« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月31日 (日)

悪い癖

逸る気持ちと、食っていくことの重圧との間で揺れる思いに飲みこまれそうになってしまったけれど、よくよく話し合って、よくよく自分を省みて、やっぱり簡単に弱音を吐いてはいけないと思いなおした。

リスクは百も承知、「できない」理由や事情をあげつらえば、いくらでも列挙できる。それでも前を見て歩いていくにはこれしかない、と覚悟を決めて踏み出した道。

年齢が行ってからの転機を決行しようと思えば、20代の倍量の労力と工夫が要る。扶養家族がいて、職業をもち、多くの社会的関係のなかで生きていればこそ。

私が針路を転換をするとき、一緒に生きる家族もまた新しい選択や、気持ちも切り替えを余儀なくされるのだから、動揺するのは当たり前だった。

ただ「しばらく大変だけど、後悔はさせないよ」という一言を言ってあげるべきだった。

自分のムードと同調できないことをもって、クサクサするべきではなかった。激しく反省。

私の悪い癖。

有言実行。不断の努力をする覚悟さえあれば、結果はついてくる。はず。

でも、やりかたはかなり工夫しないと。少しずつ現実路線で軌道修正しつつ、本来目指すべきところを見失わないように。てっとり早いアプローチに逃げて、本末転倒にならないように。

人のせいにせず、環境のせいにしない。そういう私のいちばん悪い癖も捨てることを決めたのだから、ぐだぐだ言うのはなしに。戒めも込めて、前のエントリは残しておく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

食っていく私。

結局のところ、私に選択の自由はない。

扶養家族がいて、守らねば生活があって。社会的・道義的責任は果たさなければならず。

空気が冷え、会話がささくれだち、大黒柱としてこの生活を選んできたことの重みを、いやでも思い出させられる。

私に「リセット」はない。

食っていかなければ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

「月命日」

ちょうど暦で1か月前の今日、母が死んだ。今日は月命日だ。

妹と一緒に実家に父を見舞う。私は10日ぶりの訪問。

電話とメールではやりとりしてきたけれど、顔を見て、あまりの痩せ方に思わず驚く。「やつれた」とはこのことだ、と思う。

肩を落とし、力なくうなだれ、声に張りはないものの、ともかくも涙があふれて話せない、というほどの激しい悲嘆ぶりではなかったし、IHクッカーを入れ、訪問看護士やヘルパーも受け入れ、巡回図書館の手配も一応自分でしているから、日常はなんとか乗り切っているみたいだ。

でも、目はうつろだし、反応も鈍い。思考ははっきりしているけれど、話の繰り返しや物忘れはある。体重が5キロ近く落ちたとのことだ。

あれほど押しかけた供花やお悔やみ・慰めの電話もひと段落して、今度こそ本当に静かな独居生活が始まったのだと思う。虚弱のためにADLが落ちているとはいえ、父はまだ66歳、世間的には「アクティブシニア」とかいってもてはやされているはずの世代。

時間と経済力はあるけれど、いまや意欲と希望、そして母がいない。

今の父には、ムスメの私たちですら無力だ。父はいま、永遠にかたわれを失った夫婦の生き残りとして、やっと「ほんとうの夫婦」として、この悲しみに一人で耐えなければならず、私たちはもう傍観者でしかない。

とある大学院の公開授業に参加した際、死生学のテキストとして採用されていた書籍(愛する人の死、そして癒されるまで―妻に先立たれた心理学者の“悲嘆”と“癒し”:相川充著)を購入して持参する。

多くの関連分野の本を読んだなかでは、この本が一番私の気持ちにはなじんだし、信頼と共感をもつことができた。悲嘆反応と回復のプロセスが科学的態度でとらえられているだけでなく、その「事実」が、家族を失った人にしかわからない、どうしようもない悲しみ苦しみの感情に裏打ちされているから。

カウンセリングなど受けなくてもいいけれど、父には少しでも「この辛さが永遠に続くわけではない」ということを、幽かな希望として予期してもらえたら、と思う。早く立ち直れ、ということではなく、早くなくても、この地獄は永遠に続くものではない(いま自分がどの段階にいるか、の認識も含めて)ということを、わずかでも感じてさえもらえたら…。

「まだ1か月」という思いと「もう1か月」がないまぜになって、5月27日は過ぎゆく。妹は、時々フラッシュバックする母の言動やできごとで突然むせび泣いたりしていた。

できることは、精一杯やったんだ。最善ではなかったかもしれないが、自分たちのできる範囲でのことは、やったんだ。そんな風に胸はまだ晴れないけれど、自責と後悔の念で潰れそうになるような、ひどい苦しみは、私の中でも少しずつ乾いてはきている。

ただ、心理的に時間をおいて眺められるようになってきたからこそ、終末期(自己認識能力を失いかけていたころ)の母の心中を思うと、どうしようもなく、やりきれず、哀しい。

このわけのわからない不調はどんなに不安だっただろう。この理不尽さは、どんなに無念だったことだろう。お母さん、ほんとうにかわいそうだったと、今になって改めて思う。辛かっただろう。怖かっただろう。

「さようなら、みんな元気でね」

「こんなふうになる前に、あなたにはたくさん話したいことがあったのよ」

「ごめんなさいね。みんなにもよろしく伝えて。小さいひとたちに”ごめんなさい”って伝えて。いままでありがとう。」

「私ね、帰るところがなくて一人でしょう?あの子(妹)も一人でしょう?だから一緒に暮らしたらどうかな、って思うのよ。どう思う?」

「どんどん(自分が)だめになっていくのよねぇ。どうなってしまうのかしら。教えて?」

「私にはどこにも帰るところがない。どこへ行ったらいいのかしら。教えて?」

「私をおかしくしないで」

そこにないものが見え、聞こえるはずのない話や音が聞こえ、家族の顔も感触もわからなくなって怯え暴れた母の顔。

もはやしゃべることも、起き上がることもできなくなったベッドの上で、泣き伏す妹や私の頭を撫でてくれた母の掌。

「いいのよ」「しょうがない」「あなたのせいじゃない」「大丈夫よ」…。

たくさんの言葉と声が、今になって甦るのがさびしい。寂しいなぁ。寂しい。

これから何度も、「もう」と「まだ」を確認しながら、少しずつ心の中に母を葬っていくのだろうが、それはとても苦しいことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月25日 (月)

王様の耳はロバの耳

個人的な恨み事を書くのは美しくないとはわかっているし、迷ったのだけれど、持って行き場のない思いが鎌首をもたげてくるので、放置しておくと心の中で膿みそうで厭だ。だから、ここで「口に出して」、忘れたい。王様の耳はロバの耳。

