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2009年4月30日 (木)

惜別

私は長女だから、母の没後は捌かねばならぬあれやこれやを、ひたすら捌きまくった。

「長女だから」という言い方はなじまないし、長女的な性格だと自覚したこともなかったけれど、結局、これまでの経緯もあって、すべてをリードせざるを得なかったから。

臨終にあって泣き崩れる父と妹とは別に、医師・看護師への挨拶、近親者への連絡、死後すぐに病理解剖へと献体するための手続、亡骸の清拭…。とにかくどうでもいいようなことから、すぐに算段しなければいけない大事なことまで、片っぱしから手をつけては片づけた。

頭のどこかでは「2時間もしないうちに病理解剖のための搬送業者が来ちゃう。いまのうちにお母さんとお別れしなきゃ。体に温もりが残っているうちに、もう一度ぎゅっとしなきゃ。チビたちが来る前に涙を流しておかなきゃ…」と逸るくせに、体が言うことを聞かなかった。「そんなこと後でもいいから、今のうちにお別れを」という、周囲の人の言葉も受け止めつつ、気持ちより先に体が動く。

いま動きを止めて母にしがみついたら、もう離れられなくなってしまうし、「病理解剖なんて止めてくれ、このままそっとしておいてくれ」と泣き喚きたくなってしまいそうで怖かった。

たまたま見舞で居合わせた小母の親切心や、葬儀の段取りに関する問い合わせ、遺族としての振る舞いに対する助言も鬱陶しく、家族だけにしてくれ!とのど元まで出かかりながら、顔がこわばっているのを自覚しながら、事務的に体を動かしていた。

母の臨終については、実のところあんまり詳しく思い出せない。11時過ぎから容体が急変し、結局持ち直すことなく、カクンカクンとステップダウンしていった。マニュアルミッションの車がエンストを起こしそうになる間際のように、呼吸が不規則に空回りするかんじ。何度も呼吸が止まり、都度刺激すると再開。呼吸停止の頻度が上がりつつ、間隔は開いていった。「もう戻らないかも」とぼんやり悟ったのは、昼ごろだ。

「時間の問題(今日明日にも)」と医師から告げられたのは、せん妄が悪化した今月10日の入院から5日後の15日。大事な人には週内に引きあわせておくように、という指示もあり、私の誕生日である22日までは難しいだろうと思っていた。予想どうりに何度も危機的状況に陥ったものの、奇跡的に持ち直すことを繰り返した。「さすが、不死身だ」と、妹と冗談交じりにわらい、母の健闘をたたえたりしたものだった。

22日を迎え、その週末を越そうとした時までにも危篤状態にはなんどか陥ったものの、やはりその都度、高度を下げながらも低空飛行を続ける母に感服していた私たち。多くの週末期癌患者を見送ってきた医師たちも「驚異的な生命力」「人知を超えたバイタリティ」と驚嘆した。

週が明けた27日月曜日には、いわゆる「虫の息」になっていながらも、しかしまだ確かに拍動を刻み、サチュレーションも血圧も低いながらも確認できた。その様をみた主治医と院長は「これはもう、彼女の明確な意志を感じますね」「こうして生きようとする姿勢にただ敬服する」「神秘主義的な意味ではなくて、こうしたことにはなんらか意味があるはず」「何かまだ、言いたいことやしたいことがあるんでしょうね」と異口同音におっしゃった。そして、「しばらくはこの状態が続くかもしれないから見守りましょう」と。

意志たちのこの言葉を聞いて、私のなかで気持ちが動いた。「お母さんは、やっぱり“あのこと”を父にきちんと伝えてほしがっているんじゃないか」という思いが込み上げた。

母が聴力を失い、視力をほぼ失い、次いで平衡感覚を、知的安定力を損ないつづけてきたこの10年余、ずっとずっと独りで抱え、何度も解決しようと試みては挫折して、諦めてきた父への思いについて。

それをいま指摘することは、父にとっては受け入れがたい自己の振る舞いへの批判となるものだし、今となっては主体的な意思表示ができない母の前で、父子が骨肉の争いを繰り広げることになるリスクをはらんだ「爆弾」だったから、軽々に口にすべきでないと思い、私と妹の腹に収めてきたことだった。

けれども、今際の母を前にして、根深い夫婦の断絶・葛藤という過去をすべて美化(辛いことは抹消)し、麗しい夫婦愛に没入している父の立ち居振る舞いを見続けることは、私には耐えがたく、理想的な終末医療環境にありながらも、「献身的な家族愛」という欺瞞とか茶番ぶりに対する怒り、嫌悪感は頂点に達していた。

その苛立ち、不快感を、妹と2人、携帯のメールでやりとりしながらうっぷん晴らしをし続けた数週間だったわけだ。以下は、27日朝に、一度自宅に着替えとシャワーに戻った妹に送った私からのメール。

回診の後またナニが始まり、我慢の限界を超え。●●先生が「まだ言いたいこと、やり残したことがあるんですね。きっとこの粘りは意味があるんですね」っていうのを聞いて、「何が気になるんだい?」だって。その一言で私のスイッチがONにbomb

でも非難ではなく、代弁に徹した。「配偶者として母のすべてを誰より知っていると自負するなら、母の本当の気持ちを知ってあげて」と。

「母は耳が聞こえなくなってからずっと淋しかったんだよ。父とコミュニケーションができない。私はひとりっていつも言った。今の父の思いやりや涙は真実だと思うけど、何故、100分の1でいいから、一緒に暮らしていたときに返してあげなかった?と思う。お母さんの長年の悩みを思うといたたまれない」って。

泣いちゃったけど、責めず怒らず。父は黙ってたけれど、きっと正しく理解はできないだろう。また逆ギレモードになるかもね。でも、Drの話はベストな呼び水だったから。わかってもらわなくても、母の心情はとにかく伝えた。でもありゃ憤死しないぜ。むしろ私が仮想敵になって活性化するかもcrying

それまで、自分のなかでどろどろと毒づく思いを制御しきれなくて、「きっと息の根を止めてしまうくらい、痛烈なことを言ってしまいそう」と恐れて言えなかったことだった。だけど、なぜかこの日、誰もが驚嘆する生きる意志と、医師の言葉に促されて、急に感情の質が変わった気がしたのだった。

「はらいせ」や「こらしめ」で、「よき夫」に耽溺している父に母の心中を教えるのではなくて、「お母さん、ほんとうはこうだったんだよ。それを、一番大切に思っていたお父さんに知っていてほしかったんじゃないか。だから、ここまで粘って、頑張って、その思いが遂げられることを願っているんじゃないか。あるいは、そういう思い残しや無念だけではなくて、ずっとさびしかったけれど、今は本当に家族がそばにいてうれしくて、幸せだから、もう少しこの状態を満喫していたいんじゃないか。なごり惜しいってことなんじゃないか」と。

話しながら、「アレ?私、こんな好意的なことが言いたかったんだっけ?もっと痛烈な一撃を加えたいと思っていたんじゃなかったっけ?」と思ったのだけれど、どういうわけか、そんなよこしまな思いはなりをひそめて、「私たち、本当にお母さんのことを理解していたのかしら?」「お母さんのことを理解していると自負する資格があるのかしら?」と問うていた。

話しながら感極まってしまったけれど、父に対する詰問をする気にはなれず、よって父の見解を問いただすこともなく、そのまま買い物に出てしまった。しばらく隣の公園で頭を冷やしつつ、少しして病室に戻ると、父が何事か母に話しかけているように見えた。しかし、「また例のナニだろう。懲りない人だ」と冷ややかに見つつ、黙殺して本を読んだ。

母の容体が急変したのは、その直後、午前11時頃だった。それからあとは、先のとおり。

母がこと切れたとき、父が泣き叫んだ。

「俺が悪かったんだ。本当に非人情なことばかりで、お母さんの気持に気付かずに取り返しのつかないことをしてしまった。許してくれ。さっき、そう言ってお母さんに謝ったんだ。そうしたら急に呼吸がおかしくなった。そんなことも今のいままで気付かないで、俺はどうしたらいいんだ」というようなことを悲痛な声で叫んだ。

私は何かを考える暇もなくて、父の肩を何度もさすり、「お父さん、こんな時にこんなことを言ってごめんなさい。残酷なことを言ってしまってごめんなさい」と何度も謝った。

父は首をぶんぶんと横に振りながら「お前がさっき教えてくれなかったら、俺はお母さんが生きている間に謝ることもできなくて、一生後悔した。ありがとう」という。

その間に、看護師が姿勢を整えてくれた母を見やると、(その場に居合わせた人間以外は信じないだろうが)、あんなに歪曲し、醜く面変わりしていまった右半面はすっかり元の、整った面立ちに戻っていて、腫瘍の痛々しさも、壮絶な闘病を示す顔貌も、どこにも見られなかった。わずかに下顎が左右にずれていた程度だ。

ベッドサイドから見る母の顔は、信じられないくらい穏やかで、笑っているようにも見えた。あんまり驚いたので、泣き伏したままの父に言う。「見てよ。あんなに穏やかな、優しい、元通りの顔をしているお母さん、すごいよ。あの顔を見たらわかる。お母さんはとっくに赦してくれてる。“わかってくれればそれでいい、もう十分だ”って言ってると思う」と言う。父はただただ声にならずウンウンとうなづいて泣く。

私は、号泣する父の肩をさすって(父の体に触れるのは何年ぶりかもわからないくらい)、泣き崩れたままの妹の頭を撫でて、「お母さん、お疲れ様でした」とだけ言った。なんだか、幽体離脱でもしそうなくらい脱力し、空腹に燗酒を空けたように体中の血流が変わった気がした。お母さんは、私にも何か言いたかったんじゃないだろうか。

「何も言わないで相手を蔑んだり、罵ったり、怒って拒んでいるだけじゃだめなのよ。家族なんだから、話さなきゃだめなのよ。お父さんにはちゃんと言ってあげてほしい。言わずに、知らせずに、断絶しないでほしい。お父さんがかわいそう。お父さんは、ちゃんと話せば本当はわかる人だから」と、いつも言っていたように、言いたかったんじゃないか。

