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2008年10月27日 (月)

淋しさはいつも他人の痛み

時間の経過は、衝撃的な痛みを鈍らせ緩和してくれる。

どれだけ打ちのめされた事実であっても、時間がたてば受け入れられる。それを「持ち直す」といっていいならば、年とともに、リカバリの期間が短くなっている。ということに気づいて、驚いています。

結局、どんな苦しみも痛みも、誰かに話したからといって、どうにもならないのなら、話さないほうがいい。言っても仕方のないことは、言わない。 そうおもって、日々をすごしています。

15歳の頃、松任谷由実の歌と知らずに初めて聞いて、「この人は只者じゃないかも」と思った歌詞の一部が、表題のもの。タイトルを忘れちゃったけど、「つかの間彼女はツバメになった~」というくだりだったと思う。

どんな言葉に託そうと、さびしさはいつも、いつも、いつも、ヒトの痛みなの♪

って感じの。このフレーズにずいぶん支えられてきた気がする。

年をとればとるほど、じわじわとボディブローみたいに効いてきていることを感じる。

そう思っても、ついつい「ちょっと話したら気が楽になるかな」なんて思って、ぼそっと口にしてしまうことがある。だけどたいていはすぐ後悔する。

特に、自分が苦労した経験のある人ほど、他人の痛みに対して厳しいみたい。共感するよりも、「まだ(あなたのほうが)ましじゃない」という気配は、言外に漂うのがわかる。

きっと私の気持ちのなかにも同じような感情がつねにあるからだろう。私も、他人の不幸に厳しい。

辛酸を舐め、苦労を味わいつくしてなお、人の痛みに涙することができる人もいる。自分のほうがよほど耐え難く理不尽な苦しみのなかにあるのに、それでも人を気遣い、その苦労や不遇に胸を痛めることができる人がいる。

その一方で、人の痛みは、じぶんに比べてどれも軽微なものに思えてしかたなく、(実際に口にだすかどうかは別として)「まだましじゃない、私なんて…」と二の句を継ぎそうになる人もいる。

でも、でも。所詮、他人の痛みはわからないものだけれど、それでも自分だったら、前者でありたいと思う。

苦しみや痛みは、ほかのなにかと比較できるものではないし、激しい苦しみのなかでも尊厳を保ち、他人を尊重できるかどうかが、人の真価を問うと思うから。

私の母は、あきらかに前者。徐々に理性が壊れ行くなかでも、自分のおかれた境遇に怯え嘆きながらも、まだ友達や家族を気遣って胸を痛めてくれる。

私も、他人の痛みや苦しみをスポイルしない人でありたいと思う。 

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2008年10月23日 (木)

サイモン・ラトルの言葉:2

ついでに、心に残ったフレーズがもうひとつ。

「(こども時代に)人気者であるということは、既存の技術を駆使することに秀でているにすぎない」というような言葉だったかな。

もちろん、将来的に、ユニーク(風変わり)であることが社会的成功の前提条件となるとは限らないと思う。むしろ、単なる変わり者として「生き難さ」に悩み、苦しみ、成長の過程で気力や能力が萎えてしまうリスクも大きいだろうと思う。

独創と逸脱は隣り合わせだから。

でもやっぱり、自分のこどもには、今のこどもたち(大人たちも)が、無言のうちに強いられている「(社交のための)既存の技術」に長けるよりも、多少行き辛くても、独創というか、独尊の道を大切にしてほしいな、とは思う。

子供のころ、私は、激しく落ち着きがなく、偏った集中力の持ち主で、学校の先生や親戚の大人からも眉をひそめられることが多かった。女の子なので、なおさら周囲の目は厳しく、クールで落ち着いた妹ともよく比較された。けろっとした顔はしていたけど、周囲の大人の、私に対する評価や印象を知るにつけ、子供なりに傷ついた。小学生時代にはやった黒柳徹子の自伝「窓際のトットちゃん」を読んだとき、咄嗟に「私のことが書いてある!」「私だけじゃない」と思ってホッとした覚えがある。