中学(正確には小学校)からの、私たち夫婦の先輩=ほぼ兄貴のような存在の男性が、先日ついに独身生活にピリオドを打った。十代の多感で自意識の強すぎる時代を一緒に過ごしたことで、たまに会うけれど、かけがえのない友達(兄貴)のような存在。豪胆なようでいて、実に繊細な人柄が禍したのか(幸いしたのか)、42歳になるまで「独身主義」を貫いてきたのだけれど、ついに、年貢の納め時ということで、7歳年下の同僚女性と結婚した。なかなか結婚の意志を明らかにしない彼に業を煮やした「彼女」の身の上相談に乗ったり、「彼」の背中を押したりするなかでの、長い春の終わり。

偶然にも、私の母の終末期と、彼らの結婚式が時期的に重なってしまったために、手放しでお祝してあげることができず(おめでたい知らせにも沈みがちのレスポンスになってしまって)申し訳なく思ってはいた。それでも、話がまとまったのは私たち夫婦の貢献があったから、ということで「彼女」からは深い謝意を受けていた。「幸せに」と、心から思ってた。

でも、母が亡くなって2週間しか経っていなかったから、挙式関連の出席も辞退させていただき、祝電だけで失礼して、遠くから門出を祝うことにさせてもらった。とてもじゃないけど、大勢の前で、笑顔で、「おめでとう!」とはじける心境などになかったから。祝電も、極めてシンプルに。

「ご結婚おめでとうございます。病める時も、健やかなる時も、お互いを必要として末長く歩まれんことを。遠くから、心から、お二人の幸せをお祈りします。(家族4人連名)」

その彼女から、祝電のお礼メールが届いた。

お礼が遅くなりごめんなさい!Aくん(オット)、Bちゃん(私)、電報をどうもありがとうheart5/xxに無事挙式終わりました。感激感動の挙式でしたshineいやーいいものだねー。あんなに幸せな気分は人生初でした 二人とも想像しえなかった幸せ気分で、ほんわかしました。でも私は月曜日から昨日まで出張でボロボロhappy02また写真見せに行くね!落ち着いたら連絡くださいね!今週のパーティーが終わればこちらもやっと落ち着くからnotes

思わず、オットに「どう思う?」メールを投げてしまった。狭量な人間にはなりたくないし、人生の幸せの絶頂にあるのだから、神経をとがらすようなことはしたくないのに、心がささくれだつ。「ありがとう、そのうちにね」だけでいいじゃないか。と思って胸がざらつく。オットは「よほどうれしかったんだよ。そう思ってあげようよ」と私をなだめ慰める。御意です。

それでも、幼稚なようだけど、せめてちょっとだけの配慮がほしかった。祝う気持ちは十分あったし、幸せに水をさしたくなかったから、遠慮してきたのに。残念だよ。いつか私も、こんなこと忘れて「そんなこともあったね」くらいに心穏やかに受け入れられるのかしら。ぜひそうあってほしい。いつまでも、引きずりたくない。

それでも、少しは楽になった。王様の耳はロバの耳。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

グリーフ・ワーク(喪の仕事)

4度目の月曜日。まだ一か月も経っていないのに、何か月、何年も時間が経ったみたいだ。

この1か月は、近隣や子どもつながりの仲良し家族とも、極力接触を避けて「ひきこもる」ことで乗り切ってきた。家にいても、オットや妹と話をしても、もう泣くことはない。時々、ほんとに時々だけど、感情の潮が上がってきて、言葉に詰まったり、目が潤むことはあるけれど、日常生活に支障が出るほどではない。

当たり障りのない近所づきあいをしている程度の人なら、笑顔で挨拶もできるし、あっさりとした世間話もできる。大丈夫。詳しい当方事情を知らない保護者同士なら、小学校でも保育園でもふつうに話せる。感情移入をせずに、ことのあらすじを話すくらいならできるようにもなってきた。そういう時は、なぜか他人事のように淡々と筋を話せるから不思議だ。

私の悲嘆は消えたのではなくて、いま、別のことにそのエネルギーを転化しているから、苦しくはなくなっている。むしろ、これまでいろいろなことを言い訳にして先延ばししてきたり、実現させる努力を怠ってきた課題に、正面から取り組む原動力として効いているようだ。あまりに大きな悲しみ、あまりに大きな出来事を、このまま鎮まるまで漫然と待っているのはいやだ。「なりゆきにまかせて」なんて消極的な処し方はいやだ。何事もなかったかのように「もと」に戻っていくなっていやだ。

母の死を、自分なりに消化して意味付けしなければ前に進めない気がした。

人は「元気を出して」「時間が解決してくれる」「死別とはそういうもの」と、軽く言ってくれるけれど(そしてそれは気持としてはとても有り難いことだけれど)、母が死に至るまでに辿った道のりを思うとき、それを悼むだけでは、時間はいくらあってもたりないと思った。

母の、家族の、私のこの人生はそれとして受容せざるを得ないとしても、得難い思いをしてきた事実や経験(多分に痛みを含むが)を実りあるものにしようと努めなければ前に進めない。この苦しみには意味がある。この悲しみには理由がある。と、思いたい。

私は信仰を持たないから、「おおいなるものの意思」としての苦難に意味を見出すことができないけれど、たった一度きりの自分の人生(家族との人生)に起きたできごとに対して、どのように受けとめ、向き合っていくかが、自分が人生の意味を決める唯一の手がかりだと思っている。母の娘に生まれ、一時期を一緒に生きたことの意味も含めて。

私は、こういうふうに悲嘆を人生の転換点にしようと試みること(これまで半ばあきらめてきたことに「本気で」挑むこと)でしか、「喪の仕事」をやり遂げることができない。

父は、グリーフケア(カウンセリング)を受けてみようという私の誘いを頑なに拒んだ。心理臨床について根深い批判と猜疑の念があるようだ。「どんなに時間がかかっても、自力で精神を再建してみせる。新しい暮らしを固めてみせる。後追いするようなまねは絶対にしない」と断言しているから、これ以上は無理強いできないけれど、油断は禁物だ。

それでも、キッチンにIHを導入し、週に1回の訪問看護を受け入れ、移動用のシニアカー(移動に伴う心臓への負担を軽減するため)の手配など、少しずつ環境整備に眼を向け始めているようだから、父なりのペースで「これから」を考えようとはしている気はする。

