« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月12日 (木)

そして5月。

やっとここまで。なにせ溜まってて。

---
4月29日、母の三回忌を終えた。祥月命日は4月27日。ようやく、父が納骨をする気になれた、と思ったら私と同い年の訪問看護士と再婚したい、と爆弾投下をしたのがちょうど半年前。苦しい半年だったが、それでも時は過ぎ行く。母を看取るまでの苦しい半年を思えば、いまの葛藤なぞ屁の河童。だし。

2年前の10月に、弱冠64 歳だった母に認知症状が。急激に悪化していく母の介護は、高血圧の父には手に余るとのSOSに、育児と仕事と狭い我が家に引き取ることができず、介護施設を探して狂奔したその後の2カ月。翌年正月には私の近所にホームを見つけて入所させ、私は毎日ホームで仕事をした。

ずっと実家で父に代わり、母を看て来た妹は体を壊し、ふたりで泣く泣く相談して決めた入所だった。「金で大好きな母を捨てた」と、私たちはその後ずっと苦しむことになった。自分たちの都合を母ひとりに背負わせて、生活を守った罰があたった。それでも母は「いいのよ」といつもと同じく許してくれた。

母をホームに入れてからも、父は体調不良を理由にほとんど見舞わなかった。40歳からの25年にわたる長患いの脳腫瘍により、母は視力と聴力を少しずつ失っていったが、そのたびに増していく生活機能の不便を、父は蔑むような眼差しで眺めていた。私も妹もそれを見逃すことはできなかった。辛かった。

それでも「苦境に追い込まれて、正気を失っているからに違いない」と、かつての仲睦まじかった両親の幻影を求めて、私も妹も、父の視線や態度を意識の底に沈めた。母の目と耳が不自由になっていたことで、それ以上傷つかなくて済むことに、感謝すらしたけれど、母はきっと父の変節を感じ取っただろう。

「私の家はお父さんとの暮らしを築いたあの家だけだけれど、私が帰れる家はもうないわね」と、母はつぶやく。私たちは言葉を失う。急激に悪化する母の容態。事態は思わぬ方向へ。認知症ではなく、放射線治療による二次性の頭頸部ガン。すでに頭蓋骨を浸食し余命2カ月。母には知らせる術すらなかった。

2月に宣告を受け、「連休まではもたないかも」と言われ、その通りに。その間、父は放心状態で何もできず、どんどん面相が崩れていく母を直視することもできず。結局、母が家に帰れたのは、医師から余命があと数日と診断されてから。うつろな意識のまま帰宅させたとき、母ははっきりと覚醒し、泣いた。

帰宅したとき、唖然とした。実家はきれいに「一人暮らし仕様」に整頓されていて、母と暮らした末期の状態は跡形もなかった。体調の悪い父は、ひとりで身の回りを整理整頓したのだった。そのときは「記憶を上書きしないとしんどいのだろう」と、好意的に解釈してみたが、やはり違和感は尾を引いた。

4月22日の私の40回目の誕生日、母は危篤に陥ったが、なんとか持ち直した。その後も何度も危篤状態に陥ったが、そのたびに持ち直した。4月に入って緩和病棟に泊まり込んでいた妹も私も、疲弊はしていたが、持ち直す母がうれしかった。しかし、父は明らかに飽いていた。消耗し、疲れ果てていた。

緩和病棟の看護士がケアのために病室を訪れるたびに、父はかいがいしく母を気遣ったが、それ以外は家族室に閉じこもって本ばかり読んでいた。主治医はわたしたち家族の葛藤などまったく気づかずに「ご家族と離れ難いのですね。患者さんが旅立たないときは、何か思いを残している場合も多いんです」と。

それを聞いて、私は父に対する忍耐が絶えて、母の万感を代弁した。本当は怒りに任せて母の無念を、というくらいの気持ちだったのだけど、口をついて出たのは自分の意に反した、父への労いと、母からの父に対する気遣いを伝える言葉だった。しゃべっている自分に自分で驚いていた。私の意志とは違った。

狼狽して、病室を出て、隣の公園で時間をつぶし、小一時間して病室に戻って十数分後、母の容態は急変し、妹の到着を待って、こと切れた。それが、2年前のこの季節。最後、母の身を清めたとき、病棟の庭にはそれは立派な鯉のぼりが泳いでいた。まぶしい陽光と、サツキの花と、満開のハナミズキも。

いまでも、母は、私に「父を許せ」と言ったのではないかと思っている。母は明らかに失望し、悲嘆の中に意識を失ってから逝ったが、それでも最後は「いいのよ」と、父にも、私たちにも言いたかったのではないか。父にとどめをさすような無慈悲なことを口にしてはならぬ、と私を制したのではないか、と。

母が大好きだった。母を大事にした若き父も大好きだったが、最晩年の夫婦の、人間の、極限におけるありさまを知るのは苦しかった。私は「おとうさんッ子」だったから、なおさらに。父への過剰な期待と責任の強要が、父を追いつめ、妹を疲弊させ、何より母を孤絶のなかで逝かせたのは自分だ、と思った。

要するに、私はガキだったのだと思う。60代半ばの両親は、老親というにはあまりに若く、幼い子を抱えて、仕事に追われての自分も、40歳というにはあまりに稚拙で未熟だった。そういう悔恨が、母を見送ってから、猛烈に私を苛んだ。妹はもっと苦しかったことと思う。

父は、死別を受け入れられないというよりも、そもそも、母の「変わりよう」そのものを受け入れられないまま、晩年の10年ほどを過ごして来たのだった。父は知的能力は高かったが、精神的にはひ弱だった。母に依存していた。母が身体的にも知的にも機能を失っていくと同時に父は途方に暮れ、見放した。

見放した、というよりも、そもそも支える許容量はなかったのだと思う。このことを認め、受け入れることも、私たち娘には、苦しい作業だったが。それでも、母の死後、父の打ちひしがれ方は目にあまり、そのまま死んでしまうのではないか、と思われた。半年は、私たちの顔を見るだけで泣き出すありさま。

しばらくは、それを冷ややかに眺める自分がいた。「まだ、許せていないんだ」と思った。許す立場になぞないことは重々承知だが、私は父を許すことができていなかった。自分も許すことができないように。母の思い出話は、私たち家族それぞれにとっての軛だったのだと思う。

