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2009年6月26日 (金)

MUTE

日付が3月30日で止まったまま、先方都合で棚上げになっていた仕事が再開した。

母の看取りに集中したくて仕事を切り上げた昨年度末に、完全に手を離すつもりでいた仕事だ。つまり、(言い方が悪いが)どう転ぼうとも、自ら悔いなく他にも迷惑かけずに済むように道筋を立てて手放した仕事だ。手を離れたということは、心も離れたということだ。

なのに、その仕事は、私が仕事や世間から遠ざかっている間、見事なほどお蔵で眠っていただけでなく、6月に入って解凍されたらしい。これまた先方都合により、事業統合やら組織再編やらで、もういちどフレームワークを見直すのだそうだ。つまり、振り出し。

気力も意欲も完全に褪せているため、リセットミーティングの場で降りようと思っていた。仕切りの悪さによる落胆と失望もあった。でも、この仕事は、依頼された時から本当にいわくつきの仕事で、元請けだった事務所にはさまざまな災難がふりかかり、「意欲」だけで断ることができないくらい差し迫っていた。

結局、キリのいいところまで再度手伝って、引き継ぎをする、という条件で引き受ける。

でも、3か月振りに開いたファイルをいじりながら、保留になったままの仕事に気持ちを合わせようと集中すると、3月30日の自分の気持ちがフラッシュバックして辛い。進まない。

仕方がないことだけれど、こんなことのために、何日も徹夜をし、アナフィラキシーを誘発するほど切羽詰まり、そのうち何度かは忙しさのあまり施設に母を訪問することをあきらめざるを得ず、独り待たせることを思いながら胃を絞られる思いをしたのだと思いだして、虚しい思いを新たにする。

たった3か月の間に、いろんなことが変わってしまったんだなぁ、と思う。

マイケル・ジャクソンが亡くなったということで、今日はFMは一日中彼の曲ばかりだ。私は(彼の面妖な感じは直視できないし、成人してからの楽曲も歌声にも、踊りにも)ほとんど関心がないけれど、それでもこうやってノンストップで曲がかかり続けると、自分が多感な年ごろだったころに、生活のそこここにBGMとして流れていた曲が多いことに、改めて気付かされる。

MJがローティーンだったころの歌声と表情は、本当に素晴らしかったんだな、とも。

8歳くらいの自分。13歳のころの自分。16歳のころの日々。それぞれの場面と曲がちゃんとつながっている。人間の記憶の中には、ちゃんと、体験や記憶の一時保管庫というのがあって、完全に忘れている(ことすら忘れていたような)ことでも、こうやって一瞬にしてよみがえるのだな、と思う。

それにしても、人間の一生ってわからないもんだ。

いまから昔を振り返ってみると、当時の方がずっと幸せそうに傍目には見えるのに、本人としては、自分だけの、切実な、「もっと違う何か」を求めてたどり着いた先が、人生の「絶頂期」だったり、「最終到達地点」だったりして、それは、傍目にはあまり幸せじゃなさそうに見えたりして。

いかんいかん。仕事をしなければ。りんご病で時間が押して、終わらなくて青くなっているというのに。

大した難易度でも作業量でもないはずなのに、3月時点の2~3倍のパワーを出さないと前に進んでいかない。仕事に限っていうと、集中力も、作業効率も、何もかも低下している。全然、元になんて戻れていない。

とにかく、終わらせなきゃ。勉強しなきゃ。

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2009年6月23日 (火)

歯医者恐怖症

ペンディング一掃キャンペーンの一環として、歯の不具合も、このさい全部やっつけちゃおうと思い、歯医者に通っているのだけれど。

恥ずかしながら、歯医者が怖い。死ぬほど怖い。

あの匂い。あの音。異様に交感神経が刺激されるのがわかる。

学生時代には、先輩の紹介で歯科助手のアルバイトをしたことはあるんです。セメントを練ったり、シリコン練ったり、器具をセットしたり。「他人」として歯医者にいるのは平気。