妹は、仕事に戻りながらも、まだ1日おき・時間短縮の勤務のまま。数日に一度、父を訪ね、話をしながらともに涙を流したり、実家の整理整頓をしたりしているらしい。「父の心配をすること」「父の悲しみに寄り添うこと」が、妹の「喪の仕事」なのだろうと思う。

私自身は、先週、大学院に入ることをオットと話合って了解をとりつけ、父や妹に話をし、既存の仕事の整理・集約と、これからどのように仕事と研究を両立させていくか(その前に院試にパスすることも含め)、子どもたちの成長段階の想定も含めて算段をした。学費には、母の遺産の一部を充てることにした。

「もし、これはやっておきたかった、と思うことがあるなら、できるうちにやってほしい。あとで後悔しないように。もし途中で挫折することがあっても、やれることはやった、と思えるように」「私や家のせいで、あなたが自分の夢やプランを果たせなかった、というようなことがもしあったなら、私は悲しいの。やり残したことがあるなら、ぜひやって」という、元気なときの母の言葉が甦る。

母のことも、子どものことも、いろんな事情も、結局は「やらない」理由でしかなかったわけで。人間その気になれば「やってやれないことはない」と、妙な自信を持って断言できる。そして、いろんな困難や障害があったとしても、今の自分なら、へこたれることなく突破できるのではないか、という確信も。

いま、私は毎朝の母へのコーヒーのお供えをも、忘れてしまうことがある。つい最近まで、小さなフォトフレームを持ち歩かないと外出できなかったのに、先週、院試説明会に出かけた時は、うっかり忘れてしまった。

「ごめんね」と心の中で手を合わせながらも、自分が、今まで感じたことのない何かに突き動かされて、院試と、その先の資格試験と、最終的に到達したいところまでを構想することに集中している。どこかで「どうせ無理だけど」と諦めのエクスキューズをちらつかせてきた過去の自分からすると、考えられないことではあるけれど、このエネルギーが、一時的な副反応でないという確証もない。だから、少し遠回りすることになっても、自分がその高度専門職にふさわしいかどうかの検証をしながら、準備をしようと思っている。

私がやろうとしていることは、自分が救われたいから就くような安楽な仕事ではなく、もっと厳しい研鑽と科学的態度が求められるものだから。自分の悲しみをいやすための場であってはならないと思うから。自分が癒され、救われるのは、目標を達成するためにどれだけ努力できたか、という姿勢においてだけでよい。本質は、私と言う個人のバックグラウンドにかかわりなく、高度専門職としての技能と使命が果たせるか、ということに尽きる。

仕事を集約し、研究準備に力を入れることで、家計の減収は避けられないだろう。その点もオットと相談のうえ、対応策を講じ始めている。これも意外なことだが、相当な覚悟が必要と思われた「倹約」「緊縮財政」だけれど、具体的な目標とその意味が家族で共有できてしまうと、まったく苦にならないことを知った。4歳と7歳の小さなこどもたちですら、だ。

自家用車を手放し、さまざまな経費・出費を束ねて圧縮し(本代だけは限度があるが)、時間を大切に使う(メリハリをつけ、時間に追われるような暮し方をしない)だけで、収入が半減してもやりくりできる目処が立っている。

人は、きっかけさえあれば何歳からでも変われる、と言う。本当に変われるのかどうか、わからないけれど、「きっかけ」が人生観を変えることができるかどうかは重要だと思う。少なくとも、変わるのは今、というエネルギーの強さは悲しみの深さに比例しているように感じる。勢いをなくすと、精神まで死んでしまいそうだから。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月18日 (月)

口唇ヘルペスと円形脱毛症

「三七日」。

月曜日が来るたびに、「ああ、もう●回目の月曜日か」と思う。

「もう」なのか、「まだ」なのか、よくわからないけど、時間は確実に過ぎる。父にも、妹にも、私にも、みんなにも平等に時間は過ぎる。

私のなかからは、湿り気のある痛みはずいぶん失われて、乾いた悲しさが増している。陽気がよいほど。まわりが普通で、活気にあふれているほど、カサカサと悲しい。

妹も仕事を再開して、ふだんは普通の顔をして過ごしているようだけれど、週末に夕食に呼んだら、ときどきケータイに残った母の写真を眺めていた。妹の痛手はまだ深い。

父にいたっては、悲嘆による抑うつ状態がひどく、妹と私の見立てからすると「対象喪失による一時的な反応としての悲嘆」とは思えない様相を呈している。これが病的悲嘆の初期かもしれない、と考えるとあまり楽観視して機を逸するのもまずい。真性のうつに移行する前に適切な初動対応をしないと、と話す。父の生傷はまだばっくりと開いているだけでなく、日ごとに増悪しているようにも見える。心配。

ホスピスのMSWから紹介されたグリーフケアの手だてを講じなくては。

なんて思っていたら、「持病」の口唇ヘルペスの特大最悪なやつが、みるみるうちに育って大きな水泡になってしまった。見るのもおぞましい立派なやつ。下唇が変形して醜い。

GWからこちら、実はずっと体調がすぐれなかった。

体の節々が痛くて、なんともいえないような、厭な感じの全身倦怠感があり。「これももしかして、死別後の悲嘆症状のひとつ?一時的抑うつ状態の一反応?」と思ってもみたが、あまり深く考えずに放置しておいた。

しかし治らない。昔はこうした症状は高熱が出る予兆だったのに、最近は熱すらちゃんと出ない。微熱がだらだらと続く。自覚症状としては、体が鉛のように重くて、筋肉も間接もこわばってきしむような感じ。それが長引く。「年のせいか」と思っていたけれど、これぞまさに「ヘルペスウィルス」の悪さだったみたい。

口唇ヘルペスは、母から垂直感染でもらいうけているので、物心ついた頃からのつきあいだ。小学生時には「あ、そろそろ来るな」という予兆がわかっていたから。娘にも垂直感染で授けてしまったし。

だからヘルペスとのつきあいはよく心得ているものと過信していた。疲れたり、ホルモンバランスの問題で、免疫が低下している時にでる「黄色信号」として、体調のバロメータにしてきたつもりだった。少し休養をとって薬を塗れば、たいていはそのままなりをひそめてくれるものだったのに、最近は、先のような全身症状がだらしなく続き、治りも悪い。悪化しやすい。加齢に加えて、ストレスもやっぱり関係するんだろうな。

GWから、連続して唇に3か所できて、やっと治ったと思ったのに、比べ物にならないくらいのものだった。体がだるいのも、やっぱりそのせいみたいだ。ずっとからだにため込んだ疲れを毒だししていると思えばいいのかもしれないけれど、体が躓くと気持ちも挫ける。