1年して、父がなぜか突如として明るくなった。淋しい、辛い、と頻繁にかけてきた電話も来なくなった。予告なしに実家を訪ねて、身の回りの世話をしても嫌がらなかったものが、「予告なしは困る」と言うようになった。妹には「今来ている看護士がとてもいい人で何でも相談できる」と打ち明けた。

違和感をおぼえるできごとは二、三あったが、問いただすことはしなかった。しかし去年の10月に父からの爆弾発言があって、妹は「信じられない…」と泣いて父をなじった。私は絶句。死別悲嘆がひどく、納骨を拒み続けた父だったが、黙って受け入れた。葬儀も父の意向で行わなかった。それも飲んだ。

危篤の母を訪ねたいと願った母の友人たちの面会の申し出を断ったときも、強くは反対しなかった。母の余命宣告をひとりで聞き、父に伝えた翌日、医師を訪ねて「病理解剖してください」と言った父の言葉に耳を疑ったが、「そういうかたちでしか気持ちを保てないのだろう」と、堪えた。

でも、結局、父は、母の死を、生を、私物化したのだと今は思う。 そういうやりかたでしか、ひとと向き合うことができないひとなんだな、と今は思う。悲しいことだけど、それが、わたしの父なんだ。

父のハートを射止めた(っていう言い方が適切なのかわからんが)その訪問看護士に対しては、医療従事者として、死別後わずか1年の父の心情や、わたしたち家族の間にあったさまざまな事柄について、どれほどの理解や共感があったのか。あったとして、どれほどの人としての配慮があるのか甚だ疑問だが…

もはや、父の性格やこれまでの行いを誰よりもよく知る私たち娘にしてみれば、彼らの結婚に口を差し挟むこともできないって、わかっている。父は人のために自分の生き方を変えたことが一度としてないのだから。年齢と職業しか知らないその女性は、必ず私たちの戸籍上の母となり、家族になるだろう。

母があれほど暮らしたいと願い、帰れないと嘆き、私たちが育ったあの家で、父とその人は、間もなく暮らすのだそうだ。公務員だった母が一生懸命働いて遺し、父がひとりで相続した遺産は、彼女も半分相続する権利を得、母と同じ墓に入るのだそうだ。それはあまりにも、受け入れ難い。

だから、私たちは今度こそ怒って、抗議した。この間の葛藤は、筆舌に尽くし難い。だから、書かない。でも、何も変わらないまま、今日に至った。三回忌だけは、父の手前勝手なリスタートのけじめではなく、今度こそ、母の供養を、母の人生に関わったひとたちとともにできるセレモニーを、と戒告した。

ふだん温厚なオットの、珍しく厳しい口調での進言もあってか、父はそれを受け入れた。三回忌を、今度こそ純粋に、母のために行ってくれ、という話し合いの場でも、私は母に「言わされた」ような気がした。苦悶と葛藤を激しい言葉に乗せてぶつけてしまいそうで、自分が恐ろしかったのに、今度も驚いた。

もはや、父を責める言葉も、なじる言葉も出ては来ず、ただただ、三回忌の場をみんなと分かち合うことだけを望む、ということしか言葉にならなかった。父の意志は変わらなかったけれど、意固地な、頑な感情は緩んだようだった。

結局、これからも何も変わりはしないけれど、私や妹の強張った感情(もはや憎しみに近づいていた)は、締まりなく溶けてしたたり落ちてしまったようだ。父が願うように「その人を受け入れ、迎え入れ」は決してできないけれど、諦観はしている。もはや仕方がないのだもの。

肉親である以上、絶縁なぞできないし、したくもないけれど、どこかで「手放した」のだと思う。母がそれでも「いいのよ」と思っているのかどうか、正直言って自信はない。悲しみ、怒っているのではないか、という思いも拭えない。「勝手にあきらめ、忘れるのか」と泣いてはいないだろうか…。

それは、結局、わからないけれど。でも、最後まで父を信じながら、叶わずに泣いた母だったけれど、何よりも父の身を案じ、私たちとの関係を案じていた母でもあったから。骨肉の争いだけは許さなかっただろうと思うから。罵り、蔑み、見限るようなことだけは許さなかっただろう。それだけは間違いない。

三回忌を機に、私の「怨念」も、持っていってしまったのかなぁ。 そんなことを思ってしまうほど、2年経って、私の母への懺悔の気持ちも、淡々と流れた時間と勘違いの怒りにさらされて粘度を失い、少し勢いをなくして、心の中に収まりどころを見つけてしまったのかなぁ、と思う。

それでいいのかな。 と心配になる私に、 それでいいのよ。 と、おかあさんが言っているような気がしてしまう。 今日のように、まぶしい陽光と、鯉のぼりと、ハナミズキが目に痛い日は。

----

って、勝手に気持ちの落としどころを書いてしまったけど。
でもやっぱり今も考えると「ほんとにこれでいいのかな」という迷いが生じる。誰もその答えは持っていないし、母も答えてはくれないのが心もとない。ただ、口汚く罵ったりすることだけは、骨肉の争いになることだけはダメだということはわかる。なお悲しむだろう、情けなく思うだろう、って。今は、それ以上は考えないようにしている。そして、きっと、事態は変わらず、父は思うままにするだろう。(あれ、結局堂々巡り…?)