だけど、治療台に座るのがどうしてもだめ。ライトやバキュームをあてがわれ、型をとるくらいが限界。着色研磨や歯石とりも×。

何が嫌だって、歯=骨(と信じている)に直接金属を当てて、ガリガリキーキー振動音が頭蓋骨に伝わるのが、もうダメ。痛いか痛くないかは問題じゃない。

いつからこんなに恐怖を感じるようになったのかわからない。小2のころは、歯列矯正で毎週歯医者に通っていたし。ただ、すでにそのころ、治療台の椅子から恐怖のあまりずり上がっていくのを、知り合いの医者に苦笑されたり、諌められたりしたのは覚えている。あの頃は、今みたいに「麻酔」を安易に使ってくれなかったような気がするから、痛かったんだとは思う。

あと、記憶に残っているのは、「大統領の陰謀」だかなんだか憶えてないけど、諜報ものの映画で、主人公が組織から自白を強要される際の拷問として、歯神経をガリガリやられる、というのを見た覚えがあって、「歯」の恐ろしさが体に刻みこまれた気もする。

そんなこんなで、大人になるまで、ろくに歯医者にかかったことがない。親知らずが歯茎内で、すべて水平に生えてしまってたので、切開・破砕して取り出したことはあったが、それ以外は20年近く歯医者を避けてきた。

でも、意を決して久しぶりに歯医者に行ったのだけど、額と鼻の頭に脂汗が滲んで、吐き気がしそうなくらい気分が悪くなって、(たとえは悪いけど)失禁しそうなくらい脱力してしまう。医師にも助手にも苦笑されたり心配されたり、で40にもなって本当に恥ずかしいのだけど…。

やっと欠損した歯を治してもらったと思ったら、上の奥歯2本ともが虫歯になりかけているらしい。歯間ブラシとふつうの歯ブラシであんなにしつこくケアしていたのに…。肩を落とし、顔が曇る私を、子どもをあやすように先生が励まし、「麻酔して、痛くないようにするから、ね?ね?」と、治療を促す。ますます意気消沈。あと2回もいかなけりゃならんのか。

思えば、私は強迫神経症のケが、子どものころから多かった。

歯医者を異常に怖がることしかり。

先端恐怖症しかり(箸とか眼に向けられると気分が悪くなるし、目医者で眼圧を測る機械を直視しないといけない時も怖い)。

密集恐怖症もややある(体調が悪いと、鮫小紋とか、葉っぱの裏の虫の卵とかダメ)。

思春期に入るまで、他人が口をつけたものを「まわし食べ」「まわし飲み」(昔は間接キスとかいったが)も生理的にいや。よく、年頃のジョシが、スイーツの食べあいっこをしてたのだけど、鬱陶しくて嫌だった。

この世の中でもっとも忌まわしく、もっとも生理的に受け付けない生き物「ナメクジ」を忌避しはじめたのも、2~3歳頃。記憶があるし、母からも聞いている。家の敷居にいたソレに気づいて固まり、敷居をまたげずに立ち往生し、それに気づいた母がつっかけ履きで「ピン!」と外へけり飛ばしてくれたにも関わらず、そのつっかけ履きを二度と履けなかった。

こうやって書くと、相当ビョーキなこども時代だったなぁ、と思う。

両親も、妹も、かなりその辺はアバウトな性格で、ワイルドというか、適当というか。なんで私だけがこんなふうになったのか、今もってわからない。成育環境も無関係ではないのかもしれないが、こうしてみると、やっぱりもって生まれた「気質」っていうか、性格というか。すべてにおいて知覚過敏だった気がします。

いまなら、脳内伝達物質の異常とか、心理学上のなんとか、とか理由はいろいろあるのかもしれないが、不安が恐怖や過敏を呼んで、必要以上に怖がりになってしまったのでは、と推測する。

歯医者も、そんなに怖がらずに日々のメンテナンスを兼ねてきちんと行っていれば、こんなにボロボロにならなかっただろうに(先生いわく、「そんなに悪い口内環境じゃない」というけど、私にとっては敗北感バリバリな感じだ)。

もう、二度と、歯医者にかからずに済むように、きちんと手入れしよう。

今週も金曜日にまた歯医者。考えただけでお尻の穴から肝が抜けて行ってしまいそうだ。

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2009年6月18日 (木)

りんご病恐るべし

やっと急性期を過ぎて、「あとは治るだけ期」だと思い込んでいたりんご病ですが、ぶり返してきた。どんなサイトや医学書を見ても「ぶり返す」とか「悪化する」という記述がないんだけど、どういうことか?