頭頂部にも、これまた長いつきあいの円形脱毛症が2つできた。

私の頭皮は固く、血行もよくないらしくて、毛根がストレスの影響を受けやすいのだとか。「円脱」も、中学生のころからちょくちょく(周囲にはわかっていなかったみたいだけど)できたから、長い付き合い。だいたい、ストレスの渦中にある時ではなくて、一過の段階で抜けてしまうみたいだ。

気持ちが乾いている、と思っているぶん体に出るのかな。いやだな。

気持ちは、長らく中断せざるをえなかった大学院へ向けようというくらいになってきているのだけれど、これもどこかで自分を偽っているのかしら。

とにかく体調の赴くままに、もうしばらく流れに身をゆだねていたいけど。

しかし、円脱と唇の変形とは、気持も凹む。

これも回復へ向き直ったポジティブな(?)心身症のひとつであってほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (5)

2009年5月14日 (木)

ともに泣くことで

ムスメの個人面談があった。当方事情を知っている保護者たちに会いたくなくて(会ったら気持ちが挫けそうで)、悪いことでもしたみたいにコソコソ人目を忍んで裏門から学校へ。

公立小学校の個人面談は一人たったの15分。15分で何を話す?というくらい、かなりダイジェストしてやっとまとまる程度の時間。新学期(学年)になってからずっと、私の心身の重心が母の看取りに置かれていたので、ムスメにはかなり負荷をかけていることは覚悟していた。しかし、「終わり」が見えていることなので、心の中で手を合わせつつ、あとで埋め合わせをするつもりで、あえて眼をむけずにきた。

ムスメは、気の毒なくらい、こういう事態に際して弁えてしまう人だから、本当はいろんな思いで胸がいっぱいだったろうに、家庭にはそうした不安や葛藤、苛立ちなどは極力持ち込まないようにしていたと思う。家ではほとんど心配させるような言動はなかったから。

でも、一度だけ、母が他界する直前に「今日、学校でババが心配でどうしようもなくなって泣いちゃったんだ」と、半分テレながら、ぼそりと言ったことがあった。オットも私も、「そうか…。で、どうしたの?」と尋ねると、先生(産休の代任として今年だけムスメのクラスを受け持った新任の代理教員)が、”いまここで泣いてもおばあさんは喜びませんよ。あなたがこらえて、心の中でおばあさんを応援したり、お母さんを励まさなくてはね”と諭したとのこと。内心、「ちょっと荷が重い要求では?」とは思ったけれど、それ以上娘も言わなかったので敢えて追究しなかった。きっと、ふと不安になってさめざめと泣いたのだろう、と思い。

それが、今日の面談では、「1時間近く、かなり激しくしゃくりあげた」ということを聞いて、正直驚いた。そして、本当にムスメに申し訳なく思った。小さな胸に収めきれなくなった不安や恐怖が、堤防が決壊でもしたみたいにあふれ出してしまったんだろう、と。そして、最終的には、「あなたがしっかりしなければ」という言葉の意味を理解せざるをえず、涙と言葉を飲み込んで毅然と帰宅し、ちょっとエピソードの片鱗だけを見せて終りにしたんだろう。

健気で、不憫で、申し訳ない。

母の最期の日。臨終の知らせを持ってムスメを迎えに行った父を待つ間、ムスメはまた担任の先生に「おばあさんが亡くなりました」という呼び出しを受けて、一人帰り支度をしたそうだ。「病院に着くまで泣いてはいけませんよ」という先生の指示に従って、ムスメは表情を固くしたまま病室に入ってきた(そうした経緯も、今日、知った)。

それから20日間。葬送を終え、GWを過ごし、少しずつ平静を取り戻してきたかに思える暮らしのなかで大切なことを忘れていた。ここ半年に我が家に起こった、一連のことに対するこどもたちの内面のケアを、きちんとしていなかった。もろもろの対処事項、自分の悲しさ、父や妹への心配といったことに気をとられていた。

よく考えてみると、母の病と死について子どもたちときちんと語り合ったことはなかったし、涙が枯れてきたことで敢えて「死」には触れようとしなくなっていた気がする。なかったことにしたくない気持ちは本当なのだが、子どもたちを「悲しさ」に引き込んだままにしたくない。一日も早くいつもどおりの生活に戻してやりたい一心だったとも思う。子どもの気持ちはきっと置いてきぼりだった。

今日の個人面談の開始時間を待つ間、教室の廊下に張り出されたムスメの絵を見て、それを知る。「新学年での楽しいできごと」を描く絵日記風の自由課題を見て固まった。クラスメートが、新入生との交流や、新しい教室・席順の感想や、運動会への抱負などを、春らしく色彩豊かに描き込んでいるのにも関わらず、ムスメの絵は、鉛筆1色の線画のみ。「(初めて入った)理科室の骸骨の標本が怖くて、トイレにいけなくなる」というようなことが書き添えてある。

気持ちが空寒くなるような、殺風景な絵。あれほど絵が好き、色が好き、手紙や作文が好きな子が、と目を疑うような殺伐とした絵。たとえは変だが、「心を病んだ児童の描く典型的な絵」としてよく例示されるような。

重ねて掲示されたその他の絵もめくってみる。数枚下にあった別の作品は、またも鉛筆のみ。それでもまだ、ドレッシーな女の子が数名、手の込んだ筆致で描かれていたけれど、せっかく描き込んだその上から、紙が破けるのではないかというくらいの筆圧で、乱雑に塗りつぶしてある。

少し前のムスメの、胸がつぶれるような、叫びのような苦しい思いが生々しくそこにある。

「私、自分のことで精いっぱいで、何にも考えてあげていなかった」と、ショックだった。自分の辛い気持ち、悲嘆の感情は、妹はもちろん、ふだんの夜も、子どもたちが寝静まってからオットに吐露し、泣いてきたから、抱え込まなくて済んできたところがある。

でも、ムスメ(もムスコも)は、嘆き悲しむ大人を前に、自分のなかで消化しきれないくらいの、人生で初めての死別の衝撃や重みをひとりで抱え込んでしまったままだったわけで。やっと泣かなくなった大人たちに、今さら自分のなかの重苦しい気持を打ち明けることもできず(明確に認識もできていなかったかもしれないけれど)、かといって「泣くな」と言われて抑え込んできたさまざまな感情の処理もできず。泣くことすらできていなかったはず。