連休は、そんなこんなで、29日で気抜けしちゃったというのもあり、半端な充実度だった。

---
昨日は連休最後の日。そして母の日(だった?)。仕事で連休を曖昧にやりすごしてしまったが、なんとか最後一日奪回したので、オットとチビ×2と畑へ作付けに。前回土づくり(寝かし)に来たときは、まだ凍てつくお彼岸。昨日は暑くて袖無し+つば広帽子+日焼け止めの重装備。暑かったぞなもし…。

トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、ししとう、枝豆、茶豆、ほうれんそうを植え。先にオットが植えた水菜、ルッコラ、キャベツ、大根、ジャガイモに、畑の先生の手づくり虫除けをスプレー。蔓ものの添え木を頭上で組み続け、苗木の若芽に細かくスプレーし続けたら首の筋肉痛+右手の腱鞘炎ぽ。

なんか、あまりに体がなまってて悲しくなる。作付け時季は、子どもも畑仕事に気乗りしないようす。耕すとか、草取りとか、収穫とか、わかりやすい仕事がないと子どもには面白くもなんともないもんらしい。そりゃそうだ。草取りができれば産卵部(謎)のニワトリに餌やりもできるけど、それもなし。

しょうがないので、ハンディな鋤や鍬とじょうろを借りて放牧。そしたら堆肥の山(腐った野菜と牛糞豚糞鶏糞の和え物デス)に大喜びでかけ登る6歳男児と9歳女児(涙)季節初めならでは、深さ2m強の次季堆肥用大穴にダイブしてげらげら笑ってるし。近所の人が見かねて「危ないよ」と声がけくださる。

「ちょっとくらい流血したほうがいいんですけど…」って内心は思いながらも「ありがとうございます」とお礼を言って、「そのへんでやめときなさいな」とチビらに進言。渋々穴から這い上がり「ありがためいわくなんだよね」と、6歳男児がぼそっと。あんまりな言い草だけど、気持ちもわかるよ、母は。

東京郊外ののどかな場所にある畑だけど、やっぱり、子どもが(多少の危なっかしさはあるにせよ)思いっきりはじけて遊べる環境は少ないものだ。場所があっても大人の目がそれをさせない。あ、声をかけてくださった方は本当にご厚意で言ってくださって、それはそれでとってもありがたいことなんです。

座間味に行ったときも思ったけど、大人の目の届く範囲とか、保護者がある程度は了解済みの範囲では、逆に「すんでのところ」での危険や恐怖は経験しておいたほうがいい、というのが我々夫婦の考え。土と木と水ベースの田舎なら、大ごとにならずにすむ可能性大だから。

でも、コンクリと鉄だらけの都会では、「ヒヤリ」で済まない危険のほうが圧倒的に多い。目先の興味や衝動で飛び出したら車に轢かれるとか、ちょっと高いところから落ちたら頭蓋骨骨折、とか。衝動の発散や抑制といった「野生ちかい部分」の訓練は、できるだけダメージが最小限ななかでしてほしい。

「あぶない」「きたない」「うるさい」「はやく」という言葉は、ほんとうに、ほんとうに、最小限にしたい。子どもは自分でそれを学ぶものだということを、やんちゃだった自分の子ども時代を思い出し、しかしそれを忘れて散々こどもに言い続けてしまった経験から、深く深くそう思う。

だからか、いま、福島で子どもが外遊びの制限のもとで日常生活を送らなければならない事態が気がかり。親の不安や実際の安全性の不確定さを考えれば仕方のない状況だからよけいに。思いっきり外で遊んで、野山をかけまわって、という天真爛漫さを抑制しなければいけないのは、辛いだろうなぁ、と思う。

南相馬から来ていたご一家が、「東京はとっても刺激的で面白いですね!」と楽しんでいた半面、「でも、何をするにもお金がかかるんですね…」とつぶやいた言葉が今も思い返される。子どもを退屈させないためにどこかへ連れ出すためのコストがとてもかかる、って。そうだろうな、と思う。

チビたちのようすを見てて、真剣に「田舎に行きたいな」と思う。しかし、いまの地元でできてきた人間関係、絆を振り切るのも惜しい。なんとかうまく折り合わないものかな。子どもが「都会生活オンリー」で育ってしまう前に。なんて思った一日。

連休を全投入して書き上げた医療のしごと、ひと山越え。棚上げになってた工芸関係を一気呵成に頑張って、ひと息。でもまだ今週は、のっぴきならない仕事がふたつ。菓子屋と写真屋。いや、もうひとつあった。石鹼屋。と思ったらもう、追い打ちワーク発来なり。5月は子どもの行事も多いし、困ったわん。

今日のごはんは、畑で穫れた、味の濃〜い、新鮮な小松菜と揚げの味噌汁。味噌も去年仕込んだの。1年経ってやっと味がなじんでおいしくなってうれしい。厚揚げは焼いて生姜醤油。到来ものの沖縄もずくも。昨日の深夜手慰み&気分転換に作った「野ブキと揚げの煮浸し」で、今日の夕餉完璧!手抜き!

1月は穫れすぎ大根を割干大根⇒保存食に。2月は来年用の味噌。3月は野生の夏みかんでままレード&野生の柚子でジャム、の仕込み。4月は、不格好な早生いちごで3回作った大量のジャムと薬膳酒。5月は山菜月間(作りきり食べきりで終わりだな)。6月は梅干+梅ジュース+梅酒月間!ビバ保存食!

----

ちなみにこれ、全部書いたのはPCから。やっぱりこまめにつぶやけない最大の理由は、掌の端末と首っぴきで、ちまちま入力するのが嫌なんだな、って思った。

で、これが今日の心境。結局、すべてなにごとも、これに尽きるのかな。って思う。

---
平素は、「しかたない」が基調になっているとあまりよく思われない。無気力で向上心のない、堕落しやすい人間、とされやすい(経験上、そう)。なんだけど、人生には「しかたない」ことは多い。特に生老病死は。

特に自然が相手だと。雨が降らないのも、振りすぎるのも、自然。病気になるのも、自然。子どもができるかどうかも、自然。生まれても思い通りになんかなりゃしないのも、自然。病気になっちゃうのも、老いてぼけるのも、自然のなりゆき。

努力と工夫でなんとかできる(レベルの)ことと、なりゆきに任せるよりほかないこととがある。そのことへの弁えというか、諦めが必要なんだって、子育てと親の介護(看取り)が同時期に重なって、後になって、なんとなくわかったような気が…。

人と人の間で起こる問題には、「しかたない」で突き放してはいけないことが多いようだけど、そのことも、よくよく考えて見ると、「しかたない」と思えないことが引き起こしていることがあるような気がする。

無知、無関心、無責任のいいわけにしてはいけないんだけど、努力さえすれば、頑張ればなんとかできる。「しかたがある」と思い込むと無間地獄にはまり込むことが往々にしてある。「自然」には良いも悪いもない。つねにニュートラルなんだ、と言っていた養老孟司さんの言を今更のように噛み締める日々。
----