両親は、口が達者で、お調子者で、落ち着きがない私の挙動に対する周囲の大人の評価を、いつでもさらりと受け流してくれた。「そういう風に育てているんだからいいのよ」「そういう子なんだから、いいんだ」という風に。教師から散々な評価をされたときも、動じることなく、代わりに私の長所をプレゼンしてくれた。もちろん、内心穏やかではなかったとも思うけれど、そういう両親の態度に、私の気持ちは本当に救われた。

結局、大それた才能は授からず、実際、独創よりは逸脱に傾いて生きてきているけれど、いまの私は幸せな大人になれている。自分の技能と才覚によって豊かな食卓を囲むことができている。困難にあっても、(実際にはかなりくじけてるけど)なんとか切り抜ける意欲と術をもっていると思う。それはやっぱり庭の教えのおかげだろうと思う。

できればこどもたちにも、如才なさよりは、揺るぎない自信を。社交術の芸達者であるよりも、孤高のサバイバーたりうることを期待する。(というのは、ちょっとカッコつけすぎだわ…)

それにはやっぱり、親の度量が試されるよなぁ。

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2008年10月22日 (水)

サイモン・ラトルの言葉

日々、仕事と家庭と病院とを往復する毎日。さすがに2週間を超えると疲れるものだ。気分転換にと、一昨夜、TVのHDに録画しておいたNHK BSハイビジョンのスペシャル番組をチェック。

『ベルリン・フィルとこどもたち』というドキュメンタリー映画のテレビ放映でした。ベルリン・フィルの主席指揮者兼芸術監督:サイモン・ラトルの試みを追いかけたもの。当代随一の指揮者でありながら、偏屈というか、「変わり者(本人談)」としても有名らしい。

これまでサイモン・ラトルという人の音楽をあまり意識して聞いてきたことはなかったし、興味を引かれたのも別の理由から。

ストラヴィンスキーの『春の祭典』を、コンテンポラリーバレエとともに上演するということ。そしてそのダンサーには、ベルリンに住む8~21歳までのあらゆる年齢・性別・境遇のこどもたちを起用するということ。難民のこどもや、生きづらさを抱えた子も含まれるほか、ごくふつうの子供であっても、およそクラシック音楽や舞踊、芸術に興味のない子ばかりであること。彼らが不承不承に参加し、舞踊家の訓練を受けながら、心身の「こわばり」を解いて、内面の解放と、自分自身への信頼を実現するまでを追う、というのがあらすじです。

『春の祭典』は、ストラヴィンスキーの音楽も好きだし、ベジャールのバレエも大好きなのだけど、そんなに期待してみたわけではなかった。ところが、いろんなものがぎゅっと凝縮されたすばらしい内容で、見終えた後は、すがすがしく、心が豊かに潤ったような気持ちになり、そして、ちょっぴり元気になったのでした。

人間にとって、舞踊とは何か。

人間にとって、芸術とは何か。

人間にとって、自尊心とは何か。

人間にとって、愛情とは何か。

人間にとって、成功とは何か。

といったようなことが、じわりじわりと染み入ってくる。詳細を書くのは時間がないので控えるけれど。

でも、なかでも心に残るのは、サイモン・ラトル本人が独白する場面での言葉。うろ覚えなので、細部は若干違うかもしれないけれど。

「経済状況の激変により、ベルリンも、ベルリン・フィル(私たち芸術家)も、これから未曾有の厳しいサバイバルを強いられることになる。だからこそ、芸術の真価が問われる。芸術とは、贅沢品や付加価値ではない。水や空気と同じように、人間が生きていくために欠かすことのできないもの」というような。

異を唱える人も多いことと思うが、私はこれに激しく賛成する。

そこそこ(あるいはぎりぎり)に暮らしている人にはわからないかもしれないが、水も食べ物も、便利さも快適さも、生存(生命維持)の必要条件ではあるけれど、人の心を生かすためにはそれだけでは十分でない。絶望的な局面に頻していても、つらく苦しい病に伏せっていても、人を人として生かすことができる最後の砦は、「美しいものを美しいと感じ、それを求める心」にあると私は最近ますます思っている。

