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2009年2月27日 (金)

「死ぬまで生きるんです。」

在宅での看取りをお引受くださるクリニックへ行ってきた。

詳しく書いている時間はないけど、どうしても残しておきたくてログ。

「終末期の方との1日は、10年に匹敵するんです。振り返るより、残された日数を数えるより、今日の一日、できるかぎりひねり出した1時間、数十分でも十分に”生きた”時間だということを、これまでお見送りした何百人の方と、その家族から教えてもらいました。

「できることをやりましょう。今、この時間を大事にしましょう。」

「緩和ケアは、痛みをとるだけじゃなくて、心の辛さを和らげることも一環としています。徐々に生命レベルが下がって、緩やかに、穏やかに旅立とうとしている人の邪魔をしない、というのも緩和ケアのひとつだと思っています。点滴での輸液や栄養補給も、それが苦しさを取り除く目的でないかぎりは、ひとりひとり違う生命力の流れに任せて、最小限にします。つまるところ、それが最もその人の体と心に無理を強いないものであることが多いです。」

「あたりまえのことだけど、ひとは、死ぬその瞬間まで生きているんですよね。たとえ意識がなくなっても、命の灯が消えるその瞬間まで、その方の生なんですよね。だから、それを静かに見送ってあげましょう」

見送られて、帰ってくる間、気持ちが穏やかだった。

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父、「入居」。

今日、父は母と同じホームに「入居」する。

ほんの少しの月日を、母と一緒に過ごすために。というのは事実なのだが、どちらかといえば、母に「お父さんも、入居することに決めたって。お母さんと一緒でないと、やっぱり厭だって。」と言うために。

一緒に暮らしたかったのに、一緒にいるとお互いの苦しみにしかならないとわかって、一人でもホームに入ると決めた母だったけれど、認知障害も手伝ってか、入居後は時折「お父さんはいったいこれからどうするつもりなのかしら」「私はもう、家には戻れないのかしら」「結局一人でここにいるしかないのよねぇ…」と嘆くことが増えた。

どうしたらよいのか、解決策を考えようにも、母の思考では到底答えなど見つかるはずもなく、見つかったら見つかったで、希望のないその答えに再び打ちのめされるだろうし。「考えようと思っても、どうしていいかわからないの」という嘆きの方がまだ幾分幸せかも、と思ってきた。

寿命があと3か月と聞いてから、父の決断は早かった。迷っている時間すら、策を講じている時間すらないということがわかって、居ても立ってもいられなくなったのだと思う。

在宅(ホーム)で、最後を看取ってやりたい。もうこれ以上環境を変えたり、母を独りにしたくない、と思う私たち姉妹の気持ちと、父の思いも一緒だということもわかって、安堵した。

しかし、今のホームは介護という面では頭が下がるほど素晴らしく、文句はひとつもないかわりに、24時間体制でのメディアケアはできない。ホームでのターミナルケア(with 父)を望む私たちの思いに、制度上どこまでこたえられるのか。ホームのスタッフの表情にも、自分たちの思いだけでは対応できない苦渋がにじむ。

頼みの綱は、ホームの提携医が緩和ケアを引き受けてくださり、かつ、24時間365日の訪問緩和ケアが可能で、緊急受入れ(入院・処置)設備を整えている系列クリニックが、最後の「看取り」を引き受けてくださるかどうか。

母の病状を考えても、施設や医師、家族(もちろん本人)への負荷もリスクも十分承知したうえで、私たち家族の最後の望みに答えてもらえるのかどうか。

さらには、ホームに入居する意思のなかった父を、母の最期の望みのためだけに「ショートステイ」というかたちで数か月入居して一緒に暮らすことを許容してもらえるのか。のこりわずかな時間で、入居にまつわるさまざまな手続きの規定を飛び越して、「超法規的」措置にて受け入れてくれるのか。普通、審査や検診、手続きには短くとも2週間はかかる。母の入居にもかなり特別対応してくださったけれど、今回もうまくいくとは限らない。しかも、まず部屋が空いているのかどうかもわからない。父が入居できないなら、母を在ホームでみとることの意味もなくなる。

今週に入って、すべてがクリアされた。

ホームは、事情を鑑みて特例的対応として、予約検討中の方に予告してくださり、父を空室にショートステイのかたちで、必要な手続きをすべて端折って入居させてくださることになった!もし母の予後が思ったよりよくて、長引いても構わないとのこと。

母のターミナルケアも、ホームの提携医がみてくださり、24時間体制が必要になった場合は、系列クリニックの緩和ケア専門医と連携しながら、夜間を問わず訪問ケアでみられることになった!万が一、予期せぬ緊急事態に陥った場合も、積極的治療はしないながらも、入院設備のある、その系列クリニックで受け入れてくださるとのこと。(そして、最初に診断してくださった、某(元国立)総合病院の腫瘍専門医とも病診連携ということで、連絡をとってくださるとのことだった。

何もかもが、望んだとおりに。すべて、ホームの方の陳情と、顧客相談室の方の判断、そして提携医の理解のおかげだ。ほかに持ち合わせる言葉がない。ただただ、感謝するばかり。何の縁もゆかりもない人たちなのに、これほどまでに(たった1週間の間に)、みんなが奔走してくれて。経営的企図なしには(ようするにビジネスのためという意図がなくては)、そこまでやらないだろうことは、重々承知。

それでも、「できるかぎりのことをするとお約束します。本社にも掛け合います」といってくださったみなさんの言葉を一生忘れません。ついていないことばかりだったのに、最後に人の優しさ、真心に触れることができて、私たち家族は果報者だと思う。

父も、「ホーム」という場所への違和感が融解しているようだった。火曜日には、顧客相談室の方が、突然キャンセルになった別の顧客対応の予定の代わりにといって、父を、検診に自分の車で連れて行ってくださった(私の仕事の都合がどうしてもつかず、途方に暮れていた矢先のこと)。ホームの施設長は、ホームで保管してたあらゆる備品を、父のテンポラリーな入居生活のために供出してくださった。

いろいろなことが決まったその日、ホームの通路を歩いていると、他のスタッフも「よかったですね」と声をかけてくださる。「ほんとうにありがとうございました。勝手ばかりで、すみません」と答えるのが精いっぱい。

前にも書いたけれど、このホームは、ハード面は決してピカピカでもなく、改修型だけに不備や不便もあることはたしか。見た目の華やかさや充実度でいえば、確かに系列の他ホームに比べても見劣りはするかもしれないが、「ひと」は、本当に素晴らしい。

顧客相談室の方によれば、「決して労働環境がいいとはいえない介護業界にあって、自社も苦闘を強いられており、現場にも苦労を強いていることはたくさんある。けれど、この施設は、職員のモチベーションが高く、定着率も非常によいので、継続的なキャリア形成をここでしている職員が多い。そのことが、一番自分たちにとっても安心であり、誇りである。内部的なフラッグシップホームなのだ」そうだ。