私は、母の気持ちを理解し代弁しているつもりでいて、いつの間にか事態を硬直化させる要因を作ってしまった張本人になっていたんじゃないか。そんな風にも思った。そうでなければ、あれほど怒り、見限ろうとして苦しかった父に対して、急転直下、こんなに悲しいくらいの情けを感じることはなかったんじゃないか。父を許しているようでいて、自分が許されていたような感覚に陥った。

妹は、ただただ冷たくなっていく母の体にすがり、抱きしめ、頬ずりし、悲痛なくらいに泣いた。妹はいつでも邪な感情をさしはさまない。率直なぶんだけ、一生懸命で、脆くて、悲しい。

私も神秘主義者ではないけれど、お母さんはこうして、長い長い間凝り固まってしまった、自分以外の家族の間のわだかまりや、それぞれの心の底に澱のように溜まってしまった葛藤を、いとも簡単に、あっさりと融解し、浄化して持ち去ってしまった。私のなかでドロドロと渦巻いてきた、あんなに苦しかった思いは、毒々しかった情念は何だったんだ?と、急に心細くなってしまったほどだ。肉のシミは、もうわからなくなってしまった。

すっかり途方にくれて、戸惑ってしまった。急に善人になっちゃったみたいで心もとない。急に「お母さん!」と抱きついて泣くことができなかった。馬鹿みたいだ。もう時間がないのに。たったの2時間。病理解剖のお迎えがくるまでのわずかな時間を、家族水入らずで共有していたかったのは事実だったんだけど、あんまりにも簡単に、憑きものが落ちるみたいに身軽になってしまったせいで、落着きもなくなってしまった。

父と妹の涙が少し引いた頃、私も「作業」の手を止めて、やっと母の傍に行き、母の額とほっぺた、憎い憎い腫瘍があったこめかみから頬骨にかけて、まっすぐに通った格好のよい鼻、滅び始めた右の耳介あたりを、すべて、そっと、手で触れた。もうひんやりしている。

それから、左手で母の左手を握り、こどもの頃とおなじ、ふにゃふにゃで頼りのない掌を握りしめながら、浴衣の袷の部分に頬を置く。苦しげな呼吸音も、不規則な心臓の音もなければ、ぬくもりももうない。もともと豊かでないおっぱいも、すっかり所在がわからなくなって、肉付きのよかった肩や鎖骨のあたりは、ごつごつと骨ばっている。

枕もとの向こうは、明るくて眩しい午後の中庭。巨大な鯉のぼりや、白いサツキ、オダマキ、テッセンが風に揺れている。涙があとからあとから流れ出てきて、母の浴衣の肩が濡れていく。このまま、というわけにはいかないものだろうか。

すでに到着していたチビたちとオットも、別れの挨拶。いっときはあまりの面変わりに脅えたチビたちも、久しぶりに元通りになった穏やかな祖母の顔を見て、戸惑っている。みんなで、母の好きだったラベンダーの精油をたらしたお湯で、体を清めた。

オットの顔は見られなかった。だから、オットが母とどのような別れをしたのか、知らない。

もうちょっと。あともうちょっと。そう思っているうちに、出迎えの業者が来た。

淡々と、有無を言わせず、母の体をストレッチャーに乗せ、顔に白布をかぶせる。

母は、「亡骸」になり、死亡診断書とともに、寝台車で大きな病院の霊安室へ向かった。

妹は自ら希望して、母の見送りに同乗した。私はそれで、少し安心した。

母は一晩、病院の霊安室の保冷庫でたったひとり「保管」され、翌朝一番で病理解剖を受けるという。

ついさっき、心臓が止まり、呼吸が止まっただけの母の体は、もう「おかあさん」ではなくなってしまったみたいで、胸が破れるほど悲しかった。でも、声が出ない。まだ御霊がそこにあるかもしれないのに、母はたったひとりで、病院の地下の冷たいドロワーに収められる。

これまで観念的に理解し、賛同してきたはずの「病理解剖」に激しく動揺していた。私は、かけがえのない人が「死ぬ」っていうことの全部を、ちゃんとわかっていなかった。病理解剖がいけないのでも、無意味なのでもないけれど。そして、献体や解剖は、母自身の遺志でもあるから、私が賛否をどうこうする立場ではないことも頭ではわかっているのだけど。

でも「死んだ」ということを、きちんと受け止め、受け入れるには、瀕死状態から、臨終を迎え、やがて亡骸となるという一連のすべてを、絶やすことなく寄り添って、見守り、思い出を語りあい、話しかけ、労い、嘆きしながら、時間の経過とともに「お母さんは、死んでしまった」と、感じることが必要だった。少なくとも私にとっては。

私は、「死」を甘く見ていたのだと思う。

母のいない当夜は、寂しく、虚しく、母がいないことがどうしようもないくらい悲しく、母が恋しくてどうにかなりそうだった。

翌日。昼過ぎに終了するという病理解剖の結果を待って、大病院地下の霊安室待合にて母との再会を待つ。

予定の時刻より待つことさらに40分。母は、再びストレッチャーに乗って連れてこられた。

再開した母は、昨日見送った母とは別人のようだった。顔に傷はなく、開頭の後は一見してわからず、耳介周辺の腫瘍跡はきれいに縫合してあった。予想したよりも「無傷」だった。

それでも、ここにいる母は昨日とはまったく別の「亡骸」のように感じた。当たり前だが、生気のない、人肌の質感のない、かわいそうなからだ。額に触れると、驚くほど冷たい。

まるで、「遺体」から「死体」に変化したように感じた。お母さんごめんね。変な言い方だ。

あんなに穏やかで、安らかな表情をしていた母の顔は、何の意味も感情も事情も背景もみいだせないような、「無表情」に感じてしまった。いったん閉じた口が半開きになっていたせいかもしれない。術後に清めた頭髪が、しっとりと濡れて、頭に張り付いていたからかもしれない。胸の上で固く組み合わされた左右の手が不自然だったからかもしれない。

「お母さんは、こんなことしないよ」と、咄嗟に思ってしまった。

すると、再び、だんだん亡骸は「おかあさん」に見えてきた。「ひとりでいきなり、こんなところにお泊りしたら、表情もこわばるよね。寒いし、暗いし。」と意味不明のことをつぶやく。「お母さん、さいごのおつとめお疲れ様でした。おかえり」と言うと涙が出た。

母は、これから数日、家族葬を依頼した葬祭社の霊安室で休んでから、荼毘に付される。通夜・葬儀はしない。それまでの間、家族水入らずでしばし、最後の別れを惜しむ。

今度こそ、次こそは、ほんとうのさようならだ。もうすぐ会えなくなる。亡骸ですら、もう会えない。永遠に消えてしまうということだ。

父は、妹は、私は、この悲しさをいつか乗り越えられるのかな。

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2009年4月27日 (月)

他界

2009年4月27日14時02分、母他界。

もう永遠に動かない。声を聞けない。温かい手を握ることができない。死んでしまった。

悲しくて死にそうだ。こんなにつらいとは思わなかった。

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2009年4月22日 (水)

産んでくれてありがとう

今日は私の40回目の誕生日だ。母はまだ、がんばってくれている。

1週間前、実家に帰宅したときは、私の誕生日まで存命だとは思っていなかった。金曜日に昏睡に陥った直前も、これが最後のアイコンタクトだと覚悟した。

実際、母はもう眼を覚ます(意識を取り戻して状況を認識してくれる)ことはないし、以前として昏睡しているし、バイタルサインは緩やかに、しかし確実に下降している。

金曜日は、土日に命が尽きることを覚悟していたから、病理解剖の手はずを確認したり、最期の挨拶に訪れるごく親しい間柄の見舞客を迎えたり、とあわただしかった。

土日は、ナースの計らいで、昏睡ながらも小康状態を保っていた母を1カ月ぶりに入浴させることができた。ストレッチャーにシートを引き、お湯をためて、頭髪と全身をきれいにしてもらった。

耳の腫瘍が悪化してから1か月余。頭を洗ったのは40日以上ぶり。もはや、感染しようと大勢に影響はないし、「これが最後のチャンス」という決意が漲った入浴だった。意識レベルが低いくせに、母は、温いお湯に全身を横たえて、頬を上気させて、芯からリラックスした表情をしていた。「きれいにして差し上げたくて」という、真心のこもったナースの言葉が心に沁みました。

入浴で血圧が安定したのか、母は、土日を安定して越すことができた。これなら誕生日までもつかも。そんな希望をもったけれど、月・火は、見舞客もひと段落し、母は一段と深い昏睡に入っていったから、私たち家族は特にこれといってすることもなく、ただひたすら、母の呼吸に異変が起こるかどうかを固唾を飲んで見守ることしかできなかった。

脳内圧亢進が進んでいるのだろう。母の舌は完全に麻痺して歯の間から横に垂れ、右目は腫瘍のせいで瞼が閉じない。右こめかみにテニスボール程度の容積の腫瘍があるからか、顔は無残に湾曲している。人間の顔が形作られるのは、骨格だけでなく、筋肉の力によるところが大きいことを改めて知らされた。完全に顔面の筋肉が弛緩した母の右半面は、ありえないくらいCの字に変形してしまっている。

だから、本当は、ごくごく親しい人(姉妹や親交の深い人)のみしか招きたくなかったし、見せたくなかった。母は、自分の容姿がこのようになったことすら知らなかったんだから。美しかった母。凛々しく、エキゾティックな顔立ちで、物静かに笑う母の面影は、かすかに左目だけに残されているけれども。

20日(月)の夜の段階で、母の容体は一転して衰退しはじめた。一度家に戻って子供たちにと過ごした私も、いっときの急変に呼び出されて病院に向かった。サチュレーションは70を切り、血圧も上が80を、下が50を割り始めた。体温は39度あたり。それでも脈拍は120台を維持し、ときどき呼吸はスキップしながら浅くはなっているけれども、規則正しく、地道に続けられている。急降下したバイタルは、朝には低いながらも水平飛行に持ち直し、「もしかして22日までもつかも」と、ふたたび希望をつなぐ。