また、水や空気は常になければ本当に死んでしまうけれど、芸術は心のなかに根を張り、豊かに育ちつづけることができる。(あれ?これって、「人はパンのみにて生きるにあらず」っていうことだっけな…sweat01

そんなことをかみ締めながら、「そうよ。やっぱり、人は、最後まで美しいものや、心を打つものを求める存在なのよ。それが何であるかは人によるとしても、心潤すものを最後まであきらめない、ということが大事なのよね」と、しみじみと思った秋の夜長でした。

ただいまホームを探して奔走中。病院は、味気ない。安全と健康は確保してくれるが、それ以外はまったくの想定外の場所だから、仕方がない。早く出してあげないと、本当の病気になってしまいそうだ。

夫婦で今すぐ入居できて、頻繁に通える距離にあって、「介護の効率」だけを追求するだけでなくQOLの意味を理解してくれるとことろで、両親の終の棲家にふさわしいところを。

諸条件を整理・精査し、下見に行き、母と父に説明と合意のとりつけを繰り返し、資産の確認と整理をするというあわただしさだけれど、やはり忘れてはいけないのは、サイモン・ラトルの言うような「人間の必要条件」を備えているところかどうか、ということ。そこは、妥協してはいけない。

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2008年10月14日 (火)

ゆれる。

こうしてブログを書き綴ることの効用を、いまほど実感することはない。

最初はちょっとした身辺雑記のつもりで。

そのうちに、無為に過ぎ行く日々を書き留めて、もし自分が突然この世からいなくなったり、意思の疎通ができなくなるときが来ても、子どもや家族がなにかの折に、私という人間の断片を知ることができたらいいなと思うようになり。

そう思うと、毎日の些細なできごとが急にかけがえのないものに思えてきた。毎日はさすがに厳しかったけれど、予想外に続いている。日常生活がこんなにかけがえのないものだった、ということを子育てをして知った。掌からこぼれおちていくような、ひとときの記憶の通過を、ちょっとでもいいからとっておきたいと思うようになった。

人の記憶は曖昧で、変質するし、失われてもいく。だから人は記録に執着する。写真とか、日記とか。そのときはただの記録でも、ある時点、ある総量に達すると、記憶に変わるんだよな、と思う。

私のこの記録も、いつか自分と家族の記憶になりかわる日が来るのだろうか。ちょっと、外付のHDみたい。

それから、こうして思いのたけを整理もしないで書き連ねると、自分のメンタルな揺れが如実に見て取れる。自分を励まして前向きになったかと思えば、翌日にはもう打ちひしがれたり。達観しているように振舞い、分析したかと思えば、次の瞬間にはどっぷり悲嘆したり。

その振幅の大きさを見るにつけ、自分の許容量の限界を思い知らされるけれど、ある意味、客観的にもなれる。「あ、そろそろヤバイから、少し気を抜こう」とか「オットに吐露しよう」とか。たとえは悪いけど、吐瀉物を分析して、自身の消化能力や体調不良の度合いを分析するような。

こうして、日々自分のなかにたまりゆく滓みたいなものを吐き出すことで(たまたま目にして付き合わされた人はたまらないだろうが)、冷静さを取り戻すことができる。「王様の耳はロバの耳」と、穴に向かって叫ぶ男のように。

そうそう。母の見舞いの際の会話をログ。

母がめずらしく、お気に入りだという中島みゆきの昔の歌詞を諳んじる。もう音程はとれないから、歌詞だけつぶやく感じだけど。

年をとるのはステキなことです。そうじゃないですか?

忘れっぽいのはステキなことです。そうじゃないですか?

