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2012年4月27日 (金)

3回目の命日。

twに書きつけたもの、こちらに再録。
これから墓参に行くのに、もう出なきゃなので、先に。どうしても。

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今日は母の祥月命日。三回目。この間に起きた自己変容があまりに大きく、それ以前のことがあまり思い出せないくらい。正確には没後1年以内の自分も「なぜあんなことしたんだっけ?」ってことが多くてリアリティが希薄。ただ、その頃の脈絡のない行動が現在の自分をつなぎとめているのが不思議だ。

母は25年の長患いの間にグリオーマの手術を4回、放射線治療と化学療法を受け続け、病気と治療の影響で、初発から5年以内に片耳、10年以内に両耳が完全失聴。並行して右、左の順に視野狭窄が進んで、15年後には視野の80%が欠損。平衡感覚も徐々に失われ、20年後には独立歩行が困難に。

歩けなくなり、まっすぐ立って姿勢制御ができなくなったと同時に、軽い認知症状が現れた。最晩年となった25年目は徘徊や譫妄もひどくなった。同じ頃耳孔に肉芽ができ、切除してもしても悪化した。この間専門病院の主治医は何の疑問も可能性も示唆しなかった。「前例がないのでわからない」と。

64歳と若く、障害と介護の保険制度適用の間にあったため、目が離せなくなった母の面倒をみる手立てがなくなり、緊急措置的に有料老人ホームに入ってもらい、毎日昼間は私がそこで仕事をしながら、夜は妹が泊まって過ごした。父はすでにストレスで心身の体調が悪化していて介護できる状況になかった。

さまざまな症状があまりに急激に悪化するので、たまらずセカンドオピニオンをとった。レントゲンには骨が映っておらず、中耳癌が頭骨にも転移していた。余命3ヶ月以内と言われ、そのとおりになった。あっという間の出来事で、為す術もなく見送り、ただただ呆然と日がたったが、立ち直れなかった。

目の前の状態に気をとられ、日々を乗り切るのに必死で、肝心なことに気づいてあげられなかった。医師の言葉だけを過信し、外部の知恵に依存し、思考停止だったこと。あらゆることが悔やまれてならず「そうまでして守りたかった自分の生活」というのは何なのか、という底なし沼にはまってしまった。

1年は、立ち直れなかったと思う。で、没後1年半して家族に劇的な転換点があり、その半年後にあの震災もあり、さらに1年経って、いま(駆け足すぎ…w)。この間にいろんな「やり方・考え方」が変わった。一番大きく変わったのは「途中でやめない、投げない、言い訳しない」ってことかな。

前だったらとっくにギブしてたこと、拒絶していたことも、今は「これも何かの縁だしな」「答えはすぐには出ない」「自分の目が曇っているのかもしれないから、もう少し様子を見よう」って思う。だいたいそれで、良いことになっている。これは、根気も意気地もない私への、母のギフトだと思う。

寡黙で、大らかで、我慢強くて、別け隔てなくて、でも頑固で。そういう母の置いていった「財産」が、亡くなって何年も経ってから自分や妹、オットのなかに根を張って息づいていることを感じる。もちろん思い出せば悲しくなる記憶はあるが、でももう大丈夫。今をちゃんと生きていると報告できる。

そんなわけで、今日は、午前中にとっても大事な用件をひとつ終えてから、その足でオットと落ち合って墓参します(実は父がようやく納骨に踏み切ったのが去年だったので、ちゃんと行くのは初めて!!)。あいにくの雨だけど、緑も深まって、静かでいいと思う。では、行ってきます。

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その前の大事な用というのは、また書きます。うちにとっても、会社にとっても、大きな転換点。
3年をのりきって、やっとここまで来られたか、という思いはひとしお。

母に、報告してきます。

2012年4月22日 (日)

