に対して再度送った11月18日のメール。こののち、「ちゃんと話し合おう」と約束したこの日時は、父から一方的にキャンセルされた。職場で窮地に立たされた彼女が、職を辞さざるを得なくなり、そのことで父が激怒して抗議したとのこと。また、その発端を作った私に対しても敵対姿勢を明らかにし、当の看護士本人を職権を傘に来て辞職に追い込んだとのことで、知人の弁護士に頼んで、看護師長とケアマネを「パワハラ」で告訴するつもりであることを宣言された。それに対しての、私の返事。(恥)

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お返事ありがとうございます。

28日は、■■(妹)も参加したいと言っています。お昼頃伺います。
個人的には、■■が感情的にならずに話ができるのかどうか、
いささかの不安はありますが、本人の強い希望もありますから。

それから、昨夜は電話では話にならなかったので、少し長いですが。
「話し合っても意味がない」ということだったので、
一方的にですけれど、私の思っていることを書きます。

正確に伝わるかどうかわかりませんが。

当初はカウンターショックのために拒絶反応も強かったけれど
うちで時間を過ごし、○○(オット)や私と話を重ねることで
■■のやりばのない気持ちは大分ほぐれてきているとは思います。
彼女は、おかあさんへの思いもひとしおですから、特に。

先に伝えておきますが、しのも私も、再婚自体に反対なわけではありません。
正直言って、おとうさんの今後を考えれば、独居で余生をすごしていいはずも
ないわけですし、本来ならば、歓迎すべきことだと思っています。

しかし、特に■■にとっては、相手が自分と同い年であること。
しかも相手が相応の社会経験を積んだ医療従事者であったことは
心情的にも強い拒否反応を示さざるを得なかった点であると思います。

それは私にとってもおおいに引っかかる点で、
彼女自身が非常にまじめで誠実であるということは大きいと思いますし、
福祉介護職に連なる者として、■■がことのほか職務倫理を大事にしていることで
(介護現場での個人情報をともなう話はいっさい私にも明かしませんから)
「40歳にもなって、社会人としても、医療者としても、相応の経験を重ね、
社会通念上も、人格的にも、ある程度の配慮ができてよいはずの人が、
なぜ情にまかせてこのような事態を招き、看過しているのか」
ということについての疑問を抱いたのだ、ということを理解してほしいと思います。

ほんとうなら、もっと自然なかたちで、「そろそろおとうさんも自分の幸せを」
という流れで運べたらよかったのに、と残念でなりません。
人の気持ちや関係が築き上げられるためには、やはり時間が必要でした。

こうなった以上、感情的なわだかまりは完全には解消しないと思いますが、
なぜこうこじれたのか、という点について私の心中を考察しておきます。

ちょっと余談のようになりますが、私が心理職のキャリアアップを
現時点であきらめざるを得なかった理由のひとつに、
臨床職実習のガイドラインの問題があります。

「親しい身内と死別して3年以内の人間は、
大きなライフステージの変化から間もなく、心身の動揺もあり、
根本的に、本質的な心身のケアにあたることは不可能。
本人の無意識の精神的不安定さが、本来ケアすべき相手との間に
共依存的、相互影響的な好ましくない関係を生ずる恐れがあるため」
というものです。

病院での傾聴ボランティアを、と考えたこともありましたが、
上記と同様の理由により応募対象外となっています。
自分自身では、すっかり立ち直っていると思いたくともまだ「ふつう」ではないから。
医療や対人対応の世界では、ある程度の常識になっているものと思います。

ですから今は、海外の医療情報の論文を配信する団体のボランティアで、
自分の気持ちの持って行き場を確保しているわけです。

誤解しないでほしいのですが、上記の「3年は不安定」というのは
おとうさんが「正常でない心理状態」だといいたいわけではありません。

しかし、その人が、経験のある医療者なのであれば、
お互いの気持ちはほんものであり、結婚というかたちで
いずれ成就させたいと思っているとしても、
「お互いの気持ちが確かなものであることを慎重に確認し、
家族の心情や人間関係、自身の社会的・職業的責任に立ち戻って、
冷静さを保とう」と促すべき、相互に自制すべきだったのではないか?