悲しい記憶の数ばかり、飽和の量より増えたなら

忘れるよりほかないじゃありませんか。 (「傾斜」)

「特に最後の2行が好きね、旨いことを言うわよね」と。御意。

20年以上も前の古い歌の歌詞を思い出すなんて、と思うけれど、信仰もそれに近い思想もない身にも、深く届く一節だなと思った。ただの他愛もない会話だけど、忘れがたいから、記録。

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2008年10月10日 (金)

いま、生きてこそ。

今週は毎日病院に通っている。

認知症検査で入院している母の介助のために。

今日、はっきりとわかったことは、間違いなく認知症であるということ。

入院した時点でわかりきっていたことだけれど、やはり厳しい結果。

25年前の脳腫瘍発症以来、限界値まで照射してきた放射線治療の後遺症。遷延性放射線障害というのだそうだ。

アルツハイマーや、老化による認知障害ではなく二次性認知症というらしい。

いつかは、いつかは、と思いながらも、とうとうその日が来た感じ。

聴覚、視覚、平衡感覚ときて、ついに認知症か。

これまでの経過を思い返しても、症状の進行速度を考えても、「私のお母さん」でいてくれる時間は、あまりないと思う。

本人も、行動記憶が断片的に抜け落ちていること、見当識(いまどこにいて、自分は何をしているのかという認識)がおかしいことをわかっている。大変な恐怖だろうと思う。

こんな事態になって、ようやく父も、私たちのそばに身を寄せること、そして母が最終的に至るであろう状態のために、専門介護が受けられる施設に入居することを考えたほうがいいことを受け入れてくれるようになった。

父の手帳には、新婚当時の母の、見たことのない写真が入っていた。それを隠すようにして、

「おまえに引導を渡す」「人の手を借りて、最後までお母さんのそばにいることにする」と父は言った。

ほっとしたけれど、それはそれで、切ない。

脳腫瘍になり、余命半年といわれた25年前。

そして手術が不可能な場所に再発し、余命がないことを宣告され、外科手術の代替治療として放射線を使い切った15年前。

25年目のいま、はっきりと進行性の認知症であると言われた。

長かった25年間。当初の母の年齢に、自分もなっていた。

医者には「正直いって、いまこうして生きておられることが奇跡的。認知症は悲しい事態だろうが、本来は25年前、あるいは15年前に亡くなっていたはずの運命だから、いま、生きてこそ、と思ってください」と言っていただいた。

その言葉には、母も深く頷いていた。けれど、そのあとに「こうまでして生きていくことの意味がまだ、見つけられないの」とも継いだ。私も同じ思い。

それでも今日の、心理評価のテストにおいて、ある質問項目に対する母の回答を私は忘れない。

Q「将来に希望や可能性を感じますか?」「生きていても仕方ないと思うことがありますか?」

A「(長い沈黙のあと)やっぱり、生きていたいと思います。希望はあります」

とはっきり、きっぱり回答した。涙があとから出てきて困った。「さすがお母さん」と思った。誇らしかったし、そういう母の態度に救われた。

「そうやって25年生きてきたので、いまさら降りることはできません」と、滑舌は悪かったけれど、はっきりと答えていた。

帰りの車の中で、はじめて大声で泣いた。大声をあげて泣くのて、物心ついてからはじめてかも。自分の声に、自分でびっくりして泣き止んだ、みたいな。でも家では泣けないし、ちょうどよかった。勘のいいムスメは、すでに私の心もようと、我が家に訪れるだろう異変に気づいていて、少し不安定になっている。隠し切れないけれど、悲嘆ばかりはしていられない。

これから忙しくなるなぁ。

行政の介護担当者と協議し、施設を探し、病院に通い、いろいろ算段する。それでも、長い間の膠着状態を打開できるのはいいことだから、手をこまねくしかなかった時よりも、ましだ。無性に動きたい。

そして自分は、いままでのように仕事をし、家庭に帰ってくる。家に帰ってきて、こどもの声を聞くと我に返る。ほっとする。私の家庭は、いまのこの、ちびっ子たちとオットとの暮らしにあるのだから。仕事は、私の精神の大切なよりどころのひとつだから。