はじめて見学に来た昨年末。外見は見劣りしたかもしれないが、「ここなら」と感じた自分の直感は間違っていなかった、と思う。(きっと保育園などをたくさん見てきたせいだろう)当の母本人が、自分の目と耳で、ここの人たちの温かさを見聞きできないことが少し残念だ。とはいえ、母も、肌身で同様に感じているようだから、それはそれでいいのかな…。

母に「お父さん、決心して、やっとホームに今週入るって。よかったね」と伝えると、表情が輝いた。「ほんと?それはよかったわ。お父さん、落ち込んでない?無理してない?」と気遣いながらも、涙ぐんで喜んでいる。自己満足かもしれないけれど、「自分一人が結局重荷だったのだ。父を苦しめてしまった。もう一緒に暮らせない。父は一緒に暮らしたがっていない」と思い込んでいた母の孤独は癒されたと思う。遅かったけれど。もっと早くに、というか、そんな思いをさせずにいたかったけど。

少なくとも、去年10月、「認知障害」の検査で入院した時点で母の病気がわかっていれば、母を独りで2~3か月も病院や施設に置いておかずに済んだ。孤独や失望のうちに、過ごさせなくて済んだ。余命半年のうちの半分を無為に過ごさせなくて済んだ。そんな風に思いはじめると、自分を責めたり、怒りを持て余すところに陥ってしまうから、あわてて「結果的によかったと思おう」と、思考のはまり込みを打ち消す。

昨日は、父を伴って総合病院の腫瘍科の先生を訪ねた。医療情報のクリニックへの提供と、緊急時の受け入れの要請のために。そして、父に「母の最期を告知した先生」を引き合わせたくて。穏やかで理知的な先生と話し、画像診断の結果を確認すれば、父も納得がゆくだろうと思い。案の定、父は、先生に深深と頭を下げて、丁重に礼を言った。

そして、母の寿命が尽きた時には、病理解剖をしてほしい、と申し出た。先生はやや驚いていたが、グリオーマと中耳癌という、非常に珍しい病気を重ねて患った母のような症例は少ないといい、「篤志に感謝します。お心に報います」とおっしゃった。父は事前に私に断わりを入れ、謝ったが、私も反対はしなかった。父と母は、以前から献体登録をしていたし、病気を患ったものの責務(せめてもの働き)として、医学の進展に貢献したいという思いを持っていたから。短いおつきあいだったけれども、この先生に最後を役立てていただけるなら、本望だと思ったのだろう。それを見極めたくて、先生に会いたがったのだろう。

先生からは最後に、腫瘍が高速・広範囲に広がっているが、急激はショック症状の心配よりも、徐々に衰弱していくのではないか、と言われた。そして、万が一ありうるとするなら、腫瘍が頸動脈に接しているので、頸動脈に異変が起きて大出血を起こす可能性はわずかながらあること。また、大出血に至る前にも、感染症を起こして髄膜炎を起こす可能性があることは指摘された。それでも、基本的には穏やかに2か月は暮らせるだろう、と。

これで、環境は整った。

あとは思い残すことなく、一緒に暮らすだけ。実際には、思い残しがないなど、無理なことだけれど(今の時点でもすでに悔いばかり)、父の表情にも、入居できる安堵が見える。

これで、あとはお父さんとお母さんの時間になる。よかったよ、お母さん、お父さん。

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2009年2月23日 (月)

「風のリボン」

母が完全失聴して10年ちかく経つ。私が結婚したのが11年前。当時はまだ、電話で話ができたし、映画やコンサートにも父と連れだって行っていたから、音楽はまだ身近にあったと思う。

母自身は、ほとんど無趣味と言ってもいいくらいの人だったのだけれど、ひとつのことにどっぷり入りこむ性格ではない分、いろいろな人に誘われて、いろいろなことを楽しんでいたように思う。どれも教室とか、素人サークルみたいなものだったけれど、それなりに楽しんでいたのは記憶している。

「これといって取り柄がない」というのは、母みたいな人のことを言うのだろうと思う(私も人のことは言えないんですけど)。でも、私の記憶の中では、鼻歌を歌うお母さん、というイメージが大きかったことに最近気がついた。

コーラスとか、合唱とか、特に好きだったよなぁ、と思いだす。昭和30~40年代に青春時代を送った人は大なり小なり、合唱は好きなのかもしれないけど。

いまでもふと、無意識に口をついて出てしまう歌があって。まったく意識しなかったのだけれど、これは母が好んで口ずさんでいたものだったんだ。今日、打ち合わせ帰りに駅から家路を急ぐとき、フンフン歌っていたことに気づいて、笑ってしまった。

七色の谷を越えて/流れて行く/風のリボン
輪になって/輪になって/かけていったよ
春よ春よと/
かけていったよ

美しい海を見たよ/あふれていた/花の街よ
輪になって/輪になって/踊っていたよ
春よ春よと/踊っていたよ

すみれ色した窓で/泣いていたよ/街の角

輪になって/輪になって/春の夕暮

ひとり寂しく/泣いていたよ

保育園に通っていた私と妹を、仕事帰りの母がお迎えにきて。園から家までの道を、自転車に3人乗りしては、この歌を母はフンフンと歌って自転車をこいでいた。3番まで、よく間違えずに歌ったものだと思い、私もよく間違えずに憶えていたもんだと思った。

仕事をしていたからそれなりにおしゃれだったけれど、化粧っけも飾りけもなかった母だから、鏡台なんかもなかった。いわゆる「シャボンやコロンのいい香り」もないし、料理も質実剛健な働く母の作り置き料理ばかりだったので、「卵焼きのいいにおい」とかの記憶もないんだけれど、私のなかでの「お母さん」は「歌」の記憶なのだった。

その母から、歌が聞こえなくなって10年も経っていたとは、今日まで忘れていた。音のない世界で、「音楽」(音を楽しむ)というものもなくなっていたんだろうけれど、最近、母がホームで昔の歌を口にする(耳が聞こえないからかなり素っ頓狂な調子っぱずれだけど)。

母にとっても、昔の記憶は歌として、頭のなかにあるのかもしれない。

「風のりぼん」というこの歌の歌詞を、はじめて字にしてみた。メロディの美しさとはまたちがった、切ないような、甘いような響きのある歌詞だったんだなーと、新鮮な発見だった。

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2009年2月20日 (金)

