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2011年8月 4日 (木)

父、入籍。そして家はなくなった。

最後のエントリから2カ月近くブログを放置していたのは、忙しかったせいもあって、iPhoneで、移動中なんかにちびちびとTwitterに心情をメモっていたから。

というのはほんとうだけど、実際には、心の底に沈んだ重苦しい思いを直視することができなくて、かといってそれをなかったことにして当たり障りのないことを書くのも虚しくて、「考える」「書く」ということが億劫になっていたから。

父の行状については、6月以降情緒も不安定だし、記憶もところどころ欠落して、電話で話したことはおろか、電話そのものがなかったことになっている、ということもままあった。また、前回はウエットに、情緒的に、懐柔的態度で話してきたかと思えば、次にはまったく脈絡のないタイミングで電話をかけてきて、開口一番ののしられる、ということも断続的に続いた。

あるときは、「おれは一生お前たちの父親だ、どんなことがあっても、お前たちが拒んでも」「おれはおかあさんに対して恥ずべきところは一点もない。いい夫だったと思っている」と懐古したかと思えば、あるときは「財産目当て、カネの切れ目が縁の切れ目」「遺産は新しい連れ合いにすべて相続させるからそのつもりで」と言い放ち、その言い様に絶句して声を詰まらせれば、「今度はお涙頂戴か」とくる。

結局、覚悟を決めて、本来母からわたしたちが相続すべきだったはずの最小限の分だけを妹と私に配分してもらえるよう(交渉しても無理なので、とりあえず感情的にならないための策は講じて)算段して、とにもかくにも、いったん身辺整理をしてから自分の新生活をスタートしてもらうように手はずをとった。

なぜならば。

父は、母の三回忌だった4/27から2週間後、5/10に、すでに入籍していたのだった。

そして、我が家とのあれこれで失職したその女性が、次の職場に勤める7月までに同居を開始したいと考えており、実家にある、母の遺品や、妹の私物をすべて撤去・処分させたいと考えていたのだった。

自分の要望を通すために、調整役として私と話をすることを望んだ父と、現実的に折り合いをつけて「父のことは忘れる」という冷酷な決意をせざるをえなかった私の利害が一致したということだろう。現実問題の処遇を事務的に済ませたらあとは、妹とふたりだけの肉親として行きて行こう、と心に決めていた。

ただ、一点。妹に、父の考えと行いをどう伝えるか。それが気重だった。

母があれほど帰りたがった家。妹が血を流しながら母と向き合い、後にした家。わたしたちが育った家。母の没後、こまめに足を運んで父の世話をしようとしてきた妹に、「実家から、6月中にあなたと母の私物を搬出して、あなたの部屋を、後添えに明け渡せと言っている」と、私はとても伝えられずにいた。

いやらしい言い方だが、父が再び変心し態度を硬化させる前に(そうなったら、本来母が亡くなった時点で正当に相続するはずだった分すら「財産目当ての骨肉の争い」という名目をつけられて泥沼化してしまうから)、煩雑なことは済ませてしまいたかった。感情的なぶつかりあいが再燃することで、ネガティブな関係がずるずると続くことが、もういやだった。父に、自分の心の澱をかき乱され、どろどろとした憎悪にまみれるような事態だけはもう避けたかった。

父の新生活への決意の固さ、自分を美化し正当化する姿勢は、もう十分にわかっていたし、それはもうよい、と思っている。父を変えることはできないし、もちろん、変えたいとももう思わない。それぞれの人生だ、と本心から思う。しかし、父の言動のすべてが私を失望させるのは、肉親だから、親だからなわけで。これ以上、がっかりしたくない。これ以上見損ないたくない。それが正直なところ。

そして、今回これきりだけれど、後添えとなるわたしたちと同年代のその女性は、結婚前にきちんと合って話そう、という呼びかけに対して「怖いから会いたくない」とのたまったそうだ。父は不憫そうな顔で「そりゃそうだろう、あれだけ熾烈に責められれば。怯えるのは無理もない」と言う。「… =3」と嘆息して私は思う。「円熟期(?)のバカップル、ここにあり」と。これでまたひとつ、諦めもついた。