21日は、さらにレベルが低下しながらも、22日を迎えられることが現実的になってきた。

はっきり言って。22日(の私の誕生日)を迎えられようが、迎えられまいが、私にはあまり大切なことなんかじゃなかった。いまさらのように母の労をねぎらい、壮絶な最期を悲嘆し、過去を美化しながら思い出話に浸る父のつぶやきにうんざりしていた私は、父が「22日の誕生日まであと少しだよ、頑張れよ」と、母に語りかけるたびに、内心毒づいていた。「今さら、だよ。お父さん」と。

それでもやっぱり、母が、私の誕生日までは頑張ろう、と思ってくれているとすれば、そのことはうれしい。たとえ勝手な思い込みでも。私の誕生日と、母の命日が一緒ならそれはそれで素敵だ。妹は「おめでとうっていいにくいから、1日くらいずれていたほうがよくない?」と言ったが、私をこの世に送り出してくれた日と、母がこの世を旅立つ日が一緒なのは、なかなか素敵なことじゃないか、と思う。

連日のように病院に泊まりこむ日々はそれなりにハードだ。それでも昨夜は特別だった時計が0時をさし、日付が22日に変わった時、私は母に御礼を、妹は私にお祝の言葉を伝えた。3人で記念撮影をし、手を握り、足をさすりながら、しばし「娘」の時間を満喫した。

朝方、夢枕に母が立った。何も言わないけれど、母の長年の癖であった、顔を少し傾け、髪の毛をひと束指に巻きつけて、どこともなく見つめながら「アルカイックスマイル」風に黙考する母。その母が、ただただ私を見つめている。笑っているような表情。決して悲しそうでも、つらそうでもなく、ただ見つめている。なんとなくだけれど、私は母が「もう戻れ」と言っているように感じて目覚めた。「もういいよ、十分だよ」と言っているように感じた。

母がホスピスに入って13日。家のことはなおざり、オットに任せきりで、こどもたちの我慢も孤独も限界に達し、それでもなんとかものわかりよく頑張ろうとしてくれているのだけれど、ストレスもかなり高じている。しばらくの間、「娘」として母に寄り添い、甘え、お別れの時間を過ごさせてもらったことで、昏睡に陥った母に思う存分触れたことで、私はもう十分なごりを惜しむことができた。

もちろん惜別に区切りなどないけれど、40歳の誕生日を母のそばで迎えることができ、明け方夢の中で母と相対することができたことで、「私は、そろそろお母さんに戻らなきゃ」と自然に思えた。

だから私はいまこうして帰宅し、PCに向かうことができている。

妹には、母に少しでも異変が起こったらすぐに、躊躇なく連絡してもらうように頼んだ。しかし、「もう十分に触れ合ってお別れしているから、もし臨終に間に合わなくても、私は満足している。お母さんも同じ気持ちだと思うから、間に合わなくても責任を感じないように」とだけ伝えた。

今日は連絡がないことを祈るけれど、私はその時を心静かに、自分の家庭で、自分の子供たちと待とうと思っている。母が大好きで、最後まで心配していた「小さいひとたち」と。

お母さん、私を産んでくれてありがとうございました。

今日まで40年間、母でいてくれてありがとうございました。

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2009年4月17日 (金)

昏睡

念願の、万感を込めた帰還からクリニックに戻った昨日。

父と母ふたりきりで過ごせるように、という妹の配慮で(本当は父の健康が不安だったけど)、妹も私も自宅に戻った。ずっと気持が張り詰めて、神経も高ぶっていたから、子どもたちを伴って外で夕食を済ませ、私たちはビールを飲んだ。お互いに自宅に戻って、倒れこむように寝入った。

朝7時に妹から電話。「母が未明から高熱を出しているらしい。誤嚥性肺炎の可能性もある、と父が不機嫌」だという。実は昨夜、母の求めに従ってなめらかプリンを1匙口にいれたのだそうだ。その際に少し気管に入ってむせ、痰の吸引と一緒に吸い出してもらったらしい。妹はかなり動揺していたが、私は電話口で「3日前から熱は高かったし、耳管から膿が喉・気管へ流れ込んでいて吸引時にかなり吸い出していることも聞いている。プリンもその場で吸い出せているので、誤嚥性肺炎だと断定できない。よしんば肺炎だとしても、これまでのさまざまな要素が重なっているのだから、気に病む必要はない」となだめる。

父は、混乱を極めていた。すじみち立てて、話のつじつまが合うように考えられなくなっている。自分の無力感や、娘たちに依存している状況が、いつしか理不尽な怒りにすり替わっていた(というか、考えられなくなってすべての現状を否認するしかなくなっているだけかもしれない)。だから、私にも妹にも、労いや思いやりの心が持てないどころか、相当不愉快な態度や言動が目立っていた。みんな疲れている。苦しんでいる。でも、同様に極限の緊張と慙愧のなかで必死に母によりそう妹にとっては(私にも)、寛容でいられるだけの度量がない。傷つくし、いらつく。

妹と父を二人だけにしないほうがいい(私も同じく)と思い、一緒にホスピスへ向かう。

父は、知ってか知らずか、母の容体を訊ねるすべての人に、判でついたように「プリンを食べて誤嚥してしまい、熱が下がらない」と説明する。それを傍で聞いて苦渋の表情を浮かべる妹。気にしないよう慰めるが、何度目かの説明を耳にして、ついに私が「お父さん、プリンの誤嚥による肺炎とは誰も言っていない(発熱の直接原因ではない)のだから、あまり吹聴しないで。●●が傷つく」とたしなめた。

父は「そんな意図はない。直接原因でないことは知っている」と釈明。しかし、妹の我慢は限界を超え、大声で泣いた。父は少し目が覚めたのか、素直に詫びた。そして、これまでの労をねぎらい、謝意を口にし、自分の不明を重ねてわびた。泣き声の大きさ激しさに、妹の苦しみの深さを思い知り、胸が痛む。自分を責める必要などどこにもないのに。もう十分すぎるほど尽くしてきたのだから。でも、結果として父の混乱をひも解き、私のなかにある耐えがたいいらだちや怒りも鎮めるきっかけになったから、妹には感謝している。

母は、肩で息をしながら、喘ぐような苦しげな呼吸を繰り返す。右半面から顎、首筋にかけて、まるで巨大な蜂にでも刺されたように、ぱんぱんに地腫れして、発赤しているのがすぐにわかる。昨日までとはまったく違う。まるで、何か液体を皮下に注入したかのように、ぱっつんぱっつんに張って、赤みを帯びている。これを見ただけでも、発熱の原因はここにあることがわかるほどだ。

回診時の説明で、舌根沈下と肥満による「二重あご」と思ってきた部分は腫瘍による咽頭下垂であることがわかった。MRIを撮っていないから、詳細な状況がわからなかったけれど、耳の腫瘍は、頭がい骨や脳はおろか、右眼窩・顎関節・下顎骨・リンパ腺・頸動脈を覆い尽くし、あごの扁桃腺にまで転移していたことがわかった。

数日前までは、あやういながらも、言語的コミュニケーションが成立するくらいに発話できた母だったけれど、すでにもう舌は完全にマヒし、たとえは悪いが、死んでしまった牛や馬のように、歯の間から頼りなく横によじれ垂れている。右の眼球は真っ赤に充血し、もはや左右の動きが同調しなくなっていて、まつ毛に触れても反応しない。右のこめかみを頂点として、腫れは右へと張り出しているのか、顔が右から引っ張られているように変形している。見るも無惨な、母の顔。右半面だけ見ていると、ホラーの特殊のメイクのようだ。

少し前、「右の眼に押されるような違和感がある」「のどが痛い」「顎が痛い」と不快感を訴えていた母。その症状のすべてが今、目に見える形で表れている。母の頭のなかで、なりをひそめてきた腫瘍が火を吹いている。本当に「暴発」という言葉がぴったりくる。すでに麻痺している右足の先が、時折不規則に痙攣する。左顔面も、ひきつる。40度近い高熱が、母の頭の内部で展開されている壮絶な戦いの証だ。充血した右眼球は、眼窩の腫瘍の勢いを示している。もう瞼が閉じないのに、目頭から膿と涙が分泌している。

緩和医療では、積極的治療は行わないし、不要な輸液は体の負担を増やすので最小限にすると聞いているが、高熱が続いて水分と体力の消耗が激しく、痙攣や発熱といった周辺症状の苦痛を誘発しやすいことから、抗生物質と最小限の水分補給を点滴で行うことになった。しかし、生来血管が細く、ラインが確保しにくい体質のうえに、衰弱でますます血管が探せない母。血管注入をあきらめて、おなかから皮下注入をすることに。

500cc程度の輸液を長い時間かけてゆっくり行った結果、夜には熱もかなり下がり、呼吸も脈も安定してきた。しかし、午前中は呼びかけに反応してくれた母の意識は、午後から完全に昏睡状態に入った。

医師からは「完全に日単位の状態に入った。しかも、かなり限定的な日単位(=2~3日)」だという診断が下った。「もし会いたい人、会わせたい人がいるなら、今日明日のうちに済ませておくように」ということだった。この期に及んでどうしてもあわせてあげたい人、となればさほど多くもない。母の姉妹、40年来の知人数名程度だろう。日中、あわてて、長姉(Yおばさん)と、父母共通の45年来の友人(Sおじさん)、私の小学校時代からの同級生の母親で、父母とはPTAを通じて30年にわたって交流を続けてきたIさんが視える。

夜20時頃、ホームのスタッフが10人近く、母を見舞ってくれたと聞かされた。みんなユニフォーム姿のままで、勤務中だったろうに。夜勤明けや非番の人は明日来たいと言っているという。昼間、母の荷物を引き取りにたちよった時も、いつも母の健康管理をしてくれていた日勤の看護師と鉢合わせし、状況のあらましを説明した。「次に来るときは、片づけになるけれど。いろいろ、本当にありがとうございました」というのが精一杯で、泣いて言葉にならなかった。看護師は「よく頑張りましたよ。本当に頑張ったじゃないですか」と、泣いて肩を抱いてくれた。御礼を言うのは私の方です。