それができないほど、お互いの感情に浮かされて、
おとうさんに進め方を一任した結果があれだとすれば
そのことのほうが問題だったのではないか、と思うのです。

少なくとも、私がその人に対して「おとうさんの人生」を
心から託す気持ちに簡単にはなれないのは、そういう理由です。
まあ、人生を託すなどという権利は私にはないわけですけれど…。

たとえば(例です)、ムスメが高校生くらいになって、学校の先生と恋愛したとします。
私は、個人的には「人間だから、そういう恋愛は当然あるだろう、
社会規範をこえているからといって、不純とは限らないだろう」
と考えることができる人間です。男女の間のことはしかたない、と考える。

しかし、親子、家族という立場になってみれば、穏やかではいられません。
人文主義的な自由恋愛観と、肉親の情は相容れないものです。
とはいえ人の感情を遮り、管理することは不可能ですから、
そうした恋愛関係を破壊し阻害することはできないでしょう。
心情的に認めがたくても、うけいれざるを得ないと思います。

それでもその場合、相手の教師も、自らの「純愛」を貫く場合には
相応の社会的・道義的責任を負わざるを得ないのではないですか。
愛を貫くなら、それが真の愛情だと示すのならば、
職務倫理的な(触法ではなくともモラルとして)けじめはつけなければ
おさまらないのが道理というものではないでしょうか。

看護センターの上長にしてみれば、
公的サービスとして、家族にかわって看護士を派遣し管理するという
職業上の責任があるはずです。
男女の感情に介入はできないが、職務倫理を踏まえてなお
お互いの思いを大事にするのであれば、管理者として、
社会的に対しての信頼や、職場に対しての秩序を保つために
断腸の思いで判断しなければならないこともあったのではないでしょうか。

ケアマネの▲▲さんにしても、同様だと思います。
独居を貫きたいというおとうさんの気持ちを尊重して、
公的サービスの可能な範囲で生活を支援したい。
離れて暮らす家族(妹や私)の不安もとりのぞくように
「万一のときにも安全を預かる」気持ちで配慮したい、
と、細やかに気にかけてくれていましたね。

彼らにしてみれば、サービスを提供する相手はおとうさんですが、
私たちもクライアントの一部であったわけです。
「知らないうちにこうなっていた」ということでは
申し開きができない、と思うのも自然なことではないでしょうか。

センター長も▲▲さんも、決しておとうさんとその人の間柄を
どうこうしようと考えているわけではない。
うちの家族の問題として、介入などできないこともわきまえています。
けれども、公的サービス提供の場でおきたこととしては
少なくとも、その範囲内での「けじめ」をつけざるをえないのだと思います。

ですから、これまで尽力してくれた▲▲さんや、看護センター長に対して
職権によるハラスメント、というような観点で抗議をしないでほしいと思います。

相手の方が、職場で困難な立場に立たされていること、
おとうさんの訪問看護サービスが打ち切られたことなど
詳しい状況はわかりませんが、そこをどうカバーするのかは
おふたりでよく話し合っていただきたいと思います。
そのうえで、やはり必要があれば、包括支援センターに
あらためて支援をお願いするしかないのではないですか?
それについては、必要があれば私も連絡します。

それから、相手の方と話す必要があれば、私はその準備はできています。
相手の方も、今度のことについて、私に言いたいこともあるでしょう。
それはだいぶ先の話になるのかもしれませんが、
そういう意志があることだけは、お伝えしておきたいと思います。


私がわが家で学んだ大事なことのひとつは、
「感情的には相容れなくても、話のすじみちを整理して、
”あなたの考えはそうなのですね””わたしの考えはこうです”
”相容れることはありませんが、理解はします”と
理性的に着地点を見つけよう」という態度です。
困難ばかりのわが家の歴史のなかで得た、大事な教訓です。

着地点をみつけるための具体策を講じるにも、
感情に振り回されずに、合理的態度に務めたいと思います。
■■にも、それはよく言い含めてあります。

28日には、お互いの思いもあるでしょうが、
おかあさんの前ですから、取り乱さずに話せるよう■■にも伝えます。

ちょうどよいので、学資保健や相続書類も持参します。

どうぞよろしくお願いします。

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