「元気出してもらおうとおもって、いい映画借りてきたよ」とオットが取り出したのは「裸のガンを持つ男」coldsweats01 でも、ありがとう。うれしかったです。

さて、顔を洗って、こどもをお迎えにいかなきゃ。「いま、生きてこそ」だもんね。

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2008年10月 7日 (火)

淡々と。毅然と。

いま、ちょっと、かなりタフな状況にある。 まとまらないけど、整理のために。

母がついに認知症の症状を呈し始めたという父からのSOSが来たのが、先週。

夜間に粗相をすることが続き、いずれもその顛末を覚えていないのだそうだ。

母はときどき私のもとへ泊まりに来る。呼び寄せるのだ。そのほうが、ともに暮らす父のストレスも、お互いの緊張関係も緩和することができるから。

母は盲聾者。脳疾患の放射線治療の後遺症で20年前に聴力と視野の一部を失い始め、10年前に完全失聴した。そしてこの5年で機能する視野はごく一部に狭められ、ついでに平衡感覚も打撃的に失われた。

いまや住み慣れた家の中すら、ひとりで自由に歩きまわることもできなければ、テレビはもちろん、眼の前の孫の笑顔やしぐさを楽しむこともできない。わずかに残った視野の一部で、大きく書いた書き文字を追い、カンタンな筆談ができるばかり。その視力もまもなく完全に失われるだろう。その日のために、なるべく掌に指で字を書いて談話できるよう訓練していたところだ。

その指文字も、最近認知しにくくなっているという。

もともと心疾患のある父は、そのような知覚障害のある母との暮らしのなかで、心身ともに磨耗しつづけ、最近ではお互いに疲れ、諦め、抑うつ状態が長く続いているというわけだ。

自分の生活のリフレッシュと、両親の面倒を見ることを兼ねて実家に戻っていた妹も、結局、実家のそうした緊張関係と過重なストレスに耐え切れずに再び家を出た。

母は孤独だ。

父も過酷だけれど、まだ他人とコミュニケーションが自由にとれる。ネットも、電話も、会話もできる。テレビやビデオ、音楽を楽しむことができ、読書もできる。母には、そのどれひとつとして赦されない。

24時間、音のない世界で。ほとんど視覚的刺激の得られない暮らしを続けなければならない。

こんなことって、あっていいんだろうか。

こんなときですら、家族ですら、何の力にもなれないのか。どうすれば、苦しみや悲しみが和らぐのか。誰に聞けばいいのか。考え始めると暗闇にはまりこむ。私がそう思うのだから、本人の心中はいかばかりか。

母は、私のもとに来て話すときは「ふつう」だ。そんなことがあったと聞いたあとも、我が家で泊まれば見当識の兆しもなければ、認知障害とおぼしき気配すらもない。きわめて正常な対話能力、思考力。もちろん身体的な不自由はあるけれど、父と妹が口を揃えて言うようなエピソードはみじんもない。

それでも。

やはり、異変は事実なんだろう。そのように受け止める覚悟をするしかないときがきたのだと思う。

なんだかんだといいながら、上のムスメを授かってからの7年近くを無為に過ごしてきてしまった自分の愚かさを悔いる。恥じる。失われた7年か。「そのうちに」「落ちついたら」といいながら、ずるずると先延ばしにしてしまった。

愚痴る父を責め、悩む妹をなだめながら、結局、現実的な策を打とうとしてこなかったのは、私だ。現実を直視したくなかったから。怖かったから。その間、みんながそれぞれの事情で「とりあえず」ペンディングにしてきたことの結果を、母は一人で引き受けてきた。

「仕方ないのよ」といいながら。「自分のことを優先してちょうだい」といいながら。そのことばに嘘はない。寡黙で、誇り高いから、決して誰かの重荷になりたくない、と自分を励ましてきた母だ。そこが私は大好きだったし、敬服してきた。でも、そこに甘えてもきたんだ。あれほど気丈夫な母が、「生きていても仕方がない」と言うことが増えてきた。