みなさん、ありがとう。こんなにしていただいて、母はとっても幸せ者です。悲しい思いを抱えて入居し、最後まで帰りたがっていた母だけれど、少なくとも、私たち家族はみなさんに安心して母をお願いすることができました。たったの3か月のホームでの暮らしは、家族にとっても、母にとっても、胸がつぶれる思いばかりだったはずなのに、今はホームを出ることがとても寂しく切ない。「有り難い」出会いがたくさんあり、ひとりひとりの心遣いや励ましのおかげで、私たち家族は、短い間でもゆとりをもって乗り切ることができたのだと思います。本当に本当に、ありがとうございました。

スタッフのみなさんへの感謝で胸が詰まる。きっとみなさんの気持ちは母にも届いていることと思う。そう思いたい。

あとは、孫たち(うちのちび)をどのタイミングで連れていくのかが問題だった。苦しむ姿、見るに堪えない姿を幼い子供に見せるのは忍びないけれど、母がいかに死を従容しつつも、敢然と生に立ち向かっているかを、見せておきたい気持ちもある。私たちにとってどれだけ大切な存在であるかも、感じてほしい。いろんな思いのなかで逡巡する。

が、夜、ムスメだけを伴って、ホスピスを再訪した。もともと死生に関して感受性の高い子であり、母の置かれている状況を、自分なりに必死に受け止め見極めようとしているのがわかるから。過酷だけれど、優しく、寡黙で、あたたかく、頼りなげな祖母がどのように生きているのか、死んでいこうとしているのか。ムスメはきちんと見つめて、泣いたと思う。そのあとのケアは、彼女の親であり、母の娘である私が責任をもって引き受けるしかない。ムスメは、「明日も学校を休んでババのところに行く」と言う。私はそれでもいいと思う。

今日から母と私たちは「家族室」という看取り家族専用のコネクティングルーム式の病室に移った。今日は父と妹が泊まり込んでいる。明日は、私が泊まるつもり。いや、明日はみんなになるだろうか。母がさびしくないよう。でもうるさくないよう。賑やかに、あたたかに、穏やかに、最後まで母を見守り、見送りたい。

どんなに悲しくても、最後の瞬間が、母にとって本当の自由と解放となりますように。

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2009年4月15日 (水)

帰りたかった家

今日、母は、40年近く暮らした家に戻った。

医療搬送の民間サービスを利用して、ストレッチャーのまま送迎してくれる業者をくりにっくから紹介してもらって、3か月ぶりの、そして最後の帰還。

昨夜病室に泊まり込んでひとばん付き添ったけれど、刻々と衰弱しているのがわかる。それこそ、ひと眠りして覚醒するたびに、できなくなることが増えている感じだ。

かろうじてスプーンで数匙のめていた液体も、もはや嚥下ができずにむせてしまう。右手も右足も、自分の意志で動かすことはできない。痰の吸引をしようとチューブを挿入しても、拒絶する力が残っていない。痛む頭部を触りたくても、左手を頭に持ち上げる力がない。腫瘍のせいか、脳内圧の亢進のせいか、39度近く発熱したまま下がらない。

加えて昨夜は、残された左半面の顔(こめかみから頬骨あたりにかけて)に拘縮が。縮緬のように肌がくちゃくちゃになり、口角があがったままになって数分固定。かつて、右半面が痙攣した初期症状にとてもよく似ている。それほど強烈なものではないけれど。最初は苦痛に顔をゆがめているのかと思ったが、やっぱり痙攣様の現象みたい。体位転換をしようと、後頭部に腕を差し入れると痛がる。

毎朝ある回診では、主治医に「左脳にも腫瘍が及んでいる可能性があり、発熱や半身麻痺、顔面痙攣なども脳内圧亢進による影響が考えられますね」と言われた。もう何を言われても驚かない。

自宅への一時帰還は、妹と私、そしてたぶん誰よりも母が切望していた最後ののぞみなんだけど、完全に思考と記憶が混乱・錯綜している父は「帰りたいと言っている意味がわからない」「今帰ってなんの意味があるのかもわからない」を繰り返すばかりで、実現は難しいと思われた。しかも、昨日は雨で、母の体調も芳しくなく。このまま、きっと、願を果たせないままお別れするのかと思って悲しかった。

が、今朝になって父もどういうわけか気持を変え、天気は晴れ。母の熱も解熱剤でコントロールできそうだということになり、急きょ搬送業者に連絡をとり、受け入れなどの算段をし、オットにも同行してもらって、午後13時、帰還は実現した。

「いまさらでもいいから、せめて”帰れた”ということだけでもわかってもらえたら」。それが、私たち家族の最後の希望だった。

鎮痛剤等のせいで移動中は終始うとうとしていた母だったが、搬送車からストレッチャーごと外に出て、実家の外階段に入ると、反応が変わった。もはや言葉にならないけれど、声を発し、家族の存在を確かめるように手を伸ばし。狭い外階段を担架で運びあげられる時には、あきらかに「ここはどこか」わかっていたと思う。

一足先に父を伴って実家に入り、受け入れのための整備をしていた私は、母が、住み慣れた家のにおいを感じ、かつての自室のベッドに移されたあと、覆いかぶさって泣く父の背中をさすっているのを見た。お母さんは、ちゃんとわかっている。家に戻れたとわかっている。と、思った。妹とオットと私は、父母を部屋に残して、ダイニングで昼御飯を食べた。

かつて、妹や父と激しい葛藤を繰り返して、悩み、苦しみ、かなしんだ母の思いがつづられた「連絡帳」に眼を通す。そこには、衰えていく母の筆記能力の履歴と、やりばの苛立ち、やりきれなさを母にぶつける妹の苦悩と、家族の軋轢に耐えきれずに眼をそむけようとする父の嘆きがびっしりと記されていて、遠まきにみてきた私にはとても苦しかった。

「こんなに苦しく悲しい思いをしながら晩年を暮らした家でも、それでも戻りたかったんだね。苦しく悲しい思いをしたからこそ、”もういちど”と思ったんだね」そう思うと、あとからあとから涙が出てくる。

実家までのわずか10キロメートル足らずの道路を、車を走らせながら思ったことも同じ。

「こんなに近くだったのに、一人では帰ることができず、帰っても居場所がないからとあきらめて、それでも、どうしても帰りたかったんだね。帰りたくて帰りたくて、もしかしたらそれは”家”ではなくて、とっくに失ってしまった”時間”とか”暮らし”だったのかもしれなくても、それでも帰りたくてしかたなかったんだね。」と思うと、あとからあとから涙が出てきた。

医者は「元気なら泊ってきてもいい」と言ってくれたのだけれど、父の「かわいそうだから病院に戻そう」という声で、たった1時間半の短い帰還は終わった。母の体調をおもんぱかって恐る恐るだった父の気持もわからないではないから、私たちはそれに従った。でも本当は、もっと家にいさせてあげたかった。

まぶしいくらいに晴天の4月15日。桜は散ったけれど、ハナミズキやケヤキやヤナギの新緑がはじけんばかりに伸びる、翠嵐の午後。今度こそ、二度と帰れない家をあとにして、母は、父と一緒に病院に戻った。

病院に戻ると、体が熱かった。疲れたのか、解放されたのか。

日単位のいのちは、あと1週間もってくれるだろうか。来週の今日は、私の誕生日。40年前の同じ日に、25歳の母が私を生んでくれた日だ。そしてこの日私は、母が脳腫瘍をわずらった最初の年齢・40歳になる。

だからなんだ、とは思うけれど、もっと生きてて。お母さん。

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2009年4月14日 (火)

「週単位」から「日単位」へ

舌根沈下による呼吸困難(無呼吸)状態が著しい。炎症性発熱(腫瘍によるものらしい)も続いている。口呼吸により口腔内の粘膜はほとんど乾燥してカピカピに。

でも、鎮痛剤や鎮静剤をもちいなくとも、母はほとんどうつらうつらしている。ほとんど栄養も水分も摂取していないのに、尿意はあるらしく、脱水症状もなし。

脱水症状だけは気になって、朝の回診時に先生に質問。「ここ数日水分をほとんどとっていないんですけれど、大丈夫なんでしょうか」という問いに、先生からは「このような衰弱状態になると、水分代謝もかなり抑制されるので、思っているよりも大丈夫なんです」と。

うとうとしている状態は薬によるコントロールではなく、衰弱による自然な体力維持システムによるものだそうだ。つまり、かなりローモードで体を維持していることになっているらしい。ここ数日の、急速な衰退が気がかりだ。「帰ろう」と決意していた私たち姉妹だけれど、母の衰弱を心配する父の反対にあい、泣く泣く断念。

主治医(若くて誠実な緩和医療専門医)の回診時、母の予後について再び訪ねる。

「週単位で状況をみていきましょう、とおっしゃっていましたが、現状はどうですか?」

という私の問いに先生は、

「そうですね…。われわれの分野では、予後測定の単位のめやすとして「月単位、週単位、日単位、時単位」といった基準を用いるんですが、お母さんの場合は、週単位から日単位への移行期と思われます」と言われた。

そっか。日単位か。ということは、最悪は「来週」はないのだな。穏やかに眠っているだけのように見えて、かなりの測度で腫瘍は進行しており、おそらくあと1週間、10日のレベルなんだろう、とあらためて覚悟する。

母は、ほとんどをうとうとしているものの、たまに覚醒して、(眼は半開き出し、言葉は判読不能でも)手を握ると意思表示してくれる。たまらず胸に突っ伏してなく私の頭を、おぼつかない手で撫ぜながら、あやすように励ましてくれているようだ。

「日単位」は早すぎるなぁ。急激に衰退していることが見て取れてつらい。

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2009年4月13日 (月)

「3千円」で帰れる。

一時的鎮静の効果があって、今朝は覚醒(正気とでもいえばいいのか)していた母。今日は妹に頼んで、一日オフにしてもらうつもりだった。嵐のようなこの1週間に、すっかり後回しになって寂しさもピークに達していたちびたちの心のケアをしてやりたい、と思っていた。でも、「起きている」のなら、それこそ今のうちに、ちびたちも含めて会わせてあげたかったから、予定を変更し、妹のお弁当とコーヒーを用意し、オットとともにこどもを伴ってホスピスを訪ねることにした。

