頭頸部腫瘍の専門医の受診日だった。母を伴って病院へ。
中耳癌であることはもう判明しており、本人への告知も、積極的治療もしないことも決めていた。だから、あとは「今後の治療方針と余生の過ごし方」を相談するだけだった。
2時間半待たされた予約時間は、気がつけば外来診療時間の一番最後だった。
先生はとても柔和で物静かな物腰の方で、話していると気持ちが落ち着く気がした。
すでにどんな「治療」も選択しようがないほどであることがまず語られた。であるから、MRIを新たに撮影する必要も、もうないこと。手術はおろか、放射線や投薬治療もまったく意味をなさないこと。今後はモルヒネを中心とした疼痛管理にのみ集中するべきことも。
また、咀嚼や嚥下ができなくなることを想定して、経口で食事ができない場合に「胃ろう」を想定したほうがいいのかどうか、という私の問いにも、「その手術自体の負荷が大きいので推奨できない」という返答が。
「その場合の栄養補給はどうするんですか?」と尋ねると、先生は「その頃には、点滴でラインを確保して、必要最小限の栄養補給とモルヒネなどを投薬するようになるでしょう」と。
ちょっと飲み込みきれなくて、「それはいつぐらいからになりそうなのですか?」と尋ねた。
「4か月…、うーん、もって3か月でしょうか。(今のコンディションが保てるのは)せいぜいこの2か月が山でしょうね。」という答えに、言葉を失う。耳鳴りと脈拍で体が揺れているような感覚。なんとか普通のトーンでもう一度念を押す。
「1年は無理ですか?」
「いえいえ、とてもとても…(あとは首をゆっくり横に振っただけ)」
2か月って、私の誕生日までってことですか?3か月って、GWってことですか?この夏にはもう、お母さんはいなくなっている、ってことですか?夏休みにはムスメのバレエの発表会があるんです。この夏休みは、最後にゆっくり思い出をつくれるように、小旅行なんかを考えていたんです。暖かくなったら、公園や散歩にもっと連れて行ってあげたいと思っていたんですけど…。
どうでもいいようなことがらが、頭の中をぐるぐるぐるぐる。横では、母が私と先生のやりとりを眺めているけれど、もちろん話の内容はまったくわかっていないようす。私の顔色もわからないでしょう。それでも、母の方をまったく見ることができない。
「CTを見てみますか?ほら、ここ(右の耳骨あたり)、見えますか?もう骨が映っていないでしょう。これはみんな腫瘍です。まもなく脳に至るでしょう。その頃には苦痛で意識のある状態にするのは困難かもしれません。ともかく”だんだん痛くなってきた”という思いをさせないように、初期から疼痛管理に集中したほうがいいと思います」
先生の穏やかな口調のせいで、私の緊張の糸は途切れてしまった。涙腺決壊。
「緩和ケアは、在宅でしたいんです。最後は家族がそばにいると実感させてあげたいんです。医療機関に身を預けなければいけない事態はあるのですか?」と泣きながら聞くと、
「それはないです。病院でなければできない処置は、お母さんの場合はないでしょう。在宅緩和ケアの専門医は、入院と同等の処置ができるはずですよ。必要であれば紹介しますし、もちろん病診連携ということでフォローも情報提供もしますから。できることはしますからね」と。
昨日から、鎮痛剤が4時間空けられなくなっていることを伝えると、しばらく考えて、「まだ早いとは思ったけど、オピオイドといわれる薬を出しましょうかね。モルヒネです。麻薬ですから、効きますが、多少眠気や吐き気が出るかもしれませんけれど。少しすると慣れてきますから」と。
来週、再診することにしたけれど、その時はもう母は連れてこなくてよい、と言われた。
そして先生は「ちょっと耳を見せてくださいね。ガーゼを交換して消毒しておきましょう」とボードに自ら書いて母に示し、もう必要のないはずの処置を施してくれた。
「話を聞いているだけでは変だと思うでしょうから。せっかく来てくれたのだから、見ましょうね」と言って。
「はい、終わりです。時間がかかるけど、気長に治療しましょうね。痛みの我慢だけは絶対にだめですよ。痛みを無視すると、こうやって悪化しちゃうのでね。痛みは大事な体のサインですから、絶対に我慢しないでくださいね」と言って。
「薬を変えましたから、今日からは痛みも和らぐはずですよ。それでも痛かったら、頓服薬も出しますからね」と言うと、母は今日一番うれしそうな顔をした。