「もって3か月」

頭頸部腫瘍の専門医の受診日だった。母を伴って病院へ。

中耳癌であることはもう判明しており、本人への告知も、積極的治療もしないことも決めていた。だから、あとは「今後の治療方針と余生の過ごし方」を相談するだけだった。

2時間半待たされた予約時間は、気がつけば外来診療時間の一番最後だった。

先生はとても柔和で物静かな物腰の方で、話していると気持ちが落ち着く気がした。

すでにどんな「治療」も選択しようがないほどであることがまず語られた。であるから、MRIを新たに撮影する必要も、もうないこと。手術はおろか、放射線や投薬治療もまったく意味をなさないこと。今後はモルヒネを中心とした疼痛管理にのみ集中するべきことも。

また、咀嚼や嚥下ができなくなることを想定して、経口で食事ができない場合に「胃ろう」を想定したほうがいいのかどうか、という私の問いにも、「その手術自体の負荷が大きいので推奨できない」という返答が。

「その場合の栄養補給はどうするんですか?」と尋ねると、先生は「その頃には、点滴でラインを確保して、必要最小限の栄養補給とモルヒネなどを投薬するようになるでしょう」と。

ちょっと飲み込みきれなくて、「それはいつぐらいからになりそうなのですか?」と尋ねた。

「4か月…、うーん、もって3か月でしょうか。(今のコンディションが保てるのは)せいぜいこの2か月が山でしょうね。」という答えに、言葉を失う。耳鳴りと脈拍で体が揺れているような感覚。なんとか普通のトーンでもう一度念を押す。

「1年は無理ですか?」

「いえいえ、とてもとても…(あとは首をゆっくり横に振っただけ)」

2か月って、私の誕生日までってことですか?3か月って、GWってことですか?この夏にはもう、お母さんはいなくなっている、ってことですか?夏休みにはムスメのバレエの発表会があるんです。この夏休みは、最後にゆっくり思い出をつくれるように、小旅行なんかを考えていたんです。暖かくなったら、公園や散歩にもっと連れて行ってあげたいと思っていたんですけど…。

どうでもいいようなことがらが、頭の中をぐるぐるぐるぐる。横では、母が私と先生のやりとりを眺めているけれど、もちろん話の内容はまったくわかっていないようす。私の顔色もわからないでしょう。それでも、母の方をまったく見ることができない。

「CTを見てみますか?ほら、ここ(右の耳骨あたり)、見えますか?もう骨が映っていないでしょう。これはみんな腫瘍です。まもなく脳に至るでしょう。その頃には苦痛で意識のある状態にするのは困難かもしれません。ともかく”だんだん痛くなってきた”という思いをさせないように、初期から疼痛管理に集中したほうがいいと思います」

先生の穏やかな口調のせいで、私の緊張の糸は途切れてしまった。涙腺決壊。

「緩和ケアは、在宅でしたいんです。最後は家族がそばにいると実感させてあげたいんです。医療機関に身を預けなければいけない事態はあるのですか?」と泣きながら聞くと、

「それはないです。病院でなければできない処置は、お母さんの場合はないでしょう。在宅緩和ケアの専門医は、入院と同等の処置ができるはずですよ。必要であれば紹介しますし、もちろん病診連携ということでフォローも情報提供もしますから。できることはしますからね」と。

昨日から、鎮痛剤が4時間空けられなくなっていることを伝えると、しばらく考えて、「まだ早いとは思ったけど、オピオイドといわれる薬を出しましょうかね。モルヒネです。麻薬ですから、効きますが、多少眠気や吐き気が出るかもしれませんけれど。少しすると慣れてきますから」と。

来週、再診することにしたけれど、その時はもう母は連れてこなくてよい、と言われた。

そして先生は「ちょっと耳を見せてくださいね。ガーゼを交換して消毒しておきましょう」とボードに自ら書いて母に示し、もう必要のないはずの処置を施してくれた。

「話を聞いているだけでは変だと思うでしょうから。せっかく来てくれたのだから、見ましょうね」と言って。

「はい、終わりです。時間がかかるけど、気長に治療しましょうね。痛みの我慢だけは絶対にだめですよ。痛みを無視すると、こうやって悪化しちゃうのでね。痛みは大事な体のサインですから、絶対に我慢しないでくださいね」と言って。

「薬を変えましたから、今日からは痛みも和らぐはずですよ。それでも痛かったら、頓服薬も出しますからね」と言うと、母は今日一番うれしそうな顔をした。

「はい、ありがとうございました。」と笑って答えた母の手を、先生がギュッと握る。初めての診察。そして最後の診察。こういう先生もまだいるのだ、と心の中で手を合わせる。

診察室を出ようとして、先生に頭を下げる母のすがすがしい表情を見たらいたたまれなくなってしまった。外来診療時間が終わって、人気の少なくなったとはいえ、まだスタッフや患者がちらほら見える待合を、明らかに泣きはらした目で、車椅子を押しながら歩く私を、行きかう人が見ているのがわかるけれど、気にしていられなかった。

たまらなくて、夫にSOSの電話を入れる。「3か月だってさ」としか言えなかった。「落ち着け。ホームに戻るんだろ?おれもそっちに行くから合流しよう」という言葉が、耳鳴りの向こうで聞こえる。母に気取られないように、トイレで顔を洗い、マスクをする。

会計・処方箋の窓口で呼ばれたが、「すみません、この薬は押印が必要なので少しお待ちください」と係員に言われて足止め。麻薬なので、管理が厳しいのだろう。

私が生まれ、ムスメとムスコを産んだ思い出深いこの病院は、母を看取る相談をするための病院にもなってしまった。

帰り道はサングラスをかけて運転。涙が止まらない。「薬が変わってよかったわ」「今晩は安心して眠れるわ」という母の笑顔と言葉がつらい。

ホームに着き、オットに報告をしようとしたが、胸が詰まって声になりにくい。「3か月だって。意識が保てるのは2か月だって。CTにはもう骨が映ってなかった。いまの状態が不思議なくらいだって。」言えたのはこのくらい。

ホームの看護師とスタッフには、できるところまでホームで緩和ケアを受けたい。そしてぎりぎりまで父が寄り添えるように(父が母と一緒に暮らす決心をした、ということを理解してもらえるうちに)、ショートステイでもいいので父もホームに身を寄せて過ごさせたい。在宅訪問緩和ケアを提供してくれるクリニックを手配したい。というようなことを頼んだ。

24時間の医療行為はできないが、夜間訪問診療が可能なクリニックが確保できれば可能だということ。父のショートステイも可能ではあるらしい。詳細は明日施設長と提携医と協議することになる。こういう事態にすら、事務的にものごとを処理できていることに一抹の心苦しさを感じる。

子どもたちをお迎えに、一足先に戻ったオット。私は先に家に戻って、父に報告の電話をする。余命1年と聞かされて泣いた父に、さらに追い討ちをかける残酷な報告。

「GWまで保証できないって。もう骨が映ってなかった。」ということしか言えなかった。ちちは「本当かよ。畜生…」といって、電話口で大声をあげて泣いた。初めて聞く、父の号泣。