母は「覚醒」しているとは言い難い状態(正確には、まどろんでいる感じ)だったけれど、手を握ると、私とオット、子どもたちの判別はできたようだ。「あら、すごい」という言葉もおぼろげながら聞き取れた。

午前中、ホームで懇意にしてくれたケアスタッフが2名、出勤前にお見舞いに立ち寄ってくれたという。担当のスタッフも、昨夜勤務後にプリンをもってきてくれたそうだ。忙しく疲れているだろうに。もう、ホームの契約も解除するのに。優しさがありがたく、切ない。

そのスタッフの方から伝え聞いた話を、妹から聞かされて、私は今日も号泣した。

一昨日、狂乱状態に陥った母は、筆記用具を要求し、手渡したノートに、判読不可能な数字と、「3千(チとも読めた)」という文字を書きつけ、そのノートを命綱のように両手で抱え込んで離さなかった。

その前日にも、スタッフに「三千円借りたから返さなければ」と繰り返す場面があった。

ほかにも「お金を持っていないから借りたんだけど、返さなきゃ」「行先を書いておかなきゃ」といった言葉を口走ることが多かった。思えば、異変の予兆だった。

「でも、なんで三千円なんだろう」「なんで、メモに書きつけたんだろう」と、疑問には思っていた。今日、病室を訪れたスタッフの話から、その理由がわかった。

「お母さまは、ホームからご自宅に戻るのに3000円あれば、帰り方がわからなくても、タクシーに乗って行き先を告げて送り届けてもらえると思っていたのです」ということだった。そしてそれは事実だ。道路の状態によるが、実家とホームは3000円あれば余裕で戻れる距離に位置している。そして、これも初耳だったが、母は過去に一度だけ出先で見当識生涯のために家への戻りかたがわからなくなり、警察のお世話になったことがあったのだそうだ。妹に教えてもらった。

その一件依頼、母は、もしもの場合に備えて、自宅の住所と連絡先、そして目と耳が不自由であることの但し書きを書いた手紙と、3000円を入れた「迷子札」のようなキットを鞄に入れて外出した時期があったそうだ。その後まもなく、一人での外出も不可能になり、そうした備えもほとんど無用になってしまったけれど、母にとっては、見当識障害で家に戻れなかった出来事は強烈な記憶となったのだろう、と察する。

行き先と3000円さえなんとか工面できれば、家に戻れる。ノートになんども「3チ(千)」と、自宅の電話番号らしき数字(のようなもの)を書きつけては見せる、錯乱した母の必死な顔が蘇る。その切実な願いの深さ重さが押し寄せてきて、ただただ悲しい。

母は、そんなにも、「家」に帰りたかった。あたりまえのことだけど、正気を保っていた間の母は、「仕方ない、みんなでは暮らせないから」と言って、事情を引き取ってきたし、実家に戻りたいという具体的な願望を口にしてきたことはなかったから。てっきり、クールな母のことだし、実家に執着はないのだろうと思ってしまった。実際、「実家」そのものが大切だったのではないとは思う。

「どこで暮らすかが大事じゃない。誰と暮らすかが大事なの」といい続けてきた母。でも、それは正確ではなくて、「どんなふうに暮らすかが大事」だったんだと思う。

生活機能・能力がどんどん衰え、視覚・聴覚障害といった身体障害のみならず、失禁や見当識障害といった認知障害まで抱えるようになって、「もう、家族と一緒にいままでのような暮しは維持できない」とあきらめざるを得なかった母の絶望。家族に負荷をかけまいと、施設に入ることを自ら決めた母の覚悟。それはみんな本当だったのだけれど、母はやっぱり、「みんなとの暮らし(ができていたころ)に帰りたい」ということだけを切望してきたんだと思い知らされた。

せん妄が激しくなる前も、錯乱してからも、ずーっと「帰りましょう」「連れていって」「帰るところがない」「どこにも行くところがない」「三千円借りたから、返さないと」「送ってくれれば帰れます」「あなた方の手は借りません」といった言葉を繰り返し発してきた母。

ホスピスに再入院して鎮静の処置を受け、効いてくるまでの間、ずっとうわごとのように「起こして」「連れてって」「帰ろう」と繰り返し、何度も起き上がり、出口を求めた母。

鎮静が効くまでの間、「トイレに行かせてください」と、用便のことだけをひたすら気にかけ、安らかに眠ることのできなかった母。「おしも」のことは、ひとの尊厳の根幹だから、どんなに我を失いそうになったとしても、粗相だけは気がかりでしかたなかったんだろう。はじめて認知障害を指摘されたときのきっかけも粗相だったから。

今日も時折「帰ろう」「連れてって」と口にする母を見て、その思いが、私たちが思うよりもずーっと、はるかに、想像を絶するほど強く深いものであることを思い知らされて、苦しかった。身もだえするようなやりきれないかなしさ。

母が「なんとしても帰りたかった家」は、もうない。母にとってだけないのではなく、私たち家族みんなにとっても、過去の幻影のようなもの。家はあるけれど、そこに暮しはない。

それでも、ホーム入居の前日、腑抜け状態の父にあてこするように、身の回りのものをかき集めて、母を保護し、まるで「ちょっとお泊り」にでも出かけるかのようにあっさりと、母を永遠に「家」から連れ出して、そのままホームへ送り届けてしまった私は、今さら自分の愚かさを思い知る。母は、長年暮らした自分の「家」に、ゆっくりと別れを告げる猶予も与えられないまま、娘たちによって「終の棲家」に移されてしまった。

それから3か月の間にすべてが変わってしまって、母はいま、全身全霊をかけた願いを繰り返す。「帰ろう」「連れて行って」「帰りましょう」「どこに変えればいいの?」「帰る場所がない」と。「三千円あれば、行き先を告げれば送り届けてもらえる」と信じて。

妹と、「お母さんを、家に連れて行ってあげよう。短い時間でも、お母さんの指定席だったダイニングの一隅に座らせえて、懐かしい匂いを感じさせてあげよう。多少、薬の準備などは必要かもしれないけれど。もう、匂いも何もわからないかもしれないけれど。そこに母の望む暮しはないけれど、それでも”おかあさんの家”なんだから」と話して、オットの助けを借りることを想定に入れて、算段する。もちろん、父にも一緒に「帰って」もらうつもり。

こんどは、お金の心配をしなくていい。家族と一緒に帰れるんだから。短い時間だけれど、おうちに帰ろう。目覚めていられるかどうかわからないけど、帰りたかったところに、みんなでちょっとの間でも帰ろう。家族の気休めかもしれないけれど、みんなのために、帰ろう。

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2009年4月12日 (日)

セデーション

ホスピスに入った母は、数時間の格闘の果てに、鎮静剤の坐薬を入れたことで深い深い眠りについた。おそらく1週間ぶりの、連続した、深い睡眠だと思う。

母だけでなく、妹も私も、「夜間は十分に休養する」ことを優先することで基本合意したため、昨夜は、ほんとうにほんとうに久しぶりに、ぐっすりと眠ってしまった。もちろん、携帯電話を枕もとにおいて、いつでも飛びだせるようにはなってはいたけれど。

事実上のセデーション(鎮静)に入ったと認識している。最終鎮静ではなく、一時的な鎮静ではあるけれど、余命1か月もない人間にとって、一時的鎮静と断続的終末鎮静との境目はあるんだろうか、と思うと、その峻別はほとんど意味無いと思う。

妹と病室で落ち合って、昨日の様子を聞く。早朝、トイレに行きたいという母の願いで、個室内のトイレで用便を済ませたあと、薬効が切れたことで、やや多動・不穏な気配が見られたために、坐薬を追加。昨夜、デュロテップのパッチ(貼付式モルヒネ)を中止したために、痛みの度合いがどの程度になるかが心配されたが、いまのところ耐えがたい痛みは感じていないようすらしい。

早朝の坐薬が効いたのか、母はほとんど今日一日をベッドのうえで熟睡またはうとうととして過ごした。発熱・発汗が目立ち、うとうと時には腫瘍部分に手をもっていく素振りが見られ、たまに顔をしかめる。失禁はしておらず、トイレの失敗に対する不安は相当根強いものがあるもよう。

看護師に、痰の吸引と、オーラルケアをしていただき、妹と2人がかりで清拭と着替え。舌根沈下のせいで頻繁に無呼吸になるのが気になる以外は、よく眠ってくれているけれど、

昨日から食事はおろか、水分もほとんど経口摂取できていない。

たまーに「起こして」「連れてって」「帰ろう」という言葉が聞き取れると、やはり切ない。「痛い」という言葉も聞き取れたので、モルヒネを中止したこともあり、痛みどめの坐薬を入れる。このまま息をしなくなってしまうのではないか、という不安は多少ありながらも、眠る母を横にして、片手ずつ握りながら、妹とこれからのことや、胸の内をさんざん話まくる。

これまでの母の壮絶な苦しさ。絶望的に悪性のグリオーマから奇跡的に生還したとはいえ、まるで真綿で首を占められるように、じわじわと「できないこと」が増えていく恐ろしさ。それと比例するように家族(特に父)と隔たっていくことへの寂しさ、悔しさ、虚しさ。ハンディキャップの増悪は、父から「現状を直視する強さ」を奪い、父の人生から母を排除する結果を招き、それは結局最後まで変わることがなかった、という事実への深い深い母の絶望。

私たち姉妹と家族の、母の病気の末期に対する取組みをみた何人かの人は、「娘さんっていいわね」「家族っていいわね」と、無邪気に感心し、労ってくれる。でも。実際には、救われ得ない葛藤やら、怒り、絶望といったものが私たちの胸中にはどす黒く渦巻いている。そのほとんは父に対してなんだけど、表裏をなすものとして、自責の念も日に日に増している。ホームで私たちの報告を待つことしかできない身の父は、考えてみれば哀れだし、同情もする。