ここ数日、子どもたちは、それぞれのやりかたで、自分のなかの不安や緊張を解消しようとしているようにみえる。やたらとはしゃいだり、すねたり、喧嘩したり。赤ちゃん帰りがあるかと思えば、大人びた訳知り顔をしてみたり。要するにふつうじゃなかった。その理由もわかった気がする。

生きるということ、失うということの生々しい現実やあらゆる葛藤の局面に、たった7歳の子が、つぶさに触れざるを得なかったというのに。そうやって、キャパシティ以上の膨大なできごとに接してきたというのに。感じるだけ感じて、立ち会うだけ立ち会って、受けとめかねるほどのさまざまなものごとを飲みこまされてきたのに、消化も排泄もさせてあげていなかった。もうパンク寸前だったのだろう。

就寝時、ベッドで水を向けると、ムスメは「いまこんなこと言ったら、またお母さんがかなしくなるかもしれないけど、ババに会いたい」と言って泣きだした。そして、「会えなくなるってわかっていたのに、もっと優しくしてあげればよかった。もっと会いに行って、たくさんお話すればよかった。ちょっと”怖い””気持ち悪い”って思っちゃってごめんなさい」と言って泣き出した。ムスコも、珍しくムスメのベッドに一緒に寝たがった。

子どもたちの名誉のために書いておくけれど、こどもたちは、面妖ともいえるほど面変わりしてしまい、呂律がまわらなくなってしまった母に脅えながらも、決して拒絶はしなかったし、小さな手で母の手を握って喜ばせてくれていた。大人でも複雑な心境になるほどの母の病態にも、臆することなく触れあってくれていた。私は、幼い子供たちの思いやりに敬意を感じたのだから、こどもたちが後ろめたく思う必要はまったくない。

母は「小さいひとたち」を心から(控え目ながら)愛していたし、会いに来てくれることを喜んでいたし、誇りにもしていたと思う。そういう母の思いと、私自身のこどもたちへの感謝を、母の死後初めて伝えた。娘も、母の死後はじめて躊躇することなくおお泣きした。ムスコは、ムスメほど情緒は成熟していないが、泣きじゃくる頭を撫でていた。優しい子たち。

母がこどもたちに贈った小さなぬいぐるみを抱きしめて、ムスメは泣き続ける。よく見ると、ムスコも目をパチパチしばたかせている。彼も泣いている。

涙が枯れたと思っていた私も、独りで泣くのとは少しちがう涙が出た。こどもに誘発されて、一緒に泣くのは、どこかで温かい感じがする。こんなに小さい子どもでも、幼く拙いながらに悔恨や自責の念をもっていて、心から泣くんだと思うと、人間の情は深いと思う。また、ともに泣くことで、大人のなかにある悔いや責めを一緒に灌いでくれるのだなと思った

2人のこどもたちのおでこを撫で、背中をさすっているうちに、2人ともコテンと寝た。これがほんとの泣き寝入りか。

オットにもこのことを伝え、これからは、こうして時折、水を向けて気持ちを分け合うことの必要性を話す。そして、まわりの子に比べて「こどもらしい屈託のない日々」を奪ってしまっているかもしれないことを再認識したうえで、これからは、意識的に「何の心配も不安もないなかで、思いっきりエネルギーを発散できるくらい、クタクタになるくらい遊ばせてあげる」ことを心がけよう、と話す。

子どもが子どもとして在ることに勝る幸せはない。母も常々言っていたことだ。どれほど物わかりがよく、弁えのあるこどもであっても、「遊びに没頭することを許されない子どもは不幸」だから。大人の心中を察し、自分の欲求を飲み込むのは、もう終わりにしてやりたい。

いままでありがとうね。そして、ごめんね。これからは「子孝行」しますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

取り返しがつかないのは

「二七日」が過ぎた。

宗教色を排して弔いを、という私たち家族の願いからすると、こうしたことにならうのは矛盾しているのだろうけれど、大切な人を失った悲しみからの距離を、過ごした時間をカウントすることで測るのは、とても合理的なことのように感じることがある。

その一方で、時間が過ぎるとともに、周囲の人が「ふだんどおり」に戻っていくことに気持ちが追い付かず、戸惑うことも増えていく。

40歳にもなる大人、自分の家庭をもち、独立した人生をもっている大人が、「老親」を見送ることはいってみれば当たり前のことで、いっときは悲しいだろうけれど、いつまでもそれを引きずっているわけにもいかないだろう。いいところで気持を切り替えて、大人として、親として、社会人としての務めに戻るべきだろう。そういう周囲の雰囲気も感じる頃だ。

私は、家族を失った悲しさは、ひとそれぞれ違うものだろうし、死に至る経緯や、歩んできた人生によって、客観的に死の軽重を測定できるものだとは思わないけれど、家族を失った当事者にしかわかりえない苦しみは、やはり厳然としてあって、他の誰にも理解してはもらえないものだと思っている。というよりも、わが身に降りかかってそれを知った。

今際に私たち家族が接したさまざまなことは、出来事をそのまま言葉でなぞって誰かに伝えれば「神秘主義」的な表現にしかなりえない。話せば話すほど、薄っぺらく、陳腐で、嘘っぽくなっていくようで。また、どれほど言葉を尽くしても、家族それぞれが母の死に際して体験したことや、母の死後に私たち家族におこった変化を表すことはできないから、結局、父と妹、オット(子どもたちはまだ小さすぎるけれど)と、沈黙のうちに、ただ事実は事実として共有しておくしかない状態だ。

人が一人この世からいなくなるということは、大変な苦しみなんだということを、この年になるまで知らなかった。

世間では、「もうそろそろいいだろう」と、なんとなく暗黙知として了解されている追悼の時間というのがあるけれど、それは、社会生活を運営していく上で便宜上設けられているものであって、遺された者が「泣き暮らすことを離れるのに十分な時間」とは別物なんだということを、いまさら思い知らされている。

涙も出ない、と思っていたけれど、時間が経つほど悲しさは増してくる。

父は、母とひきかえに「正気」を取り戻した代わりに、「正気」を失っていたこの数年間に、自分が精神の安定を保つために、無意識に、自己防衛的に母を拒み退けてきたことの事実を次々に思い出しては、自分自身を責め苛んで泣く。

妹は、母に捧げた時間の長さと、母との葛藤の深さを今も悔やんで、かなしんでいる。父に対する失望や怒りを私と共有してきたことへの反省と悔恨にも苦しんでいる。今日から仕事を少しずつ再開したのだけれど、きっと心ここにあらず、の状態だろう。