所業無常、万物流転。もののあはれ。でも、そういうものとして、今を一所懸命生きるしかない。みたいな。

最近のつぶやき(4月その2)

いちばん、さいきん。ここまでぜんぶ、書いた量は多いけど、頻度はえらい少ない。一度にまとめ書き。だったらブログでいいよ。ということで、今後はブログにします。

---
24日の日曜日、弱冠9歳のムスメの「ベターハーフ」が、わずか1カ月の東京生活を終えて、南相馬へ帰っていった。金曜日、迎えに来たパパも含めたご一家と、我が家と、馴染みのクラスメート親子を二家族招いてささやかな宴会をひらいた。

ムスメは、何よりも大事にしている小さいぬいぐるみと、指輪式のスノードームを彼女に上げた。彼女は、着の身着のままで来京したのにもかかわらず、近くのファンシーショップで文房具を買って贈ってくれた。ふたりは、祖母からもらったイヤリングを分解して紐を通し、お揃いのペンダントにした。

その晩、お泊まりで最後の一夜を過ごし、翌朝は大雨のなか、駅前まで「記念のプリクラ」を撮りに。あまりの別れ難さに、彼女一家は帰宅を翌日に延期し、午後までまた遊べることに。夕方、稽古ごとの時間を潮に、お別れ。ふたりとも無言。目を見合わないが、手を振る。ムスメは振り返らず、先を歩く。

大雨の中振り返りもせずにうつむいて黙々と歩くムスメ。肩に手を置くと、大粒の涙がボトボト。雨粒ではなかった。声も出さずに泣く姿が切ない。バスは気の毒かと、タクシーを拾って稽古場へ。車中、突っ伏して、声もなくむせび泣く。心中を思うと、胸が痛むが、こればかりは仕方ない。

大好きだったはずのバレエのレッスン。この日は発表会の振り移しなので、休む訳にはいかないが、とてもじゃないけどそんな気分じゃないだろう。稽古が終わって出迎えても、顔を曇らせたまま。バスを降りて近所に戻っても、そこは「彼女とのキラキラした思い出のかけら」があちこちに転がっている街。

何をみても、どこを歩いても、「ここはAと遊んだところ。これは、Aと宝物を隠した場所…」とつぶやく。帰りの道すがら、ずっと鳥のさえずりを口笛で模写するムスメ。自然豊かな南相馬の集落で育った彼女が、得意の口笛でいろいろと教えてくれたらしい。途中で胸が詰まったのか、口笛も途切れる。

帰宅し、彼女が置いていった手紙を見つけて開封し、一読すると、そのままベッドに顔を埋めて、初めて号泣したムスメ。東京に行ったら友達ができないかもしれない、と不安だったけれど、ムスメのおかげでとても楽しかった。うれしかった。ずっと忘れないし、ずっと親友だよ。また会おうね、とあった。

9歳の女の子がふたり。こんなことでもなければきっと会うこともなかったふたり。こんなにも深く心を通わせて、お互いを必要とし、大事に思うことができるなんて、9歳とは、もう立派に、豊かに、心が育っている年齢なんだなと思う。だからよけいに切ない。何もしてあげることはできないから。

「友達ができない。自分にはこれ、という友達がいないのでは」と思って来たムスメだったから、「ちゃんと“いた”ね。出会えたね。一度出会ったのだから、これからもずっと離れていても友達だよ」と言うと、大泣きしながらも「そうだね」と納得のもよう。お揃いのお手製ペンダントを手に、涙ポロポロ。

その晩は、家族だけで静かに過ごす。ニュースで福島の余震や、軽快避難区域の情報が流れると、ムスメは「Aは大丈夫かな…」と不安顔。でも、以前のように自分の身の安全を恐れるのではなく、彼女ご一家の身を案じているのがわかる。ムスメは、ほんとにこの1カ月で心が育った。

まず、相手のことを心から思うことを知った。いままでも気遣いはするし、優しい子だったが、身を引くとか、遠慮するとか、我慢するとかじゃなくて、自分の我を通すよりも、相手が喜ぶことがうれしい、という感情を、ほかの誰でもない自分の内側から感じ取って喜んでいるように見える。

最後まで、福島から来たことをおおっぴらにはしないままで帰った彼女だったけど、それでも「東京に来てよかった、帰りたくない」「夏休みにはまた会おう(福島にも来てね)」って言ってくれたこと、ムスメはもちろん私たち親だって心からうれしい。そしていなくなって淋しい。

彼女のママもパパも、気丈で、朗らかで、立派だった。東電への怒り、生活の見通しのたたない焦り、放射能汚染への不安…。不穏な思いはあふれるだろうに、落ち着いて、もう腹を括っている。東電の事後対応には憤っていたが。大人の胆力が、子どもを守るんだな、ということを学ばせていただいた。

南相馬の市長が、独自の再生復興構想を表明した。すばらしいと思う。田舎暮らしをいつか、と思う私たちだが、復興ビジョンが見えてきたら、夫婦だけでいつか南相馬に移ることも考えたいと思っている。これもご縁だもの。だから、一日も早い事態収拾と復興を祈るし、できることならなんでもする決意。

---

このご家族とは、いまだにメールのやりとりをしている。ムスメには津波の映像はきついと思い、ニュースは避けて来たが、最近は津波そのものの映像が少ないのと、何よりもムスメ自身にとって「福島」は特別な場所になっていることもあり、「離れていても、Aがどんなところにいるのか、危なくないか、大丈夫か、ちゃんと見たいの」というので、NHKの定刻のニュース程度は見せている。

ムスメが持ち帰って来た、クラスの「私のゆめ」文集。「もしどこでもドアがあったらどこに行きたい?」という設問があった。他の子は「ディズニーランド」「外国」「宇宙」「ゆめの国」などと書いてある。ムスメのページには「地しんやつなみやげんぱつのない安全でゆたかな国」とあった。優等生的な言葉ではなく、いまのムスメの、心からの願いなんだと思った。