しかし、酷薄なようだが「いまさらどんなに泣いても、悔やんでも、謝っても遅いよ、お父さん」と、私たちはどこかで父を突き放している。錯乱する母と全力で対峙し格闘し、抑制しながら、泣いて詫びる私たちのその目の前で、「落ち着いて(=母が亡くなって)自分一人で家に戻ったら、家の中を独居に向けてこんなふうにしようと思うんだ」と、悪びれずに口走る父に、憎悪に近い気持をもつことが少なくなかったが、ここに来て、妹も私も、「お父さん、確実に、なにかが壊れたね」という確信をもつようになった。

父には、現実を理解し受け入れ、処理できるだけの力がないのだ。ただただ混乱し、断片化した思考を思いつくままに口走り、そうやって自分の心を落ち着かせている(つもり)なのだ。私たちの知っている、期待している父は、もうどこにもいないのだ、と私たちは覚悟した。かわいそうなお父さん。自分でもわかっていないくらい、弱くて、脆くて、軟な人だ。途中で変質してしまった結果だとしても、父の地金が出た。

母は、そんな父の本質を見抜いたのだろうと思う。数日前まで、父の名前と存在を必死に求めていたのに、2日前からピタリと父を求めなくなった。かわりに、妹に心と体を預けようとするようすが増えている。最後に、自分の行き場のなさ(体だけではなくて、たましいの行き場)を受け入れざるを得ず、その切ない気持を共有して、寄り添ってくれる相手に妹を選んだということだろうと、私は理解している。お母さん、それがいいよ、と思う。

人は、観念論だけでは生きていけない。知的コミュニケーションだけでも生きてはいけない。最後は、やっぱり触れ合いだ。弱り、衰え、滅ぼうとする自分のからだを、ありのままの自分を(たとえ苦しい葛藤や格闘が生じたとしても)受け入れて、汚いものも含めてすべて、「手を汚して」触れてくれる人が、最も尊いのだ。そして、母のすべてを受け入れて苦しみ、母から離れて自分を責め、再び母に尽くそうとしている妹は、いちばん尊い。

最後の最後に、母の意識と記憶から締め出されてしまった父は、途方に暮れた迷子のような立場になってしまった。あんなに求められていたのに、いまはもう存在すら口にされない。手を握っても、頬ずりしても、わかってもらえない。仕方ないよ、お父さん。求められている時にこたえなかったんだもの。呼んでも返事がなければ、「いない」と思うのが自然だ。いるとわかっているのに返事をしない=スポイルしてしまったのだから。母のなかでは、「父はいないもの」となりつつある。

そのことについて、妹と私は、またふたたび泣く。かわいそうなお母さん。かわいそうなお父さん。あんなに絆が強かった夫婦の気持ちは、もう通いあわないのだろう。これから鎮静の時間が増えていくことを考えれば、そのチャンスを失ってしまったのだろう。どんなに愛し合った間柄でも、メンテナンスのない関係は滅び去ってしまうのだな、と思う。

意識レベルを下げたお母さんは、いま、何を思っているのだろう。目覚めればまた、落着きなく、話すことも、聞くことも、見ることもできない不穏な時間が待っているならば、このまままどろみの中にたゆたっているほうが幸せなのだろうか。

できることなら、もう一度、私たちの顔をわかって、名前を呼んでほしい。冗談を言って笑ってみせてほしい。私たちの手を握って、さすってほしい。子育てのことなんかを話しあいたい。おいしいものを作って食べてもらって、喜んでもらいたい。そうして、お父さんが、本当はへたくそだし、決して上等ではないけれど、お父さんなりにお母さんのことを思い、なんとか心を通わせたいと思っていた(実際には遠く及ばなかったけれど)ことを、感じてもらえるようにしたい。

お母さん。私たちのお母さん。私のお母さん。家族みんなから、こんなに必要とされていたんですよ、私たち、お母さんにどれだけ感謝しているか計り知れない、お母さんのこどもでよかった、と何万回でも叫んで伝えたい。

でも。どんなに言葉を重ねても、書けば書くほど陳腐で、無意味だ。書かないと胸が苦しくてパンクしそうだから吐き出すしかないけれど、この苦しさの前に、どんな慰めも、労いもまったく意味をもつことができない。

家族にも、この悲しさの緩和の特効薬はないものか。

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2009年4月10日 (金)

退院、錯乱、再入院。

ログを見たら、ホスピスに入ったのは7日(火)となっていた。今日は10日(金)。まだ3日しか経っていなかったんだ。この4日で、すべては一変した。

7日(火)、サチュレーションが下がってホスピスに入った母だったが、入院からほどなくして容体が安定し、翌8日には相当に持ち直し、不穏(そわそわ、イライラ、内側から衝き立てられるような多動感にさいなまれる感じ)があるものの、父とホームに戻りたがるので、医師の診断とホームの受け入れ体制の許可を得てホームに戻った。

担当のスタッフは「もうお戻りになれないと思って、非番のスタッフもオフ返上で出勤してきたくらい衝撃が大きかった。戻ってきてくれてうれしい」と声を詰まらせながら歓待してくれた。母も表情が柔らかく、父も安堵し、しばらくはすべてば「キープ」されるものと思われた。スタッフに促されて、妹も私もホームを後にし、我が家で夕食を共にして眠った。どこかで「母は本当に大丈夫だろうか」と思いながら。

翌9日。ホームに母を訪ねると、施設長と看護師長がそろってお目見え。予感は的中した。昨夜、母はせん妄がひどく、転倒防止のセンサーを鳴らしまくり、巡視にいくスタッフに敵意むき出しで拒絶し、ほとんど一晩中保護と監視が必要な状態だったという。母の安全確保と夜勤スタッフの業務維持の観点から、母一人を夜間居室に置いておくのは不可能、という判断があり、家族か(それは負担が大きいと思うので)見守り専門のスタッフを充当してほしいという要請。

妹と相談し、母が身内以外のスタッフを容易に受け入れるとは思えないので、姉妹交代で泊まり込み見守る方法を選択。スタッフに頼んで、居室にベッドを入れてもらい、1晩ずつ交代で泊まることに。私は4月の仕事を断って体を空けているが、妹は日勤の仕事がある。それを父に頼み込んで1ヶ月の経済的保障をしてもらうかわりに、妹も1ヶ月の休職を申請し、姉妹そろって看護にあたることに。

最初の晩は、なりゆきで2人そろって泊まることになった。

母は落ち着いている時と不穏の時との落差が激しくなっている。特に不穏の予兆が見え始めてから鎮静剤を飲ませるまでのタイムラグを計算に入れないと、少しでもタイミングを損ねると、薬を飲ませること自体が非常に危うくなるほど、せん妄や錯乱が激化している。筆談はほとんど不可能。視覚はもちろん、たのみの綱だった嗅覚も相当低下。

妹と私の判別も、恒常的につかなくなっている。ひどければ、父の存在も判別不能。

一度ホームには戻ったものの、そう遠くない先には、医療介入がなければ平穏な生活ができないところまで来ているような気配がする。私よりも母への感情移入が大きい妹は、「最後まで私が見るから」と頑張るけれど、神経が張り詰めているのがわかるから、そう長持ちはできないだろうとも思う。

2人で泊まり込んだこの日は、不穏時の頓服として処方されたリスパダールを服用したことで、母は至極穏やかで、3時間ごとにトイレで目覚めるものの、それなりに落ち着いて休めた。「これなら交代でなんとかいけそうだね」と楽観し、翌日は妹が泊まり込み、朝9時から私と交代することに。ところが…。

泥のように眠ってしまった私の携帯には、昨夜、妹からリアルタイムの状況報告が入っていた。母は錯乱状態が激しく、昨夜は薬が切れてから、次の服用可能な時間までのタイムラグをしのぐのが大変で、かなりの修羅場(妹曰く「バトル」)だったそうだ。あわてて、朝ホームに駆けつけると、母の薬指は紫色にはれ上がり、疲労困憊の色こい妹が眼を泣きはらしていた。聞けば、昨夜暴れた母を抑制する際に、どこかでぶつけてけがをしたらしい。心配したが、母はすでに穏やかで、非常に平和的な空気が流れてはいた。

涙のわけを訪ねると、今朝、薬が効いて穏やかになった母の言葉に泣いたとのこと。以下、妹と父からの伝聞要約。(安静だけれど身内の認識が定まらなくなっている母が、めずらしく清明な意識で、)妹のことを(他人と勘違いしている)父に話したらしい。

「この子はね、私の娘なんですけれど、とってもいい子に育ったでしょう?不器用で口が悪いけど、どんなに大変なことでも頑張ってやってくれるんですよ。この子の上にももう一人いるんですけれどね、その子もがんばりやなんですよ。私の自慢の娘たちなんです」

と、話したそうだ。昨夜のバトルで、とっくみあいに近い格闘で疲れた妹には、堪らない母の言葉だったことだろう。さらに、妹には

「私ね、どこにも帰るところがないのよね。どうやって帰ったらいいのかもわからないし。だから、あなた、一緒に帰ってくれない?一緒に帰りましょう。ね?連れて行ってくれる?」

悲しい言葉。悲しいお母さんの思い。その一部始終を聞いていた父は泣いて泣いて、胸が苦しくなって、自分の部屋に戻って横になったそうだ。

思えば母が錯乱するその前日、私は母を車いすに乗せて、ホームのまわりを少し長く散歩した。このときも、珍しくクリアな言葉と意識で「ちょっとお話しましょう」という母に促されて、近所の公園のベンチで、ゆっくりと話をしたのだった。うららかな陽気と、気持ちのよい風にだまされて、「このままこんな時間が続く」なんて錯覚しながら、母の言葉を聞き、泣いたのだった。

「ちょっとお話しましょう。私ね、こんな風になる前に、話しておきたかったことがたくさんあったのよ。今はもう、うまく言えないんだけど。私ね、あなたには本当に申し訳なかったな、と思ってるの。あなたには自分の家族と子どもと仕事と生活があるのに、わたしのせいで迷惑をかけちゃって、ごめんなさい。ほんとうにごめんなさいね。ごめんねしか言えないわ。●●●●さん(オット)にも謝らなきゃ、って思っていたの。小さい人たちとも、もっとたくさんお話したり遊びたかったわ。よろしく言ってね。かわいい人たちに、よろしく言って」