「はい、ありがとうございました。」と笑って答えた母の手を、先生がギュッと握る。初めての診察。そして最後の診察。こういう先生もまだいるのだ、と心の中で手を合わせる。
診察室を出ようとして、先生に頭を下げる母のすがすがしい表情を見たらいたたまれなくなってしまった。外来診療時間が終わって、人気の少なくなったとはいえ、まだスタッフや患者がちらほら見える待合を、明らかに泣きはらした目で、車椅子を押しながら歩く私を、行きかう人が見ているのがわかるけれど、気にしていられなかった。
たまらなくて、夫にSOSの電話を入れる。「3か月だってさ」としか言えなかった。「落ち着け。ホームに戻るんだろ?おれもそっちに行くから合流しよう」という言葉が、耳鳴りの向こうで聞こえる。母に気取られないように、トイレで顔を洗い、マスクをする。
会計・処方箋の窓口で呼ばれたが、「すみません、この薬は押印が必要なので少しお待ちください」と係員に言われて足止め。麻薬なので、管理が厳しいのだろう。
私が生まれ、ムスメとムスコを産んだ思い出深いこの病院は、母を看取る相談をするための病院にもなってしまった。
帰り道はサングラスをかけて運転。涙が止まらない。「薬が変わってよかったわ」「今晩は安心して眠れるわ」という母の笑顔と言葉がつらい。
ホームに着き、オットに報告をしようとしたが、胸が詰まって声になりにくい。「3か月だって。意識が保てるのは2か月だって。CTにはもう骨が映ってなかった。いまの状態が不思議なくらいだって。」言えたのはこのくらい。
ホームの看護師とスタッフには、できるところまでホームで緩和ケアを受けたい。そしてぎりぎりまで父が寄り添えるように(父が母と一緒に暮らす決心をした、ということを理解してもらえるうちに)、ショートステイでもいいので父もホームに身を寄せて過ごさせたい。在宅訪問緩和ケアを提供してくれるクリニックを手配したい。というようなことを頼んだ。
24時間の医療行為はできないが、夜間訪問診療が可能なクリニックが確保できれば可能だということ。父のショートステイも可能ではあるらしい。詳細は明日施設長と提携医と協議することになる。こういう事態にすら、事務的にものごとを処理できていることに一抹の心苦しさを感じる。
子どもたちをお迎えに、一足先に戻ったオット。私は先に家に戻って、父に報告の電話をする。余命1年と聞かされて泣いた父に、さらに追い討ちをかける残酷な報告。
「GWまで保証できないって。もう骨が映ってなかった。」ということしか言えなかった。ちちは「本当かよ。畜生…」といって、電話口で大声をあげて泣いた。初めて聞く、父の号泣。
すぐにでも母のもとへ移りたい、という父に、自分の目論見を伝えて、明日以降また連絡を入れることを約束する。「そっちへ行こうか?」と尋ねると「今は誰にも会いたくない」と。
しばらくして、妹にも伝えようと、近所にある彼女の家を訪ねると、もう知っていた。たまたま父を案じて電話を入れたら、まだ号泣していたそうだ。
妹はホームに泊まり込む、と言う。でも「いきなりだと、変に思われるから、徐々にしたら?」というと、同意してくれた。しばらく仕事をセーブするつもりだという。私もできることならそうしたいけれど、時期が悪い。いま仕事を「セーブ」するということは、途中で降りるということに等しい。それは現実的に不可能だから。
私の家の前には、保育園があって、18時ころになるとお迎えのにぎわいに包まれる。
最近のこどもはみんな「ママ」というけれど、たまに「おかーさーん」という子供の声が聞こえることもある。(うちも伝統的に「お母さん」と呼んできたので)「おかあさん」が胸に刺さる。おかあさん。おかあさん。おかあさん。こんなに切ない響きだったっけ。
こんなにあっという間に、こんな予期しないかたちで、どこかへ行ってしまうの?
「できれば、花が散るみたいに、自然に死にたいわ。どうしたら上手に死ねるか、よく考えるのよ。このまま生きながらえてみんなに迷惑かけたくないわ。」という母の、ここ数年の、口癖のようなつぶやきを思いだす。迷惑なんかじゃないのに。上手く死ぬより、長く生きてほしいのに。往生際なんてどうでもいい。もっと生きていてほしい。
認知症やら、介護やら、家族の葛藤やら、そんな今までのいろんなことが吹っ飛んでしまうくらいに、ただただ生きていてほしい。いつの間に、こんなことになっちゃったんだろう?
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