淡々と。毅然と。
いま、ちょっと、かなりタフな状況にある。 まとまらないけど、整理のために。
母がついに認知症の症状を呈し始めたという父からのSOSが来たのが、先週。
夜間に粗相をすることが続き、いずれもその顛末を覚えていないのだそうだ。
母はときどき私のもとへ泊まりに来る。呼び寄せるのだ。そのほうが、ともに暮らす父のストレスも、お互いの緊張関係も緩和することができるから。
母は盲聾者。脳疾患の放射線治療の後遺症で20年前に聴力と視野の一部を失い始め、10年前に完全失聴した。そしてこの5年で機能する視野はごく一部に狭められ、ついでに平衡感覚も打撃的に失われた。
いまや住み慣れた家の中すら、ひとりで自由に歩きまわることもできなければ、テレビはもちろん、眼の前の孫の笑顔やしぐさを楽しむこともできない。わずかに残った視野の一部で、大きく書いた書き文字を追い、カンタンな筆談ができるばかり。その視力もまもなく完全に失われるだろう。その日のために、なるべく掌に指で字を書いて談話できるよう訓練していたところだ。
その指文字も、最近認知しにくくなっているという。
もともと心疾患のある父は、そのような知覚障害のある母との暮らしのなかで、心身ともに磨耗しつづけ、最近ではお互いに疲れ、諦め、抑うつ状態が長く続いているというわけだ。
自分の生活のリフレッシュと、両親の面倒を見ることを兼ねて実家に戻っていた妹も、結局、実家のそうした緊張関係と過重なストレスに耐え切れずに再び家を出た。
母は孤独だ。
父も過酷だけれど、まだ他人とコミュニケーションが自由にとれる。ネットも、電話も、会話もできる。テレビやビデオ、音楽を楽しむことができ、読書もできる。母には、そのどれひとつとして赦されない。
24時間、音のない世界で。ほとんど視覚的刺激の得られない暮らしを続けなければならない。
こんなことって、あっていいんだろうか。
こんなときですら、家族ですら、何の力にもなれないのか。どうすれば、苦しみや悲しみが和らぐのか。誰に聞けばいいのか。考え始めると暗闇にはまりこむ。私がそう思うのだから、本人の心中はいかばかりか。
母は、私のもとに来て話すときは「ふつう」だ。そんなことがあったと聞いたあとも、我が家で泊まれば見当識の兆しもなければ、認知障害とおぼしき気配すらもない。きわめて正常な対話能力、思考力。もちろん身体的な不自由はあるけれど、父と妹が口を揃えて言うようなエピソードはみじんもない。
それでも。
やはり、異変は事実なんだろう。そのように受け止める覚悟をするしかないときがきたのだと思う。
なんだかんだといいながら、上のムスメを授かってからの7年近くを無為に過ごしてきてしまった自分の愚かさを悔いる。恥じる。失われた7年か。「そのうちに」「落ちついたら」といいながら、ずるずると先延ばしにしてしまった。
愚痴る父を責め、悩む妹をなだめながら、結局、現実的な策を打とうとしてこなかったのは、私だ。現実を直視したくなかったから。怖かったから。その間、みんながそれぞれの事情で「とりあえず」ペンディングにしてきたことの結果を、母は一人で引き受けてきた。
「仕方ないのよ」といいながら。「自分のことを優先してちょうだい」といいながら。そのことばに嘘はない。寡黙で、誇り高いから、決して誰かの重荷になりたくない、と自分を励ましてきた母だ。そこが私は大好きだったし、敬服してきた。でも、そこに甘えてもきたんだ。あれほど気丈夫な母が、「生きていても仕方がない」と言うことが増えてきた。
母は、わがままをいわず、諦め、飲み込み、受け入れようと、病気や自分の運命と格闘してきたのだと思うけれど、もう限界だったんだろう。疲れたんだろうと思う。知覚刺激のない世界で、(意図的でないにせよ)スポイルされて過ごしてきた時間は長すぎたのかもしれない。
(非科学的な言い方だけど)どこまでが理性で、どこまでが夢の中か、わからなくなったほうが幸せだから?そうだとしたら、呆けてしまうことは、母にとってはまだ救いなのかも。音も、光も、歓びもない無間地獄のような日々を続けなくてはいけないよりは、苦しみが少ないなら。
呆けることを悲しまないほうがいい。母にとってどちらが安楽か。
そんなことばかりを、この数日考えてきた。
それでも、と、今日の私は考え直す。私と話すときに「いつもの、あのお母さん」で居続ける母のことを考えると、「まだ夢の中に行ってしまいたいたくない」って思ってくれてるんじゃないか。私や、家族と話すことに、喜びや楽しみを、希望を見出そうとしてくれているんじゃないか。
だとしたら、ほんとうに私たちがわからなくなるその日まで、今度こそ寄り添いたい。24時間を満たしてあげることができなくても、「生きててよかった」「楽しいこともあった」と少しでもいいから思ってもらいたい。
もう先延ばしにはしない。私が後悔したくないから、もうキレイに生きることに執着するのはやめる。いまならそれができる。
渋り続けた父を説き伏せ、私は母(父も)を近くに呼び寄せるつもりだ。近いから何ができるのか、と問われれば具体的な答えは持ち合わせない。それでも、すぐに飛んでいって、少しの間手を握り、背中をさすり、おいしいものを口にしてもらえるようにしてあげたい。
人間は、言語的コミュニケーションだけで生きているわけではないんだから。気配や、温もりや、匂いや、肌触りでわかりあうことができるんだから。そいういうことのひとつひとつを、私は子供たちから教えてもらったし、母からも分け与えてもらったと思っている。これは、私のなかの絶対的な信念になっている。
明日、母は入院する。
認知障害のレベルチェックだそうだ。精確な診断がでるのかどうか、疑わしい。一定の緊張を強いられる環境では、実態は現れにくいだろうし。その結果がどう出ようと、私は構わないけれど。
入院検査が済んだら、準備を始めよう。仕事も忙しくなるけれど、母が諦めずに立ち向かう人であるように、私もへこたれない。なぜだかはわからないけれど、こんどは燃え尽きない気がするから。できるところまで、精いっぱい。これ以上はムリだと心底思えるまで、投げない。
この週末、散々泣いた。でも、泣いても意味がなかった。だって、本当に苦しいのは私じゃないから。私が泣いて、何になるか?泣く暇があったら、そのパワーは母に、そしてこども達に注ぎたいもんだ。そう思ったら元気も出そうだ(涙も出そうだが)。
うまくまとまらない。明日、大ッ嫌いなあの病院-15才の時から通い続け、何度も母の剃髪を見守り、手術室の前で一昼夜過ごし、妹のリハビリを見守った、あの専門病院- に再び行かなければならないせいか。気が重い。目が冴えて眠れない。
いまでもすぐに思い出せる、あの病院独特のにおい。外来患者のいない、静かな病棟。重篤な患者だけが集まる病棟特有の、重苦しい空気。中学生だった私は、放課後に病院に足が向かなかった。食事が喉を通らなかった。どうしても耐え切れなくて、トイレで何度も吐いたっけ。あそこに行くと、15歳の自分に戻ってしまいそうだ。
いやいや、私はもうすぐ40歳。初めて母があの病気で倒れたのと同じ年になる。思春期のこどもではなく、黙って苦痛と恐怖に耐えていた母のようでありたい。淡々と。でも毅然と。そういう生き方を身をもって教えてくれたのは、お母さんだからね。さて。明日のために、もう寝なきゃ。
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