すぐにでも母のもとへ移りたい、という父に、自分の目論見を伝えて、明日以降また連絡を入れることを約束する。「そっちへ行こうか?」と尋ねると「今は誰にも会いたくない」と。

しばらくして、妹にも伝えようと、近所にある彼女の家を訪ねると、もう知っていた。たまたま父を案じて電話を入れたら、まだ号泣していたそうだ。

妹はホームに泊まり込む、と言う。でも「いきなりだと、変に思われるから、徐々にしたら?」というと、同意してくれた。しばらく仕事をセーブするつもりだという。私もできることならそうしたいけれど、時期が悪い。いま仕事を「セーブ」するということは、途中で降りるということに等しい。それは現実的に不可能だから。

私の家の前には、保育園があって、18時ころになるとお迎えのにぎわいに包まれる。

最近のこどもはみんな「ママ」というけれど、たまに「おかーさーん」という子供の声が聞こえることもある。(うちも伝統的に「お母さん」と呼んできたので)「おかあさん」が胸に刺さる。おかあさん。おかあさん。おかあさん。こんなに切ない響きだったっけ。

こんなにあっという間に、こんな予期しないかたちで、どこかへ行ってしまうの?

「できれば、花が散るみたいに、自然に死にたいわ。どうしたら上手に死ねるか、よく考えるのよ。このまま生きながらえてみんなに迷惑かけたくないわ。」という母の、ここ数年の、口癖のようなつぶやきを思いだす。迷惑なんかじゃないのに。上手く死ぬより、長く生きてほしいのに。往生際なんてどうでもいい。もっと生きていてほしい。

認知症やら、介護やら、家族の葛藤やら、そんな今までのいろんなことが吹っ飛んでしまうくらいに、ただただ生きていてほしい。いつの間に、こんなことになっちゃったんだろう?

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2009年2月18日 (水)

本当のプレゼントは100万回の「ありがとう」

昨夜は泣きすぎて、今朝目があかなかった。オットの誕生日だというのに、雨模様。

先週末に用意したバースデーケーキの材料とロウソクがキッチンの棚に捨て置かれている。本当は、何もなければ昨夜仕込んで、今日焼いてお祝いするはずだったもの。今日はさすがに、そんな気分にもなれず。

でも、結構大事なミーティングが変な時間に2件入っていて、凹んで引きこもっているわけにもいかない。腫れた目をごまかすいでたちを考えながら出かける準備をしていると、宅配便が届く。すっかり忘れていたけれど、今月のあたまにMoMAのネットショップでオーダーしておいたオットの誕生日プレゼントが届いたのだった。

今年は付き合いはじめて20年(間ブランクがありますが)、結婚して11年。オットと知り合ってからの20年は、母の闘病半生そのものでもあった。そして昨年からの怒涛のような生活の変化にも、黙ってつきあってくれた。その感謝の気持ちを表したかったのだけれど、プレゼントを吟味する時間的・精神的ゆとりがなく、ついでにことしからはポジティブな「緊縮財政キャンペーン」を張っているので、お金をかけすぎずに、気の利いたプレゼントを選びたくて。そんなときの強い味方が、MoMAのネットストア。

身内に、あらためて普段は伝えきれない気持ちを込められるようなプレゼントを選ぶのって、本当に難しい。つい、物質的満足度に転んで奮発してしまいそうになるけれど、それも結構安易な選択。そう思って、悩みに悩んで選んだのがかさだった。

005010pa_s 一見ふつうの蝙蝠傘、中を見上げると青空。

"Happy Birthday.

どんなに土砂降りでも、晴れやかに暮らせる人生でありますように。いつもありがとう。"

と言いたくて、選んだもの。

仕事も忙しいし、誕生日が平日だからプレゼントを忘れないように、日付指定で予約しておいたもの。「ああ、これを注文した頃は、まだ冗談まじりでプレゼントを選ぶくらいの余裕があったなぁ」と変な感慨に浸る。

今日手にするこの傘は、ちょっぴり切ないんだけど、それでもオットにはやっぱり「どんなに土砂降りでも、上を見上げれば青空が見えるような気持ちで」いてもらいたい。

世間体も、社会的地位も、男の沽券も見栄も関係なく(少なくともそのように見える)、私と子供たちのために、自分のことを後回しにしてベストを尽くしてくれる姿には、なんとお礼を言ってよいかわからない。もっと明るく、屈託のない、軽快な人生を送ることもできただろうに、この足かけ20年というもの、黙々と伴走してくれていることを、感謝します。

お誕生日おめでとう。「ありがとう」×100万回。

本当に贈りたかったのは、ありがとうの方。さびしい誕生日でごめんよ。

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「余命1年」

母の耳の診断結果が出た。内耳癌。かなり進行し、ほぼ絶望的な状態。

切迫している仕事の合間をみて診断結果をもらいに近所の総合病院へ母を連れていく。

先生が、CTと生理検査の結果をみながら、ためらいがちに告知。(母の認知症状の具合を尋ねられ、完全失聴しており、同席のままでも過酷な告知が直接本人に伝わらないことなどを確認して、その場で告知された)

覚悟していたので、その場で取り乱すことはなかったが、無邪気に結果報告をまつ母の横顔を見ていて苦しくなる。先生が、わざわざ人の出入りの多い外来診察時間をはずして診察時間をとってくれたことの意味を思い知る。いつもの騒々しさがまったくない診察室で、ゆっくりと、時間をかけて説明してくれる。

わかっていたのに、覚悟していたのに、大声で泣き出したい気持ちでいっぱい。でも今日は私一人なので、動揺を抑えるのに精いっぱい。でも、そのままホームへ母を送っていくのが耐えられなくて、オットに電話する。心配して結果を待っていたオットも絶句。私も声が詰まってことばにならない。泣いていられないのでいったん電話を切り、帰路につく。

耳が聞こえず、目も相当に悪くて周囲の気配を察知するのが不可能、認知症状もあって込み入った情報を理解・記憶していることのできなくなっている母の現状に、今日ほど感謝したことはなかった。「お母さん、認知症でよかったよ。もしクリアだったら、正気を保てないかもしれないから」と、心底思った。

ホームまで送る道すがら、車を運転しながら、父に、妹に、なんと言えばよいのか考える。ホームのスタッフも結果を待っているだろうけれど、先にスタッフに告げていいものかとも思う。が、母の身を預けた時点で、全幅の信頼を置いて情報共有してもらわねばならないことを思い、看護師長に報告。看護師も絶句。