「あの子(妹)ね、一人でしょ?私もここで一人でしょ?だから、もしあの子さえ良かったら、一緒に暮らしたらどうかな、って思ってるの。あなたどう思う?そうすれば、お金も無駄にならないし、さびしくないんじゃないかなって思うのよ」

昼下がりの公園には、小さい子どもとママたち、わずかな通行人しかいなかったけれど、あまりに悲しくて、人目もはばからずおお泣きしてしまった。車いすのお母さんの膝に突っ伏して、ただただ泣いてしまった。聞こえないってわかっていても「お母さん、ごめん。」としか言えなかった。謝るのは私の方。申し訳ないのは私の方。

その日の晩に、母は錯乱して妹を困らせ、ひと夜明けてから、またもクリアな言葉で妹のすべてをねぎらい、妹の後ろめたさをぬぐってあげ、今日、ふたたび錯乱した。

それはもう、錯乱という域を超えて、発狂、いや狂乱に近いものだった。

リスパダールを増薬し、さらにセレネースを毎食後に服用することに決まった矢先だった。いつもならリスパダールを服用すれば、間もなく沈静するにもかかわらず、今日は1時間経っても一向によくなる気配がない。それどころか、ますます攻撃的に、敵対的になり、不穏が強い。私の顔すら、感触すら判別できず、体に触れると「大きな声を出しますよ!あなたなんですか?」と怒気をはらんで拒絶する。

歩けないのに、車椅子から立ち上がろうとし、転倒を恐れて体を支えようとすると「抑制」と勘違いして大声を上げ始める。「だれかー!たすけてー!!」と、聞き取りにくい発音でひっくり返った声を上げ、手をつねり、足でけり、髪の毛を引き抜こうとして、腕にかみつく。ナースコールで看護師を呼び、3人がかりで抑制しようとするが、興奮と錯乱は激しくなる一方。ナースが「どうしますか?」という目でこちらを見るので、決断する。

「ホスピスに戻します。ドクターに連絡してください。もう、ここでは無理です」と答える。

提携医とナース、施設長、ホスピスとの間でやりとりがあったのか、30分ほどして、ホスピスへの搬送のてはずが整ったとの連絡があり、そのまま母を抑制しながらホスピスに移す。搬送中も全身全霊の力を振り絞って暴れる母を抑える。

ホスピスに着いたのは、発狂から4時間後。それでもまだ多動と興奮、混乱が収まらない母に、リスパダールを倍量入れるが、それでも反応変わらず。仕方なく坐薬で沈静剤を入れて、待つ(待たせる)こと1時間。20時になってやっとダウンした。格闘5時間。地獄。

緩和ケアのドクターと相談して、最期までクリニック(ホスピス)で診ることにしてもらった。今後は錯乱も苦痛も倍加するだろうということで、24時間の適切な医療介入が不可避とのこと。また、家族や環境の変化に対する感受性も落ちているので、今後は医療環境を整えて、母の心身の苦痛をいかに取り除くかに集中すべき、という判断から。

私はそれに合意し、父と妹には事後報告をした。

そして、ホームには「今度こそ、もう戻れません」と一報入れた。さびしいけれど、感傷よりも、いまは母の安寧と、ホームの他の入居者の方々の健全な暮らしが優先だから。

クリニックの医師からは、今後は沈静を視野に入れた緩和中心の処置がメイン。夜間も睡眠をとれるよう、適宜薬剤を投与して体力を安定させるので、ご家族もいよいよの時まで、夜間は体を休めるように。という進言をいただき、言葉に甘えて家に戻る。父は、様子が見えるまではホームで体を休めるように頼み、了解してもらった。

何の心配もなく夜を過ごすのは、何日ぶりだろうか。そして、母の容体を案じながら過ごす日々はあとどのくらいなんだろう。

「自慢の娘たちなんです」「いままでごめんなさい」「私には帰るところがない。どうやって帰っていいのかもわからない」「あなたの家族を大切に」「さびしいから一緒に暮らしたらどうかなっ、て」…

家に戻り、一部始終をオットに報告した。母の「遺言」と、昨日今日のうららかな公園の時間が頭に蘇って涙が止まらなくなる。決して、めったなことでは涙を流さないオットが、一緒に泣いてくれた。それがなぜか心底うれしかった。

お母さんが、お母さんでいてくれる最後かもしれない公園の時間。でも、その最後の時間まで、お母さんは、本当に自分のことより、私たちのことを心配してくれていた。そのことが、切なく、かなしく、ありがたい。私たちの誇りの、自慢のお母さんは、どんなときもやっぱりすごいお母さんなのだった。

明日は、朝から、クリニックに妹と行く。目覚めたお母さんがどんな状態なのかわからないけれど、自慢のお母さんだから、どんなお母さんでもいい。

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2009年4月 7日 (火)

さよならホーム、今日からホスピス。

朝、父から「母の容体が急変した」という電話が入った。「ついに来たか」という気持ちと、「父から、というところがどうも…」という冷静な疑問とが入り混じる。「サチレーションが急激に下がり、徐脈。単座位ができず、意識も不鮮明」なので、ナースとオンコールでやりとりして処置しているという。でも、なんでホームから連絡がないの?っていうか、父の説明はいまひとつ要領を得ず、(父の癖で、やたら専門用語や具体的な数値・名称を用いるんだけど、「で?」というところがわかりにくい説明をする)私にホームへ来てほしいと言ったかと思うと、まだ妹には伝えなくてもいい、と言ったりする。

昨夜から39度もの高熱を出してダウンしているオットと、溶連菌の余波で外出を禁じられているムスメを置いてどうやって外出するのか、策を講じるもノーアイデア。元気なムスコを保育園に送り届けようかと思ったが、確実にお迎えにいける確証がないなか、それも賭け。結局、妹に状況を説明して待機してもらいつつ、オットとチビ2は自宅で過ごしてもらうことにする。

いそいでホームに駆けつけると、母は酸素吸入と血中酸素計測の処置を施されている最中だったが、不穏状態がひどく、あらゆる処置を拒否。私とナースの違いも判別できず、父の手だけを握っているが、まったく制御不能。ありったけの力で自分の体に触れるモノ、手を払いのける。サチレーションは75以下に下がる。出勤してきたナースが、看取りをしてくださる緩和医に連絡をとり、急きょ、ホスピス(看取りをしてくださるクリニック)に入院することに。搬送用の救急車も呼んだという。

明け方から母に付き添っていた父は疲労困憊で顔色が悪い。この状態で、救急車に乗り、ホスピスまで同行するのは無理っぽい。かけつけた救急隊員にも、父のコンディションで救急車に同乗することを拒否された。そこまで責任を負えないとのこと。御説ごもっとも。ひとまず、担当スタッフとともに私が同乗してクリニックへ。1週間に2回も救急車に乗るとは思わなかった。

母は、まだ混乱が激しいものの、鎮静剤が効いてきて朦朧気味。ストレッチャーに移す際に頸部に腕をまわして上半身を起こすと、激しく痛がる。首の転位が相当辛いらしい。これまで気付かなかったけれど、頸部にも相当進行が見られる模様。救急車の揺れは、母の首にかなりの負担をかけているように見えた。手で頭部を支えようと手を触れると、激しく払いのけられた。「勝手なマネしないでください」と語気を荒げる。もう、私と他人の区別もつかないのだ、と思うと覚悟してはいたけれど悲しくなる。

クリニックに着くころには、母はもうかなり反応が鈍くなっていて(逆にバイタルは安定していた)、遠ざかる自意識のどこかで「ここはどこ?私はどうなるの?」とは思っていたかもしれないけれど、そうした言葉も口にしなくなっていた。体位転換や処置にも抵抗しない。虚空を見つめ、首を垂れたまま、何かをブツブツ口にしてはいるけれど、無反応に近い。それもまた悲しくなる。

妹もクリニックに到着。先生のカンファレンスを一緒に受ける。父は体調不良で来られないことも伝え、初対面の妹を先生に紹介。「サチレーションが低いと、今後違う不具合や苦痛が出てくる可能性もある」ので、早めの入院を判断した、というお話がある。また、これまでの経緯と現状を考えると、予後は非常に厳しいことについても言及。私たちも黙ってうなづく。

継続的に飲み続けてきたプレドニンのおかげで、実態よりも軽い症状しか呈してこなかったかもしれないが、実際には腫瘍の脳転移と、それによる脳浮腫はすでに引き起こされていると考えられる。プレドニンが効きにくくなってきたせいで、急激に悪化しているように感じるのかもしれないが、本来の状態が呈されてきたと考える方が自然だというお話も。

覚悟はしていた。していたから、そんなに動揺はしないけれど、「1週間単位で状況を見て判断しましょう。しかし、個人的には1ヶ月は厳しいと思う」と言われるとやはりショック。

今日明日、仕事を休んだということで、妹と算段の結果、私はいったん家に戻ってオットと子どもたちの所用を片付け、夜再び来院することに。その前に、ホームに戻って、当座必要な身の回りのものをクリニックに搬入しなければ。

紙パンツ、着替え、衛生・グルーミング用品などなど、とりあえずすぐ必要なものと、家族の写真たてだけをかき集めて袋に放り込み、部屋を後に。1月9日からのわずか3か月の間にたくさんのことがあった部屋。もう二度とここに戻ることはない場所。ホームに入るために実家を出た時には、そんな風には考え(たく)なかったのに、今日は居室を後にするのが辛い。母にとっては、そんな思い入れもないほど悲しい思い出しかない空間でも。

父には「今日明日はホームに来られないかも。まず体を休めて体力を養って」と労いと断りを入れ、親しいスタッフには「いろいろありがとうございます」とだけしか言葉をかけられないまま、あわててホームを後にする。

こんなに早く、ホームにさよならしなければならなくなるとは。

ホスピスケアのクリニックでは、母は、うとうとするか、不穏になるか、の斑状態。妹に「帰りましょう。お父さんと、あなたと、●●(私)のいるところに帰りたい」と訴えて嘆くか、エキサイトして(身内と看護師が判別できずに)ケアを拒否するか、のどちらか。