いまなお、彼の地は余談を許さない。心配だ。こと原発の現状については、事態収拾にあたってくださっている人たちの奮闘と無事、避難しているひとたちの無事と健康を祈るしかできないのがもどかしい。子どもたちへの心身の健康被害が本当に気がかりだ。飯館村の家畜処分にも、涙が止まらない。ニュースでは数字が飛び交いすぎる。震災と津波で亡くなったり行方不明の方の人数、放射線量の数値や、避難区域の距離や、避難民の数…。そのうちのたったひと家族の人生が狂わされていることだけで、これほどまでに私たちまで打ちひしがれているというのに。

最近のつぶやき(4月)

長いので、2分割に。こうやって眺めると、心の揺れと生活っぷりが際立って、面白い(カナシい)。

心身の緊張状態が、自分たちで自覚している以上に極まっていたことを感じたのが、父との間に生じたトラブル。これは、私もオットも、ほとんど衝動的というか、偶発的というか、予期せず暴発した、というのに近い。父の「オレもそろそろ落ち着きたい(結婚したい)からいい加減認めろ、的なわがまま」が、私たち(妹も含め)にとっては許し難い暴力のように感じ、みんなが殻に一緒に籠ることで、あの以上なテンションの1カ月をなんとかしのごうとしていたのかも。ある種の防御反応としては自然だったのかな、と今は思うが。

特に、オットは20年にわたって、父の所業を私たち娘以上にシビアに、冷静に眺め、しかし目して語らず、という態度を貫いてきたわけで。意外に酷薄なオットが、唯一むせび泣き、いまだに思慕する私の母。その母に対する積年の思い(一時は父にも憧れ、影響を受けただけに)が堰を来たのか、本当にめずらしく、オットが父に喰ってかかり、父を激怒させた。ていうか、激怒したのはオットだったけど。

いまになって、「震災がなければ、あそこまでしなかったかもな」という話に落ち着いている。「やっぱり、普通の精神状態じゃなかったのかも。自分の家族に対してこれ以上のストレスを加えるな」という怒りが強かった」と。そうかも。

4月の前半は、父と私たちとの間に断絶があり、二度と会わないかも、という緊張状態と、しかし母の三回忌だけはきちんとしないと、という思いの間で妹も私も揺れていた。オットに不愉快な思いをさせていることへの後ろめたさ、心苦しさもあったが、亡母に顔向けできない私たちの家族の残骸が、悔しかった。

そんななかで、南相馬市から放射能汚染を逃れて避難して来た転校生が、娘のクラスに来た。彼女はわずか1カ月で、「計画避難地域」に指定されてしまったその直後に、危険と不安の残る地元へ帰って行った。わずかな時間だったが、この1カ月の日々は、ムスメにとってはかけがえのない時間、みちがえる成長の機会となった。そのことが、はからずも私たち親にとっても大きな支えと励ましとなった。

「シャーロットのおくりもの」から抜き書きしたのは、自分の中身が空虚で疎かにしていることばかりなのに、他人を助けることには腐心する自分が、他者救済に依存しているのではないか、という不安を感じたときに、「ちがう、誰かのために、ということは悪いことばかりじゃない。それを自覚しているかぎりは」と教えてくれたから。シャーロットの態度が、とてもよくわかったから。

----
「生まれてきて、少しばかり生きて、死んでいくんでしょう? クモの一生なんて、わなをしかけたり、羽虫を食べたりの、さんざんなものなの。あなたをたすければ自分の一生が、ちょっとはましなものになると思ったのかもしれないわ。そんなことがあったって、いいでしょ?…」(引用)

自分の人生をろくでもないものだとはさすがに思っていないが、それでも「せめて何かの役には立ちたい」という気持ちは、もう自分の性だから仕方ないと思って。ただし、一番大事なこと、つまり、自分の子どもや、大事な家族をないがしろにしていないか、だということさえ見失わなければ。

大仰な理想や、思い上がりとは違う。このちんまりした、だけど、なんだかんだと言いながらも恵まれた自分の生を燃やし尽くして、他の何かを照らしたり、温めたいと思う、ちいさなちいさな願いだ。

私がしてもらって助けられたこと、うれしかったこと、幸せに感じたことを、違うかたちで、迷惑をかけない範囲で、できることをするだけ。 憎悪や執念よりも、解放を、昇華を。私が生きているかぎりは、希望のためだけに生きたい。です。

----
他人のために奔走する自分が、少し怖かった。そういう「もみ消したい何か」が自分のなかにあったんだとは思う。

そして、ムスメのその友達は帰っていった。

---
計画避難地域に指定されたまちから、縁故を頼って一時避難してきていた、ムスメのおともだちが、今週末地元に帰る。あっという間に仲良くなり、毎日のように遊び暮らしていたムスメは、悲しさで落ち込んでいる。見かねて、金曜日に「元気でね会+これからもよろしくね会」をうちで開くことにした。

首都圏では、彼の地からの避難転入者に、スクリーニングテストを受けろと自治体が迫ったり、一時避難転入児童に触れると「汚染される」と、叫んで逃げる学童がいるという報道があった。ほんとうなのだろうか…。胸が痛い。大人たちの知性はどこへいったんだろう?

かくいう、ムスメのその友達も、最初は自分の住所を言わなかったそうだ。きっと、口止めされて東京にきたのだろう。「●●(ムスメ)だけには教えてあげる。誰にもいわないで」と打ち明けてくれたと、ムスメは喜んでいた。「ともだちの証」としての秘密は、大人である私たちには苦いものだった。

それでも子どもは強く、たくましい。最初はムスメとふたりだけで遊んでいたのに、あっという間にクラスにとけ込み、毎日放課後をともに遊び暮らしている。このまま帰らずに、東京にいてもいいくらいに。でも、彼女の生きるべき場所は、福島。たくさんの友達と、本来の日常はあちらにある。

放射性物質の飛散状況に不安を感じながら東京で生きる私たちには、「いま帰って大丈夫?」という心配はある。求められればこちらで生活拠点を探す手伝いだってしたい。だけど、何もかもそのまま置いて来てしまったひとたちには「生きるか死ぬか」と同じくらい切実な、生活の、人生の、命の場なんだ。

家を、年寄りを、仕事を、友達を、ぜんぶ置いて来たままこちらにきてしまったひとたちにとっては、たとえ不安があっても、「帰れる」ことは何よりも焦がれることなんだということ。だから「大丈夫?」とは言わずに「いつでも来てね」と言って見送るしかない。来てほしくはない「もしかの日」のために。