母は、わがままをいわず、諦め、飲み込み、受け入れようと、病気や自分の運命と格闘してきたのだと思うけれど、もう限界だったんだろう。疲れたんだろうと思う。知覚刺激のない世界で、(意図的でないにせよ)スポイルされて過ごしてきた時間は長すぎたのかもしれない。

(非科学的な言い方だけど)どこまでが理性で、どこまでが夢の中か、わからなくなったほうが幸せだから?そうだとしたら、呆けてしまうことは、母にとってはまだ救いなのかも。音も、光も、歓びもない無間地獄のような日々を続けなくてはいけないよりは、苦しみが少ないなら。

呆けることを悲しまないほうがいい。母にとってどちらが安楽か。

そんなことばかりを、この数日考えてきた。

それでも、と、今日の私は考え直す。私と話すときに「いつもの、あのお母さん」で居続ける母のことを考えると、「まだ夢の中に行ってしまいたいたくない」って思ってくれてるんじゃないか。私や、家族と話すことに、喜びや楽しみを、希望を見出そうとしてくれているんじゃないか。

だとしたら、ほんとうに私たちがわからなくなるその日まで、今度こそ寄り添いたい。24時間を満たしてあげることができなくても、「生きててよかった」「楽しいこともあった」と少しでもいいから思ってもらいたい。

もう先延ばしにはしない。私が後悔したくないから、もうキレイに生きることに執着するのはやめる。いまならそれができる。

渋り続けた父を説き伏せ、私は母(父も)を近くに呼び寄せるつもりだ。近いから何ができるのか、と問われれば具体的な答えは持ち合わせない。それでも、すぐに飛んでいって、少しの間手を握り、背中をさすり、おいしいものを口にしてもらえるようにしてあげたい。

人間は、言語的コミュニケーションだけで生きているわけではないんだから。気配や、温もりや、匂いや、肌触りでわかりあうことができるんだから。そいういうことのひとつひとつを、私は子供たちから教えてもらったし、母からも分け与えてもらったと思っている。これは、私のなかの絶対的な信念になっている。

明日、母は入院する。

認知障害のレベルチェックだそうだ。精確な診断がでるのかどうか、疑わしい。一定の緊張を強いられる環境では、実態は現れにくいだろうし。その結果がどう出ようと、私は構わないけれど。

入院検査が済んだら、準備を始めよう。仕事も忙しくなるけれど、母が諦めずに立ち向かう人であるように、私もへこたれない。なぜだかはわからないけれど、こんどは燃え尽きない気がするから。できるところまで、精いっぱい。これ以上はムリだと心底思えるまで、投げない。

この週末、散々泣いた。でも、泣いても意味がなかった。だって、本当に苦しいのは私じゃないから。私が泣いて、何になるか?泣く暇があったら、そのパワーは母に、そしてこども達に注ぎたいもんだ。そう思ったら元気も出そうだ(涙も出そうだが)。

うまくまとまらない。明日、大ッ嫌いなあの病院-15才の時から通い続け、何度も母の剃髪を見守り、手術室の前で一昼夜過ごし、妹のリハビリを見守った、あの専門病院- に再び行かなければならないせいか。気が重い。目が冴えて眠れない。

いまでもすぐに思い出せる、あの病院独特のにおい。外来患者のいない、静かな病棟。重篤な患者だけが集まる病棟特有の、重苦しい空気。中学生だった私は、放課後に病院に足が向かなかった。食事が喉を通らなかった。どうしても耐え切れなくて、トイレで何度も吐いたっけ。あそこに行くと、15歳の自分に戻ってしまいそうだ。

いやいや、私はもうすぐ40歳。初めて母があの病気で倒れたのと同じ年になる。思春期のこどもではなく、黙って苦痛と恐怖に耐えていた母のようでありたい。淡々と。でも毅然と。そういう生き方を身をもって教えてくれたのは、お母さんだからね。さて。明日のために、もう寝なきゃ。

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