これまで25年間主治医としてかかってきた某公立病院。認知症状が出て検査入院した昨秋、2か月もの間、結局積極的検査や診断をせず、●●の一つ覚えのように「遅延性放射線障害ですからね、何がおきてもおかしくないので」の一点張り。原因ではなく、対症療法でもいいから治療を、と千回も万回も頼んできたのに。痺れを切らして転院を決意したときにはすでに手遅れとは!一人の人間の症状を、脳は脳、耳は耳、と断片的にしか診てくれなかったことの結果がこれか。いやいや、母のかわりに、全人的な存在として辛さ苦しさを訴えきれなかった私たち家族の怠慢の結果がこれか。

父に結果報告を催促されて、以下のメールを送った。血圧への負荷が気になるが、隠すことはできないし、私にその権利はない。

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お父さん、これから●●(妹)を呼んで詳しくは伝えておきますので、明日聞いて下さい。もうA病院では、詳しく検査をしてもらう必要はありません。生理検査とCT検査の結果、お母さんはかなり進行した中耳癌であることがわかりました。すでに内耳・耳骨のほか、頭蓋骨まで腫瘍が及んでおり間もなく脳にいたるであろうという見立てで、最近の認知症状などの急激な悪化、顔面痙攣や視力低下、顎関節・歯根の痛みなどもここに起因する可能性が高いとのこと。手術は不可能ではないが状況からいっても成功率は厳しく、本人への負荷も大きすぎる。また内耳癌は再発性が高いが、お母さんの場合はすでに放射線の許容量を超えており、もうこれ以上は照射できないことからも、積極的治療は困難。今後は激烈な苦痛に見舞われることを想定した緩和ケアが中心になるものと思われる。かなり以前から進行していたと思われ、昨年末からの諸症状の急変も無関係ではないと推察される。予後はもっても1年。その前にモルヒネなどを用いた疼痛管理を行うとなると、知的対話ができる期間はさらに短い。脳への腫瘍の影響が現れる時期は想定困難。本日すぐに耳科腫瘍の専門医とカンファレンスを行い、木曜日に今後の治療方針について診断したいとのこと。腫瘍の性質や詳細を知るためにMRIを撮りたいが、シャント手術をしているとのことなので、MRI撮影が可能かどうかをA病院主治医に確認してほしいとのこと。そのうえで可能であればこれまでの医療情報を全面的に提供してもらうことはできるかどうか、確認してほしいそうです。

●●にはこれから話しますが、私はいま非常に憤っているので、A病院にこれ以上の「治療」を期待することには絶対に反対です。また、お母さんの余生と、私たちの生活を考えると、B病院(いまかかっている総合病院)ないしは都心部の専門病院を主治医にしたいです。その観点で、以上の状況をA病院のC先生に報告し、医療情報の提供というかたちでの協力のみ依頼してもらいたい。とりいそぎ、今日の報告のみ。お父さんの体調を考えてどう伝えようか考えていましたが、まだA病院を信頼しているのだと思って考えを変えました。事実のままに伝えます。母には「内耳の炎症が長期間放置したひどく悪化していて、顔面痙攣や耳・顎の痛みなどもそのせい。部位的に外科的治療は効果がないので、時間がかかるが内科治療で気長に直していくそう。悪くなったのと同じくらい時間はかかるけど、よく動かす部位で不便も多くなるから、まずは痛みを緩和しながら気長に頑張りましょう」という風にしか伝えていません。お母さんも不快苦痛の原因がわかってすっきりし、喜んでいるし、私は告知には反対です。最後くらい不安を取り除いてあげたい。今後の暮らしについては、もう一人ぼっちにしない方向で考えます。認知症になったおかげでこの恐怖におののかなくて済むのなら、これも天恵だったのだと思いたい。

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こどもを寝かしつけてから呼んだ妹には、口頭で説明する自信がなく、父におくったこのメールをそのまま読ませた。途中で声を上げ、テーブルに突っ伏して号泣する妹にかける言葉がない。「あんまりだ」という言葉に、背中をさすってやるしかできなかった。

オットと3人でさっきまで話しながら、少し気持ちを落ち着けたようだけれど、妹は一人暮らしなので、しばらく気持ちを引きずるだろう。そう思うと不憫だ。

話し合った結論としては、ホームでの手厚いケアを受けなければ、生活が厳しいのは事実だが、そう長くは「在宅(医療機関以外で、という意味)」生活はできなくなるだろう。そう考えると、いまのホームでできるところまで在宅緩和ケアをがんばる。

しかし、入居以来、母の心にある思いは一貫して父と一緒に暮らすことなので、ベストな案として、ホームの目と鼻の先にマンションを借り、父と妹がそこに引っ越す(いまの実家はとりあえずそのまま)。日中はホームに行きやすくし、夜はホームで眠る。父も妹も私も、いつでもすぐに会いに行けるように。なるべくみんなで過ごせる時間と環境を確保する。

在宅緩和ケアを提供するクリニックを利用し、ホームおよび家での生活をなるべく長く続ける。入院しなければならなくなるまで(かなりの劇薬管理が必要になる末期まで)、がんばる。せめて数か月のことだから。

父には、なんとしても了承してもらうつもり。最後くらい、母が「生きててよかった」と思えるようにしてあげるべきだ。それができる条件は整っているんだから。

私、やっぱり怒っているんだ、と思う。

誰に対して?何に対して?父に?病院に?母の人生の理不尽さに?

自分に腹が立つ。手遅れなのは母の病気ではなくて、自分の怠慢のせいのようで。

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2009年2月16日 (月)

こんなもの買っちゃいました

緊縮ムードの世の中とか、子どもたちの行く末とか、自分たちの老後とか、いろんなことを考えるようになったからなのか、最近は我が家も緊縮財政で行っています。ところが、これまでがジャブジャブのザル家計だったもので、緊縮してやっと人様なみなんじゃないか、というレベル。これまでが相当におかしかったんだなーと平に反省。

これまで財布のひもが緩んできたものは、本・CD・舞台鑑賞・酒・嗜好食品。これは相当に親の影響が大きく(責任転嫁)。「知的資源は身銭を切って手に入れろ」(=本・音楽・芸術関連ネ)、「嗜好品は程度の悪いものなら我慢しろ」(=酒・茶・菓子関連ネ)という庭の教えにより、かなりのジャブジャブ加減を引っ張ってきたのでした。

これ、言葉にするととてもいやらしいけれど、実際にはもっともな話なのです。身銭を切るほど切実でない知的欲求なら我慢すればいい。必要なら創作者・従事者に敬意を払え、ということ。あるいは、主食や生活必需品は、生活レベル相応のものを個々の判断で買えばよい。ただし、嗜好品に関しては「なくても困らない」んだから、どうせ嗜むならけちるな。ということなのであった。

ついでに言うと、安けりゃいい、という考えを持とうとすると、いつも釘を刺された。「モノの値段には意味がある。不当に安価な商品は一方向的に利益があるだけで、誰かを搾取して成立している値段だ」ということで。これは、フェアトレードを意地でも続けている今も、緊縮財政になっても、忘れないでおこうと心に決めていることではある。