とにかく、四肢が赤い、痒い、むくむ、しびれる。特に関節。手首足首、ひざ、ひじ、肩、腰(骨盤)、股関節。体中のありとあらゆる関節、ありとあらゆるツボがきしむように痛い。いつも両手薬指にはめている指輪が完全に肉に埋まって動かない。握りこぶしが握れないくらいむくんでいる。足は象の足。しびれていたがゆい。

一度よくなったはずなのに、もっとひどくなっているなんて。

「心身症?」「仮病?」「不登校?」と気をもんだ娘も、胃腸の不快感と体の痛みを訴えて不機嫌。半べそまでかくありさま。「やっとわかってくれた?」と、非難たっぷりのまなざしで私を見る。平謝り。

潜伏期が最も感染力が強く、症状が出てからは感染させることはない、というのが定説のようだが、自分たちの症状の出来が一般的なパターンに当てはまっていないことを考えると、それもなんだか疑わしいものだ。どうしよう、いろんな人に移していたら。

こんなに苦しい病気だったなんて。りんご病なんてかわいい名前をつけたらいかん。

あと、集団生活への行動制限のない病気だけど、最新の医療情報をもとに、ぜひお医者さんにはアップデートしてほしい。身体感覚としては、成人女性(30~40代)は特に合併症というか、症状がひどく、社会生活に支障をきたす度合いがひどい気がする。

こりごり。

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「四十九日」だというのに…

いわゆる「忌明け」といいながら、ここ最近いろいろありすぎてオンもできずじまい。

今さらだけど、ダイジェスト。

リンゴ病を甘く見ていたが、成人のかかるそれは、恐ろしく辛い。オットも解熱してから数日は頭痛だの、筋肉・関節通がひどかったみたいだが、私もまだだらだらと症状が続いている。先週は、手頸全体がしびれたり、体中がばらばらになりそうなくらいのいやな痛みに覆われて、重力にあらがって経っているのが精いっぱいのありさま。やっと諸症状が遅真った!と思っていたら、昨夜、四肢が猛然と痒くなり、足首は曲がらないわ、脛がパンパンにむくんで痛痒いわ。そうこうしているうちに、四肢すべてが赤いだんだら模様に。それはもう、大変醜い。教科書通りのリンゴ病の症状が時間差で表れた。「まだ来るか…」というかんじ。

終末は、ただひとり無傷だった娘にも伝染。ムスメは頭痛とかゆみ、だるさ、関節痛、発熱。比較的症状は穏やかながら、自覚症状としては、大変不快のようで、機嫌も悪く、ちょっと始末に負えない感じ。症状が発現した時には、もう感染力はないようで、小児科の先生も、日常生活の節制は不要、とおっしゃる。ところが、月曜日には学校の保健室から早退の呼び出しがかかり、仕事をすべてキャンセル。昨日は休んで、今日は元気に登校したと思ったら、1~4時間目まで保健室に寝ていたんだと。

体調が悪いこともあるけれど、いろいろあった今年前半の揺り戻しで、メンタルな要因もあるんだろうなぁ、と思う。原因不明の腹痛も訴えるし、心因性と思う方が自然なエピソード多し。半年以上も大変な負荷をかけてきた生活だったから、そんなに簡単に元に戻るなんて思えない(実際自分自身が戻れていないし)けど、気は重いなぁ。

本格的な大学院入試の勉強を始めるために、ほぼ専業主夫に徹していてくれたオットは、パートタイムの仕事を引き受けて9時5時の仕事をすることになった。今週はその仕事初めだったのだけど、ムスメの体調不良やら、私の仕事の調整やらで、我が家(というか、ほとんど私の心中)はにわかに雲行きが怪しくなり、不穏な空気が流れていたと思う。

当たり前のことだけど、これまで我が家の生活を担ってきた大黒柱の私が、生き方働き方を変えたい、という意思表明をし、それを最大限に尊重しようとしてくれたオットの努力と、小さいなりに理解して協力しようとしているちびっこたちの意に、私自身がきちんと報いていない気がする。自分だけがゆとりをなくしてピリピリしてしまっている。