「●●につける薬はない」のである。

妹には、「最小限だけれどおかあさんの志は配分を得た」ことと、「父はすでに三回忌直後に無断で入籍していた」こと、「後添えの都合で同居のために早々に実家を明け渡さなくてはならず、母と妹の私物を撤去してほしいと言われていること」を抱き合わせで話すつもりだった。妹はそれを聞いて激昂するだろうか。それとも泣き崩れるだろうか。そんなことを思いながら、片手間では話せないからと、仕事のケリがつくまで、とずるずると引き延ばしてしまった。

父には私から条件を出した。同居前に配分額を振り込んでほしい。そして私物撤去は業者を頼んでトランクルームに一括保管させるようにしてほしい(妹に搬出をさせるな)。そして一連の話は私からきちんと話すので勝手に言わないように。そのかわり、もう何も反対も、口出しもしない。お好きに、と。

父は嬉々として条件を受け入れたが、病弱な老人の身分、40歳の後添えを娶るにあたって十分な蓄えは確保しておきたかったのだろう。配分については再三未練がましい愚痴をこぼされた。聞こえないふりをしたが。

しかし、結局父は私との約束をいくつか反古にした。金額は催促した7月末まで支払われなかったし、妹には勝手に喋ってしまっていた。そのぶん、結果として妹には私から「宣告」する必要はなくなったわけだが。

妹はもはや憤りを越えて失望にいたっているかのように冷静だった。私は拍子抜けしたが、それは表面的なものだろうとも思った。この話は、あとからじわじわと、環境汚染のように自分の気持ちを蝕んでいくということを、これまでのさまざまないきさつから知っていたから。

「これからが大変だろう」「深層心理的にダメージを受けるだろう」と思った。

「もう考えないことにするよ」と妹はさばさばと言ったが、「それはできないよ」と私は返した。抱え込めば腐敗臭を発して、悪いガスが溜まる。毒をため込んで、心身が蝕まれて、本当に病気になる。だから、無理矢理なかったことにしてはいけない。かといって毒を履き続けていると、自分自身の魂も傷つく。きょうだいでつつしみをもちつつ心情吐露しあって、少しずつ時間の流れにさらして毒抜きしていくしかない。そう言い合った。

「孫とは会いたいみたいだし、私たちとの関係もこれまでと変わらない、と父は言っている。それには応えてやらなければならないのかも」と言うと、オットは怒った。「オレは認めない。そんなむしのいい話があるか」と。私は「やば、地雷を踏んだ」と後悔したが、妹は「●●くんの言ってること、私もわかる。それは虫のいい話だし、そこまでする必要も義務もない」とオットに同調した。「たとえ後添えが財産目当てで、そのうち放り出されて野垂れ死にしたとしても自業自得」というオットと妹の言葉に、私はふたりの怒りの深さを知る。怒りは、ネガティブだが積極的で主体的な感情だ。

私にはもはや、怒りすらもない。もともと感情エネルギーが薄弱で、怒っても持続させることができない。それは私が「仏」だからなのではなくて、単に薄情なだけだ。酷薄だっていうことだ。

私の気持ちのなかにあるのは、もう、「おかあさん、ごめんね」という気持ちだけ。「父は、母より前に亡くなったと思おう」というやりかたで、怒りや失望を自分の心のなかに葬るだけだ。

私には守るべき家族と暮らしがあり、世の中は平穏ではない。妹も含めて、いまのこの家族をどれだけ大事にしていくかに注力して生きていきたい。

結局、お金が振り込まれ、私たちの私物は搬出され、彼らは同居し、その後一切連絡もないし、しない。「それでも一度はきちんと会っておかないと」と言っていた妹だったが、あれから足を向ける気にはなれないでいるようだ。「帰る家、なくなっちゃった」と、ぽつり。その言葉は、父と過去を見限った私の思いとはまったく違う重みを持っている。妹のことだけが気掛かりだ。

ひとつの決着がついたが、虚しさは何も変わらない。むしろ増しているかも。

8月の終わり、母の眠るお墓に妹と我が家で参るつもりだ。母に挨拶し、詫びるために。

うーん。しかし、ひさしぶりだと、ますます文章が書けなくなっている。気力体力も落ちるのね。

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