モノの消費は、基本的には個人の自由だと思うんだけど、高級輸入車に乗り、海外旅行に行き、ラグジュアリーなブランドの服飾品を選ぶ一方で、100円ショップを活用するような生活のしかたは、やっぱりイビツだとは思う。100円で買っていいものと、そうでないものがあることも、100均でないと暮せない生活者と、そうでない人がいることも、両方いびつ。

苦しい世の中で、一生懸命R&Dに注力し、流通の努力をして、商品や知恵を世に送り出そうとしている人や会社へのリスペクトは忘れちゃだめだよな。と思う。

そんななかで最近買ったものログ。

その1:「BSファイン」

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遠赤外線の粉末を練り込んで作った繊維によるレッグウォーマー。履くだけでぽかぽかするらしく、メディアで見かけて即買い。オットと自分と、母に。これすごいです。薄くて軽くてデザインもよく、スパッツの下にはいてももこもこしないのに、足先がまったく冷えない。夜、デスクで徹夜仕事をしていると足先の感覚がなくなるくらい冷えていたのに…。

岡山の繊維会社が2年がかりで開発した繊維らしい。3000円と、決して安くはないけれど温熱効果を考えれば安いもの。冷え知らずのオットも絶賛。車いす生活で足先の冷えがひどい母にも写真のピンクを購入。できればこの冬、ウェストウォーマー(要するに腹巻)もほしい。これはかなり感動モノの一品でした。

その2)MUJI アロマディフューザー(ミスト)

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これもヒット。MUJIって、量産拡大路線が著しくなってから非常に魅力が薄れていたんだけれど、”「が(いい)」ではなく「で(いい)」という抑制のきいた購買意欲に誠実に応えうるデザイン”みたいなことを謳い始めてから、もう一度目が向くようになった。これは、圧倒的にブランディングの妙だと思う。

で、このディフューザーは、母の居室用に購入。うちでは温熱で気化させるタイプのディフューザーを使っているんだけど、どうしても香油がこびりついて汚くなってしまうし、そもそも高温になるのが気になる。でも、これは10分~60分まで3段階に発霧時間を調節できて、ライトにもなる。水を使うので危なくない。非常に仕様がよく考えられている。

目も耳もNGな母にとって、味覚と嗅覚、触覚の快だけが楽しみなわけだけど、アロマはその意味でとても重要。「じゃあ帰るね」と言ってサヨナラするときに、60分モードをぽちっとやると、お互いの別れ際のつらさが少しだけ和らぐ気がする。MUJIは最近侮れない。

その3)CANON Powershot G10

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これ。ほんとはSIGMA DP1がどうしてもほしかったのだけど、知人に「これはすごいよ。おまえにゃまだ早い」と失笑されたので。”いつかは、クラウン。”じゃなくてSIGMAか…。

その4)repettoのレオタードとタイツ

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これはムスメ用。”repetto!(とはいわなかったけど、お姉さんたちがレッスンで来ている「ツルツルでピカピカでシマシマの)がいい”、ということでネットで購入。これまではオーストラリアの"Bloch"というブランドを中心に個人輸入しているネットショップで買っていたのだけれど、やっぱり物の質はいい。タイツもしかり。なんとも上品なベビーピンク。

レオタードはかなりハードに使うものなので、縫製が悪いとあっという間にほつれたり切れたりしてしまう。成長の早いムスメだとさらに。ラインがきれいで着ると気持も引き締まるようだ。弘法は筆を選ばないけど、一般ピープルな娘は、せめて形から入るのがよろしい。

なんか、仕事がはかどらないので、だらだらとログってしまった日曜の夜。仕事しなきゃ。

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2009年2月 9日 (月)

シルヴィ・ギエムと肉芽

夢にまで見たシルヴィ・ギエムの「ボレロ」。ベジャールの追悼ガラ。8日15時@ゆうぽうとwithムスメ。感涙にむせびました。43歳とは思えない。奇跡のバレリーナと呼ばれた人。

私のなかでは、ジョルジュ・ドンのそれが一番なんだけど、それでも眼福・至福の15分間。

こんなときに、感動なんてできるのかしら、と思ったけれど素晴らしかったス。生きててよかった(くらいの)。2幕目の演目で眠ってしまったムスメも目を見開いてみていました。寝る子を起こすくらいの強さを持っている踊り。「生きている」って、こういうことなのかなーと思う。生きているからだ。二度と戻らない瞬間。

そうそう、「ギリシャの踊り」のソロを踊った中島周さんは、素晴らしかった。とんだ掘り出し物。体がきれい。ラインがきれい。音楽的で律動的。いうことナス。東バはあまり興味がなかったけれど、次は見当つけておこうと思った。千載一遇とはこのことなり。

そして今日、月曜日。

母の耳鼻科受診。昨年春から耳骨がむき出しになっていて、そこに肉芽ができて炎症を起こしているとのこと。滲出液と痛みがひどく、昨秋認知症で検査入院した際にも継続治療をしていた(はず)。苦痛に対する我慢強さでは、他の追随を許さない母だが、その母をして痛みで脂汗と涙が出るほどの、強烈な激痛に耐えなければならない処置(肉芽を切りとって、滲出液を吸引する)を繰りかえしたにもかかわらず、悪化する一方。

いまでは、綿球を2つ挿入しているにもかかわらず、枕に滲出液が染みるほどの量が毎日出るありさま。下顎関節や、耳介周辺の骨も痛いと言い出し、鎮痛剤を飲まなければいられないほどの痛みだという。絶対におかしいので、本日某(元)国立病院を受診。(近所の私立総合病院では困難と断られたため)

放射線障害の一部、といわれ続けて早ン年。「それはわかったけど、どうすればいいの?」と思い続け、セカンドオピニオンを、と言い続け。結局(まだはっきりはしないが)悪性腫瘍の可能性が高いと言われた。薄々そんな気はしていたが、あの猛烈な痛みに耐えて処置(治療ではない!)を受け続けた母がかわいそう。

来週正確な結果がわかるけれど、覚悟しておいたほうがいい、と自分にいいきかせる。

母は、妄想・作話、事実の混同が著しくなってきている。右半身の衰退も著しい。顔面痙攣頻繁。涙もろく、希死願望を口にすること多し(次の瞬間には忘れているけれど)。

何かが、どこかへ向かって流れ込み始めている気がする。

そういうなかにあって、母を施設においたまま、美しいものを求めて、美しいとか、儚いとか感じられる私は、酷薄なのだろうか。友達と気分転換に飲みに出かける妹は、酷薄なのだろうか。

考えている余裕がないので、そんなことだけ、ログ。

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2009年2月 4日 (水)