テレビには、再開された学校で、友達とめいっぱい嬌声を上げて大はしゃぎしている子どもの姿が映る。ほんとうは、これが「生きているこども」の姿なんだなと思う。お父さん、お母さんがいて、おじいちゃん、おばあちゃんがいて、知り合いや友達がいて。そういうもののない「安全」は。辛いだろうな。

「わたしのことは忘れちゃうかな」とムスメがつぶやく。「忘れないよ」と声をかけるけど、「忘れちゃうくらい愉しく、元気に過ごしてほしい」と大人の私たちは思う。ムスメにとっては、夏休みだけの友達のように、屈託のない思い出なのかも。彼女にとっても東京の日々がよい思い出となりますように。

それから、こんなふうになってしまったことの責任の一端は、自分たちの暢気で能天気な、無知な都市生活にあるのだと思って、重い気持ちになる。だから、祈るだけじゃなくて、これからの生活思想を、もう一度あらためてみなければならないと思う。福島は異世界ではない。いまのこの生活と地続きの現実。

警告区域に指定された…。どうしたらいいだろう。何ができる(できない)だろうか。相手の人生に土足で、したり顔で踏み込むことがないようにしたいけれど、お節介や半ばゴリ押しみたいな、そういう「強さ」が必要な気もしていて悩む。だって、いま、すでに、遠慮して、息を詰めて、途方に暮れている。

「何かできることはありますか?」と言って、「じゃあ、こんなことをお願いします」と、滑らかにリクエストできる人は滅多にいない。だって、途方に暮れているんだもの。だから、無遠慮でも、「こうしなよ、絶対。」って言ったほうがいい時もある気がする。本当はそういう立ち居振る舞いは苦手だけど。

縁あって、いまこうして出会うことになったわけだから、この時その人にしかできないこと(他の人だったらまた違っていただろうこと)を、身の丈でやるしかないんだということだけは、わかっている。

今日は、私の42回目の誕生日。27日は、母の三回忌。2年前の4月は、せん妄と正気を行き来する母との、最後の時間に、深く深く潜り、沈んでいた。うららかな春の陽気と、おかしくなるのじゃないかというくらいの悲しさに引き裂かれて、やっぱりちょっとおかしくなっていたような気がする。

満開の桜の下を自転車で母の元へ通いながら、からだもこころも、この世にはないような感じだった。母を見送ってから1年も、なんとなく、この世に半分しか身を置いていないような感じだったし。いい年をして、ひとが一人死ぬということを、身をもって知る機会がなかったのだから、しかたがないけれど。

でも、2年も(あるいはもっとか)経てば、ひとはちゃんと回復できるのだな、と思う。私はちゃんと生きてるし、それどころか、母の志がちゃんと血として身の内に流れていることを感じる。居なくなってからの方が、より強く、母の気配を自分や自分の生活の中に感じる。

この季節が来ると、ますます、母のいのちの名残を感じる。この時季に、いろいろな縁があることに、母からの言付けがあるような気がする。

母の死後、放心状態(というか、半ば廃人)の父に代わって、遺品や遺産の整理をしていた頃、パレスチナの聾学校を支援するNGOから、母宛ての手紙が届いた。視力を、平衡機能を、そして聴力を失った母が、不要になった補聴器を、彼の地の子どもに寄付し、多額の寄付金も定期的に送っていたらしい。

その額にも驚いたが、何より、つゆほどもそんな気配を見せなかったので、不意をつかれて驚き、そして、泣いたのだった。地道に働き、口数が少なく、芯の強かった母だけど、いわゆる篤志家的なことには縁遠いと思っていたから。愛情豊かだったけれど、仕事以外の社会へ目が向いているとは思わなかった。

でも、家族だけに注がれた愛情と、自分の生だけに向けられた執念ではなく、「ほかの、どこかの、だれかのために」自分のいのちを向けて生きていた人だということは、私たち子どもにとっては、何よりの置き土産だった。私たちの知らない母がいて、充分に生きたことがわかって。母に感謝し、敬服した。

だからというわけじゃないが、私も「母ならどうしただろう」と、無意識のうちに聞いているのだと思う。いま私が、ほとんど反射的に、衝動的に、何も考えずにやっていることのほとんどは、母も(やらなかったとしても)賛成してくれるにちがいないことばかり。一度も勧められたり教えられてはいないが。

だから、結果として実りはなかったとしても、せっかく出会ったひとたちなんだから、待っていないで、一緒に動かなきゃ。 いまのままじゃ、帰っても、行く当てすらないはずだもの。

------

おまけ

---仕事が終わりまへん(ToT)そういえば、おれの誕生日の4月22日は「レーニンと同じだ」と、60年安保世代で元コミュニストの父は、幼い頃私に自慢してた(意味不明)。今日びの子は「Earth Day」として知ってるらしい(私は30代後半まで知らなかったが)。どっちも、なんだかなぁ…。

だいたいわたしの誕生日、「しに」番号。縁起悪すぎ…。

42歳になった。なんだかんだと、結局この季節が一年のなかでもっとも好き。血液型人間分類に根拠はないと思うけど、生まれた季節は関係あると思う。私は予定日より40日近く遅れて生まれたのだけど、この季節を選んで生まれでたのではないか、と思うくらい。3月上旬生まれなら別人格だったかも。

ただいま絶賛葛藤中の実父から、誕生祝いのメールが届く。実母の最晩年とその後の日々は、失望と悲憤の連続で、感情の泉も尽きたかに思えたが、それでも私がいまここに立ち、生きているのは両親の命を継いでいるからにほかならない。親がいてこその、いまの自分。よくも悪くも。それは変わらない事実。

生んで、育てて、愛情と生活の糧と知恵を絶やさず与えてくれた。たしかに幸福な子ども時代はあった。そしてちゃんと私たちは大人になり、家庭を持ち、親の心配をする年代になった。そう思えば腹を立てることもない。まずは、今日自分があることの感謝を、あの世の母に。そしてこの世の父にも、一応。

----

「一応」(笑)。

最近のつぶやき(2~3月)