ムスメは特に、そうした微妙な変化をこと鋭敏に感知するタイプだから、私がわがままにふるまっていることの余波をもろにかぶってしまっているんだと思う。情けない母親です。

そう思って、今日は早めに学童保育へお迎えにいき、オットと二人で(ムスコを迎えに行く前に)、ムスメと相対して話をしてみた。私たちも大人といえど、立派になれていなくて、自分たちの気分などでイライラをぶつけちゃったり、こどもの気持ちを考えないで決めつけたりしてしまうこともある。私たちの言っていることがすべて正しいわけではないし、理不尽で納得がいかないと思うことは、勇気を出して指摘してほしい。教えてもらわないと気がつかないことも多いから。でも、挨拶や返事をきちんとすること、食事を行儀よく食べること、大人と約束したことは守ること、の3つだけは口を酸っぱくしてこれからも注意すること。という点だけは表明した。娘も、私たちに日頃感じている不条理な点を、ぽろぽろと口にするようになっていた矢先…。

私の携帯に父からの電話。厭な予感がして出ると、夕方からひどい胸痛に襲われているので、かかりつけの病院付属の高度救命センターへ救急搬送されることになった、という連絡。途中から救急隊員の人が電話に出て、状況を説明される。

「お母さん、まさかお父さんを連れていくの?」という心配が一瞬頭をよぎるけれど、父が電話をかけてきてくれたことで、少し安心している自分がいる。これが脳卒中などだったら、ろくに会話も成立しないどころか、電話すらかけてこられなかったかもしれないし。

とはいえ、やっと、母の他界後、ふつうどおりの生活を取り戻そうとしていた矢先だったのに、突然の電話で「ちょっと病院に行ってくる」と身支度を始める私に、ムスメがおびえた目で「どうしたの?じじは?いつ帰ってくるの?」と尋ね、泣きだす。事情をきちんと説明して、安心させてから出かけたいけど、今はそんな時間がないし。

心休まるときがないなぁ…。

と、不謹慎ながらため息をついてしまった。私の気苦労という意味ではなく、子どもたちに、いつになったら、不安や心配のない日々を約束してやれるのか。父のせいではないし、ある意味仕方のないことだけれど。「ごめんね。本当にちゃんと戻るから!」と言い残して、半べそをかくムスメを後に家を飛び出す。溜息。

夕方の幹線道路の下り車線は渋滞がひどく、病院まで何十キロもあるような気分になる。ぶっとばして、やっと到着するものの、容体についてはまったくわからず、ただ家族控室で待たされる。仕事を終えた妹にも連絡をとって、病院に向かうように伝える。

待つこと3時間。

結局、父は心筋梗塞や脳梗塞ではなく、極度に血圧があがった以外は原因が特定できなかった。おそらく心因性の要素も大きく働いているだろうが、まずは自宅で様子をみていいとのこと。こちらは安心したが、父はそれなりに考えるところもあったようで、「こうした事態が繰り返すようなら、お母さんが入っていたホームに入ろうと思う」とポツリ。

「まあ、そういうことは、あとから考えればいいじゃないか」と言ってお茶を濁したが、心中は複雑。そのほうがこちらは安心だけれど、それが本当によいことかどうかは別だから。

自分たちが心安らかに生活できる環境を整えるために、親に、意に反した暮らしを強いて後で悔やむのは、母のことで懲りている。なるべくなら、意志を尊重したい。そういう思いと、我が子とわが家庭の情緒的安定を、いったいいつになったら保証してやれるのか、という迷いとが交錯する。

お母さんだったら、どんな言葉でお父さんの先行きを案じ、どんなプランでお父さんの思いを酌んであげるのだろうか。

そんなことを思いながら、帰ってきた。今晩は、妹が実家に泊まって父の様子を見守ってくれる。少なくとも、今日は安心だ。

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2009年6月 9日 (火)