ヘビーではあるが不幸せではない。

母は、ちびたちと話す(言語的会話はできないので、手を握ったり、ちょっかい出されたり)ときは、とても表情がいい。いつもうつむいて、黙っていることの多い母だけれど、孫に会うと表情が晴れる。

かといって、もともと淡白というか、淡々とした性格なので、「孫溺愛」系のじじばばと違い、割と遠目から「最近どう?元気?そう、よかったわね」というくらいに眺めている感じ。もしかしてあまり興味がないのかな?と思ったこともあるほど、あっさりとしたものだ。

病気や障害のせいで、孫を預かったり、面倒をみたりすることができなかった身だけれど、もしも元気でなんの差し障りがない身であっても、孫や娘(私)に寄り添って過ごす、などということはきっとなかっただろうな、と思う。やはり変わらずに「最近はどう?元気?そう、よかった」くらいのトーンなのだろうと思う。

でも、最近は表情が明るくなるのをみて、「おかあさんにとって、孫ってどんな存在?孫ができてうれしかった?」と聞いてみた。

母は「そうねー。やっぱりかわいいわね。いつも手元において置きたい、いつも濃密に関わっていたいとは思わないけれど、子供ってやっぱり特別ね。小さい手を握ったり、くすぐられたり、抱きつかれたりすると元気がでる気がするし、どんなに気持ちが沈んでいても笑ってしまうからすごいと思うわ。」

「よーく考えてみたんだけど…。血がつながっているからかわいい、という感じでもないのよね。小さいこどもはみんな未来があって、自由で、いいのよね。血を分けた、とか、おなかを痛めた子、という言い方があるけれど、私はあんまりそういうの好きじゃないの。そりゃ、十月十日、大きくなるおなかで一緒に過ごすことは大事なことかもしれないけど、本当に大事なのは生まれた後に、人間として育っていく過程を一緒に過ごすことだからね。おなかのなかにいるときは”自分のもの”かもしれないけど、生まれたら別人だから。それは生んでも生んでなくても同じだと思うわよ」

「あなたたちを育てているときは、私は20代で、仕事もしていて、必死だったから、今になって“もっと~しておけばよかったな”って思うことはある。いまもう一度小さな子供と接したら、きっともっと面白いだろうな、楽しいだろうな、って思うこともあるわ。やっぱり自分の子供には責任というものがあるから、必死だけど、いまは少し引いて眺めていられるから。無責任でいられるのがいいのでしょうね。だから、何を見ても聞いてもほほえましい」

というようなことを、楽しげに話していた。見ている私もうれしくなる。いま、そういう話が母とできて、よかったなーと私も思う。母の私たちに対するかつての子育て経験をきいて、必死に働き、育て、生きていたことを(私たちは憶えていないから)聞いて、いままさに必死な自分を思う。いままさに、「責任」感いっぱいで子供たちに向き合おうとする自分を思う。

そして、「いやいや、そこまでむきにならなくていいな」「もっとのんびりしてもいいな」「お母さんも、もっとのんきに育てたかったんだろうな」と思ったりして、いつも一緒にはいられないけれど、私の、子供を見る視線は、いつのまにか「今のおかあさんだったらどうするかな」という視点からのものになっていることを感じる。

「子育てと介護を一緒にやって大変ね。」と、最近よく言われるようになったが、昨日の母との会話を経て、私は、今の時期にこういう経験ができていてよかったと思うようになっている。母にそそぐ自分の視線に、(自分でいうのはほんとに変なんだけど)思いもよらないような愛情というか、優しさというか、いつくしみを感じて照れることがあって。「あれ、私って、こんなに待てる人だっけ?見守れる人だったっけ?」と驚くことがあり。

これまで自分のこどもには、そうしたくてもできなかったように、「待ってみる」「見守ってみる」という、最も自分の苦手とする感じなのにもかかわらず。昨日今日あたり、そういう自分のまなざしが、ちびどもにもだんだん向けられているようにも感じる。

私は、母の変化を見守ることを通して、知らないうちに、子供を見守ることを学んでいるのだと思う。もし大人の生活(リズム)や視点(価値観)にしか触れていない生活をしながら、介護または育児だけに没頭しなければならなかったなら、もっと本当に苦しかっただろうと思う。人生は自分で管理(マネジメント)できるという信条に沿って生きていたなら、きっと神経が持たなかっただろう。

親の老い(衰え)と、子の成長(育ち)を一人の人間として同時期に体験できるのは得難い経験だ。いまは心からそう思える。よかった、なんていわないけれど、でも得難い経験だ。

親に流れる時間を待ち、子に流れる時間を待つ。親の泣き笑いに寄り添い、子の泣き笑いに寄り添う。すると、自分が疑いもせずに捉えてきたスコープが、がらりと変わる。不確定要素ばかりの、思いのままにならない、しんどい人生に見えたものは、自分一人では気づくことのなかった眺めに変わる気がしてくる。切なさ悲しさはなくならないかもしれないけれど、切ない感情を抱くことのできる機微こそが、私の人生なんだと思えてくる。

この人生こそ私のもの。少なくとも私は不幸せではない。ヘビーではあるが不幸せではない。フランクル先生が言うように「私が人生に何を求めるか、ではなく、人生が私に何を求めるか」なんだと今こそ思う。

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2009年2月 3日 (火)

お母さん子。

先週は、子供不孝親不孝の1週間だったので、土曜日はこどもたちと、日曜日は母を家に連れてきて過ごした。四方八方、不義理続きのツケ払いみたいな、ね。(夫にはもう返済のしようがないくらい、雪だるまのように「借金」人生ですよ)

子どもたちはチビなので、ちょっと真剣に向き合って、抱っこしたり、叱ったり、添い寝したり手をつないだり、本を読んでやるだけで、割とさらりとチャラにしてくれる。

ところが母は、1週間の間にへこんで、ダメージを受けていた。

火曜日、ホームに行った妹から電話があり「お母さん、顔が硬縮してくちゃおじさんみたいなの!」と。右側だけが攣っているらしい。片側だけなんて、しかも右だけなんて、いやな予感。母は左の視力を失い、右目も視野のほとんどを欠いている。放射線障害のため、右耳の耳骨もむき出しになってしまっていて、内耳の炎症に悩まされている。それでも「右」は、母にわずかに残された知覚機能が集約されている側なのだ。

脳腫瘍の手術から25年間、てんかん止めのデパケンを常用してきたが「ついにてんかんか?!」と考える。そして、右目が完全に失明するという恐怖が頭をよぎる。でも、なんだか、ようすを見ていると心因性のようにも思える。

「そろそろ帰るね」「明日は●●が来るから」「もうすぐ夕食だから食堂に行きましょう」などと、私たちとの別れを予期させるような話に及ぶと、いきない痙攣が始まる。難解な質問や筆談にこたえようとすると、痙攣する。なんらかの心理的負荷がかかると興るように思えてならない。

