5月1日午前11時。
母は荼毘に付されて、天に昇った。深緑が鮮やかな、快晴の初夏。もう5月だ。
父母の信条により、通夜・告別式は執り行わず、日取りの関係で今日の野辺送りを迎えるまでは、総裁社の霊安室でお泊り。私たち家族と、母の姉妹と、40年来の旧友・親友数名を含めた、15名程度の、ささやかなお別れの時間を炉前で営むのみとした。
形式ばったことを好まない人だったし、常に、できれば、あらゆる因習や固定観念からフリーでいたいと考えながら、晩年は自分の心身のコンディションのためにそれを許されずに、ひとがかりで生きざるを得なかった母だから、なおのこと、遺志を尊重したかったというのもある。病理解剖や、略式の葬送も、眉をひそめるひともいたかもしれないが、すべて母の、私たち家族の哲学を実践したにすぎないこと。ただそれだけだ。
「通夜・告別式はしません。御供花・御供物の儀は拝辞します。葬送は家族のみで。」という、きわめてシンプルな、ささやかな願いを貫くのに、これほどまでに説明努力が必要だとは思わなかった。自分の不見識と社会経験の浅さを思い知らされた。
棺には、ホームのスタッフが総出で作ってくださった「祈りをこめて」と記された千羽鶴。母の実母(祖母)が老人ホームで手慰みに作った座布団。ムスメとムスコが折り紙で折ったさまざまな折り紙細工。私たち家族が全員で写っている写真数葉。家族・友人から母へあてた手紙の数々などを収め、最後にムスメと私で、母の唇に桜色の紅をさした。
さようなら。さようなら。さようなら。
こういうとき、なんといっていいかわからないので、とにかく心のなかで旅立ちの無事を祈る気持ちで見送る。炉の扉が閉まり、点火の音がし、みなで焼香をする。ほんとうは、快晴の空に母が昇っていくさまを見届けたかったが、休憩室へ促され、かなわなかった。
父は体調が悪かったようだが、懐かしい面々が(予想外に)集まったことで対応に追われ、気が張っているようだった。今日の実質的な仕切りは私の仕事だったから、ゆっくり思い出話に浸る暇もなく、収骨のときを迎えた。
母の骨は、見送った時そのままに骨格が残っており、3日を経た「亡骸」よりも、こちらの遺灰(骨)のほうが「おかあさん」という気がした。拾骨の段になり、妹と2人で、大たい骨を拾ったが、カサカサと「乾いたかなしい音」でありながら、しっかりと持ち重りがした。参列者がみんなで、お母さんの骨を拾ってくださった。ムスメとムスコも拾った。
頭がい骨に至った時、頭頂部の骨がはっきりとわかった。シャント手術を施した際の、人工的で不自然な穴がはっきりとわかったとき、母の生きてきた人生の壮絶さを彷彿とさせられて泣いた。そして、下顎の骨がきちんときれいに残っているところに、母が末期に後生大事に守ろうとした部分入れ歯を充てると、ぴったりと収まり、かなしくてさらに泣いた。
腫瘍が暴れた右側頭部の骨はなかった。
末期、すでに不必要になってしまったけれど、母がよりよい「視え」を求めて頼みにしていた眼鏡も、入れ歯と一緒に骨壷に収めた。
拾骨が済んで、母とのお別れの儀式は終了した。
骨壷を桐箱に収め、覆いをしたお骨を、父は万感を込めて抱いた。
が、次の瞬間、母の姉妹たちが、何を考えたのか「ちょっと抱かせて」と催促し、喪主としての発言をしようとしていた父を遮って骨壷をタライ回しにし、妹と私は軽く殺意を覚えた(母の姉妹を、私たちは幼いころからかなり「引いて」見てきたが、大人になってから意図的に避けて疎遠になってきた。しかし、「やっぱりこの人たち苦手!」と思った、今日は。)
母が後半生、誰よりも心頼みにし、尊重しあった、唯一の親友は、この叔母たちの振る舞いに圧倒されて、終始参列の最後部に控え、十分なお別れができなかったようだ。母としても無念だったのではないか、と気がかり。それでも、別れは、残される人の分だけ重みやかたちがあるのだろうから、それ以上は介入できないんだけれど。
式は、斎場で散会となったけれど、父と妹、父方の叔父、私たち家族4名だけは、母の遺骨とともに、念願の帰宅を果たした。
昨日、ホームを完全に引き払った際に、母の「お部屋」をリビングの日当たり・眺望のいちばんよい場所に設けてきたので、そこに安置するために。白木のテーブルに、シルクバティックのテーブルランナーを敷いて、ムスメが書いた絵(母の自慢)や、写真や、供花、供物などとともに調えた。あふれるほどの供花は、一部私たちが持ち帰ることにした。
オットが昨夜作成してくれた母の最も美しく映っている晩年の写真を、フレームに入れて遺影がわりにした。凛として、気高く、エキゾチックで意志的な笑顔の母がいる。