私も、悲嘆を通り越して自責に苦しむ父の姿を見て、今さら苦しい。あれほど「猛省」を促そうと鼻息が荒かったくせに、一人遺されて、取り返しがつかない、と母に嘆き謝る父を見るのが辛い。父の責苦は、私が課したようなものだから。

涙もかれたと思っていたのに、連休があけて、世の中が動き出し、「もうそろそろいいだろう」というムードを家族以外の周囲から感じ取るようになって、初めて封印していた自分の感情が動き出す。

結局のところ、私は、母が死んでしまったことだけを悲しんでいるのではなくて、余命の少なかったはずの母、さまざまな機能が失われるなかで大変な不安と恐怖を抱えていたはずの母の思いにじっくり耳を傾けるまえに、「みんなの事情」を調整しようといい気になって、母に事情を飲んでもらう舵取りをしつづけてきたことを悔いている。どうしようもなく後悔している。

お母さんは、あんなにも私を信じて、頼って、「あなたが判断したことだったら従うヮ」と言ってくれていたのに、結局私は「みんなのために、これしかないの。ごめんね、お母さん」と、母ひとりに帳尻あわせを押しつけた。「ごめんね」というのは、便利な言葉だ。良心の呵責が軽くなったような気にさせてくれるだけで、実際には、何一つ自分を変えるつもりのない時に使える言葉。私は、父に何度も「ごめん、っていうだけで、自分を変えないんだね」と責めたけれども、自分も結局同じだった。

母が末期癌で余命3か月もない、と言われた時も「告知はしない」と勝手に決めた。家族はみんな同意したけれど、リードしたのは私だ。今も、告知しなかったことの正否は正直わからないままだけれど、それでも、母には、自分の人生の行方を知る権利があったのではないか。それを、家族だからというだけで、真実を隠して、終わらせる権利が私にはあったのか。わからない。本当の母なら、自分の人生を最後まで自分でまっとうしたかったのではないか。

結局、肝腎なことは、何一つ、事実をゆがめることなく母に提供されることがなかったことになる。私の「配慮」という名の歪曲によって、母は、真実を知った上で、自分で決める機会を失ってしまった。

家族で本当に一緒に暮らせないのか、ということ。施設に入るしか方法がないのか、ということ。自分の病状の精確な把握。どのように死を迎えたいか、という選択。

そのすべてにおいて、私もまた、母を無力な障がい者として「庇護」の名のもとに、最後まで一人の人間として尊重することなく扱ってしまったのだと、今は思う。私は本当にいい気になっていた。悔やんでも、悔やみきれない。

取り返しがつかない思いにとらわれて苦しんでいるのは、父や妹だけじゃない。私こそ、母の人生を自分勝手に操作してしまった。そしてそのまま、母を逝かせてしまった。

私たち家族の看取りを見守ってくださった方々は、口々に「幸せな最期ですよ」と言ってくださる。けれども、それは、決して母にとってではない。周りでみとった私たち家族にとっては「できる限りのことはした」という自己満足にはなるかもしれないし、周囲から見守った方には美しく映るかもしれないが、母にとっての「満足ゆく死」ではないと思う。

そのことが、心から悔やまれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

涙も出ない

「初七日」の翌日から、ずっと雨だ。

母にまつわるこの数年の記憶のなかで、雨の中で何か行ったことはほとんどなかった。

歩行に不自由が出始め、杖や歩行介助、車椅子で移動をするようになってからも、足もとが悪い中を四苦八苦した記憶がほとんどない(私との移動は限定的だけど)。

母は晴れ女だったみたいだ。いなくなったら雨ばかりだ。

母を見送って、「初七日」が過ぎて、雨はたくさん降っているけれど、私はもう涙が出ない。

リビングの一等席に、母の写真を飾り、花とお菓子を供える。朝はコーヒー。夜はワインかビールを少し。日中は水やお茶。都度、「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「おやすみ」などと心の中で声をかける。

肌身離さず持ち歩く写真に、何度となく手をもっていき、確認しては安心する。そうすれば、なんとかふつうの顔をして生活できる。

ムスメは、祖父母宅に泊ったとき「おかあさんは、いっつも一人で隠れて泣いている」と言ったそうだ。ムスコは「ババは、骨になって、つぼに入った」と言っているそうだ。ムスメは夜尿が頻発している。ムスコも喘息が出ている。こどもたちも闘っているのだから、私も悲しい思いに引きずられてばかりいるわけにいかなことはわかっているのだけど、明日から世の中が一斉に動き出すことを考えると、気持ちがすくむ。

涙も出ないし、母がいない現実の希薄感は日々増していくばかり。実家にいけば、ホームにいけば、病院にいけば、どこかに居てくれそうな錯覚をしそうなくらい。仕事も、いつまでも音沙汰なしでいるわけにいかない。どこかで再開の連絡をしなければいけない。でも、平気な顔をして「元通り」になれる自信は到底ない。でも、働かなきゃ。学校の個人面談もあるし、保育園の行事もある。こどものおけいこごとの付添もあるし、仕事の支払い関連の整理もしなければ…。「母が危篤で」「忌中で」という言い訳はもうきかない。

明日からの世の中の動きに、私は歩調を合わせられるだろうか。

涙と一緒に、何か違うものも枯れてしまったようで、怖い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

「初七日」

母が旅立ってから1週間経ってしまった。もう1週間。まだ1週間。

この7日間の間に、母を病理解剖へ送り届け、出迎え、野辺送りまでの4日間の「お泊り」の間に、葬送の手はずと、ホームの退去を完了させる。あれやこれやの対処で、気がつけばあっという間にいわゆる「初七日」を迎えた。

世はGWまっさかり。1日に荼毘に付して、身内で仕切るべき葬送の儀式はひと段落し、さびしさ本番、という感じの日々がやってきた。私も妹も、もう涙は枯れてしまって、その代りにどうしようもない虚脱感、喪失感にとらわれていた。父は今になって、お骨になった母を一人で家に連れ帰って、返事のない問いかけを繰り返す暮らしのなかで、はじめて現実を受け止めざるを得なくなっているもよう。

心配で、姉妹でかわるがわる実家を訪れるものの、私たちの顔を見るたびに涙があふれてしまうようで、父の嘆きはいま絶頂にあるみたいだ。これまでの、10年余に及ぶ「長い夢」から覚めて、「正気」に戻った父は、かつての愛妻家に戻ったわけだけれど、その分、浦島太郎みたいに「失われた10年」の大きさを認め、直視せざるをえなくなっていて、かなり厳しい状態にあると思う。苦しさ、虚しさも人一倍だろう。