ペンディング人生一掃

月曜日にはログつけよう、と決めていたのに、昨日は挫折した。

そもそも、金曜日の夜、寝入ったムスコの両腕両足に妙な発疹発赤を発見。膨らみのない赤いブツブツは、懐かしい「突発疹」にそっくり。両腕は真っ赤に腫れあがり、ほっぺたも真っ赤。すぐにネットで調べると「りんご病」の症状にぴったり。そういえば、保育園の掲示板に「流行ってます」告知が貼ってあった。リンゴ病はウイルス性の伝染病だけど、症状が出る頃には急性期を過ぎているそうで、見た目は激しいけど、もう手の打ちようはないのだそうだ。ムスメはかかったことがないので、初めての体験。

熱もないし、食欲も便通も睡眠もふつう。ただし、ほてりとか、かゆみがあるのか、機嫌はいまいちで、ぐずぐずベタベタいらいら。何かと難癖をつけては駄々をこねて、体調がすぐれない親はいずれも辟易。ムスメはいたって元気。

考えてみると、オットも先行してリンゴ病にかかっていたのかも。熱と体の痛み以外は目立った症状がなかった。しんどい体をひきずって直接町医者に行ったら「保健センターに電話してから来院したんですか?」と冷やかに断られて、そこで初めて「すわ、新型インフルエンザか?」と戦慄したくらい、ぬるい認識だったけど、海外渡航や大阪出張はおろか、在宅生活でほとんど外部の人間と接触していない私たちが罹患するとも思えず。

インフル検査は陰性、他に思い当たることもなく、ムスコの発症を目の当たりにして、消去法的に「まちがない」と確信した次第。

で、肝腎の私も、「この家族は何としても守る」などと息巻いておいて、日曜日には自分がダウンした。全身がだるくて、筋肉がこわばるような感じで。慢性の肩こり(特に左)が、左半身全部と、後頭部から首筋に張り付いたような辛さ。体温37.1℃。平熱が36℃程度なので、微熱でも辛い。

「私もリンゴ病?」と思ったけれど、結局熱は微熱のまま。全身倦怠感とこわばり感だけが残り、異常な肩首こりをほぐしている間に、首筋にぐりぐりしたものを発見して慌て、近所のクリニックを受診。リンパ節が腫れていたらしい。膝の裏とか、脇の下とか、いろいろごりごりしているみたい。原因は不明のままだけど、平素気になっている愁訴感を説明したら、女医さんから「甲状腺機能を一度調べてみましょう」と一言。

そういえば、以前もアナフィラキシーショックの原因を調べて特定できず、消去法的に甲状腺機能の問題を指摘されて調べたことがあった。その時は「若干、機能が低め」という程度で経過観察だったんだけど、40歳も超えたし、ちゃんとしらべておくべき、と踏む。

この1年ほどで急激に太ったこと。慢性的に体の重さだるさを感じること。精神活動もどちらかというと停滞気味だったこと。のぼせ。ほてり。むくみ。体温調節や発汗異常などなど。生活環境に負荷が多かったこともあるし、もともと月経前緊張症(PMS)があるので、一概に原因を特定できはしないものの、体の傾向として把握しておいたほうがいいこともあり。

血液検査の結果は来週に判明。

ちなみにむくみやのぼせは、婦人科で処方された「カミショウヨウサン」っていう漢方薬を飲み始めてから、若干緩和されてきたみたい。心配された副作用もいまのことろほとんどなく、ほぼ快調。完全にフル活動する前に、これまで気になっていた体の不調はなるべく治しておきたくて、婦人科・歯科・神経内科・皮膚科プラス、成人検診などなど、あらゆる検査診察をかたっぱしから予約・受診中。

今週水曜は、母の看護中に折れた歯のメンテナンス。

今週土曜は、四谷の某総合病院にて、「手掌多汗症」の受診。物心ついてから、ずっと気がかりの種であったこの症状は、私の成育過程で心身に大きな影響を与えてきたもので、「これさえなければ性格も人生も変わっていただろうに」と思う最大の要因だった。

家族以外に打ち明けたこともなく、ひとに悟られないように細心の注意を払ってきたがゆえに、正確形成には無視できない影を落としてきたものだから、匿名ながらもこの日記に示すのもかなり迷ったけれど、これも自分の人生・人格の一部として向き合わざるを得ない段階にきた。