「Twitterをやらない理由」を前に書いたが、仕事上、自分でアカウントを開いて利用し、しくみを理解する必要が出た。それで、おそるおそる、不承不承、やってみた。

-----
2/9:
わけあってやってみることに。大丈夫だろうか…

傍観してきた理由は、周囲の多くのひとのように首っ引きになりたくなかったから。目の前に常に「こっちを見てて」と渾身の力で主張するちいさいひとたちがいるもので。でもそでも自分の態度ひとつかなと。

のんびり(ちょっとおそるおそる)いこうかと。
-----

そこから、1週間に1回くらいの頻度(低ッ)でやって。でも、すっかり忘れて、たまーに思い出したように書いて。また途絶えて…てな具合。もともと向いてない、ってよくわかった。

そして、3月11日があって、情報収集にTwitterが欠かせなくなって。もっぱら「フォロー専門」だけど。でも、自分が根源的なところで考え方に共感したり影響を受け(てもいいと考え)るひとたちの、その都度の発言が自動的にタイムラインとして入ってくるしくみは気に入った。マスコミの報道と、それらと、いくつかのウェブサイト(ブログ含む)とを参照することにも慣れた。

でも、やっぱり、Twitterでしょっちゅう心中吐露(しかも、いつも他人を意識して)する感じは、馴染まなかった。思い立ってどうしても、という時に集中して書き付けちゃうということでは、ブログのほうが都合がよかったりする。ちょこまか「つぶやく」のは性に合わないし、やっぱり気持ちが悪い。

そういうことがわかって、これからはまた、ブログに戻ると思う。
ということで、この間の「ガッツリ書き」のうち、いくつかこっちに移植。

---
3月12日はムスコの卒園式だった。3月18日はムスメの誕生日だ。彼らの誕生以来、たくさんのできごとを乗り越えて、やっとわたしたち家族の歩調が合いはじめたこの時期に、状況は取り返しのつかないところまで。20110311以前と以降。いろんな意味で覚悟を決めて生きていこう。

都会のマンション暮らしながら、エアコンも電器炊飯器も電気ポットも使わず、毎年味噌や梅干しを仕込み、自転車で畑に通い、たった10坪の畑で育てた有機野菜で家族4人(2匹)の体を十分養ってこられた。毎日家族4人が揃って食卓を囲み、食べ物を粗末にしないことだけを家訓に暮らして来た。

個人事業主に近い家内手工業ではあるが、一生懸命働いてきたのは、この生活が、私たちのすべてだったから。家族で同じものを食べ、本を読み、音楽を聞いて、眠りにつくのを見守れる時期はたったの10数年。子は育ち、親は老いる。しかも、今日と同じ明日があるとは限らない。

母は40の時に脳腫瘍になり、余命宣告を受け、再発を繰り返し、放射線治療と後遺症によって、奇跡的に長生きしたが、その代わりに嬲られるように身体機能をひとつひとつ失っていった。あの頃私は15だった。入院患者のなかには出産の事故で植物人間になり、離縁された若い母親もいた。

「絶対の明日はない」と、骨の随まで刻み込まれた。だからこそ、自分の家族ができて、こうして「ふつうの暮らし」ができていることが奇跡だと思ってきた。家族の健康を気遣い、近所づきあいや育児を通して知り合ったひとたちとの関係を、力を合わせ、心を通わせ、時にぶつかりながらも楽しんできた。

ささやかな、でも切実な「ふつうの暮らし」。子どもを巣立たせ、いつかは晴耕雨読の暮らしを…とオットと構想しながら。お金はたくさんいらない。そこそこ頑丈な身体と10坪の畑とニワトリがいればいい、なんて。できたらちょびっとの田んぼも。お酒と本とお互いがいれば十分、なんつって。

そんな「いつか、きっと」を真剣に考えるときが来たのかな…。と思う。だけど、ここには、助け合いを必要としている仲間がまだまだいる。一緒にご飯を食べ、子どもを預け合い、お酒を飲み、愚痴り慰めることで前を向いて歩いて行ける仲間がいる。そしてその多くは、「新世界」を求める伝手をもたない。

「自分たちだけ」では生きて行けない。本当は、十分生きて行ける自信はわたしたちには、ある。でも、家族、近所の人、一緒に助け合ってやってきたいろいろな仲間がいてこそのこの暮らし。簡単に二者択一できる話じゃないからこそ、一緒に話し合って、状況を見際めたい。

私たちの生活能力(経済力とはちょっと違うケド)を切っ先にして、一緒に生活していける方策をさぐりたいな、と思う。これまでの生活なら絵空事だったかもしれないけど、こんなことでもなければ踏ん切りがつかないことでもあるし。そういう風に、天の配剤だと思った方がいいような気がする。

----
これは、震災翌日、余震の恐怖はもちろんだけど、原発の危機的状況が言われていた頃で、放射能汚染の問題で心身が疲れきっていた頃。「土着の暮らし」を描いていたからこそ、どこかで踏ん切りどころを探らなければならないかも、とオットと真剣に、深刻に話し合っていた時期。

それから2週間ほどして。

---
この状況では、無闇に他人を批判しないほうがよい。という意見には基本的に賛成。それでもふとしたときに頭をよぎる思い。日頃、自分たちの暮らし方、例えば消費者としての生産者との関係や、口に入れるものの有り難さや安心について関心のない人に限って、従来システムが混乱すると慌てふためく。

「食の安全性」が時事問題になるときもそうだったけど、ふだんは口に入れるもの、消費のしかたについて全くもって無頓着だったのに、問題が持ち上がると、神経質なまでに不安原因を排除しようとするのが、たまらない.