ムスメとムスコは、かねてより所望されていたオットの実家(祖父母)へお泊りに。悲しいムードが横溢している家にいるよりも、屈託なく遊んでもらえるじじばばのもとへ行く方が、こどもたちのためにはいいはず。息子はやや不安げな顔をしていたけれど、電話がかかってこないところをみると、それなりになんとかやっているのかも。

2日間のこどもの不在は、思わぬ休養を私たちに与えてくれたものの、半強制的に気分を切り替えなければならない名目がなくなったおかげで、放心状態になってしまった。夫はめずらしく昼寝。私も11時すぎまで眠ってしまい何もやる気にならない。

2日はオットの畑にこどもたちを連れていき、農作業をさせてやる約束だったので同行したが、農作業に一心不乱に打ち込むことができて気は紛れたけれど、畑を吹きわたる風や葉摺れの音、日差しのあちこちが「もっとここにお母さんを連れてきてあげればよかった」という思いを刺激する。

3日は、LFJ(熱狂の日)のプログラムで唯一予約していたシュ・シャオメイのピアノ(ゴルトベルク協奏曲)を聞きに行った。2月の予約時では、まだGWの予定が見えていなかった。母は状態が悪くなっているかもしれないが、この世を旅立っているとは思っておらず。万が一コンサートになどいけない状態であっても、ひとに譲って惜しくないように、22時からのピアノリサイタル1本@2000円×2人分のみの予約にした。

しかし、ふたを開けてみれば、母は立つ鳥跡を濁さない、といった様でこの世を後にしており、ひとにチケット譲る心配もいらなくなっていた。

嘆き疲れ果てた心身で人ごみに出かけるのは勇気がいったが、シュ・シャオメイのバッハときけば、次はいつ聴けるかわからないし、いまはゴルトベルクのような音楽が聞きたかったから、余力を振り絞ってでかけた。

内容はすばらしく、万難排してて行ってよかった。静寂のなかで音が心に沁み渡り、そのまま薄闇の会場の座席に吸い込まれていくような、凛とした、気高い音楽だった。母の美しいすがたを切り抜いて名刺を2つ折りにしたサイズの皮の写真フレームに入れて持参し、掌のなかで母に「聞こえる?」といいながら、聞き入った。涙が出た。オットは寝てた。

去年と同じイベント。いつもと同じ曲。ふだんと変りない道路や電車の中。それなのに、何を見ても、何を聞いても、どこにいても、これまでとはまったく違う光景、感覚をもってしまう。寂しく、切なく、苦しく、恋しい。

人間は「忘れるという基本的生存能力をもったいきもの」だそうだけれど、だとすれば、この悲しみも1年後には少しは緩和されているのだろうか。

苦しみから逃れたい、和らげられたら、と心のどこかで願いながらも、「まだ忘れちゃいけない。ふつうの、まるで何ごともなかったみたいな顔をして、ふつうに生活するなんてできない。ふつうにしたくない。」という思いも反面でこみあげてくる。

二七日、三七日…と、少しずつ、かなしみの日々を指折り数えながら、乗り越えていくしかないんだろうけれど。

終わりの見える日々を終えたら、終わりの見えないかなしい日々が待っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

おかえり。おつかれ。

5月1日午前11時。

母は荼毘に付されて、天に昇った。深緑が鮮やかな、快晴の初夏。もう5月だ。

父母の信条により、通夜・告別式は執り行わず、日取りの関係で今日の野辺送りを迎えるまでは、総裁社の霊安室でお泊り。私たち家族と、母の姉妹と、40年来の旧友・親友数名を含めた、15名程度の、ささやかなお別れの時間を炉前で営むのみとした。

形式ばったことを好まない人だったし、常に、できれば、あらゆる因習や固定観念からフリーでいたいと考えながら、晩年は自分の心身のコンディションのためにそれを許されずに、ひとがかりで生きざるを得なかった母だから、なおのこと、遺志を尊重したかったというのもある。病理解剖や、略式の葬送も、眉をひそめるひともいたかもしれないが、すべて母の、私たち家族の哲学を実践したにすぎないこと。ただそれだけだ。

「通夜・告別式はしません。御供花・御供物の儀は拝辞します。葬送は家族のみで。」という、きわめてシンプルな、ささやかな願いを貫くのに、これほどまでに説明努力が必要だとは思わなかった。自分の不見識と社会経験の浅さを思い知らされた。

棺には、ホームのスタッフが総出で作ってくださった「祈りをこめて」と記された千羽鶴。母の実母(祖母)が老人ホームで手慰みに作った座布団。ムスメとムスコが折り紙で折ったさまざまな折り紙細工。私たち家族が全員で写っている写真数葉。家族・友人から母へあてた手紙の数々などを収め、最後にムスメと私で、母の唇に桜色の紅をさした。

さようなら。さようなら。さようなら。

こういうとき、なんといっていいかわからないので、とにかく心のなかで旅立ちの無事を祈る気持ちで見送る。炉の扉が閉まり、点火の音がし、みなで焼香をする。ほんとうは、快晴の空に母が昇っていくさまを見届けたかったが、休憩室へ促され、かなわなかった。

父は体調が悪かったようだが、懐かしい面々が(予想外に)集まったことで対応に追われ、気が張っているようだった。今日の実質的な仕切りは私の仕事だったから、ゆっくり思い出話に浸る暇もなく、収骨のときを迎えた。

母の骨は、見送った時そのままに骨格が残っており、3日を経た「亡骸」よりも、こちらの遺灰(骨)のほうが「おかあさん」という気がした。拾骨の段になり、妹と2人で、大たい骨を拾ったが、カサカサと「乾いたかなしい音」でありながら、しっかりと持ち重りがした。参列者がみんなで、お母さんの骨を拾ってくださった。ムスメとムスコも拾った。

頭がい骨に至った時、頭頂部の骨がはっきりとわかった。シャント手術を施した際の、人工的で不自然な穴がはっきりとわかったとき、母の生きてきた人生の壮絶さを彷彿とさせられて泣いた。そして、下顎の骨がきちんときれいに残っているところに、母が末期に後生大事に守ろうとした部分入れ歯を充てると、ぴったりと収まり、かなしくてさらに泣いた。