一方で、いろんな悪い可能性が頭をかけめぐるのを、もう一人の自分が冷静に観察しているのを感じる。酷薄だけど、もう何が起きてもおかしくないし、今となっては「いかに本人が苦しまないタイミングと順序で、それらが一つずつ到来するのか」が気になる。

やがて、目も見えなくなり、自力で姿勢制御をしていられなくなり、食事や排せつも自力でできなくなるだろう。あるいはそれより先に、かろうじて成立している唯一のコミュニケーション手段である筆談が、母の識字能力の低下、認知機能の低下によって、不可能になるかもしれない。何が、どの順番で来てもおかしくないけれど、できることなら「わからなくなっちゃってほしい」と思う。完全な痴呆といえばいいのか。

この世の苦しみも、悩みも、恐れも、不安も、自分が誰か、私が誰かも、全部わからなくなってしまうほうがいい。家族にしてみれば「あなただれ?」と言われるのは悲しくて悲しくてどうしようもないけれど、それでも、無間地獄の恐怖に打ちのめされながら「正気」で過ごさなくてはならない母のことを思えば、何ほどか。

いやいや、心配しても仕方のないことは、考えない。今日を生きる。

でも、いい気になると衝撃はすぐにやってくる。

日曜日、40年来の友人が偶然、我が家に来ている母を訪ねてきてくれ、泣き笑いしながら筆談をしていた母だったが、途中から挙動がおかしくなってきた。不規則発言や、問いかけと無関係の返答、筆談内容が読み取れないことが、私にだけはわかる。

いいや、たぶん母自身もわかっている。だから、混乱して、不安になって。いてもたってもいられなくなっているのだ。勝手に会話内容を先読みしたり解釈しながら、さも話に乗っているように答える。目が悪いから、ほかの人なら「読みにくいかな」程度にしか思わないだろうが、私にはわかる。「お母さん、読めてない。判読できていない」ということがわかる。

その直後に、母はどんどん混乱が進んだ。筆談用のマグネットボード自体が見えていないことは、そのすぐあとにわかった。「見えてもいないんだ」と、愕然とした。見えていないことを、母も感じているけれど、なぜかパニックになっている様子はない。

「見えていないこと自体が、わからないのか?」と、またもや慄然とする。手を大きく振って視界を遮っても、母の視線は宙を見たまま。何かを考えながら?虚空を見つめたまま。母も茫然としているのか。オットを読んで、一緒に確かめてもらう。オットも「見えてないね」と 言う。ああ、どうしようか、おかあさん。

そう思っていると、母がやおら「なんか、疲れちゃったから今日はもう帰るわ」と立ち上がろうとする。ホームに帰ろうとするなんて、おかしい。でも、ホームの門限(なんてないけど)をやたらと気にする。オットと相談して、本当はオットがホームまで送ってくれるはずだったんだけど、急遽予定を変更し、私が送っていくことにした。

道中、車を運転しながら、助手席で相変わらず虚空を見つめる無表情の母の横顔を気にしつつ、左手で母の手を握る。いつもなら握り返して返事をするのに、母は何も言わず、手も握り返さない。「お母さん、このままあっちの世界に行っちゃうのかしら。もう、私のことも、誰のこともわからなくなったままなのかしら」という不安が押し寄せる。

ホームに着くと、施設長がいつもの笑顔で出迎えてくれる。状況をつぶさに話しながら、見えていないことを示すと、施設長も「見えていないですね」という。母はもう、私のいつもの「じゃあ、帰るね」という挨拶の握手にも無反応。見知らぬはずのケアスタッフの手を握って離さない。私と他人の区別がついていないのね、と思ったが、よくよく申し送りをして翌朝の様子を伝えてもらうよう頼み、ホームを後にした。

家に戻り、妹に状況を報告。そして、先に書いたように「いっそのことこのままわからなくなったほうが、お母さんは幸せかも」と言うと、電話口で妹は泣き崩れた。オイオイ泣いて、クールな妹じゃないみたいだった。「それはそうだけど、私のこともわからなくなっちゃうのは、辛い」と泣き続ける。私は、それをなだめるようにして、持論を続ける。「お姉ちゃん、冷静だね」と、妹に言われて苦笑してしまった。

クールな立ち居振る舞いと毒舌で、誤解されやすい妹。いきり立ち罵声に近い口調で接しながらも、母の介護をやめなかった妹。「私このままじゃ、お母さんのこと虐待するような人間になりそう」と悲痛な愚痴をこぼしていた妹。入居前にお母さんにしがみついて号泣していた妹。

私は、いつもどこかで状況を俯瞰しながら、実務的に動いて対処してきた。本来の性格と対照的。私は、やっぱり酷薄なのかも。

そうか。妹は小さい頃から、私よりずーっと、ほんとうはお母さん子だったのだった。引っ込み思案で内弁慶で、「父の娘」だった私とは違い、母の後ろから世をうかがっているような子だったのだった。本当は、私よりはるかに、母への思慕と後悔で押しつぶされそうだったのだと思った。

そういえばついでに、妹が17歳の時、学校で脳動静脈瘤破裂で生死の境をさまよい、1か月も意識が戻らなかったとき、ただうなされて口にし続けたのは「おかあさん」という言葉だった。言語障害に苦しんでいたときも、最初に口にできたことばは「おかあさん」という言葉だった。それを見て父は「父親なんて、つまらないもんだなぁ」とつぶやいていたっけか。

うちのチビどもも、どんなにお父さんがそばにいて、大好きでも、やはり弱ったとき、困ったとき、ふあんなときはお母さんじゃなければだめだものな。うちなんて、絶対にオットのほうが私よりやさしいのに、それでもやっぱり「おかあさん」じゃなきゃだめだものな。

そうか。こどもはみんな(健在か否かは別として)お母さん子なのか。

今朝、ホームに電話をしてみると、母はいつもどおり筆談ができているという。「きっと、心身が疲れていたんでしょうね」と、スタッフは気遣ってくれた。そうかもしれない。でも、私は楽観しない。

これからは、そういうことが増えていくんだろう。あれは、単なる疲れじゃないと感じる。きっと間違ってないと思う。そうやって、頻度が上がり、程度が上がり、だんだん「お母さん」と「そうじゃないとき」との比率が変わっていくんだろう。そんなことをまた冷静に考える自分がいる。

でも、こんどは妹にはそんなことは言わないでおこうと思った。たとえ私の想定が事実だとしても、妹だってそんなことはきっとわかっていると思うし。何でも言い合える姉妹であったとしても、わざわざ念押しする必要はない。

なんだか、今日はまったくまとまらないワ。冷静だ冷静だといいながら、結局私も激しく動揺している。自分の母親の苦しむ姿を冷静に見られるほど、私もひどくないということか。私もお母さん子ということか。

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