って、気づいて決断するのが遅すぎ。本当は、せめて、子どもを授かった時点で「スキンシップ」の重要性を直視して、対処法を考えるべきだったと思う。上のムスメに「お母さん、お手手、つなごう」と乞われても「ごめんね。お母さん、お手手つなげないから、スカートの裾を握っててくれる?」と、やんわりかわしたことは数え切れず。きっと幼い心を傷つけたことだろう。

が、過ぎたことを悔いてもしかたなし。今からでも、とにかく「変えよう」と思ったんだから。

母の終末期は、筆談や言語コミュニケーションがおぼつかなくなってきていて、「触れ合う」「手を握る」といったスキンシップ自体がコミュニケーションの根幹だった。その時はもう、こちらも必死だったから、「手に汗をかいているのに、触れたら気持ち悪いだろうな」などと考える暇もなく。むしろ、しっとりした掌に触れて「この手は、●●?」と、母が私を識別してくれる「個性」にしてくれたことは、「変えよう」と前向きになれたきっかけになっている。

「手掌多汗症」なんて言葉は、私が十代のころには一般的じゃなかった。そういう病名はあったのかもしれないが、ネットもない時代、素人が自分で調べられる手だてがなかったし、親に言っても、医者に言っても「精神的なもの」「気にしすぎ」と一蹴されて終わりだった。

「気にしすぎ」で、これほどまでに社会生活に支障が出るものか。これほどまでに悩むものか。そう思うと、十代になってからの私の心はずっとどこかで重かった。うらわかい乙女には重い心の枷だと、おばさんになった今でも思う。

「シザーハンズ」ならぬ、「スウェットハンズ」。

#シザーハンズを見た時、あまりに共感して泣いた。

フォークダンスが嫌だった。遠足のとき、2列に並んで手をつないで移動するのが嫌だった。女の子同士で手をつなぎたがるような「女の子っぽい子」が嫌だった。年頃になって、男の子から手をつなごうと促された時も、げらげら笑って拒み、相手も自分も傷つけた。

自転車や鉄棒、縄跳び、運挺、テニスや野球…。「手で握る」スポーツは、とっととクリアしたくて、ひとの見ていないところで猛練習して、さも「たった一度でできました」と思われるように苦労した。小学校5年のとき、やむを得ず手をつながなくてはならない体育で、私と手を握ったあとに、相手の子がこっそり手を自分の体育着で拭っているのを見て、「二度と他人と手をつながない」と決意した。その晩は、布団のなかで泣いた。

折り紙や工作、手芸などの手仕事は、汗で材料が湿ってヨレヨレになるのが嫌で、手を抜いてやっつけた。粗雑な仕上がりでも、ばれなければそれでよかった。本当は細かい作業は好きだったし、手先は器用だったと自分でもわかっていたのに。ピアノも、家での練習は苦痛ではなかったけれど、先生の前で鍵盤を濡らすのは辛かった。いろんな先生に「君はがさつだな(笑)」と苦笑されても、一緒にへらへら笑うだけでやり過ごした。

中学・高校のころ、医師や心理職になりたいなぁ、なんて幼い希望を抱いていた頃も、「ひとのからだに触れる」ということへの抵抗があって、結局、ひとやものではなく「こと」を相手にする仕事を選ぼうと、人文系、マスコミへ進んだ。それでも、ポジフィルムやイラスト原稿を素手で触れることができず、白手袋をして扱い、先輩から「慎重だなぁ」と笑われたし、原稿に赤字を入れる時に湿したくなくて、わざと人のいない深夜に残業して作業した。昼間に赤入れをしなくてはいけないときは、「忙しいと赤字の入れ方が雑」と叱られた。

ワープロやPCは、私には福音だったが、カメラは触りたくなかった。なるべく、一人で完結できる仕事。他人と身体的接触をしなくてもいい生活。そればかりを望んで大きくなった気がする。知的生産活動に重きをおいている「成人」だけで成立している生活であれば、何も問題なかった。

結婚し、子どもを授かり、親や子の体に触れずに生きてはいけない生活になって、少しずつ考えを改めなければならなくなったけれど、それでも決心するまでには結局20年以上かかったことになる。