3〜4歳、体重20kg未満の育ち盛りの子どもに、およそからだにいいといは思えない(非合法な毒でもないけれど)物質の固まりのようなお菓子や飲料を湯水のように与え、子どもの目前でバカスカと四六時中喫煙し、度肝を抜かれる衣食住生活様式、食餌観念の持ち主が、急に「食の安全性」を言う。

「国難」ともいえるこの状況が、自分たち自身のそれまでの消費生活、価値観を顧みて、これからの考え方や振る舞いを変えるきっかけにならないまま、「事態の収束」という結果に終わるのだとしたら、たまらない。

----

地方=生産、都市=消費という図式のなかで、価値の決定権、物品の選択権、豊かさを享受する「生存権」は手放さず、でも「放射能怖い」「停電困る」「食べ物、飲み水心配」の立ち位置から一歩も動かないのでは、話にならない。

いまこの期に及んで初めてあたふたしている人も一緒に変わらなければ意味がないのだと思うが、きっと、多くの人はのど元過ぎれば…になるのではないか。「日本は変わる」という希望というか、期待も持っている半面、「結局、元通り」になるのかも、という心配もある。

どうかこの困難が、放射性物質や電力の問題だけに終始せず、包括的に、肝をすえて生活文化を見直さなければこの先はない、という覚悟のもとに、思い切って変わる契機となりますように。どうか、どうか、「まあ、仕方ないから現状維持で」となりませんように。今度こそ断固とした意志を貫かねば→自分。

-----

食品や水の買い漁りに狂奔する周囲のようすに、こちらが疲れて来て、やりきれなくて書いた頃。たまたま我が家は、ウォーターサーバーを契約していたり、ふだんから、大量の農作物を保存食にしたり、乾物や買い置きベースで食生活を組み立ててきたために、ほとんど生活運営上の影響は受けずに済んだ。ガスと保温調理がメインで電気製品もびっくりするくらい少ないし、空調も夏冬使わないし、お風呂や選択も必要最小限だから。

知己の大人に大量の水を所望されたりと、よけいに、周囲の慌てふためきぶりが身にこたえたのだった。マンション(共同体)のために、緊急時に備蓄品を共有するなんて、あたりまえのことで、独占するつもりもまったくなかったけれど、それは本当の緊急時のために備蓄すべきであって。また、乳幼児を抱えて不安な人に優先的にまわしてあげるべきものだと思っていたので、よけいに辟易したのだった。

そして、都知事選。

---
昨日は、押しに押している仕事の合間に時間をつくって、チビの保育園時代の同窓生家族が催している花見の宴席に顔を出した。うららかで、穏やかな、絶好の花見日和。桜は満開。「いったいどうしちゃったの?」と言うくらいの混雑ぶり。やや躁状態? ほとんどやけくそで花見しているみたい。

地震からひと月。国難を憂い、すべてを慎んで自粛すればいいなんて、ちっっっとも思わないけれど、あのムードを見て「石原再選だな」と思ってしまった。理由ははっきり言えないのだけれど、「みんな、“いいかげん落ち着きたい”んだな」と感じた。震災のショックにもその後の情勢不安にも疲れてる。

被災地のために何かを、日本のために何かを、と当初は奔流のように迸り出ていたエネルギーは、落ち着きどころを探している。復興支援は偽りじゃないけれど、「ふつうの暮らし」が恋しくて仕方ないみたいだ。少なくとも、東京は戻りたがってるんだと思う。私だって、落ち着いて仕切り直したい。

だけど「なかったこと」にしていいかどうかは、まったく別の話。仕切り直すってことは、戻ることじゃないのに。戻って落ち着くだけなら「創造的破壊」じゃないのに。ただの破壊で終わってしまうのに。今が堪えどころなのに、一刻も早くと、わかりやすくて目に見える成果(と感じやすい)を求めてる。

私も、なるべくふつうの生活をしようと思っている。仕事もきちんとして、家族の暮らしを立てて、隣人と愉しく食事をして、将来を思い描いて今を暮らそうと思っている。でも、その向かう先は、これまでと同じではないと肝に銘じて日々を過ごしている。だからこそ、の選挙だと思ってた。

でも、家に帰ったら、やっぱり予想通り。「安定感」「実績」「強いリーダーシップ」「日本を沈ませない」という方が、再び理事に。大阪でも、わかりやすい「強さ」を謳う方々が。原発保有県はのきなみ現状容認・支持派が。投票率も相変わらず低い。前回比なんて、意味なし。比べるものじゃない。

ああ。なんだか、ほんとうにがっくり…。諦めては行けないけど、この事態にあってもこうなら、もうどうにもならないんじゃないか、という弱気にさらされる。子どもたちがこれから生きて行く社会を考えたら、諦めて凹んでいる暇はないのだけど。でも、がっくし。どんより。

東京のひとって「東京が沈んだら日本が沈む」という名目をかさに、結局安全地帯で自分たちの経済活動や日常生活の安定を保つことだけに腐心しているとしか思えない。地方都市のひとが「そんな理想論は都市部の人間のおごり」っていう気持ちもわかるけど、一人勝ちで全体が浮揚する思考自体が歪んでる。

民主党はこの有事に物足りなく、経験も器量も不足していたかもしれないが、そもそもこういう事態に陥らざるを得ない大状況をつくってきたのは、民主党じゃないだろうに。こんなときばかり、詰め腹切らされるの? 民主党には共感も支持もしないが、選んだ責任=批評し育てる責任もとらないなんて!

ううう。あまりに虚しく、悔しくて、つい愚痴ってしまったのだけれど、それを言っていてもしかたないので。ひとまず。別の手だてで0311が、ただのダメージを受けた日ではなく、仕切り直しの緒となるように、今からもう一度考えないと。じゃないと、自分自身が希望をもって生きて行けない。

----

なんか、この一連の投稿、今読むと、「落ち着けよ、お前(自分)」と言ってやりたくなる。評論家面して悲観しているけど、お前も「東京の人」だよ、って(苦)。これまで意識的にこの「不便」な生活様式を選択してきたという、自分たちなりの意志的な暮らし方に対する自負があって、それが根底から揺らいでいることへの焦りや憤りがにじみ出ていて、これはこれで見苦しい。

思えばこの頃は、震災以後、交感神経優位状態がずっと続いていて、ぴりぴりしていたと思う。不眠状態になって深夜になっても眠れなくなったし、どんなに寝不足でも震度1で飛び起きるくらいの「臨戦態勢」が続いていたし。そのかわり、子どもたちとの生活が愛おしくて愛おしくて、何よりも子どもの心身のコンディションを第一に考えて生活を組み立てていた。仕事も再開していたが、どこか気もそぞろで。それも、今思えば「それ自体が非常事態的」という、無言の圧迫を子どもに与えていたのかも、と思う。(つづく)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

フォト
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

tweet

無料ブログはココログ