今日からは、父は、母と2人で、ここで暮らすことになる。望んで得られなかった静かで穏やかな2人の生活。母はもう見聞きはできないし、姿も声も現わさないけれど、それは前から変わらなかったのだから、こんどはこちらの気の持ちようで、気配や想念を感じることはできるのではないか、といった要旨で父と話した。
疲れの見える父をひとりにするために、一足先に叔父が帰り、妹と私たち家族も、父母に挨拶をして実家をあとにした。帰り際、父が、妹と私にふかぶかと「いままでいろいろとありがとう。お疲れ様でした」と頭を下げて礼をしたのが、切なかった。
「おとうさん、おつかれさまでした。おかあさんをよろしくお願いします。ちゃんと食べて、寝てください。」
と声をかけるのが精いっぱいで、結局涙まみれの別れに。
妹と、「おとうさん、ほんとうに後を追うように逝ってしまいそうで心配だ」と、妹と話す。ひとりになりたい、ほっておいてほしい、という父の意向も理解しつつ、GW中は初七日にかこつけて妹が、連休の最終日に私が顔を出そうと思っていたところへ、父からメールが。
●●(私)へ
携帯では入力が疲れるのでPCにしました。
今日、お母さんの無事な野辺送りが出来てほっとしています。ここまで、やってこられたのはあなたや■■(妹)の献身的な看護・看取りの努力とともにそれを支えてくれた▲▲(オット)君の絶大な協力のおかげ、そして母親の不在に長い間耐えてくれたA(ムスメ)とB(ムスコ)のけなげな支えがあったからと感謝しています。
あなたの言うように四十六年ぶりに新しい結婚生活が始まるものと思いながら、寂しさに耐えていこうと思っています。もう誰はばかることなく好きなだけお母さんと語り合えます。思うだけで足らなかったこと、心の奥を読み切れなかったこと、お母さんに代わってあなたが代弁したことのひとつひとつを話し合っていこうと思っています。
もう長女の役は肩から下ろしたらと思います。充分すぎるほど助けて貰って、自分で出来ることはこれまで通りこなし決して無理はしないので心配しないで下さい。その分を、家庭と仕事、自分の健康に注意をして下さい。君らのような娘を遺してくれたお母さんに改めて感謝を込めてお礼を言います。
できの悪い父親で随分と手のかかる老人だけれど、勘弁して下さい。
スズキ(仮名:私の中学からの親友)さんのメール拝見しました。「そうか余所の人にはわれわれ夫婦はそんな目で見られていたのか」それもこれも、お母さんの人徳のなせるところ。偉かったなあ、お母さん、本当にありがとう。そして●●と■■お疲れ様でした。ありがとう。
C家(オットの実家)にはこれまでの▲▲君の八面六臂の大活躍に感謝とともに、彼を育てて下さったご両親に心からの感謝を申し上げました。
どうか、これからは申すこし離れた距離から見ていて、肩の荷を少しでも軽くして下さい。
本当にありがとう……
2009年5月1日 できの悪い父より
妹と二人で父に電話して「お礼もお詫びも、これで打ち止めにしよう。みんなそれぞれに十分頑張った。これからは、3人でお互いの人生と生活を見つめよう」と話す。言葉にすると、なんだか薄っぺらい。ほんとうはもっとさびしくて悲しいのに。それでも素直に、心から「お父さんが心配だ。体に気をつけて、長生きしてほしい」と言えるようになった私たちは、気持ちが安らか。お母さんのおかげだ。
今日からは、お母さんは、耳が聞こえないことや、目が見えないこと、平衡感覚がないことや、記憶・認知能力のことを気にすることなく、ゆっくりお父さんと話合える。ずっと望んでいて、ついにかなわなかった願い。お父さんとお母さんだけで、穏やかに、静かに、家で暮らせる生活。
妹と私は、25年にわたる母の健康と命の心配、10年にわたるコミュニケーション機能の障害による葛藤、2年にわたる認知・身体能力の衰退による心身・相互のストレス、そしてこの数か月における「寿命」の焦燥と悔悛、罪滅ぼしの献身。母を看取り、今日の野辺送りを無事に見届けたことで、それらすべてから一気に放免されたことで、途方に暮れ、虚脱・放心状態にある。
”精進落とし”のつもりで、今日は近所の蕎麦懐石へ食事をしに出かけたけれど、みな無言がち。ただ、ビールを味わい、ふかぶかとため息をついて。
おかあさんを偲びながら、乾杯する。みんなの心にもお母さんがいるだろう。
おかえりなさい、お母さん。おつかれさまでした。
おつかれさま、お父さん。無理をせずに。
ありがとう。こどもたち、オット。これから恩返し。
よくがんばった、妹。キミを身内ながら誇りに思う。
かなしいほど快晴の連休に、それぞれ少しからだと心を休めよう。
寂しかったらごはんを一緒にたべ、話そう。
あとのことは、これからゆっくりと、少しずつ考えよう。
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