「このまま、自分の掌についてはあきらめて、他者との濃密な触れ合いを諦めて生きていくしかない」と飲みこんだ関係と行動の限界を、自分で広げてみようと思っている。

なんでもかんでも、母親の死に紐づけてきっかけとするのは、ちょっとやりすぎだとは思うんだけれど、「変えようとして変えられなかったこと」を、今度こそ変えてみる理由にするなら、お母さんも文句は言わないんじゃないか、と勝手に思っている。

ムスメもムスコも、この体質を受け継いでいる可能性は大。せめて、彼らの自我が確立しはじめる頃には「人格形成の枷」にならないよう、相談には適切に乗れる程度の情報と経験(できれば自分で治療をひととおり受けておけばなお安心)は得ておきたいので。

そういう意味では、先端治療の症例が多い病院にかかっておくことは、どちらにしても先々無駄にならないと思うし。

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2009年6月 4日 (木)

オット、ダウン。

ついにオットが熱でダウンした。

先週末のムスメの運動会では、にわか雨に振られ、びしょぬれに。それがたたったか。

ここのところ、私の針路変更に伴って、家庭にしわよせがいかない範囲で「外貨獲得」をするべく、さまざまに求職・営業活動をしていたにも関わらず、景況と年齢などがネックとなって難航。そもそも、母の入院看護を最大限私に保障してくれていたことを考えると、オットもまた半年近く不眠不休に近いかたちで献身的に協力してくれていたのだった。

体力(だけには自信)があり、どんな細かいことも「やる」と決めたら、頑なにやりとおす几帳面な性格ゆえ、手を抜くこともなく、家事・育児・会社の庶務・犬の世話などなど、ありとあらゆる「日常茶飯事」を引き受けてくれていた。

母の死後、私がほんとうは虚脱状態なのにもかかわらず、実家の実務系に奔走している間も、何も文句を言わず、ふ抜け状態には目をつぶり、八つ当たりも黙ってやり過ごしてくれていたのだった。

「生き方、働き方を変えたい」と、無碍なお願いをしたときも、内心、「いまさらそんな」という思いはあっただろうに、「納得がいくようにしていい」とだけ言ってくれた。が、やっぱり先行きには不安もあっただろうと思う。

そういうものを全部引き受けて、貯め込んで、やっぱり引火しちゃったんだなぁ、と思って申し訳なく思った。我慢強いから、相当に甘えてしまったんだと思う。ごめんなさい。

今日、仕事上の「パートナー」としていろいろ気にかけてくれている人と、今後の仕事のしかたについて話合った。

私としては、これまでの仕事を軽視するつもりは毛頭ないけれど、後半生を捧げて打ち込みたいと思うことが他にできたこと。そのためには大学院に通って専門教育をうけ、やがてはその方面に進みたいこと。これまでのように仕事にフルコミットメントしながら両立できるほど甘い世界ではないので、軸足を変えたいこと。そのために夫婦(会社)で相談のうえ、さまざまな努力でなんとか実現させたいこと、などを伝えた。

相手からは、「今は大きな判断をするには時期尚早であること」「完全な針路変更は、もう少し基盤が整ってからでも遅くないこと」「部分業務への復帰でも十分であるが、ランニングで”できることの範囲”を徐々に広げて戻してはどうか」「子どもの教育費や、老後のことなど、もう少し慎重に考えて、両立の方向を探るべきであること」「稼働効率の点から、夫婦の働き方を見直してみたらどうか」などをさまざまに提案され、説得された。

それはとてもありがたいことだったし、「好きにすれば?」と突き放され、切り捨てられることがいいとは思わないけれど、私たち夫婦(我が家)が、どのように生きていきたいか、とかどのような価値観を持って人生に臨むか、ということについては理解されたとは言い難かった。生活の規模・レベルを落としてでも、質的充実をとりたい。それだけの大きな転機なのだ、ということの真意は理解してもらえなかったようだ。

私はオットや子供たちに無理をさせて、体やこころを疲れさせてまで、かつてのように高速回転で働いて生活を維持することが幸せだとは思わないし、その分は自分自身で「動力源」として頑張って稼げばよい、と思ってきたこれまでの考え方を、今度のことを機に改めたわけだから、経済性、有用性、効率性、生産性といった指標だけで、働き方や家計について再考するつもりはない。どんなに私たちの行く末について忠告されても(大変ありがたいことではあるけれど)。「元に戻る」ことができない、というのはそういうことなのだ。