またもや滞り、そして43歳。

最後に更新したのが2/2。「これからはこちらも」と言いながら、さらに2ヶ月と20日間野ざらし…。

思うこと、言いたいことは日々たくさんあるのに、まとまったものにする心身のゆとりがないのが一番の理由ですかね。決してブログがもういらない、とは思っていなくて「書かなきゃ」「書きたいな」という気持ちはある(twitterの140文字では書ききれないから)。でも、コネクティビティということで考えるとやっぱりtwのほうが簡便なのよね。(iPhoneと首っ引きというのがどうしても抵抗があるので、結局、昼間ひとりでPCに向かって仕事しているときだけだけど。そういうときに限って「書付」が増える)

twitterのアカウントは、父にも知らせている。あれから、直接「コミュニケーション」することの難しさを痛感する場面が多かったし、父の口から新しい妻、新しい暮らしの話を「うんうん」と聞く気持ちにはなれないので、やりとりは避けて過ごしてきた。彼はどこまでも、そのあたりの心の機微がわからないらしいので、そこはもう期待しないことにした。だけど、「絶縁」しようと思ったことはないし(心理的にはそのようにして思い切ったけれど)、何かがあれば、結局引き受ける覚悟は常にしている。内緒だけど。

父への葛藤については、他人にあまり話さないようにしている。うまく説明ができないから。母の晩年までの、私たちの心持ちについて(母の言葉や思いも含めて)知っている人でなければ、「いつまで子どもみたいなことを」と失笑を買うのが関の山だから。親離れできていない、と。たしかにこれが他人の話であれば、私も「第二の人生をもう一度生きられて、娘達に依存せずに余生を生きられるのだから悪くない話だ」と思っていると思う。今も、左脳ではそのように理を通して考えることができる。その点では、受け入れているのだと思う。

でも、一方では、「娘に依存はしないが、本質的な意味で(対人間だけでなく思想でもなんでも)依存ベイシスな父親」という哀しさは、まだ完全に受け入れきれてはいないのかも、と思う。自分たちの育った家、母が帰りたかった家が、今は「新婚さんの愛の棲家(スイマセン)」になっていることへの、どうしようもない抵抗感はやっぱりある。そこに、子どもたちも連れて、普通に訪ねていくことはもうできないわけで。子らも、どこかで傷つきを抱えているままだと思うから。

それでも、今の自分の生活文化(っていうほど大げさなものではないですが)、たとえば食事の好みやおいしいもの大好き!なところとか、本に囲まれて潰されて死にたいとか、古典芸能にどうしようもなく惹かれてしまうとか、そうしたものすべてに、自分が育った家庭の遺伝子を継いでいることを否応なく感じさせられる。

そして、親離れのプロセスで、一度そういうものをすべて壊して、自分なりの好みや基準を培っていった思春期(この時の経験が、すべて今の自分の核になっている)。その感覚や軸は、親たちの「善し悪し」に対抗し、ぶつけて跳返ってきた手応えから確信となって形成されてきたものだから、これもまた大きな影響を受けてきたことに変わりがない。

そう思うから、今の私にできることは、「今日、今を生きている私や、私の家族たちとの暮らしぶりは、お父さん、お母さんに育てられた家庭文化のエッセンスでできているんだよ」ということを、発信し続けるしかない。つながっているし、受け継いでいる。その上で、流れを分かつ別の家庭文化を作っているということ。別の人間、別の家庭であり、もう流れは戻らないが、水脈は一ですよ、と。

言葉にすると、陳腐になるし、ちょっと言いたいことと変わってしまうし、知りたくなかったことまで聞かされるはめになるから、やりとりはしないほうがいいのだ。でも、「切っていないよ」「思っているよ」、っていうことだけは、ね。

妹やオットにはまた呆れられるかもしれないが、母が亡くなってもうすぐ丸3年。長い人生を考える時、この3年間、そして晩年の辛かった時期を含めての5年、さらに10年。長いようでいて、ごく一期間かもしれないから、拙速に切り捨ててはいけないのではないか、という気持ちになりつつある。少なくとも私は。

いずれ父が本当に老いて、ムスメやムスコが大人になり、いろいろな機微がわかるようになった時に、「祖父はあなたたちを見捨てたわけではなく、そういう生き方しかできない人もいるんだ」ということで決着をつけてやりたいとも思うから。いま、切ってしまいたくない。子どもたちにも狭量な人間観(親のそれをそのまま引き継ぐようなかたちで)はもってほしくないから。

器の小さい親のもとに生まれついてしまった彼女・彼に私がしてやれることは、せめてそのくらいデス。

ということで、今日は私の43回目の誕生日。何の区切りでもないけれど、またひとつ無事に齢を重ねられたということで、メデタイね。ここ数ヶ月の過労で、今日はめずらしくダウンしたからお祝いめいたことは準備できないけど、妹と我が家とで近所の蕎麦割烹で蕎麦膳をいただくことに。

心の中で、母に「産んでくれてありがとうございます」という気持ちを捧げつつ。


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