夜、妹に夕食を届けがてら、母を見舞う。今日明日は昼は私、夜は妹が付添い、必ずどちらかはそばにいることにする。父をこのシフトのどこに、どのように組み込むかはこれから考える。妹と私がそろって母の手を握ったところで、初めて母は私たち姉妹を認識し、子どものように号泣した。私たちをわかってくれて私たちも今日初めて泣いた。

「いつかこの日が来るとは思っていたけれど、本当にお母さん、私たちのこともわからなくなっちゃうんだね」と言う妹。子どものようにさめざめと、怯えて泣く母の、小さく小さくなってしまった肩を抱きしめて、腫れあがった腫瘍を刺激しないように頬ずりし、足をさする私たち。

「帰りたい」と泣くお母さんに、帰れる場所はない。帰る場所を取り上げてしまったのは、私たち家族だから。「どこで暮らすかではないのよね…。誰と暮らすかなのよね…。」というかつての母の言葉が頭のなかを去来する。それから。「お花が散るように、自然に死にたいわ」という言葉も。ホスピスの窓の外はそれはみごとな満開の桜。外は、眩しい陽光、うららかな陽気で満ちているし、その中を新一年生の晴れ姿やかわいい嬌声が駆け抜ける。去年の今ごろは、私たち家族もあんな感じだった。今年はかなしいいとしい春。

「願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

お母さんが大好きな西行のうたも、一緒に思い出した。

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2009年4月 5日 (日)

いろいろな4月

4月1日

しかかりの仕事、最後のひと山を越した。情報構造とゴールの整理、プロジェクション上の課題抽出、タスクとスケジュールの確認…。よほどのことがなければ、ひとつひとつこなしていくことで順調にことが運ぶような段取りまではできた(と思う)。これで12月からの戦争はひと段落。各方面との事務処理手続きにもめどがつく。肩の荷が下りた。そのまま母のもとへ。比較的コンディション良好。コミュニケーションも円滑。ただし食欲なく昼夕食を拒むのが気がかり。モルヒネの副作用か、腫瘍の影響か…。母と、父の誕生日祝いについて計画。父にプレゼントの希望を訪ねると「お母さんが元気ならそれでいい」と。それを簡潔に母に伝言すると、「それが一番難しい」と一言。考えてみれば気障なセリフだ。ずっと望んでも得られなかった願いを今さら、という気も(私は底意地が悪い)。

4月2日

今日から緊急の要件がなくなるのでホームにもPCは持っていかないで済む。急ぎは携帯にと関係各位に連絡済み。心おきなくケアに集中できる。待ち望んだ日々。今日は父の誕生日。前日からの相談は結局結論が出ず。発熱で休んだムスメと相談し、ムスコとムスメの写真をフレームに入れたものをプレゼントとすることにした。さらにムスメは、ロバート・サブダのポップアップアートのメッセージカードに、弟の分も一緒に祝の言葉を書いて用意。私も、オットと連名で父宛に簡単なメッセージカードを用意。ホームに着くと、母に品を示しながら概要を説明。母も納得し喜ぶ。「お母さん、字、書ける?書いてみない?」と尋ねると、「ずっと書いていないから…」と躊躇しつつも、「書いてみようかな」と前向き。

「●●(母の名前)だけでもいいよ」と、名前を連ねるだけのつもりでプッシュし、母にマジックとカードを示すと、母は緊張したまま、想定していなかった余白部分に文字を記した。

Image040 「おめでとう ●●●●●●」

息を詰めて、一字一字、ありったけの力と思いを込めて書いた拙い文字。でもどんな言葉よりもよりも尊い11文字のひらがな。母の心意気と尊厳が凝縮された贈り物。その重みは父にも十分響いただろう。父は意外な贈り物に嗚咽した。やっぱり、お母さんはすごい。「へたくそね」と照れ笑いしていたけれど、私は携帯のカメラで撮らせてもらった。これから先も、私や妹、みんなの祝いごとのたびに見たいから。

4月3日

穏やかな時間を過ごした父の誕生日から一転、翌日の母は非常にコンディションが悪かった。午前中は、看取りをお願いしているクリニックに、「偽診」と面談を兼ねて母を連れて行く。父と、担当スタッフも一緒に。緩和クリニックの院長先生に父母を引き合わせるのは初めてなので、父母の安心のためにも必要なプロセスと考えたから。ホームに迎えに行くと、母は非常に不機嫌で混乱もしていた。手を握ると熱い。クリニックに着くと不安げ。受診の意図と場所は再三伝えておいたが、嗅覚や気配から「いつもと違う病院」とわかるからか。

院長先生には事前情報として、既往を含めた医療情報は提供されていたけれど、母本人を診ていただくのはこの日が初めて。「面妖」と言っても過言ではなくなってしまった母の状態をみて、先生も「辛かったですね」と声をかける。簡単な問診をするが、今日の母はすこぶる反応が鈍く、筆談は非常に困難。あまりコミュニケーションを強いると、かえって負担をかけると判断し、「耳をみる」とだけ示して、患部視診へ。ガーゼをとると、耳介は赤黒く腫れあがり、一度自壊した膿疱がまた癒着してイチゴ大に膨らみ炎症を起こしていた。熱っぽさや不機嫌さもここから来るのかも、ということになり、圧を下げるためにも切開することに。もはや皮膚は感覚がないだろうとのことで、無麻酔で切開。あまりに大量の膿が排泄される様を見て、父は発作を起こし舌下錠を含む。痛みもあるらしく、母が苦痛に呻く。すべての膿が出た後を見てがく然とする。耳介の裏はもはや空洞。皮膚も壊死。

敗血症の疑いや、頭蓋内への浸潤による髄膜炎を予防するために抗生剤の点滴をすることに。また、現状だと、腫瘍の侵食による頸動脈の破裂、脳浮腫による意識障害や、最悪の場合は脳ヘルニアの可能性もあり、どの症状が台頭するかは予測不能との見立て。まだら状態で、知的能力の不鮮明さや反応の鈍さがあらわれるようになっていることについても、軽度の意識または知覚障害と考えるほうが自然、とのこと。納得。悄然。

この点滴がいけなかった。説明への理解が十分でない状態で点滴針を刺し、驚いた母を看護師が制止したことが刺激となって、母は恐怖と不安でパニックに。それを抑制する看護師との間で悪循環となり、最後は大変な拒否反応と怒りを煽る結果になってしまった。献身的なケアをしてきてくれたスタッフはとんだとばっちりをうけ、母に「裏切り者」と目されてしまい、その誤解をあとから解くことに苦労した。父に助けを求め、なんとか落着きを取り戻したけれど、その日は心身ともに疲労困憊。

そんな状態の父母をホームに残しておけず、寝かしつけまで面倒をみるつもりでいたが、ムスメの発熱が回復せず、しかも頭痛と、耳下腺・うなじ一帯の痛みを訴え、痛みの余り首が動かせないという連絡をうけ、ホームを後にして帰宅。小児科を受診させた。思えばこのところ、頻繁に頭痛と発熱を断続的に繰り返す。すっきりしない。ぜんそく以外は基本的に元気で、風邪もインフルも無縁だったはずなのに。この数か月のストレスのせいか。

受診結果はまたもや「溶連菌」crying 。細菌の種類が違うと、何度でもかかるのだそうな。これで5日間の登校停止が決定。始業式も入学式(こんどは2年生だけど)も欠席。もう、激しくついていない。

4月4日

本当は身内に感染症患者がいるのなら、ホームに行くのは控えるべきなのだけれど、背に腹は代えられず、マスクや手洗いで完全予防して、父母の居室へ直行。完全に食欲減退(ホームの食事に食傷気味というのもあるかも)している母のために、前日、鯛のあらで「潮汁」を作って冷蔵。コラーゲンのせいで、にこごり状態になっているのでちょうどよい。若干塩気を強めに。持参すると喜んで2杯分ぺろりと平らげる。やっぱり、家の味がいいよね。そして、すこしエッジの利いた味付けが、疲れた心身には効くときもある。

実は5日はオットの父の誕生日なので、前夜祭として晩御飯を一緒に食べることが急きょ決まった。こちらまで来てくれるという。19時に戻る約束をしていたが、母のケアがなかなか切りよくおさまらず、ぎりぎりまでかかってしまった。

冷や汗をかきながらも、なんとかやるべきことを済ませようとしているさなか、父が、その横で、知り合いの内装屋に電話をはじめた。「ひと通りのことにけりがついたら、独居になるので、自宅をIHにしようと思う。そんなに先の話じゃないので見立ててほしい」みたいなことをのうのうと話している。その無神経さに無性に腹が立ち、そして情けなく、やりきれなくなって、「お父さん、何考えてんの?信じられない。悪いけど、あとよろしく!」と言い放って飛び出してきてしまった。

何かの誘いや予定の打診があるたびに「落ち着いたら」とお茶を濁してきた妹や私。その「落ち着いたら」は、そんなに遠くない未来と知っているから、そういう「先の話」はあえて避けてきている。仕事の話も、遊びの話も。オットからの「そのうち落ち着いたら運動でも始めれば?」という何気ない言葉や、オットの両親の「GWには遊びにおいでね」という誘いすら、胸に刺さるのに。

「あと」はない。「そのうち」もない。「いま」しかない。そう思って無酸素疾走する私たち姉妹の思いをどう考えているのだろう。やっぱり父と言う人は、最終的に「いつになったら元の自分の生活に戻れるんだろう」という頭しかないんだろうか。やっと受け入れられるところまで来たのに、こうやって、いともたやすく期待を裏切るのかしら。

なんて、毒づきながらダッシュで家に戻ると、ちょっとした言葉と事情の行き違いでオットと口論に。(オットの両親がいたんだけど…)実にくだらない理由による、お互いの語調に対する不快感という、他愛もないものだけど、だからこそ、いかに私たちの心身が疲れているのかがわかるというものだ。なんとなく面白くない感情を抱えたまま、オットは先に寝た。

と思ったら。いやだ。熱があるらしい。どうしよう。いまオットにダウンされたら、もう最後。

泣きっ面に蜂。4月も前途多難。困った!

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