誰かが無理をして、倒れるような暮し方はしてはいけない。仕事によるストレスであっても、「銃後の守り」による心身の疲労であっても。家族というチーム内で応分の負担をしながら、協力しあっているということは大事だけれど。

なんか、久しぶりに、意を決して会って話したのだけれど、「時間がたてば、また元通りに働けるよ。そのうえでやりたいことをやればいいじゃない」「いまは心身ともに弱っているから、ちょっと荒唐無稽なことを考えてしまうのよ」といった説得のされ方に、正直疲れた。

相手にとっては「たった1か月の間に大変な変化があったことはわかるけれど、ひと山超えれば冷静に戻るでしょう」という程度のブランクであり、その程度の転機に見えるのかもしれないが、私にとって(家族にとっても)は、そんなものではない。もちろん、冷静さを確かめるための冷却期間・検証期間はおくべきだと思うから、院試までには少し間を置こうと思っているけれど。

とにかく。オットに倒れられてあらためて思う。この家族には、どんなことがあっても責任を持たなければ、と。オットにはずっと心身ともに呑気かつ元気でいてもらいたいし、こどもたちには、たとえ経済的には不満がなかったとしても、殺気立って安らぎのない家庭で育ってもらいたくはない。私が人生のテーマとして取り組んでいくこととは別に、この家族は守らなきゃ、オットと一緒に。

社会的地位や評価、経済面での才覚には恵まれていないと本人は思っているかもしれないが、一人の人間としては、これほど男として侠気があって、家族を本質的に「守る」ことに誠実な人はいない。

たとえ「実績」「成功」というかたちで、人生の成果(?)が世間的に日の目をみなかったとしても、余計な言い訳をせずに、他人の好奇の目に耐え、我が道を行こうと一生懸命戦っている姿は、チビたちにもいつか伝わるものと私は信じる。私がこれと見込んだ男だし。

ということで、ゆっくり体を休めて、早くよくなってくださいまし。

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2009年6月 2日 (火)

「私だけの悲しみだから」

昨日、ちびたちと連れだって訪れた「クレヨンハウス」で偶然出会い、タイトルと絵に魅かれ、思わず手にとって、そのまま買ってしまい、ずっと私の傍らにある絵本。

「ああ、これだ。」と思った。

私がほしかったのは、これだ。

感情過多な慰めや同情ではなく、訳知り顔の理解や共感でもなく、信仰に支えられた希望でもなく、ただただ絶対的な、圧倒的な、完全な、絶望的なかなしさ。

自分ひとりのなかで噛みしめ、感じるしかないような痛み。後ろめたさ。

湯船のお湯に、掛け布団の綿に、車のハンドルに口を押し当てて、声を殺して絶叫したいような、身もだえするような苦しさ。やりきれなさ。

どんなに言葉を駆使しようと思っても稚拙で陳腐な結果にしかならないだらしなさ。

それでも今は、傷口にしみるけれど、治りを早くする薬のような、こうした言葉を素直に受けとめられる自分がいることに気づける。少し、回復している。

たとえばこんな言葉に。

“誰にも、なにも話したくないときもある。

誰にも。どんなひとにも。誰ひとり。

ひとりで考えたい。

私の悲しみだから。ほかの誰のものでもないのだから。”

そうです。他の誰でもない、私だけのものだから。

親子であれ、姉妹であれ、それぞれに「私だけの悲しみ」がある。

それぞれの「悲しみ」は、たとえ当事者同士であるはずの家族であっても真に理解はできない。

だけど、「私だけの悲しみ」「あなただけの悲しみ」が途方もないことだけは理解できる。

そういうような、つつしみに満ちたあきらめが、かなしみなのだと思っていたのだった。

慟哭しても何も変わることのない現実に疲れ果てて、絶望して、絶望することもあきらめたくらいのところで、「それでも生きていくか…」、ともう一度思わせる力をもっているのも、「悲しみ」かも。

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「悲しい本」

マイケル・ローゼン 作/クェンティン・ブレイク 絵/谷川俊太郎 訳 (あかね書房)

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