腫瘍が暴れた右側頭部の骨はなかった。

末期、すでに不必要になってしまったけれど、母がよりよい「視え」を求めて頼みにしていた眼鏡も、入れ歯と一緒に骨壷に収めた。

拾骨が済んで、母とのお別れの儀式は終了した。

骨壷を桐箱に収め、覆いをしたお骨を、父は万感を込めて抱いた。

が、次の瞬間、母の姉妹たちが、何を考えたのか「ちょっと抱かせて」と催促し、喪主としての発言をしようとしていた父を遮って骨壷をタライ回しにし、妹と私は軽く殺意を覚えた(母の姉妹を、私たちは幼いころからかなり「引いて」見てきたが、大人になってから意図的に避けて疎遠になってきた。しかし、「やっぱりこの人たち苦手!」と思った、今日は。)

母が後半生、誰よりも心頼みにし、尊重しあった、唯一の親友は、この叔母たちの振る舞いに圧倒されて、終始参列の最後部に控え、十分なお別れができなかったようだ。母としても無念だったのではないか、と気がかり。それでも、別れは、残される人の分だけ重みやかたちがあるのだろうから、それ以上は介入できないんだけれど。

式は、斎場で散会となったけれど、父と妹、父方の叔父、私たち家族4名だけは、母の遺骨とともに、念願の帰宅を果たした。

昨日、ホームを完全に引き払った際に、母の「お部屋」をリビングの日当たり・眺望のいちばんよい場所に設けてきたので、そこに安置するために。白木のテーブルに、シルクバティックのテーブルランナーを敷いて、ムスメが書いた絵(母の自慢)や、写真や、供花、供物などとともに調えた。あふれるほどの供花は、一部私たちが持ち帰ることにした。

オットが昨夜作成してくれた母の最も美しく映っている晩年の写真を、フレームに入れて遺影がわりにした。凛として、気高く、エキゾチックで意志的な笑顔の母がいる。

今日からは、父は、母と2人で、ここで暮らすことになる。望んで得られなかった静かで穏やかな2人の生活。母はもう見聞きはできないし、姿も声も現わさないけれど、それは前から変わらなかったのだから、こんどはこちらの気の持ちようで、気配や想念を感じることはできるのではないか、といった要旨で父と話した。

疲れの見える父をひとりにするために、一足先に叔父が帰り、妹と私たち家族も、父母に挨拶をして実家をあとにした。帰り際、父が、妹と私にふかぶかと「いままでいろいろとありがとう。お疲れ様でした」と頭を下げて礼をしたのが、切なかった。

「おとうさん、おつかれさまでした。おかあさんをよろしくお願いします。ちゃんと食べて、寝てください。」

と声をかけるのが精いっぱいで、結局涙まみれの別れに。

妹と、「おとうさん、ほんとうに後を追うように逝ってしまいそうで心配だ」と、妹と話す。ひとりになりたい、ほっておいてほしい、という父の意向も理解しつつ、GW中は初七日にかこつけて妹が、連休の最終日に私が顔を出そうと思っていたところへ、父からメールが。

●●(私)へ

 携帯では入力が疲れるのでPCにしました。

 今日、お母さんの無事な野辺送りが出来てほっとしています。ここまで、やってこられたのはあなたや■■(妹)の献身的な看護・看取りの努力とともにそれを支えてくれた▲▲(オット)君の絶大な協力のおかげ、そして母親の不在に長い間耐えてくれたA(ムスメ)とB(ムスコ)のけなげな支えがあったからと感謝しています。

 あなたの言うように四十六年ぶりに新しい結婚生活が始まるものと思いながら、寂しさに耐えていこうと思っています。もう誰はばかることなく好きなだけお母さんと語り合えます。思うだけで足らなかったこと、心の奥を読み切れなかったこと、お母さんに代わってあなたが代弁したことのひとつひとつを話し合っていこうと思っています。

 もう長女の役は肩から下ろしたらと思います。充分すぎるほど助けて貰って、自分で出来ることはこれまで通りこなし決して無理はしないので心配しないで下さい。その分を、家庭と仕事、自分の健康に注意をして下さい。君らのような娘を遺してくれたお母さんに改めて感謝を込めてお礼を言います。

 できの悪い父親で随分と手のかかる老人だけれど、勘弁して下さい。

 スズキ(仮名:私の中学からの親友)さんのメール拝見しました。「そうか余所の人にはわれわれ夫婦はそんな目で見られていたのか」それもこれも、お母さんの人徳のなせるところ。偉かったなあ、お母さん、本当にありがとう。そして●●と■■お疲れ様でした。ありがとう。

 C家(オットの実家)にはこれまでの▲▲君の八面六臂の大活躍に感謝とともに、彼を育てて下さったご両親に心からの感謝を申し上げました。

 どうか、これからは申すこし離れた距離から見ていて、肩の荷を少しでも軽くして下さい。

 本当にありがとう……

200951日 できの悪い父より

妹と二人で父に電話して「お礼もお詫びも、これで打ち止めにしよう。みんなそれぞれに十分頑張った。これからは、3人でお互いの人生と生活を見つめよう」と話す。言葉にすると、なんだか薄っぺらい。ほんとうはもっとさびしくて悲しいのに。それでも素直に、心から「お父さんが心配だ。体に気をつけて、長生きしてほしい」と言えるようになった私たちは、気持ちが安らか。お母さんのおかげだ。

今日からは、お母さんは、耳が聞こえないことや、目が見えないこと、平衡感覚がないことや、記憶・認知能力のことを気にすることなく、ゆっくりお父さんと話合える。ずっと望んでいて、ついにかなわなかった願い。お父さんとお母さんだけで、穏やかに、静かに、家で暮らせる生活。

妹と私は、25年にわたる母の健康と命の心配、10年にわたるコミュニケーション機能の障害による葛藤、2年にわたる認知・身体能力の衰退による心身・相互のストレス、そしてこの数か月における「寿命」の焦燥と悔悛、罪滅ぼしの献身。母を看取り、今日の野辺送りを無事に見届けたことで、それらすべてから一気に放免されたことで、途方に暮れ、虚脱・放心状態にある。

”精進落とし”のつもりで、今日は近所の蕎麦懐石へ食事をしに出かけたけれど、みな無言がち。ただ、ビールを味わい、ふかぶかとため息をついて。

おかあさんを偲びながら、乾杯する。みんなの心にもお母さんがいるだろう。

おかえりなさい、お母さん。おつかれさまでした。

おつかれさま、お父さん。無理をせずに。

ありがとう。こどもたち、オット。これから恩返し。

よくがんばった、妹。キミを身内ながら誇りに思う。

かなしいほど快晴の連休に、それぞれ少しからだと心を休めよう。

寂しかったらごはんを一緒にたべ、話そう。

あとのことは、これからゆっくりと、少しずつ考えよう。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »